かわいいホームズの親友ちゃんは、相棒の座を奪われて焦心苦慮   作:くぁwせdrftgyふじこlp

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新たな戦士の予兆

[演目『忘却のプリキュア』]

 

忘れるということは、時に救いになる。

耐え難い悲しみも、胸を焼くほどの後悔も、時の流れに削られていけばいつかは輪郭を失っていく。

 

昨日まで眠れないほど苦しかった出来事でさえ、何年、何十年という歳月の向こうでは、古びた写真のように色褪せてしまう。

 

人はすべてを抱えて生きることなどできない。

だから忘れる。

それは決して薄情なことではない。

 

前へ進むために人へ与えられた、ひとつの優しさなのかもしれなかった。

 

けれど――。

忘れてはいけないものまで消えてしまったとしたら。

 

大切だったはずの誰かの顔も。

守りたかったはずの約束も。

胸の奥で何度も繰り返した願いも。

 

そして、自分自身が何者だったのかさえも。

 

何もかもが白紙へと戻ってしまったとしたら。

それでも人は、自分を自分だと言えるのだろうか。

 

――その少女は、ずっと忘れていた。

何を忘れているのかさえ、忘れていた。

 

胸の奥に空いている小さな穴。

理由もなく込み上げてくる寂しさ。

初めて訪れた場所なのに、なぜか知っているような気がする景色。

 

見覚えのないはずのものに触れた瞬間、指先から胸へと駆け抜けていく奇妙な懐かしさ。

そして、ときおり夢の中へ現れる、名前のない誰か。

 

顔は見えない。

声も聞こえない。

ただ、こちらへ手を伸ばしていることだけはわかる。

 

少女もまた、その手を掴もうとしていた。

けれど、いつも届かなかった。

 

あと少し。

ほんの少しだけ指を伸ばせば触れられそうなのに、その瞬間になると世界が白く染まり、何もかもが消えてしまう。

 

目を覚ました頃には夢の内容すら曖昧になっている。

頬に涙が伝っている理由もわからない。

 

どうして泣いていたのか。

誰に会いたかったのか。

何を思い出そうとしていたのか。

それすら、朝の光とともに消えていった。

 

それでも。

心だけは忘れていなかった。

 

記憶というものは不思議なものだ。

頭から消えたからといって、その出来事が最初から存在しなかったことになるわけではない。

 

楽しかった時間は、知らず知らずのうちに笑顔が残る。

誰かから受け取った優しさは、別の誰かへ手を差し伸べる理由になる。

 

悲しみは痛みに。

後悔は躊躇いに。

そして愛情は、理由のない温かさとなって胸のどこかに沈んでいる。

 

名前を失っても、形を失っても、そこにあったものすべてが、完全に消滅するわけではない。

 

少女の中にも、それは残っていた。

誰かを放っておけない心。

困っている者を見つければ、考えるより先に身体が動いてしまう性格。

 

自分が傷つくことより、目の前の誰かが傷つくことのほうを恐れてしまう危うい優しさ。

それがどこから来たものなのか、少女自身にはわからない。

けれど、その心だけは誰にも奪えなかった。

 

たとえ記憶を奪われても。

過去を塗り潰されても。

自分の本当の名前すら、長い時間の向こうへ置き去りにしてしまっていたとしても。

 

魂に刻み込まれたものまでは消せなかった。

 

やがて運命の日は訪れる。

 

そして、一人の少女が選択を迫られた。

 

逃げるのか。

立ち向かうのか。

見なかったことにするのか。

それとも――手を伸ばすのか。

 

本来ならば、少女に戦う理由などなかった。

背負う使命もなければ、世界を救わなければならない義務もない。

 

ましてや、自分の命を危険に晒してまで誰かを守らなければならない理由など、どこにも存在しなかった。

 

少女は特別な存在ではない。

少なくとも、少女自身はそう思っていた。

 

怖いものは怖い。

痛いものは嫌い。

逃げたいときだってある。

 

どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかと、理不尽を呪いたくなることもある。

 

だから足は震えていた。

呼吸は乱れていた。

胸の奥では、今すぐ逃げろと本能が叫んでいた。

 

それでも、少女の視線の先には助けを必要としている誰かがいた。

 

その瞬間、胸の奥で何かが脈打った。

 

忘れていた何か。

長い時間、深い場所へ沈められていた何か。

触れてはいけない記憶を守るように閉ざされていた扉の向こうから、小さな光が漏れ出した。

 

少女にはわからなかった。

どうしてこんなにも胸が苦しいのか。

どうしてこんなにも懐かしいのか。

どうして、今にも泣いてしまいそうなのか。

 

ただ一つだけ、はっきりしていた。

 

ここで背を向けたら、きっと二度と取り戻せない。

 

何を取り戻せないのかさえわからない。

それでも、そう思った。

 

だから少女は進んだ。

 

一歩、また一歩。

震える足で、それでも前へ。

 

その姿は勇敢な戦士にはほど遠かった。

 

恐怖を克服したわけではない。

覚悟が完成していたわけでもない。

自分に何ができるのかさえわかっていなかった。

 

けれど、それでよかった。

勇気とは、恐怖を感じないことではない。

恐怖を抱えたまま、それでも大切なものへ向かって手を伸ばすことなのだから。

 

そして少女が手を伸ばしたその瞬間。

世界のどこかで長い間、眠っていた何かが目を覚ました。

 

誰にも知られず、誰にも見つけられず。

長い年月の中で役目を失ったと思われていた小さな輝きが、再び鼓動を始めた。

 

それは宝石のようでもあり。

星の欠片のようでもあり。

遠い昔に誰かが残した涙のようでもあった。

 

一度

 

二度

 

三度

 

少女の鼓動に合わせるように明滅する。

 

光は弱かった。

今にも消えてしまいそうなほど儚かった。

 

けれど、確かにそこに存在していた。

まるでずっと待っていたかのように、自分を見つけてくれる者を。

あるいは、自分が再び見つけるべき者を。

 

その光が少女の手へ触れたとき、時間が止まったように感じられた。

 

風が消える。

音が遠ざかる。

世界の色が薄れていく。

 

そして少女の意識の奥底で、閉ざされていた扉がわずかに開いた。

 

断片が流れ込んでくる。

知らない景色。

知らない空。

知らない人々。

 

それなのに、そのすべてが胸を締めつけるほど懐かしい。

 

誰かと手を繋いだ記憶。

誰かを守ろうとした記憶。

泣いた記憶。

笑った記憶。

走った記憶。

転んだ記憶。

 

そして――何かを失った記憶。

 

けれど、少女はそのすべてを見ることができなかった。

記憶は水面へ浮かぶ泡のように現れては弾け、意味を持つ前に消えていく。

 

