自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第116話 空の箱舟へようこそ

 午後一時。

 カーテンの隙間から差し込む、白茶けた太陽の光が、六畳半の散らかった部屋の床を斜めに区切っていた。

 机の上には、飲み干されてから三日は経過しているであろうエナジードリンクの空き缶が数本、無造作に転がっている。スリープ状態になって久しいデュアルモニターのPCの前で、村上恒一(むらかみ・こういち)――二十七歳、無職――は、万年床の上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、スマートフォンの画面を無心にタップし続けていた。

 ソーシャルゲームのログインボーナスを回収し、デイリーミッションを消化の手順(ルーチン)でこなす。それが終われば、動画共有サイトを開き、おすすめに流れてくるゲームの実況動画や、ショート動画をただひたすらに垂れ流す。

 

 元々はコンビニの夜勤や、倉庫の短期派遣バイトで食いつないでいたが、数ヶ月前に派遣の契約が切れてからは、完全に実家に寄生する生活に落ち着いていた。

 人付き合いが極端に嫌いというわけではない。ただ、自ら積極的に外に出て何かを成し遂げようという気力が、すっかり摩耗してしまっていたのだ。恋愛経験も、高校時代に数ヶ月付き合ったきりで、それ以降は無に等しい。

 将来に対する不安は、もちろんある。このまま三十路を迎えれば、いよいよ社会復帰のレールから完全に外れるだろうという薄ら寒い予感は、常に脳の片隅にへばりついている。だが、だからといって今すぐハローワークに駆け込むほどの切羽詰まった危機感もなく、真綿で首を絞められるような「ぬるま湯の停滞」の中に、彼はどっぷりと浸かりきっていた。

 

 ブブッ、ブブッ。

 

 不意に、スマートフォンが短い振動音を立てた。

 画面上部に表示された通知バッジを見て、恒一は怪訝そうに眉をひそめた。

 着信の相手は、親戚の『おじさん』だった。

 母親の兄にあたる人物で、霞が関のどこかの省庁——詳しい役職は知らないが、とにかく国家公務員としてお堅い仕事をしているという、恒一の親族の中では最も出世頭の男だ。普段は正月の親戚の集まりで、顔を合わせれば「恒一、仕事はどうなんだ」と小言を言ってくるため、極力関わりたくない相手であった。

 

「……なんだよ、急に。おふくろからチクリでも入ったか?」

 

 渋々通話ボタンを押すと、電話の向こうから、周囲の雑音を気にするような、ひそひそとした低い声が聞こえてきた。

 

『……あー、恒一か。今、電話大丈夫か』

 

「はあ、まあ。暇ですけど」

 

『今から、新橋まで来れるか?』

 

「新橋? いや、今起きたばっかりで……用件は何ですか?」

 

 恒一が面倒くさそうに答えると、おじさんは小さく咳払いをしてから、単刀直入に切り出してきた。

 

『お前、どうせ無職で暇だろ?』

 

 カチンときたが、事実なので反論のしようがない。

 

「……まあ、今は求職中というか、充電期間中というか……。で、何なんですか?」

 

『政府関連でな。ちょっとした「生活モニター」みたいな仕事があるんだ』

 

「生活モニター?」

 

『ああ。ある新しい居住施設のテスト運用なんだが……。詳しいことは電話じゃ言えん。だが、条件は悪くないぞ。数ヶ月単位の住み込みで、食事も住居も無料。その上で、まとまった給与も出る』

 

 恒一は、胡散臭い迷惑メールの文面でも読まされているような気分になった。

 

「何すかそれ。怪しい新興宗教の合宿とか、闇バイトの類じゃないですよね? いくら俺が暇でも、ルフィみたいな強盗団に組み込まれるのは御免ですよ」

 

『馬鹿野郎、私がそんな危ない橋を渡らせるか。れっきとした国の仕事だ。危険な人体実験でもないし、重労働もない。ただ指定された施設で「普通に暮らして、設備の使い心地をフィードバックしてほしい」というだけの案件だ』

