かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮 作:くぁwせdrftgyふじこlp
【みくるSide】
時間だけが、残酷なほど静かに流れていく。
観覧車の方角を見つめても、何も変わらない。
遠くで風が唸り、雨粒が地面を叩く音だけが耳に届く。
ただ待つことしかできない。
探偵ならこんな時こそ冷静に状況を分析し、最善の一手を導き出さなければならない。
なのに私の頭の中を埋め尽くしているのは、不安と焦りだけだった。
(……私は、まだまだだ)
これまで怪盗団ファントムの事件をいくつも解決してきた。
だから少しは自信もついていた。
事件を解決できる。
私は名探偵なんだ、と。
でも、それは本当に私の力だったのだろうか。
プリキュアの力があった。
ジェット先輩が作ってくれたプリキットがあった。
ポチタンや仲間たちが支えてくれた。
その上で事件を解決してきただけなのではないか。
本来、探偵とはそういう存在ではない。
現場を観察し、小さな違和感を見逃さず、知識と推理を積み重ねて真実へ辿り着く。
力ではなく、知恵で道を切り開く存在だ。
だけど今回は違う。
プリキットにも限界があった。
プリキュアに変身するのもリスクがある。
そんな状況になった瞬間、私は何もできなくなってしまった。
みのるを助けたい。
その気持ちだけが空回りし、足は一歩も前へ進めない。
(これが……今の私たちの本当の実力なのかな)
怪盗団ファントムとの戦いでも、まだ決定的な差を感じている。
特にジャック。
あの圧倒的な強さは戦闘力だけじゃない。
状況判断。
頭の回転。
相手の心理を読む力。
どれを取っても一枚も二枚も上手だった。
私たちはまだ、一度も真正面から勝てていない。
プリキュアとしても探偵としても、まだ遠く及ばない。
もっと努力しないと……
誰よりも。
もっと。
もっと。
みのるが胸を張って、
『私の親友はすごいんだよ!』
そう笑って言えるくらいの名探偵になりたい。
守られるだけじゃない。
誰かを安心させられる探偵になりたい。
そのためには、まだ全然足りない。
「あっ、見てみくる!太陽だよ!太陽が出てきた!」
「え?」
突然、あんなの弾んだ声が聞こえた。
窓の向こうに目を向けると、意外な景色が広がっていた。
「雨が降ってるのに……晴れてる……」
雨はまだ止んでいない。
細かな雨粒が空から降り続いている。
それなのに、厚い雲の隙間から黄金色の光が差し込み、濡れた地面を優しく照らしていた。
なんとも不思議な光景だった。
雨と晴れが同時に存在する世界。
子どもの頃、おばあちゃんが教えてくれた言葉を思い出す。
――狐の嫁入り
そんな呼び名がぴったりなくらい、幻想的な景色だった。
そしてそれだけじゃない。
「ねえ!風も弱くなってるし、行くなら今のうちだよ!」
「集合まであと一時間ちょっとしかないよ! 急いで観覧車に行こう!」
「う、うん!」
やっと積乱雲の中心から離れたことで風と雨が弱まり、外に出ても多少濡れる程度まで天候が落ち着いた。
ゆみとりえに促され、走り出した瞬間、心のどこかで冷静な自分が問いかけてきた。
……行って、どうするの?
観覧車へ着いたとして。
みのるが本当に危険な状態だったら。
私は人前でプリキュアに変身するの?
こんなに人がいる場所で?
