かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮 作:くぁwせdrftgyふじこlp
【あんなSide】
修学旅行三日目。
青空はどこまでも高く広がり、夏の日差しが遊園地全体を明るく照らしていた。
目の前には、巨大な木組みが空へ向かって何重にも伸びる白いコースター。
木材が幾重にも組み合わさった姿は芸術作品のようでもあり、巨大な怪物の骨格のようでもある。
その圧倒的な存在感に、乗る前から足が震えていた。
ナガシマスパーランド
修学旅行最後の目的地であり、日本を代表する遊園地。
本当なら思い切り楽しむはずだったのに、今の私はというと――。
「か……神様……どうか私たちをお守りください……」
隣で両手を合わせ、本気で祈り始めたみくるを見て苦笑い。
「だ、大丈夫だから!ちょっと高いだけだから……多分!」
そう励ましてみたものの、自分でも声が震えているのが分かった。
全然説得力がない。
「いや、あんなも顔真っ青だよ!」
「…………」
否定できなかった。
りえは今にも泣きそうな顔で安全バーを握り締めている。
「これ動きだしたら止められないの!?」
「我慢するしかないね」
「そんなっ!!」
あまりにもあっさりと告げるゆみに、りえの悲鳴が一段階大きくなる。
その間にも私たちを乗せたバケットはガタン、ガタンと音を響かせながらゆっくりとレールを登り続けていた。
地面は少しずつ遠ざかり、人も建物も小さくなっていく。
風がさっきまでよりもずっと強く頬を撫でた。
今乗っているのは、日本初の木製コースター――「ホワイトサイクロン」。
後の時代はよりアクロバティックと化す「白鯨」へと生まれ変わることになるアトラクション。
そして、現在ナガシマスパーランドの代名詞とも言える「スチールドラゴン2000」は、私たちが訪れたこの年ではまだ営業していない。
営業開始は一年後。
名古屋港水族館の北館と同じで、少し時代が早かった。
でも逆に言えば、今しか乗れない乗り物もある。
そう思えば、この瞬間も貴重な思い出になるはずだった。
……そんな余裕は最高地点へ近づくにつれて一瞬で消えていったけれど。
ガタン。
最後のチェーンの音が響く。
視界いっぱいに広がる青空。
そして、その先には――。
地面へ一直線に落ちていく急勾配のレール。
「待って!心の準備が!!」
みくるの叫びが風に消えていき、それとは対照的にゆみは景色を眺めながらのびのびとしている。
「いい天気~!」
「なんでそんな笑顔なの!?」
本当にどうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。
私なんて心臓が喉から飛び出しそうなのに。
考える暇もなく、バケットは頂上を越えた。
一瞬だけ身体が宙に浮く感覚。
そして世界が真下へと落ち始めた。
「うわああああああああっ!!?」
耳元で風が爆発する。
景色が一瞬で流れ去り、身体は座席から浮き上がるような感覚に包まれた。
「「「きゃあああああああああ!!!」」」
周囲からも何十人もの悲鳴が重なり合う大合唱。
その中で、一人だけ異質な声が響く。
「ひゃっほおおおおおお!!」
ゆみだ。
楽しそうというより、心の底から絶叫マシンを満喫している叫び声だった。
どれだけ肝が据わっているんだろう……。
コースターは木製レールの上を猛スピードで駆け抜ける。
――ガタンッ!
――ガガガガガッ!
