自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第97話 凍土の雌伏と欺瞞の冬眠

 ロシア連邦、モスクワ。

 空を分厚く覆い尽くす鉛色の雲から、氷の刃のような細かな雪が、呪いのように絶え間なく舞い落ちている。赤の広場を一面の白に染め上げるその雪は、かつてナポレオンの帝国軍を打ち砕き、ヒトラーの野望を凍りつかせた「冬将軍」の到来を告げるものであった。歴史上、ロシアという巨大な熊を守り抜いてきた絶対的な自然の防壁。

 だが今のロシアにとって、その雪は、自らの首を絞める西側の経済制裁と、泥沼化したウクライナ戦線での敗北感、そして何より世界から完全に孤立していく国家の寒々しい現実を象徴するだけのものに成り下がっていた。

 

 クレムリン宮殿。その華麗な外観の地下深く、核戦争すら想定して構築された厚さ数メートルのコンクリートと鉛の壁に守られた深層バンカー。

 電磁波を完全に遮断し、世界で最も安全な密室であるはずのこの空間に、今、形容しがたいほどの底知れぬ疲労感と、息が詰まるような沈黙が充満していた。

 

 円卓の最奥に座る男――ウラジーミル・ボグダノフ大統領は、まるで自らが座るその椅子が突如として氷の塊に変わってしまったかのように、身じろぎ一つせずに目の前の書類を見据えていた。

 その氷のように冷たい、薄いブルーの瞳には、かつて世界を二分する大国の指導者として君臨した「ツァーリ(皇帝)」の余裕はない。

 円卓を囲むのは、ロシアの国家権力を支える最側近たちだ。ロシア連邦保安庁(FSB)長官のアレクセイ、参謀本部情報総局(GRU)長官のミハイル、そして外務大臣。彼らの顔色は一様に、死人のように青ざめていた。

 

「……これが、日本政府からの最終回答か」

 

 ボグダノフの口から漏れた声は、地の底から響くような、低く掠れたものだった。

 

「はい、大統領閣下」

 

 外務大臣が、まるで濡れた重い布を持ち上げるかのような動作で、震える手で報告書を差し出した。

 このバンカー内では、ハッキングを恐れてあらゆる電子機器の使用が禁じられている。タイプライターで打たれたアナログな書類だけが、彼らに残された唯一の「安全な」情報伝達手段だった。

 

「日本政府は、我が国が提示した『北方領土の無条件一括返還』というカードに対して、明確な対価を提示してきました。

 ……彼らは、アメリカをはじめとする西側諸国と協調し、現在我が国に科されている経済制裁の『大幅な緩和』、および国際的な金融・貿易市場へのロシアの復帰プロセスを容認すると確約してきております」

 

 外務大臣の報告を聞き、バンカー内に重苦しい沈黙が落ちた。

 北方領土四島の無条件一括返還。

 それは、ロシアという国家にとって、いや、ボグダノフ政権にとって、本来であれば絶対に切ってはならない、切るべきではない最後のカードであった。

 第二次世界大戦の結果として獲得したと主張し、国内のナショナリズムを鼓舞するための聖域。それを「無条件」で、しかも「一括」で差し出すなど、かつての指導者たちであれば、想像すらしない屈辱的妥協である。

 だが、今の彼らにはそのカードを切るしか、生き残る道は残されていなかった。

 

「……経済制裁の緩和、か」

 

 ボグダノフは、テーブルの上の書類を指先で弾いた。

 その響きは、どこか空虚だった。

 

「連中は、我々が喉から手が出るほど欲しがっているもの……あの『医療用ナノマシン』や、監視システムの技術供与については、一言も触れてきていないのだな?」

 

 ボグダノフの鋭い視線に射抜かれ、外務大臣はびくりと肩を震わせた。

 

「は、はい……。誠に遺憾ながら、何らかのテクノロジーの移転やオーバーテクノロジーに関する項目は、回答書には一切含まれておりません。

 日本側はあくまで、『領土問題の平和的解決に対する正当な評価』として、既存の国際的枠組みの中でのアメを提供する……というスタンスを崩しておりません」

 

「ふん。当然だろうな」

 

 ボグダノフは鼻で笑った。その笑みには、自嘲と、そして相手の底知れぬ冷徹さへの理解が含まれていた。

 

「日本の交渉窓口にいるという、あの日下部という官僚……。なかなかに食えない男だ。

 我々が四島を差し出したからといって、ホイホイとあの神の薬や眼を渡してくれるほど、彼らも甘くはないということだ。敵にすぐ餌をやるような甘さは、あの国にはない。我々ロシアを、未だに完全に信用していないという明確な意思表示でもある」