正体が知られる危険もある。
でもそんなこと考えてる場合じゃない。
今は答えなんて出ない。
考えて立ち止まっている時間が、一番もったいない。
まずは確認する。
みのるが無事なのか。
それだけでいい。
私は雨に濡れることも構わず、三人と一緒に観覧車へ向かって全力で駆け出した。
胸の鼓動は速くなるばかりだった。
どうか間に合って。
お願いだから――みのるだけは、無事でいて。
_______________
【みのるSide】
冷たい雨が容赦なく身体を打ち続ける。
びしょ濡れになった制服は肌に張りつき、体温を少しずつ奪っていく。
腕に伝わる冷たさは、もう「冷たい」という感覚すら通り越していた。
少女を掴んでいる右腕も、ゴンドラの縁にしがみつく左腕も、感覚はほとんど残っていない。
それでも、離すことだけはできなかった。
震える指先が少しでも緩めば、この子は暗い地上へ落ちてしまう。
そんな結末だけは、絶対に認めたくなかった。
「ううぅぅぅ……!」
少女の泣き声が豪雨にかき消されそうになる。
長時間宙吊りになっている恐怖は、私なんかでは想像もできない。
小さな身体は震え続け、私の手を必死に握り返していた。
お願いだから、あと少しだけ。
あと少しだけ耐えて。
「助けるから……絶対に……」
自分の口から出る声は弱々しく、説得力がない。
息を吸うほど肺が苦しい。
肩は焼けるように痛み、腕は鉛でもぶら下げられているように重い。
限界はとっくに越えていた。
とにかく意識だけは必死に繋ぎ止める。
『力になりたい!!それが探偵でしょ!?』
……あんな。
あの日、真っ直ぐな瞳でアルカナ・シャドウにぶつけた言葉。
私には何もない。
ただ勉強ができるだけのどこにでもいる中学生。
そんな私に、誰かを助けられるはずなんてない。
そう思い続けてきた。
だけど――
「あなたの家族を……悲しませたりなんか……しないから……」
自然と、その言葉が口からこぼれた。
少女が涙で濡れた顔をこちらへ向ける。
「お父さんと……お母さんを?」
雨よりも冷たいものが心を駆け抜ける。
……違う。
私は。
「さっきのは……嘘……なんだ……私には……家族が……どこにいるか……わからない……」
「え……」
どうして今さら、こんなことを話しているんだろう。
自分でもわからない。
でも、この子には嘘をついたままでいたくなかった。
あんなは嘘を嫌う。
どんなに不利でも、正面からぶつかっていく。
みくるは感情だけで動いているように見えて、いつも冷静に物事の本質を見抜いている。
二人とも、私には眩しすぎる存在。
私はいつも、その背中を見ているだけ。
守られてばかりだった。
助けられてばかりだった。
自分で誰かを救ったことなんて、一度もないと思っていた。
「ずっと……ひとりぼっちなの?」
少女の小さな問いかけが、雷鳴の隙間を縫って耳へ届く。
「独り……だよ……家には……誰もいない……ひとりぼっちは……つらい……悲しい……」
あの日々を思い出す。
静まり返った家。
誰も返事をしてくれない食卓。
笑い声のない毎日。
みくると出会わなければ、私はきっと今でも前を向けなかった。
救われたのは、私の方だった。
「あなたが……いなくなっちゃったら……お母さんと……お父さんは……一生……つらい思いをする……」
私には、その痛みがわかる。
誰よりもわかる。
「嫌だよ……そんなの……」
少女が首を横に振り、涙をこぼす。
その姿を見た私は、心の奥で何かが燃え上がった。
「だから……」
腕は悲鳴を上げている。
指先はもう感覚がない。
全身は冷え切り、意識も少しずつ遠のいていく。
それでも構わない。
この腕が壊れてもいい。
身体が二度と元に戻らなくてもいい。
もしこの命と引き換えに、この子が家族のもとへ帰れるなら、それでいい。
私は今まで守られてきた。
何もできない自分が悔しかった。
だけど、今だけは違う。
特別な力なんてなくても、この子を守るためにここへ手を伸ばした。
