自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

177 / 237
第148話 空の街へ招かれた五百人

 白石啓吾(しらいし・けいご)は、妻の美沙と息子の蓮を伴い、政府から指定された西日本の某港湾施設へと向かっていた。

 

 白石は、国立大学病院に籍を置く四十代後半の腫瘍内科医である。

 彼は以前、政府が極秘裏に主導した「がんしぼり君」の初期運用マニュアル策定において、臨床現場のデータ分析という立場でごく一部のタスクに関わった。だが、それはあくまで「完成された製品」をどう扱うかという、医療従事者としての実務的な業務に過ぎなかった。

 

 今回は違う。

 彼は、『高度先駆者技術翻訳機構(通称:アンノウン機関)』の第一期候補者として正式に選抜され、この場所に呼ばれているのだ。

 

 事前に知らされていた情報は、極めて断片的であった。

「所在地非公開の政府指定閉域研究施設」において、長期間の居住を伴う研究・解析業務に従事すること。家族の帯同は許可されるが、外部との通信は厳しく制限されること。生活に必要な物資はすべて支給されること。そして、研究員には専用の端末が配布されること。……それだけだ。

 

 白石は、隣を歩く息子の蓮をチラリと見た。

 十九歳の大学生。理工学部に通う彼は、白石の「家族帯同枠」としてここに来ているわけではない。信じがたいことに、この若き学生もまた、アンノウン機関の「若手特別枠」として個別に招集令状(メール)を受け取った、正規の候補者の一人であった。

 

「……本当に、お前も対象者だったんだな」

 

 白石は、未だに現実感が湧かないというように呟いた。

 

「父さんこそ、まだ僕を疑ってたの?」

 

 蓮は、少しだけ得意げに、しかし緊張の色を隠せない顔で苦笑した。

 

「大学生だぞ。国家の最高機密機関に呼ばれるような年齢じゃない」

 

「一応、論文は出したし。公開されてる『がんしぼり君』の挙動データから、ナノマシンの制御モデルを数学的にちょっと推定してみただけなんだけど」

 

 白石は思わず頭を抱えた。

 

「“ちょっと”で政府の公安に目を付けられるようなことをするな」

 

 そんな親子のやり取りを見て、妻の美沙が呆れたようにため息をついた。

 

「親子揃って国に呼ばれるなんて、本当に普通じゃないわね」

 

「……普通じゃない場所に行くんだろうな」

 

 白石は、前方にそびえる無機質な港のゲートを見据えながら言った。

 

「政府指定の閉域研究施設って、どんなところだろうね。離島の地下に作られたバンカーかな」

 

 蓮が少しワクワクした様子で想像を膨らませる。

 

「たぶん、そういうものだと思っておいた方がいい。不便な生活になるぞ」

 

 白石は釘を刺した。

 この時点で三人は、自分たちがこれから「どこへ」連れて行かれるのか、そのスケールの異常さを全く想像すらできていなかった。

 

 ◇

 

 ゲートを抜け、厳重な警備が敷かれた港の広場に到着すると、そこにはすでに数百人の人々が集まっていた。

 

 研究者としての招待客が五百名。そして、彼らが帯同を希望した家族たち。総勢で千数百人規模の大集団である。

 単身でスーツケース一つで来ている者もいれば、白石家のように夫婦と子供の世帯もいる。中には、高齢の親の介護を理由に帯同を許可された者もいるようだった。

 

 周囲を見渡すと、白石の顔見知りも何人かいた。

 医学界の重鎮である老教授。メディアでもよく見かける宇宙工学の若きスター研究者。材料工学の権威。日本を代表するトップクラスの頭脳が、この小さな港に無造作に集められている。

 そして、その中には、蓮と同じように「どう見ても学生にしか見えない」若者たちが、少数だが確実に混ざっていた。

 

「……本当に、大学生もいるのか」

 

 近くにいた中年の研究者が、蓮たちを見て小声で呟くのが聞こえた。

 

「若手特別枠だそうだ。既存の権威だけじゃなくて、新しい発想を入れるらしい」

 

 別の研究者が答える。その視線を浴びて、蓮は少し肩をすくめたが、逃げるような素振りは見せなかった。

 