 

「忌々しいことですが、我々は足元を見られきっております」

 

 FSB長官のアレクセイが、苦々しげに吐き捨てた。

 

「日本は、我々が今、テクノロジーよりも先に『今日のパン』を必要としていることを正確に把握しているのです。

 ですが大統領。……正直に申し上げますと、この経済制裁の緩和という提案は、我々にとって非常にありがたいものです」

 

 アレクセイは、絞り出すように本音を口にした。

 

「長引くウクライナでの消耗戦と、西側の執拗な経済制裁によって、我が国の国内経済は崩壊の瀬戸際にあります。インフレ率は高止まりし、ルーブルの価値は紙屑同然。軍需産業への部品供給すら滞り、市民の不満は爆発寸前まで膨れ上がっている。

 ……我々がこの『経済制裁の緩和』というアメを拒否してしまえば、国家は内部から自壊します。ここは、このまま軟着陸(ソフトランディング)と行きたいところです」

 

 アレクセイの言葉は、ロシアが直面している冷酷な現実を正確に抉り出していた。

 どんなに強力な核兵器を持っていようと、どんなに広大な領土を持っていようと、国民を食わせることができなければ国家は維持できない。

 ボグダノフにとって、今最も恐れるべきはアメリカのミサイルでも日本のナノマシンでもない。飢えた自国民による暴動と、それに乗じたオリガルヒや軍部の一部によるクーデターであった。

 

「……ああ。分かっている」

 

 ボグダノフは、深く、重い溜め息を吐き出しながら、ポツリと漏らした。

 その一言に、彼の背負っている国家指導者としての重圧と、どうしようもない諦観が滲み出ていた。

 

「テクノロジーが手に入らないのは痛恨だ。我々は完全に『周回遅れ』の国家に転落してしまった。

 だが、今ここで日本とアメリカに完全に突き放され、経済制裁が継続されれば、我々は真冬の凍土の中で餓死するのを待つだけの存在に成り下がる。

 まずは経済を回復させるのが一番か……。屈辱的だが、岩礁四つと引き換えに国家の経済が息を吹き返すのであれば、それは呑まざるを得ない取引だ」

 

 皇帝の口から出た敗北宣言。

 それは、ロシアという大国が、完全に他国の情けにすがる立場に転落したことを認める瞬間でもあった。

 

「大統領閣下の仰る通りです。まずは経済を回復させ、国内の不満を抑え込むことが最優先事項かと存じます」

 

 GRU長官のミハイルが、静かに同意した。

 

「ですが、大統領。経済が回復したとして、我々が情報戦や軍事技術の面でアメリカ、日本、そして中国から圧倒的に遅れを取っているという絶望的な現実は何一つ変わりません。

 この絶望的な格差を前に、我々は今後どのような戦略を取るべきでしょうか」

 

 ミハイルの問いに、ボグダノフは眉間を揉みながら考え込んだ。

 

「……ミハイル。お前の局の見立てはどうだ?

 現在の世界情勢において、我々ロシアが影響力を行使できる余地は、まだどこかに残されているのか?」

 

「お答えします、大統領閣下」

 

 ミハイルは背筋を正し、冷徹な分析官の目つきになった。

 

「結論から申し上げますと、アメリカ、日本、そして中国の三国においては、もはやロシアの影響力がないも同然です。

 我々の工作員ネットワークは、アメリカの『大掃除』と中国の『虐殺』によって完全に根絶やしにされました。彼らの防諜網は、日本が提供した『神の眼』によって完璧に守られており、潜入することは事実上不可能です」

 

 ミハイルは、テーブルの上に広げられた世界地図を指差した。

 彼が指し示したのは、ユーラシア大陸の西側――ヨーロッパであった。

 

「ですが、世界は彼ら三国だけで構成されているわけではありません。

 どちらかと言うと、今後の我々の生命線となるのは……ヨーロッパとの関係改善ですね」

 

「ヨーロッパ、か」

 

 ボグダノフは目を細めた。

 

「はい。現在、我々がヨーロッパのNATO各国に潜伏させている工作員ネットワークは、幸いなことに無傷のまま残存しております。

 これは、日本がまだヨーロッパに対しては、あの恐るべき監視システムを(少なくとも完全な形では)提供していないという証左でもあります。

 我々は、この残されたスパイ網をフル活用して、ヨーロッパの政財界に対して影響力を行使するしかありません」

 