 

 おじさんは、少し言葉を濁しながら、さらに声を潜めた。

 

『……それに、ここだけの話だが。このモニター、若い女の子も結構参加するらしいぞ。国としても、若い世代の男女の交流……まあ、一種のお見合いみたいな意味合いも少し兼ねているらしい』

 

 その一言が、恒一の淀んだ脳細胞にクリティカルヒットした。

 

「……えっ? マジで?」

 

『マジだ。お前もそろそろ、その薄暗い部屋から出て、少しはまともな生活環境に身を置いた方がいいだろう。少なくとも、今の実家の六畳半よりは、ずっとマシな場所だぞ』

 

 恒一は、スマホを耳に当てたまま、数秒間だけ悩むふりをした。

 国のお墨付き。家賃食費無料。給料が出る。そして、若い女の子との出会いがあるかもしれない、住み込みの共同生活。

 テラスハウスか何かのリアリティショーだろうか。

 

「……参加したいです。行きます」

 

『そうかそうか、話が早くて助かる。じゃあ、とりあえず枠だけ押さえておくから、簡単な手続きの準備をしておけ。数日後、また詳細な日時と場所を連絡する』

 

 電話が切れた後、恒一は万年床からガバッと跳ね起きた。

 胡散臭さはある。だが、このどうしようもない泥沼の日常から抜け出せるかもしれないという予感が、彼を突き動かしていた。

 

 ◇

 

 数日後。

 恒一が指定されて向かったのは、都内の官庁街にある、何の変哲もない無機質な中層ビルだった。

「〇〇合同庁舎・別館」というそっけない表札が掲げられたその建物の、だだっ広い地下会議室には、すでに二百人近い男女が集められていた。

 

「(……なんか、妙にちゃんとしてるな)」

 

 恒一は、パイプ椅子に座りながら周囲を観察した。

 集まっている面々の年齢層は、二十代から三十代前半が中心だ。自分と同じようなどこか所在なげな雰囲気の男――元フリーターやニートらしき層もいれば、金髪やネイルでバッチリ決めた派手な女の子もいる。

 だが、それだけではない。

 異常に姿勢が良く、シャツの上からでも分かるほど筋骨隆々な男たち――おそらく元自衛官か警察関係者——や、理系の研究者のような分厚い眼鏡をかけたインテリ風の青年、さらには訳ありげなシングルマザー風の女性まで、その属性は驚くほど多岐にわたっていた。

 

 ただ一つ共通しているのは、誰もが「身軽そう」であることだ。

 家族連れの世帯などは皆無で、全員が単身、大きなスーツケースやボストンバッグを一つだけ抱えてここにやってきている。

 

 やがて、パリッとしたダークスーツに身を包んだ、いかにもエリート官僚といった風情の担当官が演壇に立った。

 

「皆様、本日は『内閣府・次世代居住環境実証実験プロジェクト』の第一期モニターにご応募いただき、誠にありがとうございます。

 これより、皆様には最終的な手続きと、メディカルチェックを受けていただきます」

 

 配布された書類は、信じられないほどの分厚さだった。

 特に『秘密保持契約書(NDA)』の項目は異常なほど細かく、違反した場合には国家機密保護法に抵触し、懲役を含む厳罰に処される旨が赤字で記されている。

 健康チェックも、単なる身体測定ではなく、血液検査、MRI、さらには長時間の心理テストや個別面談まで行われた。

 

「(これ、本当に国のガチの仕事かも……)」

 

 恒一は、心理テストのタブレットで「閉鎖空間への適性はありますか?」「突然の環境変化にパニックを起こす傾向はありますか?」といった奇妙な設問に答えながら、徐々に背筋が冷たくなるのを感じていた。

 

 面談を終え、再び会議室に集められた参加者たちに対し、担当官が最終的なブリーフィングを行った。

 