それだけは誰にも否定させない。
私は歯を食いしばり、震える腕に残された最後の力を込めた。
――絶対に助ける。
何があっても、この子だけは絶対に死なせない。
「あなたの……お母さんとお父さんを……悲しむ顔になんて……させないからっ!!」
喉が張り裂けそうなほど叫んだ。
その言葉は、自分自身に言い聞かせる誓いでもあった。
「!!」
涙で濡れていた女の子の瞳に、小さな希望の光が宿る。
耳をつんざいていた風の唸りが少しずつ遠ざかっていく。
横殴りだった豪雨も勢いを失い、黒々とした積乱雲の切れ間から、一筋の光が海へ降り注いだ。
……太陽。
さっきまで絶望しかなかった空に、金色の光が差し込んでいる。
積乱雲が通り過ぎようとしている。
――今しかない。
もう二度とこんな好機は来ない。
「せええぇぇぇのっ!!」
私は全身の力を振り絞った。
揺れが止まった今なら、ゴンドラを支えていた左腕も使える。
両手で少女の腕を掴み、歯を食いしばる。
腕の筋肉が悲鳴を上げる。
肩が裂けそうに痛い。
指はとうに感覚を失っている。
それでも、力だけは抜かなかった。
「ううぅぅぅぅぅああぁぁぁぁ……!!」
運動なんて得意じゃない。
体力だってない。
クラスで運動神経はぶっちぎり最下位。
こんなふうに全身を使って力を出したことなんて、生まれて初めてかもしれない。
それでもほんの少しずつ、少女の身体が持ち上がっていく。
腕一本分。
肩一つ分。
確実に、こちらへ近づいてくる。
「はぁ……はぁ……まだ!!」
息を吸うたび肺が焼け、視界が揺れる。
まだだ、完全にゴンドラの中へ入るまで終わりじゃない。
腕の感覚なんてもうない。
なら、その感覚が戻る前に終わらせるしかない。
「お、お姉ちゃん!頑張れ!!」
「ううぅぅぅぅ……!」
私は最後の力を振り絞り、腕を思い切り振り上げた。
その瞬間、ふわり、と。
少女の身体が持ち上がった。
……え。
本当に。
本当に持ち上がった。
自分でも信じられなかった。
運動が苦手な私が、小さな命とはいえ、人ひとりを引き上げられるなんて思っていなかった。
少女の足がゴンドラの床へ乗る。
宙吊りだった身体が完全に中へ入り、そのまま床へ倒れ込んだ。
助かった、本当に。
助けられた。
あれほど絶望的だった状況から。
ただの中学生の私が。
一人だけで。
一つの命を救えた。
「お姉ちゃん!!」
女の子が泣きながら抱きつこうとする。
私は力なく微笑んだ。
「……良かった……!」
胸の奥が熱くなる。
できた。
私にもできた。
守られてばかりだった私でも。
誰かの役に立てた。
誰かを助けることができた。
その事実だけで十分だった。
……だけど。
自然は、人の願いなんて待ってはくれない。
「!?」
積乱雲は去りかけていた。
それなのに、最後の抵抗をするかのように猛烈な突風が観覧車を襲った。
ゴンドラが大きく横へ振られる。
「危ないっ!!」
「あっ!?」
考えるより先に身体が動いていた。
私は少女を思い切りゴンドラの奥へ突き飛ばす。
小さな身体が床を転がり、安全な場所へ滑っていく。
それを確認した瞬間。
私の足元から、支えが消えた。
世界がゆっくりと反転する。
空が見えた。
灰色だった雲の向こうに、青空が広がっている。
雨粒が太陽の光を受けて宝石のように輝いていた。
海が見えた。
嵐が去り始めた水面は、鈍い銀色に光っている。
なんて綺麗なんだろう。
そんな場違いなことを思ってしまうほど、時間はゆっくり流れていた。
私は、ゴンドラの外へ投げ出されていた。
落ちていく。
何も掴めない。
何も届かない。
ゴンドラの中では、少女が必死に何かを叫んでいる。
涙を流しながら腕を伸ばしている。
でも、その手は私には届かない。
……そうか。
私、死ぬんだ。
こんなところで、みくるにも会えないまま。
みんなに何も伝えられないまま。
終わるんだ。
ごめん、せっかく助けられたのに。