残ったのは感情だけだった。

 

悲しい

 

懐かしい

 

怖い

 

嬉しい

 

会いたい

 

帰りたい

 

守りたい

 

あまりにも多くの感情が一度に押し寄せ、少女の胸を満たしていく。

 

そして最後に一つだけ、誰のものなのかわからない願いが残った。

 

もう一度、今度こそ守るために。

その願いが少女自身の願いと重なった。

 

眩い輝きが少女の身体を包み込む。

けれど、それは炎のように荒々しいものではなかった。

忘却の底へ沈んでいた思い出を、一つずつ優しく拾い上げていくような光だった。

 

失われた時間。

消された名前。

思い出せない約束。

もう顔さえ浮かばない大切な誰か。

 

それらすべてを否定するのではなく、いつか取り戻せる日まで守り続けるように、光は少女を包んでいった。

 

その姿が少しずつ変わっていく。

けれど少女には、それが何を意味しているのかわからない。

 

なぜ自分なのか。

なぜ今なのか。

この力はどこから来たのか。

 

何一つわからない。

ただ、不思議と怖くはなかった。

 

初めてのはずなのに、知らないはずなのに。

身体のほうが覚えている。

 

光の中で手を伸ばすことも。

胸の前で指を重ねることも。

一歩を踏み出すことも。

 

まるで遠い昔から、何度も繰り返してきたように。

 

そして光が晴れた。

そこに立っていたのは、先ほどまでの少女でありながら、先ほどまでとは明らかに違う存在。

 

風が髪を揺らし、光が衣装の端を照らす。

胸元では、目覚めたばかりの輝きが静かに瞬いている。

 

その光景を説明できる者は、まだ誰もいない。

少女自身でさえ、自分に何が起こったのかわかってはいなかった。

 

ただ、目の前の誰かを守れる。

それだけで十分だ。

 

少女は前を向く。

守りたいという気持ちだけを頼りに。

 

少女の中で眠っていた力が呼応した。

空気が震え、光が集まる。

 

足元から舞い上がった無数の粒子が、夜空へ昇る星のように周囲を満たしていく。

 

それは新しい力の誕生を祝福しているようにも見えた。

 

けれど、本当にそうなのだろうか。

新しく生まれたのか。

 

それとも、かつて存在していた何かが、長い眠りから目覚めただけなのか。

 

答えを知る者はいない。

けれど確かなことが一つだけあった。

 

その日、誰にも知られることなく、歴史の片隅で一つの光が灯った。

それはまだ、あまりにも小さな光だった。

 

世界を照らすには弱すぎる。

巨大な闇を打ち払うには頼りない。

 

けれど、暗闇とは不思議なものだ。

どれほど広大であっても、一つの光が灯った瞬間から、完全な闇ではなくなる。

 

この力が、これから自分をどこへ導くのか。

失ったものと向き合うことになる未来も。

思い出したくなかった真実に触れる日も。

忘れていた誰かと再び巡り会う可能性も。

 

そして、自分が忘れていたものの中に、自分自身の運命を大きく揺るがす秘密が眠っていることも。

何も知らないまま、少女は歩き始める。

 

今、目の前にいる誰かを守るために。

たとえ昨日までの自分が何者だったとしても。

たとえ大切な思い出がすべて闇の中に沈んでいたとしても。

 

今、この瞬間に抱いた願いだけは偽物ではない。

 

この日を境に運命の歯車が大きく動き始めた。

これまで二人の少女が背負ってきた戦いに、新たな足音が重なった。

 

忘却の彼方から、一つの力が帰ってきた。

失われた記憶の中から、決して失われなかった心が目を覚ました。

 

長い間、誰にも呼ばれることのなかった存在が、再びこの世界へ立った。

 

どれほど深い闇へ沈んでも、再び光へ手を伸ばそうとする意志。

それこそが、少女が忘れていた、本当の自分へ続く最初の手がかりだった。

 

――こうして名もなき光は、静かに世界へ帰還した。

 

それは、新たな物語の始まり。

そして同時に、長い間忘れ去られていた物語の続きでもある。

 

忘却の底から蘇った一筋の光。

その光がやがて一つの名で呼ばれることになることだけを――。

 

運命は、すでに知っていた。

 

 

_______________

 

 

 

【みのるSide】

 

「こんにちはー!」

 

明るく弾んだ声が、キュアット探偵事務所に聞こえてきた。

 

窓の外には今日も気持ちのいい青空が広がっている。

こんな日は何か新しい依頼が舞い込んできそうだ――なんて考えながら声のした方へ目を向ける。

 

新たな依頼人が訪れたのかと思ったけれど、どうやら違ったようだ。

 

見覚えがある。

それも2回も。

 

「エリザさん!?」

 

そこにいたのは、ミステリー小説家の来栖エリザさんだった。

 

彼女と会うのはこれで3回目になる。

まだ高校生でありながら、推理小説の新人コンクールで大賞を取った実績を持つ小説家。

私たちと同年代とは思えないような肩書きを持っている人だ。

 

そんなエリザさんが、どうしてまたここへ?

しかも、今日は様子がおかしい。

 

「その格好どうしたんですか?」

 

「依頼…ではなさそう…」

 

いつもの私服ではない。

青を基調とした探偵服に、頭には鹿撃ち帽。

どこからどう見ても、推理小説に登場する探偵をそのまま現実へ連れてきたような格好だった。

 

……いや、小説家だよね?

 

どうして小説を書く側の人が、こんなにも本格的な探偵の格好をしているのだろう。

 

もっとも、その姿を見ているうちに、なんとなく彼女が何を求めてここへ来たのか想像がついてしまった。

 

「私、決めたの!探偵になる!」

 

「「ええっ!?」」

 

勢いよく宣言された言葉に、驚きの声が重なった。

やっぱり、エリザさんは再び探偵を志望してここへやって来たらしい。

 

前回も探偵に興味を示していたけれど、今回はそれどころではない。

わざわざ服装まで探偵らしく整えてきたのだから、そのやる気は相当なものなのだろう。

 

目も輝いているし、表情からも本気なのが伝わってくる。

 

でも……あなた、小説家では?