「皆様の滞在していただく施設の所在地については、国家の安全保障上の最高機密に属するため、一切非公開となります。

 期間は、まずは初期フェーズとして『三ヶ月間』。その間、施設の外へ出ることは許可されません。

 仕事の内容は、あくまで『施設内での居住』であり、提供されるインフラや各種設備の使い心地、ならびに共同生活における心理的ストレスの推移などを、専用の端末から定期的にフィードバックしていただくことです。危険な人体実験や、過酷な労働は一切ありません。

 ただし、外部とのインターネット通信は可能ですが、投稿内容および閲覧履歴はすべて政府の検閲対象となります。位置情報を推測させるような書き込みや、施設の構造を外部に漏らす行為は、システムにより自動でブロックされ、重大な違反と見なされます」

 

 淡々と語られる条件の数々。

 安全は完全に確保されているというが、その徹底した情報統制の姿勢は、逆に得体の知れない不気味さを醸し出していた。

 

「(いや、怪しさは減ったけど、逆に本当にデカい秘密っぽくて怖いな……)」

 

 恒一はごくりと生唾を飲み込んだ。

 だが、隣に座っていた派手な女の子が「三ヶ月タダ飯で金もらえるなら余裕っしょ」と友人とヒソヒソ笑い合っているのを見て、少しだけ気が楽になった。

 怖い。だが、それ以上に「日常からの完全な切断」という未知の体験へのワクワク感が、彼の心を支配し始めていた。

 

 ◇

 

 手続きが全て完了すると、いよいよ「移送」が始まった。

 だが、それは恒一が想像していたような、大型バスに乗せられて山奥の隔離施設へと運ばれるような単純なものではなかった。

 

 彼らは十数人のグループに分けられ、地下のさらに奥にある、まるでシェルターのような分厚い金属扉の向こうへと案内された。

 

「場所は国家機密です。これより、皆様には専用のアイマスクと、ノイズキャンセリング・ヘッドホンの装着をお願いします」

 

 白衣を着た医療スタッフが、有無を言わさぬ笑顔で目隠しとヘッドホンを配って回る。

「気分が悪くなった方のために、医療スタッフが常に待機しておりますので、ご安心ください」と付け加えられたが、全く安心できない。

 

「(本当に秘密基地じゃん……)」

 

 恒一は半笑いを浮かべながら、素直にアイマスクを装着した。

 視覚と聴覚が完全に奪われる。

 スタッフの手引きで歩かされ、やがて彼は、病院のストレッチャーか、あるいは簡易的なベッドのような柔らかい寝台の上に横たわるように指示された。

 

 カチャン、と。

 シートベルトのようなもので軽く固定される。

 

 やがて、移送が始まった。

 だが、その感覚は極めて奇妙なものだった。

 車のエンジンの振動も、タイヤがアスファルトを擦る感覚もない。

 エレノアーターで地下へ降りているのか? いや、横方向への滑るような移動も感じる。

 時折、金属同士が擦れ合うような「カシュッ」という無機質な音が、ノイズキャンセリングの隙間から微かに聞こえてくる。

 

「(なんだこれ……寝台列車? いや、揺れが全くない。ヘリコプターか? でも耳がツンとするような気圧の変化もないし、ローターの振動もない……)」

 

 不意に、フワッとした微かな「浮遊感」が全身を包み込んだ。

 それは、飛行機が離陸する時の強烈なG(重力加速度)とは違う。まるで、ベッドごと魔法の絨毯に乗せられて、音もなく空へ持ち上げられたかのような、極めて滑らかで、しかし確かな上昇の感覚。

 恒一の心臓が、未知への恐怖と興奮で早鐘を打つ。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 10分なのか、1時間なのか、感覚が完全に麻痺してしまった頃。

 フッと浮遊感が消え、完全に静止した感覚が訪れた。

 

「——到着いたしました。皆様、アイマスクとヘッドホンをお外しください」

 

 柔らかい女性のアナウンスの声が響いた。

 恒一は急いでアイマスクを引き剥がした。

 暗闇から一転、眩いばかりの純白の光が目に飛び込んでくる。

 

