自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第137話 地球の檻が開く日

 テラ・ノヴァの最深部に位置する中枢観測室は、その日、いつにも増して静謐な空気に包まれていた。

 

 壁一面、優に数十メートルはあろうかという曲面型の巨大スクリーンには、見慣れた青き星——地球の姿が映し出されている。

 だが、今日の主役はその青い惑星そのものではなかった。

 

 スクリーン上には、地球の低軌道、そこから月へ向かう遷移軌道、さらにはその先の深宇宙へと伸びる幾筋もの予測ラインが、極めて精緻な光の糸となって重なり合って描かれている。

 

 画面の右下には、地球側の公式ネットワークから取得した中継映像がウィンドウとして表示されていた。

 それはアメリカの秘密打ち上げ施設の管制室を映したものであり、数多くの技術者や軍関係者が固唾を飲んでモニターを見つめている様子が確認できる。

 

 しかし、テラ・ノヴァの観測室に映し出されている情報の質と量は、地球の管制室のそれとは根本的に次元が違っていた。

 

 実証試験機の3Dモデルがスクリーン中央に浮かび上がり、その周囲にはリアルタイムのテレメトリーデータが滝のように流れ落ちている。

 地球側が必死にレーダーや地上局で追跡している機体の状態を、テラ・ノヴァのシステムはまるでロケットを直接手の中で転がしているかのように、完璧な精度で把握していた。

 

 新型推進剤の燃焼室圧力、分子結合の解放に伴うエネルギー変換効率。

 

 慣性ダンパーが形成する人工重力場の位相の安定度と、干渉波のゆらぎ。

 

 外殻装甲にかかる熱分布と、フレームの微細な内部応力。

 

 さらには、無人試験機の内部に設置されたダミーペイロードや各種センサーの温度変化に至るまで、ありとあらゆる数値がテラ・ノヴァの観測網によって丸裸にされていた。

 

 地球側が必死に集めているデータの、さらに数歩先、数段深いレイヤーの真実が、ここには全て表示されていた。

 

 その巨大なスクリーンの前で、工藤は腕を組み、じっと画面を見上げていた。

 

 普段なら、何らかの作業端末に向かってキーボードを叩き続けているか、ホログラムの設計図を弄り回している彼が、今日は全く手元を動かしていない。

 ただ純粋に、これから起きようとしている出来事の推移を、その両目に焼き付けようとしているかのように、静かに立っていた。

 

 そこへ、静音設計の自動ドアが滑らかに開き、日下部が入室してきた。

 

 手にはタブレットを持ち、いつものように仕立ての良いスーツを隙なく着こなしている彼だが、スクリーンを見上げる工藤の背中を見て、わずかに歩みを止めた。

 

「……珍しいですね。工藤さんでも、他人の実験が気になりますか?」

 

 日下部がそう声をかけると、工藤はゆっくりと振り返った。

 その表情には、いつもの飄々とした余裕の中に、ほんの少しだけ真剣な色が混じっているように見えた。

 

「何がです?」

 

「いつもなら、自分が渡した技術が地球側のどこでどう使われようと、『まあ、いいようにやってくれるでしょう』くらいで済ませて、ご自身の作業に戻られるじゃないですか。

 わざわざこうして、打ち上げの瞬間を見守るなんて、明日の雪でも降りそうな事態かと」

 

 日下部の少し皮肉めいた言葉に、工藤は短く苦笑を漏らした。

 

「えー、俺だって、自分が渡した技術がちゃんと伝わったかどうかくらいは気になりますよ?」

 

 その言葉は、日下部にとって意外な響きを持っていた。

 

 工藤という人間は、技術の提供者としては途方もなく気前が良いが、その運用や結果に対する執着は驚くほど薄い。

 世界中のパワーバランスがひっくり返るようなオーパーツをポンと渡しておきながら、その後の混乱には一切頓着しないのが常だった。

 