 

「エリザさん…」

 

「探偵ってどうして?」

 

それは私も気になった。

どうして、ここまで探偵というものに執着するのだろう。

 

確かにミステリー作家と探偵には深い関わりがある。

事件を推理し、謎を解き明かしていく探偵は、推理小説でも欠かせない存在だ。

 

だけど、推理小説を書くことと実際に探偵として活動することは、全くの別物だと思う。

 

物語なら机の上で事件を生み出し、手掛かりを配置し、犯人を決めることができる。

 

でも現実の依頼は何が起こるかわからない。

小説のように都合よく手掛かりが揃っているとも限らない。

 

どう考えても簡単な仕事ではないはずなのに。

そんな私の疑問を吹き飛ばすように、エリザさんは胸を張った。

 

「この前、迷子の猫『ミーコ』ちゃんを見つけたでしょ?依頼者の虎太朗くんの笑顔が、私の探偵魂に火をつけたの!」

 

「「………」」

 

……熱い、ものすごく熱い。

火をつけたという表現が比喩に思えないくらい、エリザさんの全身から熱意が伝わってくる。

 

迷子になった猫を見つけ、依頼者の笑顔を見たことがそれほどまでに心へ響いたらしい。

 

ここまで探偵という仕事に憧れているのなら、どうして最初から探偵にならなかったのだろう。

 

一瞬そんな疑問が頭をよぎるも、それを口に出すのはやめた。

 

小説家になったことにも、探偵にならなかったことにも、きっとエリザさんなりの理由があるのだろう。

 

私が簡単に踏み込んでいいことではない気がする。

それよりも今は、この燃え上がりすぎているやる気をどうすればいいのか。

 

「や、やる気満々なのはわかっ…」

 

「お願い!キュアット探偵事務所に入れて!」

 

ぐっと距離を詰められ、思わず身を引く。

目の前にあるエリザさんの瞳は真剣そのものだ。

 

冗談で言っているようには到底見えない。

本気でこの探偵事務所に入り、本物の探偵として活動するつもりなのだろう。

 

そんな勢いで迫られても、私にはどう返事をすればいいのかわからない。

 

困り果てていた時だった。

突然、玄関の方からドアベルが乱暴に鳴る。

続けて、廊下から激しい足音が近づいてくる。

 

また誰か来たみたい。

でも、普通の依頼人とは違う。

足音だけでも、かなり慌てている――というより、怒っているように聞こえる。

 

そして、その足音は事務所の前で止まり、

 

——バタン!!

 

勢いよく部屋の扉が開いた。

開かれた扉の向こうには、一人の女性が立っていた。

 

「先生!!やっぱりここでしたか!」

 

女性は開口一番、エリザさんへ向かって声を上げた。

 

先生?

その呼び方からして、どうやらエリザさんと面識がある人らしい。

 

「何度も電話したんですよ!」

 

「全然気づかなかった。新しい目標で頭がいっぱいだったから!」

 

悪びれる様子もなく答えるエリザさんに、女性の表情がさらに険しくなる。

 

なるほど、さっきの足音が怒っているように聞こえたのは、気のせいではなかったみたい。

何度も連絡を入れていたのに、エリザさんが全部無視してここまで来てしまったのか。

新しい目標というのは……間違いなく探偵のことだろう。

 

エリザさんを叱った女性はそれまでの勢いを少し落ち着かせると、今度はきちんとこちらへ向き直る。

そして一枚の名刺を取り出し、私たちへ差し出してきた。

 

「私、エリザ先生を担当しています。編集者の辺見頼子です」

 

渡された名刺へ目を落とす。

 

編集者

本や雑誌、記事などのコンテンツを作る仕事に関わり、全体の企画を考えたり、ライターやデザイナーを集めたりしながら一つの作品が完成するまでを管理する仕事だ。

 

エリザさんのような小説家を担当する編集者の場合、作品の企画について打ち合わせをしたり、執筆をサポートしたり、締め切りに間に合うようスケジュールを管理したりする。

完成した原稿をチェックすることもあれば、本そのものの制作や、発売後の宣伝に関わることだってある。

 

小説家が一冊の本を世に送り出すまで側で支え続ける存在。

そう考えると、まさに助手のような仕事なのかもしれない。

 

「キュアット探偵事務所の明智あんなです」

 

「小林みくるです」

 

「天才発明家、ジェット博士だ」

 

頼子さんから名刺を渡された以上、こちらも名刺を渡すのが基本的なマナーだ。

あんなとみくるは慣れた様子で自前の名刺を取り出し、それぞれ頼子さんへ差し出した。

ジェット先輩も二人に続いて堂々と自己紹介を済ませる。

 

……私は何て言えばいいんだろう。

あんなとみくるはキュアット探偵事務所の探偵。

ジェット先輩は天才発明家。

三人とも、自分が何者なのかを堂々と言える肩書きを持っている。

 

一瞬だけ悩んだけれど、嘘をつくわけにはいかない。

ここは正直に言おう。

 

「今のところは一応助手という名目で居候している花崎みのるです」

 

「「……………」」

 

……な、何、その沈黙。

 

二人から何とも言えない顔で見られてしまい、少しだけ居心地が悪くなる。

 

そ、そんな顔で見ないで。

確かに今のところは、助手と名乗れるほど大したことはできていないかもしれない。

事務所で生活させてもらいながら、できることを手伝っている程度だ。

 

でも、ずっとこのままでいるつもりはない。

いつかちゃんと役に立って、胸を張って助手だと言えるようになってみせる。

だから、それまでは待ってて。

 

そんな私たちを順番に見た頼子さんは、納得したような表情を浮かべた。

 

「お噂は聞いています。ファントムの事件を解決し、何より探偵エリーの続編のきっかけを作った、凄腕の探偵さんたちですね」

 

「そんな~」

 

「凄腕の探偵だなんて~」

 

「またデレデレしちゃってるよ…」

 

呆れた声が漏れる。

二人の褒められるとすぐ照れる癖は相変わらずだ。

 

それにしても宝生美術館での一件以降、キュアット探偵事務所の名前はかなり広まった気がする。

以前よりも私たちのことを知っている人が増えたし、こうして初対面の人から凄腕の探偵なんて言われるくらいには有名になっている。

 

もっとも、それと同時に怪盗団ファントムの存在まで大きく知られるようになってしまったけれど。

良いことばかりとは言えないのかもしれない。

 

「で、ご挨拶早々なんですが、失礼します」

 

頼子さんが突然そう言って、深々と頭を下げた。

何だろうと思っていると、そのままエリザさんの腕をがっちりと掴む。

挨拶が済んだ以上、ここに長居するつもりはないみたい。

 

「先生、原稿の締め切りです!帰りましょう!」

 

「いーや!探偵として真実のページを刻むって決めたの!ね、良いでしょ!」

 

頼子さんに連れ戻されそうになったエリザさんは、頑として動こうとしなかった。

むしろ探偵になるという意思はさらに燃え上がっているらしく、今度は助けを求めるようにあんなとみくるへ迫っていく。

 

……原稿の締め切りがあるなら、帰った方がいいと思うけど。

小説家としての仕事を放り出して探偵になろうとしているエリザさんと、何としてでも原稿を書かせたい頼子さん。

 