「うおっ……」

 

 思わず目を細め、そして周囲を見渡した瞬間、彼は息を呑んだ。

 

 そこは、二百人の参加者が全員余裕で収容できるほどの、とてつもなく広大で、そして異常なほどに洗練された空間だった。

 天井は高く、柔らかな間接照明が空間全体を均一に照らしている。床には足音を吸収する最高級のカーペットが敷き詰められ、壁面には観葉植物やモダンなアート作品が品良く飾られていた。

 病院や軍事施設のような無機質さは微塵もない。

 それはまるで、出来たばかりの超高級外資系ホテルのロビーか、あるいは最先端のIT企業のメインエントランスを思わせるような、圧倒的な「ラグジュアリー」の空間であった。

 

「……皆様、長旅お疲れ様でした」

 

 大理石のカウンターの前に立つ、コンシェルジュのような制服を着たスタッフが、優雅に一礼した。

 

「ここは、政府が極秘に借り上げている、特別居住実験施設です。

 皆様には、これより三ヶ月間、この施設における『最初の住民』として、新たな生活を送っていただきます」

 

 恒一は、周囲の参加者たちと顔を見合わせた。

 誰もが、「借り上げているって……一体どこをどう借りたらこんな空間になるんだ?」という困惑の表情を浮かべている。

 

 その後、各自のIDカードが入ったスマート端末が配られ、番号順に個室へと案内された。

 

 恒一が自分の部屋のドアを電子キーで開けた瞬間、彼は再び「うおっ」と声を出してしまった。

 広さは1LDKほどだが、その設備は彼の実家の六畳半とは文字通り次元が違った。

 シモンズ製と思われる巨大なふかふかのベッド。大理石張りの清潔なシャワー室。壁掛けの八十インチはありそうな超大型スマートモニター。

 個人用の広いデスクには最新のPC環境が整えられており、ミニ冷蔵庫を開ければ、高級ミネラルウォーターからエナジードリンクまでがビッシリと補充されている。

 空調は完璧に効いており、防音性も極めて高く、隣の部屋の物音ひとつ聞こえない。

 

「え、なにこれ……。ホテルのスイートより綺麗じゃん……」

 

 恒一は、靴を脱ぐのも忘れて部屋の中を歩き回った。

 これで家賃も光熱費もタダ。おまけに給料まで出るというのだ。

 

「ていうか、これで金も出るの? バグでしょこれ」

 

 彼は早速、ベッドにダイブし、支給されたスマート端末を開いた。

 内蔵されているWi-Fiに接続して速度テストを行ってみる。

 ……信じられないことに、下りも上りも「30Gbps」という、地球上の一般回線ではあり得ない異常な数値を叩き出した。どんなネトゲもラグなしでプレイできる神環境だ。

 

 だが、ブラウザを開いた瞬間、画面に赤い警告文がポップアップした。

 

『当施設内のネットワーク通信は、国家安全保障上の理由により、すべてのパケットがAIによる自動検閲・フィルタリングの対象となります。

 施設の位置情報の推測、内部構造の撮影・送信、および機密に触れる可能性のあるワードの投稿は、システムにより強制的に遮断されます。

 ルールを遵守し、快適なインターネット・ライフをお楽しみください』

 

「あ、やっぱそこは怖いんだ……」

 

 恒一は少しだけ背筋を寒くしたが、すぐに「まあ、機密施設なんだから当たり前か」と割り切った。

 これだけ快適な部屋が与えられているのだ。ネットの書き込みに少し制限がかかるくらい、どうということはない。

 

 ◇

 

 荷解きを終え、恒一は部屋を出て、施設の共用エリアを探索することにした。

 これが、この「仕事」の醍醐味である。

 