 しかし今の工藤の横顔には、自分の手を離れた技術がどう育つのかを見届ける、技術者としての最低限の責任感のようなものが垣間見えた。

 

 日下部は工藤の隣に並び立ち、同じようにスクリーンを見上げた。

 

「てっきり、『まあ動くでしょ』くらいで済ませて、テラ・ノヴァの新しいプラント設計でもしているのかと思いましたよ」

 

「いやいや、そこまで無責任じゃないですよ。流石にね」

 

 工藤はスクリーン上の、アメリカの管制室の映像に視線を向けた。

 

「向こうの技術者さんたち、俺が渡した基礎理論の資料、ちゃんと隅々まで読んでくれましたしね。

 それに、あの技術はどこを勘違いしやすいかも分かってるんで、最初の軌道実験くらいは見届けておこうかな、と」

 

「勘違いしやすいところ、ですか」

 

「ええ」

 

 工藤は頷いた。

 

「推進剤のデータだけ見て、『とにかく馬鹿みたいに速いロケットが作れるぞ!』って推進力にばかり目が行くと、非常に危ないんですよ。

 あれは単なる加速装置じゃない。慣性ダンパーっていう、極限の加速度から船体と乗員を守るシステムとセットになって、初めて安全に使える技術なんです。

 片方だけ突出させれば、ただの巨大な自爆装置にしかなりませんからね」

 

 日下部は、その懸念にはすでに答えが出ていることを知っていた。

 

「その点については、アメリカ側も十分に理解していたようです。

 少なくともNASAの幹部や、現場の宇宙屋たちは、慣性ダンパーの重要性を即座に見抜いていました。

 彼らの報告書を見る限り、技術の真の価値を取り違えてはいませんよ」

 

 工藤は、スクリーンの隅に表示されている、試験機の内部構造の透視図に目を細めた。

 そこには、慣性ダンパーの発生装置が船体の重心を囲むように配置されているのが見える。

 

「……なら、大丈夫そうですね」

 

 その声には、微かな安堵が含まれていた。

 工藤は珍しく、地球側の技術者たち——未知の技術を手探りで解読し、わずか一ヶ月で実証機まで組み上げたアメリカの宇宙開発チームを、確かな敬意を持って信用しているようだった。

 

 スクリーンの公式中継映像では、いよいよ打ち上げの最終段階が近づいていた。

 

 アメリカの秘密打ち上げ施設。

 そこは広大な塩湖の跡地か、周囲何十キロにもわたって一切の立ち入りが禁じられた絶対的な安全地帯だ。

 発射台の中央には、既存の大型ロケットの胴体を流用しつつも、心臓部であるスラスター部分を完全に換装された無人試験機が鎮座している。

 

 公式なプロジェクト名は「日米共同次世代宇宙輸送実証試験」。

 

 しかし、その詳細なスペックは西側の極一部の首脳陣にしか共有されておらず、中継のアクセス権も厳重に制限されている。

 世界各国の諜報機関が血眼になってこの映像をハッキングしようとしているだろうが、テラ・ノヴァの暗号化プロトコルを経由している以上、外部からの侵入は物理的に不可能だった。

 

 機体には、新型推進剤と専用の酸化剤が満載され、簡易版の慣性ダンパーが組み込まれている。

 乗員はゼロ。

 代わりに、極限の加速度と重力場を計測するための無数の高感度センサーと、人間のダミー人形がペイロードとして搭載されていた。

 

 管制室では、NASAのロゴが入ったポロシャツを着た職員や、宇宙軍の制服組、そして民間宇宙企業「スペースX」のエンジニアたちが、食い入るようにモニターを睨みつけている。

 

 彼らの表情には、恐怖と期待が入り混じった極度の緊張が張り付いていた。

 

 工藤は、地球側の管制室の映像をちらりと見て、感心したようにぼそっと呟いた。

 

「専用スラスター、ちゃんと今日までに間に合わせましたね。

 既存の部品を流用しているとはいえ、あの一ヶ月でここまで形にするのは、普通に凄いですよ」

 