どちらも一歩も引く気配がない。

そのやり取りを眺めながら、みくるはふと一つのことを思い出した。

 

「でも、事務所に入るには厳しいテストがある……よね?」

 

誰でも希望すれば、すぐにキュアット探偵事務所の探偵になれるわけではない。

この探偵事務所を担う探偵になるためには、確かテストが必要だったはずだ。

 

「ボクは発明家だからよくわからないけど、確かあったよな?」

 

「え、私?まあみくるからそのような話は聞いてるから事実ではあると思う。私は受けてないけど」

 

ジェット先輩も曖昧ながら同意する。

私も詳しい仕組みまで知っているわけではない。

 

でも、探偵になるためのテストが存在するという話自体はみくるから何度も聞いたことがある。

 

実際、そのための勉強をみくると一緒にしたことだってあった。

だから少なくとも完全な作り話ではないと思う。

 

「私もテスト受けてない、よね?」

 

「知りませんよ……ね?」

 

……完全にたらい回しになっている。

 

探偵になるにはテストがあるという話自体はみんな知っている。

なのに肝心の探偵テストを本格的に受けた人物がこの場には一人もいない。

 

あんなも受けていない。

みくるも受けていない。

ジェット先輩は発明家。

私は助手という名目で居候しているだけ。

 

これでは誰に聞いたところで確かな答えなんて返ってくるはずがない。

そもそも本当にそんな制度があるのか、それとも私たちが何かを勘違いしているのか、それすら怪しくなってきた。

 

「一つ事件を解決するのがテストだって聞いたけど…」

 

「————っ!!だったら私、そのテスト受ける!」

 

我慢の限界を迎えたかのように、エリザさんの声が部屋中に響いた。

 

さっきまで以上に輝いている瞳を見れば、もう冗談でも思いつきでもないことだけは嫌というほど伝わってくる。

 

どうやらエリザさんの探偵魂に燃え上がった火は、テストという言葉程度では消えるどころか――さらに勢いを増してしまったらしい。

 

 

_______________

 

 

 

「……………」

 

静かだ。

 

電話を待ち続けること約10分。

誰もこれといって話題を切り出さないまま、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。

 

「……………」

 

もう一度、事務所の電話へ目を向ける。

 

鳴らない。

さっきから何度見ても、まったく鳴る気配がない。

 

エリザさんが探偵としての第一歩を踏み出すためには、まず依頼が来なければ始まらない。

ところがこういう時に限って電話は沈黙を守り続けている。

 

耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは窓の外から届く鳥のさえずりくらい。

穏やかな青空の下、鳥たちは呑気に鳴いている。

それ以外は電話の着信どころか、何の音も聞こえない。

 

「………全然依頼が来な~い!」

 

「いつもは忙しくて大変なの!今日はたまたま依頼がないだけで!」

 

「いつもこんなもんだろ」

 

たまたまではなく、大体いつもこんな感じである。

そもそも毎日のように依頼が舞い込んできていたら、今頃あんなとみくるは休む暇もなく働き続けているはずだ。

 

そんな生活をしていたら、二人ともとっくに倒れている。依頼が頻繁に来る方が地獄なのではないだろうか。

 

「依頼がない方が平和な証拠だから、本当は依頼が来ないことを喜ぶべきだと思う」

 

「うっ……それはそうだけど」

 

私の言葉にみくるが言葉を詰まらせる。

 

探偵として依頼を解決したい気持ちはわかる。

でも、事件が起こらないから落ち込む探偵というのは、あまりよろしくないと思いますが……。

 

それに、よく考えれば今までこの事務所に来た依頼のほぼ全てがファントム関連なのもいろんな意味でひどい。

 

依頼が来る。

事件を調べる。

ファントムが出てくる。

 

最近はそんな流れが当たり前になってしまっている。

平和を考えるなら、本当に電話なんて鳴らない方がいい。

 

「テストは?」

 

「そういえば私も、テスト受けてないよね?」

 

初めてキュアット探偵事務所へ来た時のみくるは、あれだけ探偵になることにやる気満々だった。

それなのに、いろいろな出来事が重なった結果、気づけば微妙な流れのまま事務所に所属することになっていた。

 

「お前たちはプリキュアになったから、なし崩しで入れたんだ」

 

「そっかぁ」

 

つまり名探偵プリキュアに覚醒した場合は、探偵テストを受けているかどうかに関係なく事務所へ入れる特権があるらしい。

 

……ん?

だったら、プリキュアでもなければ探偵テストも受けていない私はどうなるの?

 

「じゃあ私は??」

 

「みのるの場合は特例だな。一人だけ仲間外れにするのも酷だし、助手という立場なら特に問題ないと思ったんだ」

 

……あ、やっぱりそういう意味だったんだ。

 

特例

言葉だけ聞けば何だか特別な存在みたいだけど、実際には一人だけ仲間外れにするのが可哀想だから入れてもらえたということらしい。

 

つまり、情けをかけられただけなのでは。

 

「……そうなのですか。わかりました」

 

「なんで敬語なんだ?」

 

こうなったら、せめて本当に助手と呼べるくらいには頑張ろう。

 

私はあんなやみくるみたいに変身できない。

その分、人一倍働かないとこの事務所にいる意味がなくなってしまう気がする。

 

ただでさえ今の私は、ここに居候しているようなものだ。

住む場所まで用意してもらっている以上、いつまでもみんなに甘えてばかりはいられない。

 

できることを増やして、ちゃんと役に立てるようにならないと。

 

「……プリ?」

 

あとエリザさんの目の前で堂々とプリキュアって言ってるし。

 

「あっ!?ああそうだ!この時間を利用して事務所を案内しよう!」

 

あんなが不自然な勢いで立ち上がった。

さっきまで探偵テストについて話していたはずなのに、突然の事務所見学。

 

どう考えても強引な話題転換だけど、今はそれしかない。

エリザさんが疑問を深めるよりも早く、あんなはそのまま彼女を連れて事務所の案内を始めることにした。

 

危なかった……。

あまりにも自然な流れで出てきたから、私まで気づかなかった。

 

 

_______________

 

 

 

【みくるSide】

 

依頼の電話が来る気配は相変わらずない。

せっかくエリザさんが探偵になる気満々で待っているのに、肝心の依頼が来なければテストらしいこともできない。

 

だから、その時間を利用してエリザさんにキュアット探偵事務所の中を案内することになった。

 

最初に向かったのは地下。

階段を下りた先にある、ジェット先輩の拠点だ。

 

「まず、ジェット先輩の研究室!」

 

私が紹介すると、待ってましたと言わんばかりにジェット先輩が前へ出る。

 

「そうだ。昨日完成した発明品を見せてやる!」

 