 廊下を歩いていくと、驚くべき設備の数々が次々と姿を現した。

 最新のフィットネスマシンが並ぶガラス張りのジム。

 本格的なエスプレッソマシンが置かれ、焼きたてのパンの匂いが漂うカフェスペース。

 卓球台、ビリヤード、壁一面にボードゲームが並べられたレクリエーションルーム。

 さらには、数人がゆったり座れるリクライニングシートを備えたミニシアターまで完備されている。

 

「すげえ……。クルーズ船の旅行みたいだな」

 

 恒一がカフェスペースで、無料のカフェラテを紙コップに注いでいると、不意に横から声をかけられた。

 

「あ、あなたも生活モニター組?」

 

 振り返ると、そこにいたのは、少し派手なメイクと茶色い巻き髪が印象的な、同年代くらいの女性だった。

 体にフィットしたニットのトップスにデニムというラフな格好だが、愛嬌のある明るい笑顔が、この無機質な施設の空気をパッと華やかにしている。

 

「あ、はい。村上です。さっき着いたばっかりで」

 

 恒一は、少しドギマギしながら答えた。

 おじさんの言っていた「若い女の子もいる」という情報は、どうやら本当だったようだ。

 

「私は早川 澪(はやかわ・みお)。よろしくね、村上くん」

 

 澪は気さくに手を差し出してきた。恒一は慌ててその手を握り返す。

 

「ここ、すごいよねー。私、アパレルの派遣切られちゃって、ネットで変な高額バイトの募集見つけて応募したんだけどさ。まさかこんな超高級リゾートみたいな所だとは思わなかったよ」

 

「俺もですよ。なんか、国の偉い人のコネでねじ込んでもらったんですけど。……でも、こんなに待遇良すぎて、逆に裏がないか不安になりません?」

 

「あはは、分かる! でもまあ、ご飯も美味しいし、部屋も綺麗だし、今のところは最高じゃない? 毒ガスとか撒かれたら一巻の終わりだけどね!」

 

 澪はケラケラと笑いながら、カフェラテを啜った。

 彼女のような明るく適応力の高い人間がいるだけで、この共同生活の閉塞感は劇的に和らぐ。

 

 二人はカフェのテーブルに座り、周囲の参加者たちを観察しながら言葉を交わした。

 やはり、若い独身者が多い。

 夫婦で参加しているようなペアも数組見かけるが、子供連れの家族は皆無だ。

 身軽で、社会的なしがらみが少なく、新しい環境への適応力が高い層。そして、有事の際に「自力で動ける」層。

 それが、この施設の「初期住人」として意図的に選別(スクリーニング)されていることは、恒一のような鈍感な若者にも、なんとなく察せられた。

 

「(これ、独身寮の超絶アップグレード版みたいだな……)」

 

 恒一は、目の前で笑う澪の顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 悪くない。いや、むしろ今までの人生で最高の「当たり」クジを引いたのかもしれない。

 

 ◇

 

 だが、その「最高の日常」の中に、微かな、しかし確実に蓄積していく『違和感』が存在することに、恒一は徐々に気付き始めていた。

 

 まず、この施設には「窓」が少ない。

 窓がなく、巨大なディスプレイが外の景色(と思われる高画質な映像)を映し出しているだけだ。

 共用エリアの廊下の突き当たりなどに、時折、曇りガラスのようなスモークがかった大きな窓が設置されているが、外の景色は妙に単調だった。

 

 青い空と、白い雲。

 そればかりで、地面やビル群、山の稜線といった「地上の風景」が全く見えないのだ。

 

 そして、揺れが全くないこと。

 これほど巨大な施設であれば、外を走る大型トラックの振動や、地下鉄の通過音などが微かにでも伝わってくるのが普通だ。だが、ここは不気味なほどに静かで、一切の物理的な振動が存在しない。

 まるで、空間そのものから切り離されているかのような、絶対的な静寂。

 

 空調も完璧すぎる。気温は常に二十四度に保たれ、湿度は五十パーセント。風の気配すら感じない。

 さらに、カフェの豊富な食材や、部屋に補充されるアメニティの数々。これだけの物資が、一体「どこから」運び込まれてきているのか、搬入口らしきものも、トラックの出入りする気配も全くないのだ。