金属製のコースターとはまるで違う、全身を細かく揺さぶる激しい振動。
左右へ激しく振られ、身体が何度も座席へ叩きつけられる。
「痛い!いたたたたた!?」
「舌噛まないようにね!!」
こんな状況でもアドバイスを忘れないゆみは本当にすごい。
最初は恐怖しか感じなかったのに、後半になると別の問題が出てきた。
痛い。
とにかく全身が痛い。
木製ならではの振動が容赦なく身体へ伝わり、上下左右に揺さぶられるたびに肩も腰も腕も悲鳴を上げる。
安全バーを必死に握り締めていないと本当に変な場所をぶつけそうだった。
「りえ!大丈夫……!?」
「…………」
返事がない。
目を閉じたままぐったりしている。
「き、気絶してる!?」
「りえ!眠っちゃだめ!起きて!!」
「はっ!?ダメ!!死ぬ!!」
ようやく目を開けたりえは、今にも魂が抜けそうな顔で叫んだ。
「死なないから!あと少しだからしっかり!」
ゆみの励ましを聞きながら、コースターは最後のカーブへと突入する。
悲鳴と笑い声、木製レールが軋む轟音。
それらすべてを巻き込みながら、ホワイトサイクロンは最後まで全力で駆け抜けていった。
修学旅行最後の遊園地。
その最初の思い出は――。
「楽しかった!」ではなく、「生きて帰れた……」。
そんな感想が、今の私には一番ぴったりだった。
_______________
「景色が……回る……」
ホワイトサイクロンを降りたみくるの第一声は、それだった。
私たちはなんとか無事に生還した。
怪我をしたわけではない。
誰一人として傷ひとつ負っていない。
それなのに、四人とも激しい運動を何時間も続けた後のように疲れ切っていた。
私自身、絶叫マシンにはほとんど乗った経験がない。
そのせいか、足元はふわふわと頼りなく、地面がまだ揺れているような感覚が残っている。
人の流れに巻き込まれないよう、私たちは近くの人通りの少ない場所までゆっくりと歩いてきた。
一歩踏み出すたびに身体が左右へ揺れる。
コースターの激しい振動が、まだ全身に残っている気がした。
……これでこの状態なのだから、もし今の時代ではなく、後に誕生する「白鯨」に乗っていたらどうなっていただろう。
きっとこんなものでは済まず、全員そろって地面に倒れ込んでいたかもしれない。
「うぅ……おぇぇ……」
「マズい、りえが重体だ」
振り返ると、りえが顔を真っ青にして口元を押さえている。
ゆみが冗談めかして言うものの、その表情にはちゃんと心配の色が浮かんでいた。
どうやら完全に乗り物酔いを起こしてしまったらしい。
「大丈夫?」
「大丈夫……吐きはしないから……」
力なく答えるりえ。
確かに意識はしっかりしているけれど、その青ざめた顔を見れば「大丈夫」とはとても言えない。
「大丈夫とは言えないけど……」
無理をさせるわけにはいかない。
せっかく修学旅行最後の一日なんだから、ここで体調を崩してしまうのはもったいない。
次に乗るなら、絶叫系は少しお休みした方がいいだろう。
「時間はまだあるからゆっくり休めばいいよ。ここは絶叫マシンの宝庫みたいな場所だから、体調を万全にしないと大変だからね」
「はぁぁ……地上は落ち着く……」
近くのベンチへ腰を下ろすと、りえは背もたれに身体を預け、大きく深呼吸をした。
風が頬を優しく撫でる。
さっきまで耳を支配していた轟音も、今は遠くから聞こえる歓声へと変わっていた。
ジェットコースターの悲鳴も、この距離ならどこか楽しげに聞こえる。
しばらくすると、りえの顔色も少しずつ戻ってきた。
額に浮かんでいた冷や汗も引き始めている。
どうやら一安心のようだ。
「次はどこに行くの?」
そう尋ねると、みくるがパンフレットを広げる。
園内マップには色とりどりのアトラクションがびっしりと描かれ、眺めているだけでも胸が躍る。
「結構多いね……。ここも全部回るのは厳しそう」
「そうだね」
「絶叫以外にもいろいろあるから、りえが回復したら移動しながら考えよう」
その提案に全員が賛成した。
修学旅行の終わりまで、残されている時間は少しずつ減っている。