 広場には、警察でも自衛隊でもない、胸にバッジをつけた無機質なスーツ姿の係員たちが多数配置されていた。徹底的な手荷物検査、本人確認、そして生体認証。参加者全員の腕には、バイタルサインと位置情報を管理すると思われる、分厚い専用のリストバンド型タグが装着された。

 

 やがて、広場の前方に立ったリーダー格の係員が、拡声器を手にして全体に向けて説明を始めた。

 

「これより、皆様には政府指定の閉域研究施設へ移動していただきます。まず、あちらに停泊している船に乗船してください」

 

 係員が指差した先には、一隻の大型客船が停まっていた。

 しかし、白石は眉をひそめた。

 

「あの船で行くのか?」

 

 確かに大型のフェリーではあるが、千数百人という人間を乗せ、長期間の航海を経て遠くの離島(研究施設)へ向かうための本格的な装備や物資が積み込まれているようには見えなかった。

 

「たぶん、途中までじゃない?」

 

 蓮が推測する。

 

「途中?」

 

 美沙が首を傾げる。

 

「だって、国家の最高機密施設に行くのに、こんな普通の船に乗って終わりだとは思えないし」

 

 白石も同感だった。

 何か、嫌な予感がする。いや、予感というよりは、これから自分たちの常識が大きく揺さぶられるであろうという、微かな悪寒のようなものだった。

 

 ◇

 

 乗船が完了し、船は静かに港を離れた。

 陸地が遠ざかり、周囲は穏やかな大海原に包まれる。候補者たちとその家族は、甲板や窓際に集まり、これから向かう先についてヒソヒソと語り合っていた。

 

「この先に、極秘の離島があるのか?」

「海底トンネルの入り口でもあるんじゃないか?」

 

 出港から一時間ほど経過した頃。

 船内放送のスピーカーから、先ほどの係員の落ち着いた声が流れた。

 

『——皆様。進行方向、正面の窓の外をご覧ください』

 

 全員が一斉に、海を見つめた。

 だが、そこには青い空と海が広がっているだけだ。島影一つ見当たらない。

 

 しかし、次の瞬間。

 海上の何もない空間が、陽炎のようにゆらりと歪んだ。

 

「……えっ?」

 

 誰かが声を上げた。

 青空の一部が、水面の反射のように不自然に揺らぎ、そして、まるで透明なインクが剥がれ落ちるように、巨大な黒い影がジワジワと出現し始めたのだ。

 

 光学迷彩(アクティブ・カモフラージュ)の解除。

 

 雲の影のように、まず巨大な輪郭が現れる。続いて、金属とも白磁ともつかない、滑らかで圧倒的な質感を放つ外殻。さらに、その側面に無数に並ぶ、都市のビル群のような窓の光。

 それは、海に浮いているのではない。海面から数十メートルの上空に、音もなく「浮遊」していた。

 

 空に浮かぶ、全長三キロメートルに及ぶ超弩級の巨大構造物。

 空中都市艦『ヤタガラス』。

 

 甲板にいた候補者も、家族たちも、全員が完全に言葉を失った。

 悲鳴すら上がらない。ただ、人間の脳が処理できる許容量を完全に超えた巨大な物体を前に、数百人が揃ってポカンと口を開けて硬直していた。

 

「……離島じゃない」

 

 蓮が、震える声でぽつりと呟いた。

 

「船でもない」

 

 白石は、眼球が乾くのも忘れてその巨体を見上げた。

 

「……街?」

 

 美沙の呟きが、静かな海上に空しく響いた。

 

 海上に浮かぶヤタガラスの巨大な側面装甲の一部が、スライドしてゆっくりと開いた。そこから、まるで巨大な国際空港のボーディングブリッジのような、頑丈な接続アームが伸びてきて、白石たちの乗る船の甲板へとガッチリと連結された。

 

 係員が、スピーカー越しに淡々と告げた。

 

『これより、ヤタガラスへ入艦します。皆様、足元にご注意ください』

 

 その事務的で日常的なアナウンスの声だけが、この異常な空間において、異様に現実的で、そしてひどくシュールに響いていた。

 

 ◇

 

 接続アームを渡り、候補者たちはヤタガラスの内部へと足を踏み入れた。

 