 

「……なんか、おかしくないか?」

 

 夕刻。

 施設内で最も巨大な空間である『大食堂』へと集められた参加者たちの間でも、その違和感は静かに共有され始めていた。

 

 大食堂のビュッフェは、高級ホテルのディナー顔負けの豪華さだった。

 シェフが切り分けるプライムリブのローストビーフ、新鮮な大トロやウニが並ぶ寿司カウンター、色とりどりのオーガニックサラダバー。

 参加者たちは、そのあまりの待遇の良さにテンションを爆発させ、ビールやワインのグラスを傾けながら、すっかり打ち解けて宴会のような騒ぎになっていた。

 

 恒一も澪と同じテーブルに座り、ローストビーフを頬張りながら談笑していた。

「ここ意外と勝ち組生活では?」「ていうか、このお肉どこから仕入れてるんだろうね?」

 そんな他愛もない会話を交わしていた、その時。

 

「おい……! ちょっと、これ見ろよ!!」

 

 大食堂の奥、壁一面を覆っていた分厚い遮光カーテンの隙間から外を覗き込もうとしていた一人の男が、突然、悲鳴のような大声を上げた。

 

 そのただならぬ声に、食堂の喧騒がピタリと止まる。

 何事かと、参加者たちが一斉にその男の下へと群がった。

 恒一と澪も、皿を置いて窓際へと急いだ。

 

「はぁぁぁあ!? どこだよここ!!」

 

 カーテンを全開にした男が、窓に張り付いて絶叫した。

 恒一は、その男の肩越しに、窓の向こう側に広がる景色を見た。

 

 そして、自分の脳が処理能力の限界を超え、数秒間完全にフリーズするのを感じた。

 

 窓の向こうには、東京の夜景も、山のシルエットもなかった。

 眼下に見えるのは、果てしなく続く『雲の海』だった。

 夕日に照らされて黄金色に輝く、広大な積乱雲の絨毯。

 

 高層ビルの最上階からの景色ではない。

 飛行機の小さな窓から見下ろす景色とも違う。

 まるで、巨大なスタジアムごと、空高くに放り出されたかのような、圧倒的なパノラマビューだった。

 

「なあ……。これ、地上じゃなくね?」

 

 隣にいた元自衛官らしき大柄な男が、震える声で呟いた。

 

「どう見ても、高度一万メートル以上はあるぞ……。俺たち、飛行機の中にいるのか?」

 

「いやいやいや、飛行機ってこんな天井高くて、プールやジムまであるわけないだろ!」

 

 パニックが伝染していく。

 すると、眼鏡をかけたインテリ風の青年が、顔面を蒼白にさせながら、ネットのオカルト掲示板で読んだ知識を絞り出すように囁いた。

 

「……政府が裏で建造してるって噂の、秘密の超大型飛行船らしいぜ。

 あるいは、空中空母とか……」

 

「いやいやいやいや、飛行船ってそんなレベルの広さじゃねえだろこれ……!

 壁の向こうまで何百メートルあると思ってんだよ!」

 

 恒一は、全力でその説を否定した。

 だが、窓の外の景色は、彼らが「空の上にいる」という物理的現実を冷酷に突きつけている。

 

 隣に立つ澪も、完全に顔から血の気を失い、恒一の腕をガッチリと掴んで硬直していた。

 

「ね、ねえ、村上くん……。私たち、どこに連れてこられたの……?」

 

 参加者たちが騒然とし、窓を叩いたり、スマホのGPSを必死に確認したり(当然、圏外かエラー表示だ)して大混乱に陥る中。

 恒一は、ある「異様さ」に気がついた。

 

 大食堂の隅に立つ、制服姿のスタッフたち。

 彼らは、パニックに陥る二百人の参加者たちを止めることも、カーテンを閉め直すこともせず、ただ静かに、そしてどこか「観察するような」冷ややかな微笑みを浮かべたまま、こちらを見つめていたのだ。