 日下部は、工藤のその言葉に少しだけ眉を動かした。

 

「工藤さんから見ても、彼らの仕事は凄いですか?」

 

「もちろんですよ」

 

 工藤は事も無げに言った。

 

「俺が渡したのは、あくまで技術書と、推進剤の合成レシピ、そしてダンパーの基礎理論だけです。

 完成品を渡したわけじゃない。

 

 それを読み解き、地球の現在の工業力と素材で代替できる部分を探し出し、実際に飛ばせるロケットとして短期間で組み上げるのは、技術を生み出すのとはまた別の、極めて優秀なエンジニアリングの才能です。

 彼らは本当に優秀ですよ」

 

 日下部は、工藤が地球側の努力をここまで素直に評価するのを珍しく感じた。

 

 彼にとって地球の技術レベルは、遥か後方にある「過去の遺物」に近い。

 だが、その過去の道具を使いこなし、必死に未来へ手を伸ばそうとする姿勢に対しては、工藤なりの共感があるようだった。

 

 スクリーンから、地球側の管制官の緊張した音声が流れ始めた。

 

『T-minus ten, nine, eight...』

 

 いよいよ、カウントダウンが最終フェーズに入った。

 

 テラ・ノヴァ側の巨大スクリーンにも、地球側のカウントダウンと完全に同期した巨大な数字が、秒を刻み始める。

 

 日下部は、腕を静かに組み直した。

 

「これで、地球側の宇宙開発が本格的に進むことになりますね」

 

「かなり進むと思いますよ」

 

 工藤は、スクリーンから目を離さずに答えた。

 

「推進剤の現地補給が可能になり、移動時間が劇的に短縮される。

 まず間違いなく、月面基地の本格的な建設が始まります。

 次に火星の有人探査と初期コロニーの構築。

 そこから、小惑星帯での資源採掘へと一気に広がっていくでしょうね」

 

「ずいぶん簡単に言いますね」

 

 日下部は、その途方もないロードマップに軽くため息をついた。

 

「輸送という最大のボトルネックが解決すると、開発って嘘みたいに一気に現実になるんですよ。

 大航海時代に帆船が進化して、海を渡るコストが下がった時と同じです。

 行く手段さえ確保できれば、人間はどこへでも行きますから」

 

『...three, two, one, ignition(点火)』

 

 その瞬間、スクリーンの映像の中で、圧倒的な閃光が弾けた。

 

 既存の化学ロケットが吹き出すような、オレンジ色の猛烈な炎や黒煙ではない。

 それは、雷を極限まで凝縮したような、白青く輝くプラズマの噴流だった。

 

 音は中継越しにしか聞こえないが、発射台の強固なコンクリートが振動でひび割れていくのが映像からも見て取れた。

 機体は、まるで重力という概念を忘れたかのように、静かに、そして恐ろしいほどの速度で空へと持ち上がっていく。

 

 テラ・ノヴァ側のスクリーンには、機体の詳細なパラメーターが次々と緑色で表示されていく。

 

『推進剤反応:正常・安定』

『燃焼室圧力:規定値内』

『慣性ダンパー:フェーズ1起動、場は安定』

 

 工藤は、その流れるデータを一瞥し、小さく頷いた。

 

「点火は成功ですね。燃焼も非常に綺麗だ。不純物の混入もない」

 

 日下部は、何も言わずにその上昇を見守っていた。

 

 政治家として、この技術がもたらす地政学的な激変や、今後の国際社会のパワーバランスの崩壊に頭を悩ませてはいる。

 だが、一人の人間として、人類がこれまでの限界をいとも簡単に突破していくその光景には、理屈抜きで心を揺さぶられるものがあった。

 

 ロケットは、瞬く間に大気圏の上層へと突き進んでいく。

 

 通常のロケットの打ち上げ映像で見るような、空気抵抗と重力に必死に抗いながら、少しずつ速度を上げていくような重苦しさがない。

 