本当は最後までこの子を守って、お父さんとお母さんのところへ返してあげたかった。
最後まで見届けたかった。
なのにどうして私は、いつも大切なところで力が足りないんだろう。
みくる
あんな
ゆみ
りえ
みんな――
ごめん。
心の中でそう呟きながら、私は静かに目を閉じた。
_______________
【みくるSide】
夢であってほしい。
そう願ったことは、これまで何度もあった。
宿題を忘れて学校に来てしまった朝。
大切な物をどこかで失くしてしまった帰り道。
テストで思うような点数が取れなかった日。
そんな小さな失敗でさえ、「目が覚めたら全部夢でした」なんてことにならないかな、と考えたことはある。
だけど目の前で起きた出来事は、そんな生易しいものじゃなかった。
一瞬で頭の中が真っ白になる。
呼吸も、思考も、時間さえ止まってしまったようだった。
「おい、誰か落ちたぞ!?」
「きゃあああっ!?」
「救助はまだか!?子どもが観覧車から転落したぞ!!!」
悲鳴が連鎖する。
誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが救助を求める。
楽しいはずだった遊園地は、一瞬で混乱の渦に飲み込まれた。
そして、私たちも観覧車の前へ駆け着いたその瞬間。
見てしまった。
高い空にあるゴンドラから、一人の少女が放り出される姿を。
風にさらわれるようにゆっくりと。
その姿を、私は知っていた。
制服も。
小柄な身体も。
髪も。
全部、見間違えるはずがなかった。
――みのる。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!!!」
自分でも聞いたことがないような叫び声が喉から飛び出した。
叫ぶしかできなかった。
今まで生きてきて、こんな最悪の瞬間に立ち会うなんて思ってもいなかった。
みのるが。
私の大切な親友が。
地面へ向かって落ちていく。
それは紛れもない現実だった。
「今の……みのる?」
「………………は?」
「……嘘……だよね?」
誰も動けない。
誰も現実を受け止められない。
だけど、私の身体だけは勝手に動いていた。
考えるより先に足が地面を蹴る。
ただ、みのるのもとへ。
それだけだった。
「今はまだ入れません!危険です!!」
封鎖された入り口を越えようとしたら、スタッフに腕を掴まれた。
「そんなの構わない!!私のみのるが落ちたの!!中に入れて!!」
「既に他のスタッフが向かっています! 安全な場所で待って――」
「っ……!!」
そんなこと、わかってる。
まだ危険なのも、立ち入り禁止なのも。
全部理解してる。
でもそんな理屈よりも、今すぐみのるの顔を見たい。
生きているのか確かめたい。
その気持ちの方が何倍も強かった。
「お客様!!」
スタッフの制止を振り切り、私は落下地点へ駆け込む。
そこにはすでに数人のスタッフが集まっていた。
「ここはまだ危険ですから離れてください!」
「みのるは!?みのるはどうなったの!?」
私は叫ぶように尋ねた。
するとスタッフたちは、なぜか困惑した表情で互いに顔を見合わせている。
「それが……」
返事を待ちきれず、私はスタッフの隙間から中を覗き込んだ。
そして……
「…………血が、出てない?」
みのるは目を閉じたまま動かない。
意識はない、それはすぐにわかった。
だけど、制服は濡れているだけで破れていない。
身体にも傷が見当たらない。
血の一滴すら流れていなかった。
あり得ない、あんな高さから落ちたんだ。
無傷どころか、生きていること自体が奇跡の高さだ。
しかも落ちた場所は芝生じゃなく、硬い地面。
「はい。私たちも確認しました」
スタッフが落ち着いた口調で説明する。
「確かに転落しましたが、外傷は確認できません。呼吸も安定しています。ただ、少し体温が低下していますので、すぐ救護所へ搬送して対応いたします」
「………………」
理解が追いつかない。
どうして?