慌ただしく過ぎていく一日でも、この仲間たちと笑い合って過ごせる時間は、きっと何年経っても忘れられない思い出になる。
10分ほど休憩した頃には、りえもすっかり元気を取り戻していた。
「もう大丈夫!」
そう言って笑顔を見せるりえに、私たちも自然と笑顔になった。
パンフレットを囲みながら次の目的地を相談し、四人並んで歩き出す。
夏の日差しが遊園地を明るく照らし、遠くでは楽しそうな歓声が響いていた。
_______________
【みのるSide】
世界がひっくり返るという表現は比喩ではなく、本当にそのままの意味。
視界いっぱいに広がる青空は足元へ落ち、さっきまで踏みしめていた地面が頭上へと移る。
自分の体がどこを向いているのか、一瞬では理解できない。
――逆さまだ。
そう認識した頃には、乗り物は再びゆっくりと動き始めていた。
重力に引っ張られるような、体の中身まで浮き上がってしまいそうな奇妙な感覚。
内臓がふわりと持ち上がり、心臓だけが胸の中で必死に踏ん張っているようだった。
「ぅ……っ……」
声を出そうとしても、喉から漏れたのは情けないうめき声だけ。
私が班のみんなに半ば強引に連れてこられたアトラクション――その名は『スペースシャトル』。
名前だけ聞けば宇宙旅行みたいで夢がある。
でもその実態は夢どころか悪夢だった。
最初は普通のバイキングのように前後へ大きく揺れるだけだ。
――最初は。
だが、揺れはどんどん大きくなり、速度も増していく。
あと少しで一回転するんじゃないかと思った瞬間、本当にそのまま頂点を越え、私たちは完全に逆さまになった。
しかも終わらない。
そのまま、ぴたりと止まる。
安全バーだけを頼りに空へぶら下がる数秒間。
いや、体感では数分にも感じられる長さだった。
頭へ血が集まり、耳の奥では自分の鼓動がどくどくと鳴っている。
目の前には逆さまの遊園地。
歩いている人たちも建物も全部ひっくり返っていて、自分だけ別の世界へ放り込まれたようだった。
怖い、その一言しか頭に浮かばない。
叫ぶ余裕なんて、とっくになくなっていた。
絶叫マシンでは「きゃー!」と叫ぶものだと思っていたけれど、限界を超えると人は叫ぶことすらできない。
一方で、隣からは楽しそうな悲鳴が聞こえてくる。
「きゃああああー!!」
「最高ー!!」
どうしてそんなに楽しそうなの?
私には理解できなかった。
悲鳴というより歓声に近い声が響くたび、自分だけ別の乗り物に乗っているような気さえしてくる。
これが楽しいなんて、きっと何かが違う。
そんなことを考えているうちに、スペースシャトルは再びゆっくりと動き始めた。
逆さまの世界が少しずつ回転し、空と地面が本来の位置へ戻っていく。
安心したのも束の間、今度は大きく振り子のように揺れながら何度も往復し、そのたびに体がふわりと浮く。
お願いだから早く止まって。
心の中で何度そう願ったかわからない。
ようやく勢いが弱まり、揺れ幅が小さくなっていく。
ガタン、と小さな衝撃。
機械音とともにアームが完全に停止した。
やっと終わった。
私は安全バーが上がるまで、しばらく動くことができなかった。
酔ってはいない。
でも頭には血が上り、ぼんやりと霞がかかったような感覚が残っている。
地面に足をつけても、自分の体がまだ揺れているようだった。
「楽しかったね!」
「うん!想像以上だった!」
班のみんなは目を輝かせながら感想を言い合っている。
その笑顔を見て、私は心の中で小さくため息をついた。
……全く、人の苦労も知らないで。
……いや、知らないのは当たり前か。
私とはほとんど面識もないし、私が絶叫マシンが苦手だなんて知るはずもない。
だから責める気にはなれない。
ただ、ルールだけは恨めしかった。
『班ごとに行動すること』
その一文さえなければ、私はこんな目には遭わなかったのに。
「次はどこにする?」
「フリーフォールがいい!」
「オッケー!」
その言葉を聞いた瞬間、私の思考は止まった。
フリーフォール?