 その加速曲線は、異常なほど滑らかだった。

 燃焼が完璧に安定し、推力の立ち上がりがロスなく機体に伝わっている証拠だ。

 

 テラ・ノヴァ側のスクリーンには、機体の現在の速度がリアルタイムで更新され続けている。

 

『7.9km/s突破』——第一宇宙速度。地球を回る軌道に乗るための速度。あっさりと通過した。

 

『11.2km/s突破』——第二宇宙速度。地球の重力圏を振り切る速度。通常なら多段式ロケットの最終段でようやく到達する数字だが、試験機はまだ一段目のエンジンのまま、軽々とそれを超えていく。

 

 さらに数字は跳ね上がる。

 

『20km/s』

『30km/s』

『50km/s』

 

 地球側の管制室の映像では、もはや歓声すら上がっていなかった。

 あまりの非常識な速度の乗りに、技術者たちが皆、口を開けたままモニターに釘付けになっている。

 

 テラ・ノヴァの観測室でも、日下部が思わず息を呑む音が響いた。

 

「……本当に、ここまで行くんですね」

 

「ええ。でも、今回はかなり安全マージンを取った設定にしているみたいです」

 

 工藤は、推力グラフの曲線を見ながら冷静に分析した。

 

「初回から理論値の150km/sまでフルスロットルで出すのは、流石に危険だと判断したんでしょう。

 賢明な判断です。

 今回はせいぜい、この50km/sから70km/sのあたりで巡航状態に入るんじゃないですかね」

 

「それを聞いて、少しだけ安心しましたよ」

 

 日下部は、ネクタイを少し緩めた。

 

「初回で150km/sなど出されては、私の胃が持ちません」

 

「でも、今回のデータをもとに専用設計を煮詰めて、宇宙空間での追加燃焼を重ねれば、最終的には確実に150km/sまで行けますよ。

 理論上は全く問題ありませんから」

 

「安心を返してください」

 

 日下部の即座のツッコミに、工藤は悪びれもせずに軽く肩をすくめた。

 

 加速が続く中、工藤の視線は機体内部の「慣性ダンパー」の稼働状況を示すウィンドウに注がれていた。

 

 通常、これほどの猛烈な加速を行えば、機体内部には尋常ではないG(重力加速度)がかかる。

 もし人間が乗っていれば、血液が偏り、内臓が潰れ、ブラックアウトどころか物理的に肉体が崩壊するレベルの負荷だ。

 機体のフレーム自体も、自らの推力による応力に耐えきれずに歪み、空中分解してもおかしくない。

 

 しかし、テラ・ノヴァ側のセンサーは、全く異なる現実を示していた。

 

『外部加速度:高(異常値)』

『内部加速度:大幅低減(規定値内)』

『船体応力:許容範囲内で推移』

 

 慣性ダンパーが形成する人工重力場が、外部からの猛烈な加速Gを相殺し、機体内部の空間をまるで「地上に静止しているかのような」状態に保っているのだ。

 

「あ、ここ、調整上手いですね」

 

 工藤が、感心したように声を上げた。

 

「人工重力場の位相合わせ。

 推力の変動に合わせて、ダンパーの出力波形をミリ秒単位で見事に同調させている。

 ズレがないから、内部のダミーペイロードにはほとんど不快なGがかかってないはずです」

 

「私には専門的なことはよく分かりませんが……」

 

 日下部は、工藤の言葉のニュアンスを汲み取って言った。

 

「褒めているんですね?」

 

「褒めてますよ。

 最初の実装で、限られたセンサー情報だけでここまで綺麗に位相を合わせられるなら、かなり優秀なアルゴリズムを組んだ証拠です」

 

 工藤は満足そうに頷いた。

 

「これなら、近いうちに有人の実証機を飛ばしても全く問題ないでしょう」

 

「アメリカの技術者たちが今の言葉を聞いたら、嬉し泣きしながらさらに徹夜しそうですね」

 