 

 まるで、ケージの中のモルモットに初めて「外の景色」を見せた時の反応を、記録して楽しんでいるかのように。

 

「(……これが逆に怖い。

 隠す気がない。見られても問題ない、いや、むしろ『見せること』自体が、この実験の目的なのか……?)」

 

 恒一は、背筋に強烈な悪寒が走るのを感じた。

 

 ◇

 

「――皆様、落ち着いてください」

 

 食堂のスピーカーから、マイクを通した落ち着いた男性の声が響いた。

 最初に入所ブリーフィングを行った、あのエリート官僚風の担当官だ。

 彼は食堂の前方のバルコニーのような場所に立ち、マイクを握りながら、パニックに陥る参加者たちを見下ろしていた。

 

「騒ぐ必要はありません。皆様の安全は、完全に、そして絶対的に保証されております」

 

「安全だと!? ここはどこだ!! なんで空の上にいるんだよ!!」

 

 男の一人が怒鳴り声を上げる。

 

「現在地、およびこの施設の高度、構造に関する詳細は、重ねて申し上げますが『国家最高機密』です。お答えすることはできません」

 

 担当官は、一切の動揺を見せずにピシャリと撥ね付けた。

 

「ですが、皆様の推測の通り、ここは地上ではありません。

 皆様は現在、日本政府が極秘裏に運用する、ある『戦略的居住プラットフォーム』の内部にいらっしゃいます。

 ……皆様は、今後の我が国の国家的プロジェクト――新たな居住空間の確保と、有事の際の国家存続計画――のための、『初期生活モニター』として選抜された、栄えある第一陣なのです」

 

 担当官の言葉は、彼らが「飛行船」や「空中基地」の中にいるという事実を、否定しなかった。

 肯定もしないが、否定もしない。

 そのグレーな言い回しが、逆に「俺たちは本当に空飛ぶ化け物の中にいるんだ」という強烈な現実感を、参加者たちの脳髄に叩き込んだ。

 

「我々が皆様に求めるのは、この特殊な環境下において、いかに平常心を保ち、文化的な生活を送り、そしてこの空間に『順応』できるか、というデータの収集です。

 ……窓の外の景色には驚かれたでしょうが、どうか、この非日常を『新しい日常』として受け入れ、これまで通り、食事を楽しみ、交流を深め、リラックスしてお過ごしください。

 ……本日の夕食のローストビーフは、特上の和牛を使用しております。冷めないうちにお召し上がりを」

 

 担当官は優雅に一礼すると、バルコニーから姿を消した。

 

 大食堂には、沈黙だけが残された。

 窓の外には、黄金色の雲海がゆっくりと沈みゆく太陽に照らされている。

 

「……え、俺いま、国の秘密そのものの中に住まされてんの?」

 

 恒一は、ぽつりと呟いた。

 恐怖。

 理解不能なテクノロジーに対する畏怖。

 だが、彼の胸の奥底で、それらのネガティブな感情を塗り潰すように、ドス黒く、そして強烈な『高揚感』が湧き上がり始めているのを、彼は否定できなかった。

 

 ◇

 

 その日の夜。

 自室のベッドに寝転がった恒一は、支給されたスマート端末を開き、恐る恐るSNSの投稿画面を開いた。

 

「なんかすごい所に来た。飯もうまいし最高」

 と入力して送信ボタンを押す。

 ……投稿は、問題なくタイムラインに反映された。

 

 次に、少し指を震わせながら、こう打ち込んでみた。

「今、空飛んでる基地の中にいるんだけどwww」

 

 送信ボタンを押した瞬間。

 画面が真っ赤に反転し、けたたましい警告音が鳴った。

 

『エラー:入力されたテキストに、保安プロトコル違反に該当する機密情報(位置・構造推測)が含まれています。当該投稿は強制削除されました。これ以上の違反行為は、ペナルティの対象となります』

 