この研究室は地下にあるけれど、薄暗くて狭い場所というわけではない。

私たちの部屋より数倍は広く、ジェット先輩が発明に使う様々な道具が所狭しと並んでいる。

 

それでいて内装そのものは地上の部屋とほとんど変わらないから、地下特有の圧迫感や不気味さは一切感じない。

ここだけ見せられて地下にいると気づける人は、案外少ないかもしれない。

 

ジェット先輩はエリザさんに自分の研究室を見せられるのが嬉しいのか、勢いよく作業台の方へ走っていった。

そして何かを手に取ると、すぐに私たちのところへ戻ってくる。

 

その手には、一つのフラスコが握られていた。

中に入っているのは、虹色に輝く不思議な液体。

見る角度によって色が変化しているようにも見えて、いかにもジェット先輩の発明品らしい。

 

「この液体を、色褪せた写真にかけると……」

 

ジェット先輩が用意したのは、一枚の古びた写真。

かなり汚れていて何が写っているのかもよくわからない。

色もすっかり褪せてしまい、長い年月が経っていることだけは一目でわかった。

 

そこへ、フラスコの液体がかけられる。

すると――

 

「……!」

 

汚れていた写真が、みるみるうちに綺麗になっていく。

表面を覆っていた汚れが消え、色褪せていた部分には鮮やかな色が戻っていった。

 

最後には新品と見間違えそうなほどの光沢まで現れ、さっきまでの古びた写真が嘘みたいに若返ってしまった。

 

……もうジェット先生に作れない物はないのでは?

 

毎回いろんな発明品を見せてもらっているけれど、とうとう古い写真まで新品みたいにしてしまった。

ちなみに写真に写っているのはジェット先輩である。

 

「ほら、この通り!20年前の写真もくっきり綺麗に!天才だろ!」

 

「「20年前???」」

 

………早く次に行こう。

 

_____

 

 

「こっちが離れで、ここが共有スペース」

 

「みんなでおしゃべりしたりするんです」

 

離れの一階には、私たちが普段からよく使っている共有スペースがあり、床にはカラフルなカーペットが敷かれ、その上には色鮮やかなソファが並んでいる。

 

依頼も事件もない時は、ここで飲み物を飲みながらくつろいだり、みんなで他愛もない話をしたりする。

何か特別なことをするための場所ではない。

だからこそ、私はここが好きだった。

 

探偵として事件を追いかける時間とは違って、みんなで自由に過ごせる場所だからだ。

 

「へえ」

 

「楽しそう!」

 

時間があったら、エリザさんも含めてみんなでここに座ってお話でもできたら良いな。

 

でも今は事務所を案内している途中だ。

共有スペースを後にして、私たちは次の場所へ向かう。

 

今度は、あんなの部屋。

 

「で、私の部屋!」

 

「素敵!」

 

「でしょう!天井高くて明るいんだ!」

 

あんなの部屋はいつ来ても綺麗だ。

物が無造作に置かれていることもなく、きちんと整理整頓されている。

必要なものはそれぞれ決まった場所に収まっていて、部屋全体からあんなの育ちの良さが伝わってくるようだった。

 

私も自分の部屋はこまめに掃除しているから、多分綺麗な方だと思う。

 

でも、こうしてあんなの部屋を改めて見せられると、急に自信がなくなってきた。

 

机の上、大丈夫だったかな。

変なところに物を置いたままにしてなかったかな。

 

 

_______________

 

 

 

【るるかSide】

 

「マコトジュエル……よりによってここにあるなんて」

 

目の前にある建物が、次なるマコトジュエルの在りか。

未来自由の書によって示された場所は、よりによって私にとってもよく知る場所だった。

 

名探偵プリキュアの本拠地――キュアット探偵事務所。

以前は私もここで暮らしていた。

建物の中がどうなっているのかも、誰が普段ここにいるのかも知っている。

 

当然、あんなとみくるの二人も事務所にいる。

マコトジュエルがあるからといって、堂々と中へ入って奪うことはできない。

二人の目の前でそんなことをすれば、すぐに阻止される。

 

まずはマコトジュエルが何に宿っているのかを特定する必要がある。

私は改めて、未来自由の書が示した予言を頭の中で整理した。

 

「『探偵の地に、声を届ける者といる探偵』か」

 

探偵の地。

声を届ける者。

そして、それといる探偵。

 

相変わらず直接的には教えてくれない。

 

「一体何のことを言っているのかしら?」

 

隣にいるマシュタンは、予言の意味がわからないらしい。

でも、私にはなんとなく予測できた。

 

まず『探偵の地』という部分は、それほど難しくない。

キュアット探偵事務所そのものを指していると考えていいはず。

 

あとは『声を届ける者』と『探偵』。

何か手がかりになるものがないか。

 

私は事務所の中を探るように、外から慎重に様子を窺うと気になるものが目に入った。

 

「それって探偵エリーの!」

 

「ええ、念願の探偵エリーのぬいぐるみストラップです。素敵でしょ!」

 

「かわいい!」

 

中からあんなの声と知らない女性の声が聞こえる。

誰かが事務所を訪れているらしい。

 

ただ、窓にはカーテンが半分以上閉められていて、室内の様子がよく見えない。

私は見つからないように注意しながら、カーテンが閉まっていない僅かな部分からそっと中を覗き込んだ。

 

二人が何かを話している。

そして私が注目したのは、その女性が手にしている物だった。

 

携帯電話。

その携帯電話には、一つのぬいぐるみストラップがぶら下がっている。

 

『探偵エリーの事件簿』、その小説に登場する主人公の探偵――エリーを模したぬいぐるみのストラップだ。

 

携帯電話、そしてその携帯電話に付けられた探偵エリー。

予言の言葉が頭の中で繋がった。

 

「『声を届ける者といる探偵』……マコトジュエルはきっとあれね」

 

「え!?どれ?」

 

『探偵の地』はキュアット探偵事務所。

『声を届ける者』は、遠く離れた相手へ声を届けることのできる携帯電話。

 

そして――『声を届ける者といる探偵』。

携帯電話と一緒にある、探偵エリーのぬいぐるみストラップ。

現実では単なる小説の登場人物だとしても、物語の世界におけるエリーは探偵として活動している。

 

なら、答えは一つ。

マコトジュエルが宿っているのは、あの探偵エリーのストラップね。

 

問題は、どうやってあれを手に入れるか。

そう考え始めたところで、隣から不満そうな声が聞こえてきた。

 

「もう!カーテン邪魔ね!何よりおしゃれじゃないし、一言言ってやりたいわ!」

 

マシュタンが窓のカーテンを睨みつけている。

 