そんな疑問ばかりが頭を巡る。
「みくるーー!!」
後ろからあんなの声が聞こえた。
振り返ると、三人とも息を切らしながら駆け寄ってくる。
「……みんな」
「みのるは!?」
ゆみが真っ先に尋ねる。
「……大丈夫。傷もないし……呼吸もあるって」
「傷がなくて呼吸もある??あんな高さから落ちたのに!?」
「わからないけど、無事だったなら本当に良かった……」
「………………」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
足に力が入らない。
膝が震えて立っていられない。
そのまま私は、その場へ崩れ落ちた。
助かった。
みのるは生きている。
その事実が胸に広がった途端、恐怖も、不安も、安堵も、全部が一度に押し寄せてきた。
さっきまで当たり前だと思っていた「生きていてくれる」ということが、どれほど大きな奇跡だったのか。
私はしばらくその場から動けなかった。
【みのるSide】
ずっと暗闇の中を彷徨い、一筋の光が見えたと思ったら、私はまた知らない部屋にいた。
この光景、昨日の夢に似ている。
でも今回のは夢じゃない、現実だ。
耳の奥で、何かが鳴っていた。
救急車のサイレンだったのか、人々のざわめきだったのか、それとも自分の鼓動だったのか。もうよくわからない。
全身が重い。
鉛でも流し込まれたように身体が動かず、少し息をするだけでも胸の奥がじくりと痛んだ。
視界はぼやけている。
けれど、その中でも一人の少女だけははっきり見えた。
「みのる!!」
私のすぐそばに駆け寄り、今にも泣き出しそうな顔をしている親友。
小林みくる。
「みのるが起きた!」
「みのる!?大丈夫!?」
「私たちのこと、わかる!?」
四人とも私が寝ているベッドの近くにいた。
ここは病院?
それにしては造りが少し違う気がする。
「救護室だよ。命に別状はなかったけど軽い低体温症の兆候が出ていたから休ませてるんだ」
近くにいた救護のスタッフが話しかけ、やっと状況がわかり始めた。
あの子は無事なのだろうか?
ゴンドラの中に突き飛ばしたままのあの少女は助かったのだろうか…?
気になっている間に、私の身体は温かい感覚に包まれた。
みくるが私に抱きついたのだ。
「よかった………本当に……」
声が震えている。
その様子を見るに、私が何をしていたのかは全て筒抜けなんだろう。
「観覧車から落ちて、ずっとヒヤヒヤしてたんだから……」
「迷子の子を助けようとして……結局こうなっちゃって……」
わかりやすいように説明しようとしたが、みくるの声に遮られる。
「どうしてそんな無茶したの!?」
いつもよりずっと大きな声だった。
怒っている。
でも、それ以上に怖かったのだろう。
私が死ぬかもしれなかったことが。
「どうして!?なんであんなことしたの!? みのるが死んでたかもしれないんだよ!!」
何か言わなければと思った。
理由ならある。
目の前に子供がいたから。
助けないといけないと思ったから。
私でもできることがあるんだって……それだけだった。
でも――
「ごめん……」
出てきたのは、その一言だけ。
私は視線を逸らした。
言い訳なんてできなかった。
確かに私は子供を助けた。
結果だけ見れば、その子は無事だ。
それは間違いない。
でも、その代わりに私は死にかけた。
今生きているのは運が良かっただけ。
一般人の私が命を投げ出した結果、周囲は大騒ぎになった。
先生たちも慌てていただろう。
修学旅行の予定だって大きく狂った。
みくるも、あんなも、ゆみも、りえも、みんなが不安そうな顔をしていた。
私一人の行動で、たった一つの選択で、たくさんの人に迷惑をかけた。
そう考えると胸が苦しい。