「伝えます?」

 

「やめてください」

 

 日下部は即答した。

 

「向こうがこれ以上燃え上がったら、我々がコントロールできる範疇を超えます」

 

 やがて、スクリーン上の実証機は予定された軌道へと到達した。

 

 大気圏を完全に脱出し、宇宙空間での追加燃焼(マニューバ)に移行する。

 従来であれば、地球周回軌道から月への遷移軌道に乗るためには、緻密なタイミング計算と長時間の燃焼が必要だった。

 

 だが、試験機は圧倒的な推力に物を言わせ、ほとんど力技のような直線的なベクトルで、一気に深宇宙への遷移軌道へと入り込んだ。

 

 地球側の管制室の映像が、一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた。

 

 ヘッドセットを投げ捨てて抱き合うエンジニアたち。

 顔を覆って泣き崩れる者。

 

 NASA長官と、スペースXのCEOらしき男が、固い握手を交わし、肩を叩き合っている。

 彼らの顔は、人類が新たな歴史の扉をこじ開けたという、純粋で圧倒的な歓喜に満ちていた。

 

 テラ・ノヴァ側の観測室では、その狂騒を遠い世界のことのように映し出しながら、静けさが保たれていた。

 

 日下部は、小さく息を吐き出し、胸の内で絡まっていた緊張の糸を解いた。

 

「……成功、ですね」

 

「成功ですね」

 

 工藤も、淡々とした声で応じた。

 

「推進剤の効率も、ダンパーの安定性も申し分ない。

 これで地球側の人たちも、本格的に宇宙の奥深くへ行けるようになります」

 

「……歴史的な瞬間ですね。我々にとっても、世界にとっても」

 

「ええ」

 

 工藤は、スクリーンの中で歓喜に沸く技術者たちを見つめながら、少しだけ微笑んだ。

 

「たぶん、向こうの人たちにとっては、これ以上ないほどの歴史的な一日でしょうね」

 

「工藤さんにとっては、違うと?」

 

 日下部が横目で見ると、工藤はあっさりと肩をすくめた。

 

「俺にとっては、『あ、ちゃんとマニュアル通りに動いて良かったな』って感じです。

 技術が正しく渡せたことの確認、ですね」

 

 その温度差。

 

 地球側が歓喜の涙を流し、国家の威信をかけて成し遂げた「宇宙開発の新時代」も、工藤にとっては「自分が書いたレシピ通りに料理ができたかの確認作業」でしかない。

 

 日下部は、この男の持つ絶望的なまでのスケールの違いに、今さらながら深い眩暈を覚えた。

 

 実験成功の余韻が冷めやらぬ中、工藤がふと、何気ない調子で口を開いた。

 

「これで地球側の宇宙開発も、ようやく少し前に進みますね。

 まあ、ちょうどいいタイミングかもしれません。

 テラ・ノヴァ側でも、今ちょうど二つの惑星を並行して開拓中ですし」

 

 日下部の思考が、その瞬間にピタリと停止した。

 

「……今、何と言いました?」

 

「え? だから、テラ・ノヴァ側でも二つの惑星の開拓を進めてるって話ですけど」

 

「……そんな話、聞いていませんが」

 

 日下部の声のトーンが、明らかに数段階下がった。

 

「え、言ってませんでしたっけ?」

 

 工藤は不思議そうに首を傾げた。

 

「先週のミーティングで話したような気がしたんですけど」

 

「聞いて・い・ま・せ・ん」

 

 日下部は一音一音を区切って強調した。

 

「あー、すいません。言い忘れてたみたいです」

 

 工藤は悪びれもせずに説明を始めた。

 

「今、ヤタガラスのワープネットワークを使って、居住可能性のある惑星を二つほどピックアップして開拓してるんです。

 片方はレアメタルとか重元素が豊富な資源惑星寄りで、もう片方はテラフォーミングが比較的容易な農業・居住向けの惑星です。

 