カーテンのせいで中の様子を確認しにくいけれど、マシュタンが気にしているのはそこではないらしい。

おしゃれを何より大事にするマシュタンにとっては、どうやらキュアット探偵事務所のカーテンが気に入らないようで不満を爆発させていた。

 

今はおしゃれを気にしている場合じゃない。

マコトジュエルが何に宿っているのかはわかった。

あとは――あんなとみくるがいるこの場所から、どうやってあのストラップを手に入れるか。

 

私は事務所の中にある探偵エリーのストラップを見つめながら、その方法を考え始めた。

 

 

_______________

 

 

 

【みくるSide】

 

「あんなの部屋の向かいが私の部屋!」

 

あんなの部屋を出た私は、そのまま廊下を挟んだ向かい側にある自分の部屋へエリザさんを案内した。

 

扉を開ければ、見慣れた私の空間が広がっている。

部屋全体はピンクを基調としていて、明るく柔らかな雰囲気になるようにしてある。

 

窓の近くや床には、小さい頃にもらったぬいぐるみがいくつか置かれていて、ずっと昔から私のそばにいてくれた子たちが今でも部屋を彩っている。

 

自分で言うのもあれだけど、かなり女の子らしい部屋だと思う。

 

さっき見たあんなの部屋とは間取りこそ同じだけれど、家具や置いてある物が違うだけで雰囲気は随分変わって見えた。

 

「なんか落ち着くなぁ」

 

「趣味が合うのかも!」

 

少し意外だった。

ミステリー小説家として活躍しているエリザさんだから、もっと落ち着いた色合いの部屋や、本棚がたくさん並んでいるような空間が好きなのかと勝手に想像していた。

 

でもどうやらこういう雰囲気の部屋も好きらしい。

もしかすると、本当に私と趣味が合う部分があるのかもしれない。

 

「同じ部屋でも個性って出るんだね」

 

「同じ部屋?」

 

「ほら、あんなちゃんの部屋と間取りが一緒なのに、印象違うなって」

 

「………」

 

同じ部屋でも印象が違う……か。

あんなの部屋と私の部屋は、基本的な間取りそのものは同じ。

 

それなのに、置いてある物や色合いが違うだけで、まるで別の場所のように感じられる。

 

それだけじゃない。

私の部屋には、あんなの部屋にはないものがある。

 

微かに漂う、百合の花の香り。

強く主張するほどではないけれど、この部屋に入れば確かに感じられる香りだった。

 

同じ形をした部屋でも、そこに住む人によって少しずつ違うものになっていく。

小さな違いが積み重なって、その人だけの空間になっていくのかもしれない。

 

……これを意味するものはなんだろう。

 

私の部屋を見終えた後、私たちは再び廊下へ出た。

そして次に目を向けたのは、私とあんなの部屋より手前側にある扉。

 

「ここはみのるの部屋だね」

 

「どんな部屋なんだろう?」

 

エリザさんが興味を示す。

そういえば、私もみのるの部屋についてはほとんど知らない。

 

入ったことがないわけではない。

一度だけある。

 

虹ケ浜で一悶着があった日の夜。

みのるの部屋から泣き声が聞こえてきて、慌てて中へ入った。

 

でも、その時はみのるのことで頭がいっぱいだった。

部屋に何が置かれているとか、どんな内装をしているとか、そんなことを気にする余裕なんてなかった。

 

それ以来、みのるの部屋へ入る機会は一度もない。

だから実質、ちゃんとみのるの部屋を見るのは今日が初めてになる。

 

……勝手に入っちゃうけどごめんね。

心の中で謝ってから、私はゆっくりとドアノブを回した。

扉を開ける。

 

「え………」

 

「何もない!?」

 

目の前に広がっていた光景は、私の想像の斜め上を行っていた。

 

本当に何もない。

もちろん生活に必要な最低限の物は置かれている。

 

でもそれだけ。

どこを見ても、それ以上の物がほとんど見当たらない。

 

本棚は一応置いてあるけれど、中身はほとんど入っていない。

私やあんなの部屋にあるようなクッションもなければ、床を彩るカーペットすらない。

 

飾りらしい飾りもほとんど見当たらず、生活している部屋というより、まだ誰かが入居する前の空き部屋に近い。

さっきまで同じ間取りでも住んでいる人によって個性が出るんだと話していたけれど……。

 

これは個性という言葉だけで片づけていいのかな。

エリザさんも予想外だったのか、何とか感想を絞り出す。

 

「こ……この部屋も個性的だね……」

 

「あ…あはは……」

 

曖昧に笑うことしかできなかった。

でも、これはこれでみのるらしい……のかな。

 

余計な物を置かず、必要な物だけで生活する。

そう考えれば確かにみのるらしい気もする。

それでも、もうちょっとくらい部屋を飾っても良いんじゃないかと思う。

 

私の部屋には昔から持っているぬいぐるみがあって、あんなの部屋にもあんならしさを感じさせるものがある。

 

ほとんど何も置かれていないみのるの部屋を眺めながら、私は改めて三人の部屋の違いを感じていた。

 

 

_______________

 

 

 

【みのるSide】

 

こういう静かな時間の方が、私は好きだ。

依頼の電話が鳴るわけでもなく、誰かが慌ただしく出入りするわけでもない。

ただ穏やかに時間だけが流れていく。

 

探偵事務所としては暇なのかもしれないけれど、私にとってはこれくらいがちょうどいい。

ジェット先輩も今は特にやることがないらしく、椅子の背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を眺めている。

さっきまでの騒がしさが嘘みたいだ。

 

「ジェットさん?」

 

「ん?」

 

しばらくすると声がして、頼子さんとエリザさんが部屋へ戻ってきた。

事務所の中を案内されていた二人も、一通り見て回ってきたらしい。

 

エリザさんが真っ先に気にしたのは、やっぱり例のことだった。

 

「依頼来ました?」

 

「全然。一日何もない時があるからなあ」

 

ジェット先輩の返事に、エリザさんは少し残念そうな様子を見せる。

今すぐにでも依頼を受けて、探偵として事件を解決したいのだろう。

 

でも、現実はそんなに都合よくいかない。

そもそもこの事務所に依頼が来る頻度は、多くても一週間に一回か二回くらいだ。

 

毎日のように電話が鳴って、次から次へと事件が舞い込んでくるわけではない。

 

「あんなとみくるはああ言ってるけど、本当はこれが日常だからね」

 

「そうなんですか」

 

普段のキュアット探偵事務所は、むしろ今みたいな時間の方が多い。

みんなでのんびり過ごしたり、それぞれ必要な物を買いに出かけたり。

忙しく走り回っている日の方が少ないくらいだ。

 

もしかするとエリザさんは、探偵というものを毎日のように事件解決へ奔走している存在だと思っているのかもしれない。

 