 入口のゲートを抜けた先は、彼らが想像していたような「無機質で薄暗い軍事バンカー」とは全く異なる空間だった。

 見上げるほど高い天井。白を基調とした清潔で洗練された壁面。空中に浮かぶ半透明のホログラムの案内表示。そして、足元を滑るように音もなく移動していく、流線型の荷物搬送用ドローン。

 そこは軍事施設というより、何世紀も未来に作られた、超巨大な国際空港のターミナルそのものであった。

 

 広大な中央ホールに集められた千数百人の前に、先ほどの係員が立った。

 

「皆様、ようこそ。ここは、空中都市艦『ヤタガラス』です」

 

 わあぁぁぁっ……!

 ついに、参加者たちの間から、抑えきれない驚愕のざわめきが爆発した。

 

「空中都市……だと!?」

「これが、日本の技術なのか……!」

「反重力か!? どうやってこの質量を浮かせているんだ!」

 

 物理学者や宇宙工学者たちが、パニックと興奮の入り混じった声を上げる。係員は、その騒ぎが少し落ち着くのを待ってから、説明を続けた。

 

「本艦は、全長約三キロメートル。内部には、居住区画、商業区画、医療区画、教育区画、物流区画、研究区画、そして娯楽区画が存在します。簡単に申し上げれば、街一つを丸ごと内部に再現した『移動型閉域都市』です」

 

 候補者たちは、もはや反論する気力すらなく、ただその圧倒的なスケールに打ちのめされていた。

 

「現在、この艦内では、初期のテスト住民を含む約一万人が生活しております」

 

 白石は、自分の耳を疑った。

 

「一万人……生活……?」

 

「はい」

 

 係員は頷いた。

 

「皆様には、アンノウン機関の第一期候補者、およびそのご家族として、当面の間こちらで『生活』していただきます」

 

 研究施設に軟禁されると思っていた。だが、現実は違った。彼らは「空飛ぶ街」の住民になるのだ。

 

「研究員および候補者の皆様には、後ほど専門の『研究区画』へのアクセス権が段階的に付与されます。ご家族の皆様は、生活区画、商業区画、教育区画、医療区画、そして娯楽区画を自由にご利用いただけます。……ただし、研究区画への立ち入りは、家族であっても一切禁止されております」

 

 美沙が、周囲の広大なホールを見渡しながら、小声で言った。

 

「本当に、街なのね……」

 

 蓮は、天井のホログラムを見上げながら、目をキラキラと輝かせていた。

 

「すごい……これ、艦っていうより都市そのものだ。SF映画の中に入り込んじゃったみたいだ」

 

 ◇

 

 オリエンテーションの後、参加者とその家族に、それぞれ専用のスマート端末が配布された。それは、薄型のリストバンドのような形状をしており、手首に装着すると自動で生体認証を行い、画面が起動する。

 

「この端末は、皆様の身分証であり、生活のすべてを管理するデバイスです」

 

 係員が操作方法を説明する。

 身分証明および各区画へのアクセス権管理。自室の電子キー。食堂での決済。各種生活サービス、娯楽施設の予約。医療機関の受診予約。施設内ナビゲーションマップ。許可された範囲内での外部通信。緊急通報および位置確認システム。家族間連絡メッセージ。研究者向けの個別スケジュール管理。

 

「紛失は絶対に避けてください。また、端末を意図的に改造、通信の遮断、あるいは複製しようとした場合、即座にセキュリティ違反としてアラートが作動し、処分対象となります」

 

 その冷ややかな警告に、一部の情報工学系の研究者たちが、ピクリと肩を揺らして「分解してみよう」という好奇心を強制的に引っ込めたのが見えた。

 

 白石は、自分の腕の端末に表示された画面を確認した。

 そこには、自分の名前と、所属予定の区画が明確に表示されていた。

 

『白石啓吾

 アンノウン機関 第一期候補者

 先進微細医療技術区画

 暫定アクセス権:レベル1』

 

 隣で、蓮も自分の端末を見ている。

 そこには、全く別の表示があった。

 

『白石蓮

 アンノウン機関 候補者(若手特別枠)

 制御・数理解析区画

 暫定アクセス権:レベル1』

 

 白石は、少しだけ複雑な思いで息子を見た。

 

「……本当に、別枠なんだな」

 