あの、高いところから真下へ落ちるやつ?
私はまだスペースシャトルの余韻すら抜けていないというのに、勘弁してよ……。
心の中だけでそう呟きながら、私は重い足取りで班のみんなの後を追うしかなかった。
_______________
再び体が空へと運ばれていく。
地面は少しずつ遠ざかり、人が豆粒ほどの大きさになっていく。
さっきまで歩いていた園内の道も、カラフルな屋根も、まるで模型のようだった。
不思議なことに、もう恐怖はなかった。
……正確には恐怖を感じ続けたせいで、心がそれを受け止めきれなくなってしまった。
怖いとも思わない。
楽しいとも思わない。
ただ、何も感じない。
感情そのものがどこかへ置き去りになってしまったような、不思議な虚無だけが胸の中に広がる。
ある意味ではこの状態の方が楽なのかもしれない。
怖がる気力すら失ってしまえば、あとは終わるまで待つだけなのだから。
私が乗っているのは、遊園地の絶叫マシンといえば真っ先に名前が挙がるほど有名なアトラクション――フリーフォール。
テレビの特集でも何度も見たことがある。
高い塔の頂上まで一気に上昇し、しばらく乗客を待たせてから突然真下へ落下する、あの有名な乗り物だ。
画面越しでは「面白そう」と思ったこともあった。
でも、それは自分が乗らない前提で見ていたからだったらしい。
実際に体験すると、こんなにも精神を削られるものだったなんて。
……それにしても、同じ班の三人は本当に絶叫マシンが好きなんだろうか。
スペースシャトルの次がフリーフォール。
この流れを見る限り、偶然とは思えない。
もしそうだとしたら最悪だ。
帰宅時間まで、延々と絶叫系ばかり乗り続ける未来しか見えない。
想像しただけで胃が重くなる。
シートはなおも上昇を続け、やがて機械音が静かに止まった。
最高地点、遊園地全体が見渡せるほどの高さ。
遠くには観覧車。
さらに向こうには街並みが広がり、その奥には山々が青く霞んでいる。
本当なら絶景なのだろう。
でも、その景色を楽しむ余裕は私にはない。
問題はここからだ。
このアトラクションは、いつ落ちるかわからない。
数秒なのか、十秒なのか。
それとも、もっと長いのか。
ただ待たされる。
「今か」「まだか」と心臓だけが無駄に鼓動を速めながら、その瞬間を待つしかない。
「ドキドキするね!」
「うん!」
隣では相変わらず楽しそうな声が弾んでいる。
本当に楽しそう。
同じ景色を見ているはずなのに、感じているものはきっと全然違う。
私は絶叫マシンが苦手だ。
それでも空気を壊したくなくて、班行動だからと無理をしてここまでついてきた。
さっきも言ったけど、この三人は私が絶叫マシンが苦手だと知らないだけ。
知らない相手に配慮なんてできるはずがない。
結局、悪いのは私だ。
クラスに馴染めず、自分のことを話せる関係を築けなかった私。
もっと仲良くなれていたら、「絶叫系は苦手なんだ」と一言くらい言えたかもしれない。
それができなかった。
だから今こうして、一人で耐えるしかない。
「――うっ!?」
考える暇すら与えられない。
何の前触れもなく、シートが真下へと落ちた。
一瞬で内臓が浮き上がる。
心臓が喉元まで飛び出してきたような感覚。
胃が宙に置き去りにされ、体だけが猛烈な勢いで地面へ吸い寄せられていく。
風が耳元で轟音を立てる。
景色は線のように流れ、何も認識できない。
「きゃああああっ!!」
「最高ー!!」
横ではまた歓声が響く。
その声が遠く聞こえるほど、私は苦しさでいっぱいだった。
顔は引きつり、歯を食いしばることしかできない。
ただ、この時間が一秒でも早く終わることだけを願う。
私にとってこれはアトラクションではなく、ただ耐え続ける試練だ。
_______________
「発射10秒前!」
無機質なアナウンスが園内に響いた。
その一言だけで、心臓が嫌というほど大きく脈打つ。
数字が減っていくと逃げ道まで一緒に削られていくようだった。
私は深く息を吐き、正面を見つめる。
目の前には、どこまでも真っ直ぐ伸びる一本のレール。
その先には、このアトラクションの象徴ともいえる巨大な円形のループが、獲物を待ち構える口のようにそびえ立っていた。
今度乗ることになったのは――シャトルループ。
走行時間は短い。
けれど、その短時間に凝縮された刺激は、今まで乗ってきたどの絶叫マシンにも負けないと説明されていた。
そんな説明、聞きたくなかった。
もう十分すぎるほど絶叫は味わっている。
スペースシャトルやフリーフォール。
その二つだけでも精神力はほとんど残っていない。
それでも班行動という名の鎖は、私を容赦なく次のアトラクションへ連れてくる。
「5、4、3、2、一――」
カウントダウンが終わった瞬間、
――カンッ!