「影響力を行使して、どうする? ヨーロッパの技術力など、日本のアレに比べればどんぐりの背比べだろう」

 

 アレクセイが懐疑的な声を上げる。

 

「ええ。今のヨーロッパには、我々が喉から手が出るほど欲しい『ナノマシン』も『オーバーテクノロジー』もありません」

 

 ミハイルは、自信に満ちた笑みを浮かべて反論した。

 

「ですが、ヨーロッパはアメリカの同盟国であり、日本とも密接な関係を持っています。

 我々は今、最後に残るヨーロッパへの影響力を使って、徹底して『友好国のフリ』をするしかありません。

 ウクライナでの戦争を終わらせ、経済的な結びつきを回復し、ヨーロッパに対して『ロシアはもはや脅威ではない。共に経済を発展させるパートナーだ』と信じ込ませるのです」

 

「……友好国のフリ、か」

 

「はい。そうして彼らの懐に深く潜り込み、友好国の仮面を被りながらスパイ網を拡大しておく。

 ……そうして友好国のフリをしていれば、そのうちテクノロジーを貰える可能性がある……かもしれません」

 

 ミハイルの言葉に、ボグダノフの瞳が僅かに光を帯びた。

 

「……なるほど。

 直接日本やアメリカから盗めないのなら、いずれ彼らから技術を分け与えられるであろう『脇の甘いヨーロッパ』をターゲットにするというわけか」

 

「その通りです、大統領閣下」

 

 ミハイルは力強く頷いた。

 

「プライドの高い英仏独が、アメリカと日本だけが神の技術を独占している状況をいつまでも黙って受け入れるとは思えません。いずれ、ヨーロッパにも日本のテクノロジーが降りてくることがあるでしょう。

 我々は、その時におこぼれに与るという手も考えておくべきです。ヨーロッパの内部から、その技術を掠め取るのです」

 

 ボグダノフは、深く息を吸い込み、ミハイルの提案を脳内で反芻した。

 それは、かつてのソビエト連邦がアメリカの核技術をスパイを通じて盗み出した時と同じ、泥臭く、しかし最も確実なインテリジェンスの基本戦術であった。

 正面からぶつかって勝てないのなら、相手の懐に入り込み、寄生し、そして奪う。

 

「……今は地に伏す時ということだな」

 

 ボグダノフの声は、静かであったが、そこには決して消えることのない大国としての執念が宿っていた。

 

「よかろう。

 その方針で進めろ。我々は当面の間、世界の表舞台では『敗北を受け入れ、改心した大人しい国』を演じ切る。

 どんな屈辱を味わおうとも、耐え忍べ。全ては、いずれ彼らの技術を我々の手中に収めるための布石だ」

 

「はっ! 承知いたしました!」

 

 ミハイルとアレクセイが、同時に深く頭を下げた。

 

「ところで、大統領」

 

 外務大臣が、少し言い淀みながら口を開いた。

 

「今回の我々の『領土返還と経済制裁の緩和』というディールですが……。日本政府からの連絡によれば、この件に関する国際的な調整と、最終的な仕切り役は、アメリカ大統領が担当することになっているそうです」

 

「……アメリカが、仕切るだと?」

 

 ボグダノフの眉がピクリと跳ね上がった。

 

「ほう! アメリカ大統領は、まだ就任して半年も経過していないだろう?

 あのキャサリン・ヘイズとかいう女か。元連邦検事で、クリーンな政治を売り物にしていると聞くが……そんな政治経験の浅いお嬢ちゃんに、この泥にまみれた国際政治の裏取引を上手く捌ききれるのか? 大丈夫なのか?」

 

 ボグダノフの懸念はもっともであった。

 ロシアの制裁解除には、当然ながらアメリカ国内の強硬派や、ウクライナ支援を声高に叫ぶヨーロッパ諸国の反発が伴う。それを抑え込み、ロシアを再び経済の輪に組み込むという荒業は、相当な政治的手腕と「裏の力」がなければ不可能なはずだ。

 

「……それが、大丈夫なようなのです」

 

 外務大臣が、複雑な表情を浮かべながら答えた。

 

「ヘイズ新大統領は、ヨーロッパからの受けは決して悪くないのです。彼女の掲げる『法と秩序』『透明性のある外交』というスローガンは、EUの首脳陣から強い共感を得ており、彼女の発言力は就任直後から極めて高い状態にあります。