誰かが目の前で危険な目に遭いそうだったから、見捨てるなんてできなかった。
みくるなら助けるだろう。
あんなだって助けるだろう。
だから私も助けたかった。
だけど――もし死んでいたらみくるはどうなっていただろう。
みんなはどれだけ悲しんだだろう。
「私……人を助けたかっただけなんだ……」
その言葉は、弱々しかった。
「でも……結局、みんなに迷惑かけて……修学旅行も台無しにして……私、人を助けたかったのに……助けた人より……私のせいで困った人の方が多かった……」
それが今の正直な気持ちだ。
ヒーローになりたかったわけでも称賛されたかったわけでもない。
でも、その代償はあまりにも大きかった。
私は人を救いたかったのに、結果として多くの人を心配させ、迷惑をかけた。
みくるは何も言わない、ただ私を見つめている。
その瞳には怒りも悲しみもあった。
そして、それ以上に――失いたくなかったという想いがあった。
だから私はただ、小さく呟くことしかできない。
「……本当にごめん」
その謝罪は、子供を助けたことへの後悔ではない。
私を大切に思ってくれる人たちを、あれほど怖がらせてしまったことへの謝罪だった。
そして私は初めて気づく。
誰かを助けたいと思う気持ちと同じくらい、自分自身を大切にしなければならないのだと。
私の命は、もう私一人だけのものではないということを。
私はゆっくりと視線を横へ向ける。
ゆみは実行委員として何日も前から準備をしていた。
クラスのみんなが楽しめるように。
修学旅行が少しでも良い思い出になるように。きっと見えないところでたくさん頑張ってきたはずだ。
最初の代表挨拶だってそうだ。
緊張しながらも立派に務めていた。
みんなのために動いていた。
だから胸が痛かった。
「ゆみも本当にごめんね。せっかくゆみが考えてくれた修学旅行を……めちゃくちゃにしちゃって……」
「ううん……そんなことないよ」
こんなことになったのに、聞こえたのは優しい声。
責めるような響きはどこにもない。
「確かにびっくりしたし、すごく心配した。でもね、それ以上に思ったことがあるんだ」
風が吹き、少しだけ開けられた窓から雨上がりの冷たい風が髪を揺らしていく。
「みのるって、本当にすごいなって」
「え……?」
予想していた言葉とはまるで違った。
私は修学旅行を台無しにした張本人だと思っていた。
怒鳴られても仕方ないと思っていた。
なのに、ゆみは違うことを言った。
「だって普通できないよ。目の前で危ない目に遭ってる子がいても、実際に飛び込める人なんてほとんどいないと思う」
その言葉に私は返事ができなかった。
「怖かったはずだよ。でも、それでも助けようとしたんでしょ?」
恐くなかったわけじゃない。
今思い返せば死ぬかもしれないという恐怖は確かにあった。
それでも考えるより先に身体が動いた。
「だから私はすごいと思う。修学旅行がどうとかよりも、まず一人の命を救ったことの方がずっと大きいよ」
けれど、それでも私は納得できなかった。
私が死んでいたらどうなっていたのか。
その可能性が消えるわけではない私の考えを見透かしたように、今度はみくるが口を開いく。
「みのる。私が怒ったのはね、勝手なことをしないでほしいって意味じゃないんだよ」
「え……?」
「子供を見捨てろって言いたいわけでもない。そんなこと思うわけないじゃん。私が嫌だったのは……みのるが、自分を犠牲にしてでも助けようとしてたこと」
その声はもう怒りではない。
恐さだ、私を失うことへの恐怖。
「自分のことを後回しにしすぎなんだと思う。誰かを助けたい気持ちはすごくわかるけど」
それはみくる自身も同じだから。
困っている人を放っておけない。
助けたいと思ってしまう。