「みたいだね」

 

 蓮は、自分の所属区画を確認して頷いた。

 

「父さんと同じ施設に住むことになったけど、研究室は完全に別っぽい」

 

「親子で職場が同じなのね」

 

 美沙が、少し面白そうに二人の端末を覗き込んだ。

 

「職場というか……国家の最高機密施設だが」

 

 白石が苦笑いしながら訂正すると、美沙は居住区画のマップをスクロールさせながら、極めて日常的なトーンで言った。

 

「でも、ここに住むんでしょ。なら、まずご近所に挨拶しなきゃね」

 

 白石と蓮が、同時に美沙の方を振り向いた。

 

「……本気か」

 

「何よ。街なんでしょう?」

 

 美沙は、全く動じる様子もなく答えた。

 

「引っ越してきたら、隣の人に挨拶するのは当たり前じゃない。タオルかお菓子でも持っていかなきゃ」

 

 その、あまりにも強靭な「主婦としての日常感覚」に、白石は毒気を抜かれ、思わず肩の力が抜けるのを感じた。空を飛んでいようが、神の技術の研究施設だろうが、生活は続くのだ。

 

 ◇

 

 端末の配布が終わると、十数人ずつのグループに分けられ、それぞれに担当の係員がついて艦内の案内ツアーが始まった。白石たち家族も、他の数組の家族とともに、広大な施設を歩き始めた。

 

 まず案内されたのは、『生活区画』のメインストリートだった。ゲートを抜けた瞬間、白石は思わず目を疑った。

 

「これは……」

 

 そこには、幅の広い歩行者専用のプロムナードがどこまでも続き、道の両脇には地球の街路樹と見紛うような美しい人工樹木が等間隔で植えられていた。見上げれば、天井には高精細なディスプレイによって『疑似的な青空と流れる雲』が映し出され、本物の太陽と錯覚するような柔らかな昼光が降り注いでいる。道の横には、清らかな水が流れる人工の小川まで整備されていた。

 

「ここは地下街か? いや、空の上だったな……」

 

 白石は、自分の空間認識が完全にバグり始めているのを感じた。

 

 プロムナードに沿って、様々な施設が立ち並んでいる。焼きたてのパンの香りが漂うオープンテラスのカフェ。日用品や軽食が並ぶ、コンビニエンスストア。最新のフィットネスマシンが並ぶガラス張りのジム。落ち着いた照明の図書館。

 

 さらに奥へ進むと、巨大な吹き抜けの空間が現れた。

 

「こちらは商業区画です。百貨店に準ずる規模の店舗が入っており、衣料品、書籍、家電、趣味の用品などは基本的にここで揃えることが可能です」

 

 係員が淡々と説明する。一緒にツアーを回っていた別の候補者の妻が、驚いたように尋ねた。

 

「あの……服は、自分で持ち込んだ分だけじゃなくて、ここで買えるんですか?」

 

「はい」

 

 係員は頷いた。

 

「ポイント制になりますが、必要なものは購入可能です。また、クリーニング店や理髪店、美容室も完備しております」

 

 さらに歩を進めると、今度はポップコーンの甘い香りが漂ってきた。巨大なシネマコンプレックスのエントランスだ。

 

「映画館があるのですか?」

 

 別の参加者が、呆れたように声を上げた。閉鎖された研究施設に映画館。あまりにも不釣り合いな組み合わせだ。

 

「はい。大小合わせて四十スクリーンをご用意しております。最新の音響設備を備えたIMAX相当のシアターも含まれます」

 

 四十スクリーン。そのオーバースペックすぎる数に、参加者たちの間でざわめきが起きた。

 

「食事はどうなるんですか?」

 

 別の家族が質問する。

 

「各ご家庭での自炊も可能ですが、基本的には、生活区画の各所にある大規模な『基本食堂』をご利用いただけます。基本食堂での食事は、すべて無料です。それ以外にも、カフェや一部の高級レストラン、アルコールを提供するバーなどもございますが、そちらは端末のポイントを消費してのご利用となります」

 

 係員の説明を聞きながら、美沙が真顔で白石に言った。

 

「……これ、普通に暮らせるわね」

 

「普通の定義が完全に壊れているがな」

 