乾いた起動音が聞こえたと思ったら……
「――っ!?」
体がシートへ押し付けられる。
想像する暇すらないほどの猛烈な加速。
普通のジェットコースターのようにゆっくり坂を登る時間など存在しない。
カタパルトによる急発進。
止まっていたはずの景色が、一瞬で後方へ吹き飛んだ。
風が顔へ叩きつけられ、息を吸うことすら難しい。
視界は細長い一本の線へと変わり、レールだけが真っ直ぐ前へ伸びている。
そして、巨大なループが目前まで迫っていた。
「うっ……!」
避ける間もなく、そのままループへ突入。
空と地面が高速で入れ替わり、体には上下も左右もなくなってしまう。
頭の中がぐらりと揺れ、どこを向いているのかさえ分からない。
気づけば一回転を終え、今度は垂直にそびえるタワーを勢いよく駆け上がっていた。
速度は次第に落ちていき、頂上付近で静止。
……終わった?
そんな期待を抱いた瞬間、ガクンと車体が揺れる。
「えっ……!?」
重力に引かれるように、今度は後ろ向きで落ち始めた。
嫌な予感しかしない。
いや、予感ではなく確信だ。
さっき通ったループへ、今度は後ろ向きで突っ込んでいく。
「ひっ……!」
先が見えないから何が起こるのか分からない。
体だけが急加速し、景色はすべて背後へ消えていく。
再び上下左右の感覚が消え失せ、ループの中で何度も体を振り回される。
見えないからこそ恐ろしい。
いつ逆さまになるのか。
いつ元へ戻るのか。
何も予測できない。
ただ、遠心力だけが全身を支配していた。
ようやくループを抜けると、勢いを失ったバケットはゆっくりとホームへ戻っていく。
静かにブレーキがかかり、車体が完全に停止した。
……終わった。
運転時間は30秒ほど。
時計で測ればほんの一瞬なのだろう。
なのに私には何十分も続いたように感じられた。
しかも、これは三つ目の絶叫マシン。
スペースシャトルで上下感覚を狂わされ、フリーフォールで浮遊感に心を削られ、その疲労が残ったままシャトルループへ放り込まれた。
一つひとつなら耐えられたかもしれない。
でも、それが積み重なると話は別。
頭はぼんやりしている。
足元はふらつき、体のどこに力を入れれば真っ直ぐ立てるのかさえ分からない。
胸の奥では、まだ心臓が速い鼓動を刻み続けていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
腕時計を見る気力すら湧かない。
ただ一つ、今の私が願っていることは同じだった。
――早く帰る時間になってほしい。
_______________
「はぁ……」
ようやくベンチに腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けていく。
絶叫マシンを何度も乗り回したせいで、足は鉛のように重く、頭もまだ少しふわふわしていた。
……やっと休憩できる。
それにしても、この班の三人は本当に体力がおかしい。
一度乗れば十分だと思うような絶叫マシンを、「もう一回行こう!」の一言で平然と二周目に突入させる。
楽しそうに笑いながら、何度でも乗れる。
私には到底理解できない領域だった。
もう楽しいとか楽しくないとか、そういう次元ではない。
純粋に疲れた。
体力だけではなく、気疲れも大きい。
知らない人に合わせ、笑顔を作り、迷惑をかけないように神経を張り続ける。
人に合わせるということが、こんなにも消耗するものだったなんて。
班をみくるたちのところに変えてほしい。
そんな叶うはずもない願いを胸の中で呟きながら、私は近くのカフェへ向かった。
喉が渇いていた。