 まだ完全な文明圏っていうよりは、前哨基地(アウトポスト)と自動プラントを設置してる段階ですけど。

 将来的には、それぞれ自立したコロニーになる予定です」

 

 日下部は、額を押さえて天を仰いだ。

 

「地球側が、今日ようやく『これで月面基地が作れるぞ!』と泣いて喜んでいるその横で……あなたはすでに、太陽系外の二つの惑星で植民を開始していると?」

 

「まあ、向こうとは使える技術の規模が違いますからね。

 地球側も、この推進エンジンがあれば、太陽系内の開拓ならすぐに追いついてきますよ」

 

「そういう問題ではないのです、工藤さん」

 

 日下部は深い疲労感とともに言った。

 

「あなたがまた私の与り知らないところで、国家予算規模——いや、人類史規模のプロジェクトを勝手に進行させていることが問題なのです」

 

 日下部の抗議を軽く受け流し、工藤はさらに話題を進めた。

 

「ところで、日下部さんはどう考えてます?」

 

「どう、とは?」

 

「地球側での、火星コロニーの件です」

 

 工藤はスクリーンの火星軌道予測線を指差した。

 

「これだけの宇宙輸送基盤が整えば、アメリカや日本主導での火星コロニーの建設は、わりと現実的なスケジュールの話になりますよね。

 早ければ数年以内に初期段階の居住区ができるかもしれない」

 

 日下部は、腕を組み、険しい表情で火星の映像を睨みつけた。

 

「火星コロニーねぇ……。

 技術的には可能になるのでしょうが、政治家としては、正直なところ『反乱』とか勘弁してほしいですけどね」

 

 工藤が、少し意外そうに日下部を見た。

 

 工藤にとって、火星コロニーは「人類のフロンティアの拡大」であり、純粋な技術的・文明的な開拓の対象でしかない。

 しかし、国家の運営と地政学を司る日下部の視点は、全く異なっていた。

 

「反乱、ですか」

 

「ええ」

 

 日下部は重々しく頷いた。

 

「宇宙に人が住み始め、独自のコミュニティを形成した場合、地球からの国家統治が果たしてどこまで及ぶのか。

 歴史を見れば明らかです。

 本国から遠く離れた自治領は、やがて必ず独立を求めます」

 

 日下部は、懸念事項を指折り数え始めた。

 

「火星で産出される資源の独占問題。

 独自の税制や法律の制定。

 そして何より、火星で生まれ育つ次世代の帰属意識です。

 

 彼らは自分たちを『日本人』や『アメリカ人』、あるいは『地球人』だとすら思わないかもしれない。

 彼らにとっての母星は火星になる。

 

 そうなれば、必ず地球の干渉を排除しようとする独立運動が起き、最悪の場合は独自の軍事化へと進むでしょう」

 

「なるほど」

 

 工藤は興味深そうに相槌を打った。

 

「地球からの補給に依存しているうちは大人しくても、自活できるようになれば反旗を翻す。

 SF小説では定番の展開ですね」

 

「笑い事ではありませんよ。

 距離の暴力は、政治の暴力を凌駕するんです」

 

 日下部は真顔で言った。

 

「火星の独立派が、地球に対して独立を承認させようとした時、最も効果的な脅威は何だと思いますか?」

 

「……質量兵器、ですか」

 

「そうです」

 

 日下部は冷たく言い放った。

 

「宇宙空間から、地球に向かって巨大な岩塊や小惑星を落とす。

 いわゆる『コロニー落とし』的な発想です。

 防ぐ手立てのない絶対的な暴力。

 

 それが可能になる以上、火星コロニーの統治問題は、人類の存亡を賭けた政治的火薬庫になる。

 技術よりも、政治のほうがよっぽど面倒なんですよ」

 

 工藤は、日下部の深刻な懸念を聞いて、しばらく無言でスクリーンを見つめていた。

 

 そして、ふと思いついたように、極めて悪気のない、軽やかな口調で言った。

 