「でもね。みのるがいなくなったら悲しむ人だっているんだよ。私は嫌だ、みのるがいなくなるの」
「わたしたちも同じだよ。責めたりなんかしないって」
あんなはいつもの明るい笑顔を浮かべている。
「うん。むしろ責められるわけないじゃん。命がけで子供を助けた友達に向かって怒る人なんてそうそういないよ」
「あんなこと普通はできない。だから自分ばっかり悪者みたいな顔しないで」
私は言葉を失った。
迷惑をかけたのに、誰一人として私を責めていない。
それどころか、みんな心配してくれていた。
怒っていたのではなく、失いかけたことを怖がっていたのだ。
温かくて、少し苦しくて、どうしようもない感情に囚われそうになる。
雨上がりの空には、虹が残っている。
さっきまで遠く感じていた光が、今は近く感じられた。
こんなにも自分を大切に思ってくれる人たちがいる。
その事実が胸いっぱいに広がって、私はただ静かに唇を噛み締めたのだった。
_______________
【るるかSide】
雨上がりの遊園地は、まるで別世界。
さっきまで空を覆い尽くしていた積乱雲は西の彼方へ流れ去り、その後には穏やかな夕焼けが広がっている。
低く傾いた太陽は遊具や観覧車を橙色に染め上げ、雨に濡れた地面は鏡のように光を映していた。
空には一本の大きな虹。
夕日に照らされたその虹は鮮やかに輝き、遊園地全体を優しく包み込んでいるようだった。
ほんの数十分前まで命を脅かす嵐が吹き荒れていたとはとても信じられない。
自然は本当に気まぐれね。
その虹をしばらく見つめていると、肩に乗っていたマシュタンが静かに口を開いた。
「本当にこれでよかったの?」
「…………」
私は答えなかった。
返す言葉がなかったわけじゃない。
ただ、わざわざ口にする必要もないと思っただけ。
花崎みのる。
私とは何の関係もない少女。
本来なら助ける理由なんて、一つもない。
……それでも。
あまりにも違和感が多すぎる。
マシュタンの占いは、「命の危機」を示していた。
そしてその占いは、寸分違わず現実になった。
観覧車からの転落。
普通の人間なら助かるはずのない高さ。
あのまま誰も手を出さなければ、花崎みのるは間違いなく命を落としていた。
だから私は、人目につかない場所で一瞬だけ変身し、落下する彼女を受け止めた。
誰にも気づかれないように。
誰にも正体を見られないように。
そのまま静かに地面へ降ろし、すぐに撤退する。
周囲の人間には、奇跡でも起きたように見えただろう。
それでいい。
それが一番都合がいい。
「みのるは助けた。帰りましょう」
「もう帰るの?」
まだ園内では子どもたちの笑い声が聞こえていた。
嵐が去ったことで営業も再開され、閉園時間が近づいているのに観覧車以外のアトラクションには少しずつ人が戻り始めている。
普通なら、せっかく来た遊園地をもう少し楽しむところなのだろう。
でも私は、そんな気分にはなれない。
「ウソノワールが不在のうちに戻った方がいい」
それだけだ。
ウソノワールが帰る前に何事もなかったような顔をしていれば、それで済む。
もし余計な時間を過ごして帰りが遅れれば、不審に思われるかもしれない。
今はできるだけ、あいつを刺激したくない。
余計な詮索をされるのは面倒だ。
遊園地にも、もともと大した興味はない。
交通費は少し痛い出費だったけれど、それは必要経費だと割り切るしかない。
ひとつ命を救うための代償としては、高いとも安いとも思わなかった。
私は夕日に照らされる虹へ最後に一度だけ視線を向ける。
花崎みのるは助かった。
それ以上でも、それ以下でもない。
胸の中に残る違和感には気づかないふりをしたまま、私は静かに踵を返す。
雨上がりの遊園地を背にして、オレンジ色に染まる帰り道を、一歩、また一歩と歩き始めた。