小説の中なら次々と事件が起こるけれど、現実はそうじゃない。

何も起こらない日だって当然ある。

 

「次はこっちですよ!」

 

離れたところから、あんなの声が聞こえてきた。

 

「あ、はい!」

 

呼ばれた頼子さんはバッグをこの部屋に置くと、再びあんなについて部屋の外へ出ていく。

 

ところが、エリザさんは動かなかった。

てっきり一緒について行くと思っていたのに、なぜかこの部屋に残っている。

 

「エリザさんは行かないの?」

 

「うん。大体のところは見せてもらったし、それよりも……」

 

言葉を途中で止めたエリザさんの視線が、一点に向けられた。

 

その先にいたのはジェット先輩。

エリザさんは何も言わず、じっとジェット先輩の顔を見つめている。

 

「……なんだ?ボクの頭に何かついてるのか?」

 

ジェット先輩は不思議そうに自分の頭を気にしている。

この人の場合は何を言い出すのか予想できない。

 

「研究室、かなり広いよね?」

 

「ん?……まあ確かに十分な広さはあるが、どうしたんだ?」

 

さっきエリザさんも見学した、地下にあるジェット先輩の研究室のことだ。

 

確かにあそこは広い。

この事務所の中でもかなり広い空間だけど、それがどうしたんだろう。

 

するとエリザさんは私の予想を軽々と飛び越えることを言い出した。

 

「研究室の半分を私の部屋にできないかな?」

 

「はぁ!?」

 

ジェット先輩が椅子から飛び上がりそうな勢いで声を上げる。

 

「もう事務所に入る前提で話進めてる…」

 

なんて大胆な提案なんだろう。

 

まだ依頼すら来ていない。

当然、探偵としてのテストも始まっていない。

それなのに、もう合格した後の自分の部屋について考えている。

 

確かに問題がないわけではないが、離れの宿舎には部屋が三つしかない。

私、あんな、みくる。

それぞれが一部屋ずつ使っているから、仮にエリザさんが正式に探偵になったとしても、自分の持ち部屋がない状態になる。

 

だからといって地下の研究室を半分に分割して自分の部屋にしようと考えるのは、なかなかに面白い発想をしている。

普通は思いついても提案しないと思う。

 

「ね、研究室広いし、半分私の部屋にして良いでしょ!ね!」

 

「なんでそうなるんだよ!」

 

依頼すら来ていないのに、話だけがどんどん先へ進んでいく。

さすがのジェット先輩も手を焼いていた。

 

「ダメダメ!あそこは薬品や機材も保管してる重要な部屋なんだ。万が一のことがあったら大変だし、諦めてくれ」

 

「ええ~!」

 

こればかりは仕方ない。

ジェット先輩が発明に使う機材や薬品が大量に保管されている研究室だ。

使い方を間違えれば害になるような物だってきっとある。

 

そんな場所を半分だけ生活空間にして寝泊まりするなんて、どう考えても危ない。

素人が安易に過ごせる場所ではない以上、ジェット先輩が断るのは当然だった。

 

それにしても……もし本当に探偵になったら、頼子さんが言っていた締め切り前の原稿はどうするつもりなんだろう……?

 

 

_______________

 

 

 

【みくるSide】

 

「ここが探偵事務所自慢のガーデン!」

 

「綺麗ですね」

 

離れと探偵事務所、その二つの建物に挟まれるようにして中庭がある。

ここは私たちがキュアット探偵事務所に入るよりも前から色とりどりの花が咲いていた場所だ。

 

赤や黄色、白や紫。いろんな色の花が並び、それぞれが太陽の光を浴びて鮮やかに咲いている。

 

私はこの場所も結構好きだった。

昼間に見る華やかな景色も綺麗だけど、夜の庭も好きだ。

 

夜になってここを通る度、どこからともなく花の甘い香りが漂ってくる。

昼間とは違う静かな雰囲気の中で感じるその香りが心地よくて、通り過ぎるだけでも少し落ち着いた気持ちになれる。

 

そんな中庭を見渡していると、一人足りないことに気づいた。

 

「あれ、エリザさんは?」

 

「事務所です。ジェットさんと話してます」

 

途中で飽きちゃったのかな?

 

せっかく事務所を案内していたのに、いつの間にかジェット先輩のところへ戻ってしまったらしい。

 

前に会った時もそうだったけど、エリザさんは行動力がある。

何かを思いついたら、周りが驚くくらいの勢いでそのまま突き進んでしまうことがある。

 

いろいろなことに興味を持ちやすい性格なのかな。

 

「本当気が早いというか」

 

「エリザさん張り切ってるね」

 

「気持ちわかるなあ、私も名探偵に憧れてたから」

 

エリザさんの気持ちは、私にも十分理解できる。

 

名探偵になりたい。

私だって、ずっとそう思っていた。

 

探偵になるためにいろんなことを覚えようとして、みのると一緒に勉強したり、特訓したり。

あの頃のことが、なんだか随分懐かしく感じる。

 

だから探偵になれるかもしれないという機会を目の前にして、エリザさんがあれだけ張り切っているのもわからなくはなかった。

 

すると、花を眺めていた頼子さんが少し迷うような表情を浮かべた。

 

「やっぱり応援するべきですよね?」

 

その声には、迷いが混じっていた。

 

頼子さんはエリザさんの担当編集者だ。

小説を書くエリザさんを支えて、原稿を完成させるために手伝う人。

 

だから編集者として考えれば、探偵になることよりも締め切りが迫っている小説へ早く手をつけてほしいと思うのは当然だと思う。

 

でも、それだけじゃない。

編集者は作品だけを見る仕事じゃなくて、それを書く作者本人とも向き合う仕事なのかもしれない。

 

小説を書いてほしい。

でも、エリザさんが本当にやりたいことも応援してあげたい。

 

頼子さんの表情を見ていると、そんな二つの気持ちの間で揺れているように感じた。

 

「私、探偵エリーが初めての担当で、先生と一緒に本を出せるのが嬉しくて、楽しくて。でもそれって私の勝手ですよね。探偵は先生の昔からの夢だったし」

 

「昔から?」

 

昔から探偵になりたかった。

その言葉が引っかかった。

 

私はてっきり、エリザさんはミステリー小説家になりたくて今の道を選んだのだと思っていた。

もともとは小説家ではなく、探偵志望だったんだ。

 

それなのに、今のエリザさんは小説家として活動している。

それはつまり――どこかで探偵になることを諦めてしまった日があったということなのかな。

 

「ええ、小説家じゃなくて、小さい頃から探偵になりたかったって。夢だけどなりきれなかったって」

 

「なりきれなかった…?」

 

「はい、そう言っていました」

 