「……うわっ」

 

 恒一は思わず端末を放り投げそうになった。

 マジだ。

 リアルタイムで、AIが文脈まで読んで完璧に検閲している。

 自分の行動が、国家の巨大なシステムに完全に監視され、コントロールされているという生々しい実感。

 

「マジでやべえ所じゃん……!」

 

 恒一は、恐怖で鳥肌を立てながらも、同時に口元がにやけるのを抑えられなかった。

 自分が、この世界の裏側に存在する、絶対的な秘密の領域に足を踏み入れているという特権意識。

 

 端末の通知が鳴り、参加者たちだけで構成された匿名のローカルチャットルームが開かれた。

 そこでは、今日の「窓」の衝撃冷めやらぬ住人たちが、興奮と不安を入り交じらせながら、激しい情報交換(探り合い)を行っていた。

 

『おい、ここ絶対に空母とかじゃないぞ。広さが異常だ』

『壁の向こう側、まだ何キロも続いてる気がする。どんだけデカいんだよこの施設』

『ていうか、あれだけデカい窓があるのに、エンジンの音一つしないのが怖すぎる。どうやって浮いてるんだ?』

『政府はUFOでも鹵獲して改造したのか?』

『飯うますぎワロタ。明日のお寿司も楽しみ』

『女の子と仲良くなれるってマジ? さっきカフェで可愛い子いたんだけど』

 

 不安よりも、非日常への好奇心と、この異常な空間でのエンジョイを優先しようとする書き込みが、次々と流れていく。

 適応力の高い若者たちを集めたという政府の選別は、見事に機能しているようだった。

 

 ピロン。

 個別のメッセージ通知が届く。

 送り主は、今日カフェで話した早川澪だった。

 

『ねえ、村上くん。生きてる?笑』

『明日さ、もし良かったら、一緒にこの施設の「行けるところの限界」まで探検してみない?

 なんか、このまま部屋で震えてるのも勿体ないし!』

 

 そのメッセージを見た瞬間、恒一の心臓がドクンと大きく跳ねた。

 

「……行く。絶対に行く」

 

 恒一は、即座に『行く!明日カフェ集合で!』と返信を打ち込んだ。

 

 ベッドは、実家の万年床とは比べ物にならないほどふかふかで、シーツからは高級なリネンの香りがした。

 空調は完璧で、暑くもなく寒くもない。

 だが、恒一は全く眠れそうになかった。

 

 政府の極秘案件。

 空飛ぶ秘密基地。

 可愛い女の子からのデート(探検)の誘い。

 豪華な食事。

 そして、自分が「国家存続計画」の最初の住人であるという、SF映画の主人公のようなシチュエーション。

 

「俺、とんでもない所に来ちまったな……」

 

 恒一はベッドから起き上がり、部屋の奥にある小さな窓のカーテンをシャッと開けた。

 眼下には、やはり地面はない。

 ただ、夜の闇に沈む雲海と、その彼方に微かに見える、星なのか地上の街の灯りなのか分からない、曖昧な光の粒が点滅しているだけだ。

 

 何者でもなかった自分。

 社会の歯車にすらなれず、六畳半の部屋でスマホの画面だけを眺めて腐っていくはずだった人生。

 それが今、この圧倒的な高度で、国家の最高機密の心臓部で、全く新しい日々を迎えようとしている。

 

「……でも」

 

 恒一は、雲海の彼方で光る星を見つめながら、ニヤリと笑って呟いた。

 

「ちょっとだけ……俺の人生が、やっと始まった気もするわ」

 

 空飛ぶ箱舟『ヤタガラス』の内部で、最初の住人たちは、恐怖よりも強い好奇心と高揚感に包まれながら、異常な非日常を自らの「新しい日常」として飲み込み始めていた。

 国家の思惑と、一人の天才の気まぐれが作り出した巨大な檻の中で、彼らの奇妙で、そして少しだけ希望に満ちた新生活が、今まさに幕を開けたのである。

 

 




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