 ……清廉潔白すぎるのが傷(弱点)ではありますが、今回はそれが逆に、ヨーロッパを説得する上で良い方向に働いているようです」

 

「清廉潔白な大統領が、『平和のための現実的な妥協』として我々ロシアの復帰を訴えれば、ヨーロッパも無下には反対できないということか。

 ……なるほど、日本とアメリカの『陰の政府』どもは、そこまで計算してあの女を表舞台に立たせたというわけだな」

 

 ボグダノフは、呆れたように首を振った。

 ヘイズ大統領自身は、自分たちが操られていることにも気づかず、正義感に燃えてロシアの復帰を後押ししているのだろう。なんとも滑稽な構図だ。

 

「しかし、よくあのアメリカが、我々ロシアが国際市場に復帰することを、すんなりと認めたな」

 

 ボグダノフは、不審げに目を細めた。

 

「彼らにとって、我々が経済的に干上がっていくのを見るのは愉快なはずだ。いくら日本が領土問題の対価として制裁緩和を求めたとはいえ、アメリカがここまで素直にそれに同調し、しかも自ら仕切り役を買って出るとは……。

 何か、裏の理由があるのではないか?」

 

「……いえ、それが」

 

 ミハイルが、最新のインテリジェンス・レポートをめくりながら答えた。

 

「中東が、今かなり不穏な状況になっているようなのです。

 ……イランとイスラエルの対立がですね、かつてないほどに激化しております」

 

「イランとイスラエル、だと?」

 

「はい。イスラエルの諜報特務庁によるイランの重要施設へのサイバー攻撃疑惑を皮切りに、国境地帯での散発的な武力衝突が発生しています。両国とも臨戦態勢に入っており、いつ全面的な火柱が上がってもおかしくない状態です。

 アメリカにとって中東は、絶対に火薬庫を爆発させたくない最重要地域です。もしイランとイスラエルが全面戦争になれば、アメリカ軍は再び中東の泥沼に足を踏み入れざるを得なくなります」

 

「……なるほど、そういうことか」

 

 ボグダノフの脳内で、世界地図のピースがカチリと音を立ててはまった。

 点と点が繋がり、アメリカの意図が透けて見える。

 

「アメリカは今、中東という巨大な火種を抱えて身動きが取れなくなっているのだな。

 だからこそ、これ以上ヨーロッパ方面で我々ロシアに暴れられると、二正面作戦を強いられることになり、手が回らなくなる。

 ……今、ロシアには何としても大人しくしてもらいたいというわけだな」

 

「その通りかと存じます」

 

 外務大臣が深く頷いた。

 

「アメリカのヘイズ政権にとって、ロシアの市場復帰を認め、経済という鎖で我々を大人しくさせておくことは、彼ら自身の安全保障戦略上、極めて合理的な判断なのです」

 

「ははは……! 傑作だ」

 

 ボグダノフは、久しぶりに腹の底からの笑い声を漏らした。

 だが、その笑いには喜びよりも、国際政治というもののあまりにも冷酷で、そして滑稽な力学に対する皮肉が込められていた。

 

「日本は領土を欲しがり、我々は経済を欲しがる。そしてアメリカは、中東にかまけるために我々の静寂を欲しがった。

 それぞれの思惑が見事に合致し、この屈辱的な平和が成り立っているというわけだ。

 ……風向きは、決して悪くないな」

 

 ボグダノフは、円卓の上の書類を乱暴にまとめ、立ち上がった。

 その背中には、一時的な敗北を受け入れながらも、決して死なない大国としての執念が立ち昇っていた。

 

「今は大人しく、ヨーロッパ方面でスパイ合戦だな。

 我々は与えられた『経済的息継ぎの時間』を利用して、傷ついた国力を回復させる。

 そして、ヨーロッパに対して最大限の友好国としての顔を見せ続けるのだ」

 

 皇帝の冷たい青い瞳が、バンカーの薄暗い照明を反射してギラリと光った。

 

「耐えろ、諸君。

 いつか必ず、あのテクノロジーのおこぼれに与るその日まで。

 ……ロシアの冬は長いが、決して明けない夜はないのだからな」

 

 ボグダノフの重々しい宣言が、地下の密室に静かに響き渡る。

 北の熊は、その牙を深く隠し、凍てつく大地の下で静かに冬眠の準備に入った。

 だが、その目は決して閉じられてはいない。

 彼らはヨーロッパという新たな狩り場を見据え、次の獲物が現れるのを、ただひたすらに、執念深く待ち続けているのだった。

 




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