少しでも水分を取れば、この重たい頭もすっきりするかもしれない。
適当にジュースを注文し、透明なグラスを両手で持つ。
冷たい感触が手のひらに伝わってくる。
こぼさないよう慎重に歩いた。
班のみんなが座っているテーブルまで、あと数歩。
あと少しでテーブルに置くだけ。
それだけなのに、疲労のせいだろうか。
手にうまく力が入らない。
指先が小さく震えている。
早く置かなきゃ。
そう焦った、その刹那。
「あっ……」
指先から力が抜けた。
グラスが傾く。
「「「!!?」」」
透明なジュースが大きく弧を描き、一人の女子生徒へ勢いよく降りかかった。
バシャッ――
制服のスカートが一瞬で濡れていく。
床にはジュースが広がり、倒れたグラスが乾いた音を立てて転がった。
私はその光景を見つめたまま、頭が真っ白になる。
……やってしまった。
最悪だ。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
班の子とほとんど話したこともないのに、その制服を私が汚してしまった。
まず謝らなきゃ。
それから拭いて。
少しでも被害を減らさないと。
「ごめんなさい……!本当にごめんなさい!」
私は慌ててハンカチを取り出し、震える手でスカートを拭き始めた。
「う、うん……」
ジュースをかけられた本人はまだ状況が飲み込めていないのか、呆然と立ち尽くしている。
私は必死だった。
少しでも、一滴でも拭き取ろうと手を動かす。
けれど、制服に染み込んだジュースは簡単には消えてくれない。
焦れば焦るほどシミが広がる。
そんな時だった。
「あんたさ……」
低く、刺々しい声。
「ずっと思ってたんだけど、まともに班行動もできないわけ?」
「え……?」
意味が分からなかった。
顔を上げると、一人の女子生徒が露骨に不機嫌そうな表情で私を見下ろしている。
「毎回毎回、違う班の子とばっかり話したり行動したりしてるじゃん!ちゃんとルール守ってよ!」
「ごめん……」
反射的に謝る。
言い返す資格なんて、私にはない。
「ねえ、やめなって……」
別の子が止めに入る。
でも、その声はこの子には届かない。
「そんなに私たちの班が嫌なら、別の班のところに行けば良いでしょ!学校でもずっと『私はみんなとは違う一匹狼で~す』みたいな雰囲気で、ろくに関わろうともしない」
違う、そうじゃない。
関わりたくなかったわけじゃない。
どう話しかければいいのかわからなかっただけ。
みんなと話すのが恐かったから距離を取ってただけ。
でも、その言葉は喉まで出かかったまま、外へは出てこなかった。
「そんなんだから誰からも相手されないんだよ!!」
その一言が、胸の奥深くへ突き刺さる。
「もう止めようよ!この人は謝ってるし、ハンカチで拭いてくれたし……」
「そうだよ。怒る気持ちはわからないわけじゃないけど、さすがに落ち着いて」
二人が必死に止めてくれている。
その声も聞こえていたはず。
でも………
「何もしないくせに、同じ班の子の服を濡らすしさぁ……はっきり言って存在が邪魔」
――存在が邪魔。
その言葉だけが何度も何度も頭の中で反響する。
存在が邪魔。
存在が邪魔。
存在が邪魔。
存在が邪魔。
存在が邪魔。
その響きは、私を現在から遠ざけていく。
気づけば、目の前には遊園地ではなく、小学校の教室が広がっていた。
机を囲んで笑う子どもたち。
私を見てひそひそ話す声。
「お前邪魔なんだよ」
「来ないで。気持ち悪い」
「あっち行け」
「好きな勉強でもやってたら?」
ずっと忘れようとしてきた。
それでも、その傷は心の奥底でずっと消えずに残っている。
……まただ。