エリザさんと私は、どこか似ている。

小さい頃から名探偵に憧れて、その姿を追い続けていた。

でも、今の私とエリザさんには大きな違いがある。

 

私は探偵になれた。

まだ未熟だし、自分が本当に名探偵と呼べるほどの存在なのかはわからない。

 

それでも、今こうしてキュアット探偵事務所にいる。

探偵として依頼を受けて、事件を追いかけることができている。

 

けれど、エリザさんは小説家として成功しているのに、今も探偵になることを夢見ている。

 

『夢だけどなりきれなかった』

 

その言葉の奥に、どんな気持ちがあったんだろう。

 

もし、私がエリザさんの立場だったら。

小さい頃からずっと憧れていた探偵になれなくて、別の道へ進んでいたら。

私は今、どうなっていただろう。

 

別の夢を見つけて、その道を心から楽しめていたのかな。

それとも、心のどこかでずっと探偵への憧れを捨てきれないまま過ごしていたのかな。

 

エリザさんも、本当はそうなのかもしれない。

小説家として活躍していても、心の奥には昔から抱いていた夢が残っている。

 

本当はなりたかった探偵になれなかったことを、ずっと引きずっているのかもしれない。

そして今、その夢をもう一度追いかけられるかもしれないから、あれほど嬉しそうにしているのだとしたら――。

 

私は色とりどりの花が揺れる中庭で、エリザさんがさっき見せていた楽しそうな顔を思い浮かべていた。

 

 

_______________

 

 

 

【みのるSide】

 

さっきからエリザさんは、研究室を半分自分の部屋にしてほしいとジェット先輩にねだり続けていた。

ジェット先輩が何度断っても、なかなか諦めようとしない。

 

そんなやり取りが続いていた時、ふとエリザさんの視線が動いた。

さっきまでジェット先輩を見ていた目が、その後ろにある地図へ向けられる。

 

正確には、地図に貼られている一枚の写真。

アルカナ・シャドウについて調査するため、街の外れにある取水塔へ行った時に落ちていたものだ。

 

そこには、一匹の青い蝶が写っている。

 

「ああそれ?色褪せてた写真を綺麗にしたんだ。さっきの発明品で。よくわからないんだ、事件の証拠品なのかどうなのかも」

 

「街の外れにある取水塔の近くに落ちてたものだけど、これ一枚じゃどうにも……」

 

写真そのものは、さっきジェット先輩が見せていた発明品のおかげで随分見やすくなった。

色褪せていた部分は綺麗になり、青い蝶の姿も以前よりはっきり確認できる。

 

でもどれだけ写真を綺麗にしたところで、写っている内容そのものが増えるわけではない。

 

これが何を意味しているのか。

誰が撮影したものなのか。

どうして取水塔の近くに落ちていたのか。

 

何一つわからない。

他に手がかりも見つからなかったから、今もこうして地図に貼ったままになっている。

 

「……………」

 

エリザさんは何も言わなかった。

ただ、青い蝶の写真を真剣な表情で見つめている。

 

さっきまでジェット先輩に自分の部屋をねだっていた時とは雰囲気が違う。

 

……何か感じたのかな。

それとも、この写真について何か知っている?

 

「どうかしました?」

 

するとあんなに呼ばれて外へ出ていた頼子さんが部屋へ戻ってきた。

 

でも、エリザさんは反応しない。

相変わらず写真をじっと見つめている。

 

その様子が気になったのか、頼子さんもエリザさんの視線を追い、地図に貼られた写真を覗き込んだ。

 

「あ……それ……」

 

「え?」

 

「………」

 

今の反応、明らかに何かおかしい。

その写真を知っているみたいな反応だった。

 

偶然目に入った知らない写真を見ただけなら、あんな声は出ないはず。

 

どういうことなんだろう?

 

「いえなんでも。そうだ携帯!電話が来てるかも」

 

頼子さんは急に話題を変え、携帯電話を取ろうとした。

 

……怪しい、明らかにはぐらかしている。

 

私はそのまま流すことができず、頼子さんへ声をかけた。

 

「あの……この写真のこと、知ってるんですか?」

 

「え!……いや、その」

 

やっぱり返事に詰まった。

この反応なら、何も知らないとは思えない。

 

ずっと正体のわからなかった写真。

もし頼子さんが何か知っているのなら、その真実へ近づく最大のチャンスかもしれない。

 

「今、明らかにこの写真を知っている反応をしたので何かご存知なのかと。差し支えがなければ、教えてくれませんか?」

 

「そんな写真、アゲは知らない!………あ」

 

「「「!?」」」

 

…………アゲ?

 

今、何て言った?

 

頼子さんの一人称じゃない。

いや、それ以前に――私はその独特な一人称を知っている。

 

この人……普通の頼子さんじゃない。

今の一人称は――怪盗団ファントムのアゲセーヌだ!

 

既に事務所の中へ紛れ込んでいたなんて!

 

「なんか怪しいと思ったら!あなたは頼子さんに変装したアゲセーヌ!」

 

私が指摘すると、頼子さん――いや、アゲセーヌの表情が一気に変わった。

 

「っ……!こんな形で見破られるなんてチョベリバ~!でも携帯はここにあるし、マコトジュエルはアタシが頂いていくっしょ!」

 

その言葉で、さっきまでのほのぼのとした空気が一瞬にして打ち砕かれた。

 

マコトジュエル、やっぱりそれが目的だった。

頼子さんに変装していたアゲセーヌは携帯電話を奪い取ると、逃げるように部屋を飛び出していく。

 

「な、待て!!」

 

「携帯電話が盗られた!……早くみくるたちに!」

 

一瞬呆然としていたジェット先輩も我に返り、すぐにアゲセーヌの後を追って走り出した。

 

マコトジュエルが宿っているのは、あの携帯電話そのものなのか。

それとも、携帯電話から下がっているストラップなのか。

どちらにせよアゲセーヌが持っていることに変わりはないから取り返さないと。

 

みくるたちはまだ、この騒ぎを知らない。

でもポチタンが知らせてくれるはず。

 

「ちょ…ちょっと!?急に何!?今ファントムって!?」

 

混乱したエリザさんの声が聞こえる。

 

さっきまで探偵事務所を見学していただけなのに、突然頼子さんがファントムだったと判明して、携帯電話を奪って逃げていった。

普通なら何が起きたのか理解できなくても仕方がない。

 

でも、説明している時間はない。

私は何も言わず、エリザさんの腕を掴んだ。

そして、そのまま引っ張るように部屋を飛び出す。

 

事件発生

なら、エリザさんが望んでいた探偵テストも同時に始まることになる。

 

相手は人間ですらない妖精。

それでも――数々の推理小説を書いてきたエリザさんなら、きっとこの状況も乗り越えられるはずだ。

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