「ああ、でもそれなら大丈夫ですよ。コロニー落としは」

 

 日下部は、工藤の顔を凝視した。

 

「……大丈夫、とは?」

 

「地球シールド技術、すでに研究済みですし。

 なんなら、ヤタガラスの軌道防衛システムにもう搭載して稼働させてますから」

 

 日下部の思考が、本日二度目の完全停止を迎えた。

 

 数秒間。

 

 観測室の中には、スクリーンから流れるアメリカ管制室の歓声だけが虚しく響いていた。

 

「……地球シールド……?」

 

 日下部が、絞り出すような声で反芻した。

 

「ええ」

 

 工藤は事も無げに解説を始める。

 

「地球規模の広域防護シールドですね。

 さすがに地球全体を24時間覆い尽くすような全面展開はエネルギー効率が悪いのでやりませんけど、必要な時に、必要な座標に局所展開するくらいならいつでも可能です。

 

 火星の独立派が巨大質量体を落としてきたり、何らかの軌道兵器で攻撃してきても、大気圏外でシールドを展開して逸らすか、細かく砕いて燃やし尽くすことができますよ」

 

 日下部は、ゆっくりと深呼吸をした。

 一度、二度。

 

 そして、静かに言った。

 

「……また、勝手に」

 

「いやいや、念のためですよ?」

 

 工藤は弁明するように手を振った。

 

「地球側でこれから宇宙開発が本格的に進むなら、軌道上から事故でデブリが落ちてきたり、最悪の場合はテロで質量兵器が使われるリスクは当然あるじゃないですか。

 だから、万が一の時のセーフティネットとして用意しておいた方がいいかなって」

 

「その理屈は正しいです。完全に正しい」

 

 日下部は、言葉の端々に静かな怒りを込めながら言った。

 

「ですが、私には一言も報告がありませんでした」

 

「え? だから、今しましたよね?」

 

「そういう意味ではありません!!」

 

 日下部の怒号が、観測室に響き渡った。

 

 いつもは冷静沈着なエリート官僚の仮面が、この瞬間ばかりは完全に剥がれ落ちていた。

 

「地球全体を覆う防護シールドですよ!?

 それはもう、防衛という概念を通り越して、地球という惑星そのものをあなたが完全に管理・掌握しているということです!

 

 その事実を、なぜ『ヤタガラスに載せておきました』みたいな、車のオプション装備を追加したようなノリで事後報告するんですか!!」

 

 日下部は近くの椅子に崩れ落ちるように座り込み、両手で頭を抱えた。

 

「……地球側のアメリカの技術者たちが、ようやく『これで宇宙に行ける』とロケット実証に成功して涙を流しているその同じ日に。

 私は、地球防衛シールドの実装済み報告を受けるとは思いませんでした……。

 私の胃はもう限界です……」

 

「でも、日下部さんにとっては大きな安心材料でしょう?」

 

 工藤は、まだ事の重大さを理解していないような顔で首を傾げた。

 

「これで、コロニー落としは無効化できるんですよ?」

 

「その『コロニー落とし』という単語を、日常会話みたいに軽く言わないでください」

 

 日下部は頭を抱えたまま唸った。

 

「安心材料が大きすぎて、逆に不安になるんです」

 

「でも、火星コロニーの統治問題を心配してたじゃないですか。

 やるなら、絶対に必要なシステムですよ?」

 

「私はまだ、日本として火星コロニーをやるなんて一言も決めていません!!」

 

 日下部は顔を上げて叫んだ。

 

「えー、でも地球側も、これでそろそろ本格的に宇宙に出ますよ?」

 

「宇宙に出るのと! 火星を統治するのは! まったく別の次元の政治的決断なんです!!」

 

 日下部の叫び声と、工藤の飄々とした返し。

 

 この致命的に噛み合わないスケール感のズレこそが、テラ・ノヴァと地球を繋ぐこの歪な関係性の象徴であった。

 