私は、また邪魔なんだ。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。
不思議なくらい心が静かになる。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、何も感じない。
「……わかった」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
「そんなに私を邪魔者にしたいのなら、こっちから抜けるよ。さようなら」
それだけ言い残し、私は踵を返した。
「ちょっと、どこ行くの!?」
後ろから慌てた声が聞こえる。
でも、振り返らない。
私はただ前だけを見て歩き出した。
一人でいることには慣れている。
そう自分に言い聞かせながら。
_______________
【みくるSide】
さっきまで穏やかな乗り物で休憩できたおかげで、ようやく体の力が少し戻ってきた。
絶叫系で悲鳴を上げ続けた疲れはまだ残っているけれど、それでもさっきよりはずっと楽だ。
周囲を見渡せば、生徒や家族連れの笑い声があちこちから聞こえ、遊園地らしい賑やかな空気が広がっている。
ゆみは園内マップを広げ、次の目的地を探していた。
「さて……次は……」
指先で地図をなぞりながら真剣に考え込む姿は、やっぱり実行委員長らしい。
みんなが無理をしないように、それでいて楽しめるようにとずっと予定を考えてくれている。
今度はまた少し刺激のあるアトラクションにしよう、という話になっていたはずだった。
「委員長ー!!」
遠くから慌ただしい声が響く。
思わず振り向くと、数人の生徒がこちらへ全力で走ってきていた。
……様子がおかしい。
楽しそうに走っているわけでも、遊園地ではしゃいでいるわけでもない。
何かに追われているような、切羽詰まった走り方だった。
「はぁ……はぁ……!」
息を切らし、額には汗を浮かべ、顔色まで悪い。
絶叫マシンに乗った直後なら青ざめることもあるけれど、それとは違う。
もっと深刻な何かを見た人の表情。
あんなもすぐに異変に気づいた。
「……あれ?みのるの班の子だよね?」
「確かにみのるのクラスの子だ。班も一緒だったと思う」
言われて改めてその子たちを見る。
確かに見覚えがある。
動物園でも一緒に行動していた、みのるの班の生徒たち。
だけど――
りえが不思議そうに周囲を見回した。
「じゃあなんでみのるがいないの?」
その一言で、私も反射的に人数を数える。
一人
二人
三人
……終わり。
足りない。
あんなも同じことに気付いたらしい。
「確かに言われてみれば……みのるがいない……!?」
嫌な予感。
理由なんて説明できない。
でも、心のどこかが激しく警鐘を鳴らしている。
――何かあった。
そんな気がしてならない。
頭の中に、今までのみのるの姿が次々と浮かぶ。
一人で寂しそうに歩いていた動物園。
無理をして笑っていたレストランでの様子。
あの子はいつも、自分のことを後回しにする。
その姿が見えないことが、ひどく不安だった。
ゆみは急いで駆け寄り、生徒たちに声をかける。
「どうしたの?もう一人の子……みのるは?」
その問いに、生徒たちは顔を合わせた。
誰もすぐには答えられなかった。
息を整え、何かを決心するように唇を噛む。
やがて、一人の生徒がゆっくりと口を開いた。
「……そのことについて、話が……」
その震える声を聞いた瞬間、私の鼓動はさらに速くなった。
これから語られる内容が決して良い知らせではないことだけは、嫌というほど伝わってきた。
もう3回も地雷を踏まれるみのるで申し訳ない。