 しばらくして、ようやく日下部の荒い息が落ち着いてきた。

 

 彼は深く、本当に深いため息をついてから、再びスクリーンを見上げた。

 

 そこには、無事に実証軌道へと入り、青い地球を背景にして滑らかに飛翔する試験機の姿が映っていた。

 アメリカの管制室は、まだ歓喜と興奮の余韻に包まれている。

 

 日下部は、乱れたネクタイを直し、いつもの冷静な声を取り戻して言った。

 

「……それでも、これは良いことですね」

 

「はい」

 

 工藤も、スクリーンを見つめながら頷いた。

 

「地球側の人たちが、自分たちの頭で考えて、自分たちの手で技術を形にして、宇宙に行けるようになる。

 それは、とても良いことだと思います」

 

 日下部は、工藤の横顔を見た。

 

「工藤さんが、全部やってあげるのではなく?」

 

「俺が全部やっちゃうと、つまらないじゃないですか」

 

 工藤は、口元に微かな笑みを浮かべて答えた。

 

 その言葉の奥には、彼なりの明確な行動原理が隠されていた。

 彼にとって地球は、支配する対象ではない。

 技術という種を蒔き、彼らがどう育ち、どう失敗し、どう進んでいくのかを観察し、時に手を差し伸べる。

 

 それはまるで、箱庭を愛でるような、あるいは後進を育成するような視座だった。

 

「つまらない、ですか」

 

「はい。

 完璧な完成品を与えられて生きるより、自分たちで作って、間違えて、失敗して、それを直して前に進んでいく方が、見ていて面白いですから」

 

 日下部は、その言葉に何も返さなかった。

 

 ただ、この男が地球に対して悪意を持っていないことだけは、確かに信じられる気がした。

 

 スクリーンの中では、実証機の軌道線の先に、遠く月が浮かび、さらにその遥か彼方には、火星への予測線が薄っすらと描かれている。

 

「……地球は、本当に宇宙へ出るんですね」

 

 日下部が、感慨深げに呟いた。

 

「出ますよ」

 

 工藤は、当然のことのように答えた。

 

「出られるように、道を開きましたから」

 

 日下部は、その言い方に、今日一番の呆れたような苦笑を漏らした。

 

「それを、そんな風に言える人間がこの世界に存在していること自体、政治的にも歴史的にも、だいぶおかしい事態なんですがね」

 

「まあ、俺はアンノウンですから」

 

「自分で言わないでください」

 

 日下部は短く突っ込んだ。

 

 観測室に、少しの間、静寂が訪れた。

 地球の青い光が、二人の顔を淡く照らしている。

 

 やがて、日下部が思い出したように、しかし極めて事務的な口調で言った。

 

「……地球シールドについては、後で詳しい資料を私に回してください」

 

「分かりました。概要版のペラでいいですか?」

 

「詳細版です」

 

 日下部は即答した。

 

「システムの仕様から稼働条件まで、全て網羅したものを」

 

「詳細版、専門用語ばっかりで、読むのめちゃくちゃ大変ですよ?」

 

「読むしかないでしょう」

 

 日下部は、再び頭を抱える仕草をした。

 

「あなたがまた勝手に、ヤタガラスに地球全体を守るバリアなんてものを載せているんですから。

 官僚として、把握しておかないわけにはいかない」

 

「じゃあ、後でセキュア回線に送っておきますね」

 

 工藤の軽い返事を聞きながら、日下部はスクリーンの向こうで歓喜に沸くアメリカの技術者たちを恨めしげに見つめ、最後に小さく呟いた。

 

「……たまには、ロケット実験の成功という純粋な人類の進歩を、普通に喜ばせてほしかったですよ……」

 

 地球の檻が開いた記念すべき日。

 

 アメリカの宇宙屋たちが新たな夢に熱狂し、地球の歴史が大きく前進したその日。

 

 日下部の胃痛は、宇宙の広がりと同じように、さらに際限なく拡大していくのだった。




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