 白石は、ため息まじりに答えた。ここはシェルターでも、軍事基地でもない。完全に「ひとつの都市」として、人間が長期間、快適に生活を営むためだけにデザインされた空間なのだ。

 

「ここ、研究施設じゃなくて、完全に未来都市だよ」

 

 蓮は、周囲の景色をキョロキョロと見渡しながら、興奮を隠しきれない様子で言った。

 

 ◇

 

 一通りの施設案内が終わり、白石家は居住区画の高層住宅フロアへと案内された。エレベーターで上層階へ上がり、指定された部屋のドアを端末で開ける。

 中に入った瞬間、三人は再び言葉を失った。

 

 そこは、都内の高級タワーマンションのモデルルームをそのまま切り取ってきたかのような、広々とした3LDKの部屋だった。

 広いリビングダイニング。システムキッチン。清潔なバスルーム。夫婦の寝室と、蓮のための個室。そして、白石が書類仕事をしたり、考え事をしたりするための書斎スペースまで用意されていた。

 ベッドやソファ、大型のスマートテレビなど、生活に必要な家具家電はすべて最新式のものが最初から揃えられている。

 

 そして何より目を引くのが、リビングの壁一面を覆う巨大な「窓」だった。

 

「これ……」

 

 白石が窓に近づき、外を見た。そこには、果てしなく広がる白い雲海と、遠くに沈みゆく夕日が映し出されていた。

 

「本物の景色なのか?」

 

「はい。高強度の透明素材で作られた窓です」

 

 案内してくれた係員が補足する。

 

「もちろん、映像補正機能も付いておりますので、夜間や悪天候時など、お好みに合わせて『地上の風景』などを投影することも可能です」

 

 美沙は、玄関に立ったまま、ポツリと呟いた。

 

「……タワマンじゃない」

 

「空飛ぶタワマンだね」

 

 蓮が、窓ガラスに額を押し当てて雲海を見下ろしながら笑った。

 

「研究施設だと聞いていたんだがな……」

 

 白石は、ふかふかのソファに腰を下ろし、頭を抱えた。これから自分は、人類の常識を覆す未知のテクノロジーを相手に、血を吐くような研究の日々を送るはずだった。それなのに、与えられた環境は、これ以上ないほどに快適で、ラグジュアリーな「生活空間」なのだ。この圧倒的なギャップが、逆に白石の精神を不安にさせていた。

 

 美沙は、一通り部屋の中を確認し終えると、自分のバッグからいくつかの小袋を取り出し始めた。

 

「よし。それじゃあ、ご近所に挨拶してくるわ」

 

「……本気か」

 

 白石が呆れて顔を上げる。

 

「本気よ」

 

 美沙は、持ってきた小袋——個包装のクッキーの詰め合わせ——を手に取った。

 

「これからしばらく、ここで暮らすんでしょう? 研究者の奥さんだからって、部屋にずっと引きこもってるわけにもいかないもの。隣の人がどんな人か知っておいた方が、絶対に安心だわ」

 

 蓮が、母親のたくましさに吹き出した。

 

「母さん、適応早すぎ」

 

「あなたたちは研究のことで頭がいっぱいでしょうけど、生活するのは生活するのよ」

 

 美沙はそう言って、さっさと玄関のドアを開けて出て行ってしまった。

 残された白石は、ソファで深く息を吐き出した。妻のあの「強靭な日常感覚」には、本当に救われる。どんな異常な環境に放り込まれても、彼女はまず自分の「生活のペース」を作ることから始めるのだ。

 

「……俺も、負けていられないな」

 

 白石は、自らの端末を開き、明日のスケジュールの項目を確認した。

 

 ◇

 

 その日の夜。白石家は、生活区画のメインストリートにある巨大な『基本食堂(フードホール)』へと向かった。

 そこは、数百人が一度に食事をしても余裕があるほど広大な空間だった。ビュッフェスタイルで提供される食事は、和食、洋食、中華、エスニックから、ベジタリアンやアレルギー対応食、さらには体調に合わせた病院食まで、ありとあらゆるメニューが揃っている。

 

 入口には、手書きのポップな看板が立てられていた。

 

『ヤタガラス新規入居者歓迎会!』

 

 白石は、その看板を見て足を止めた。

 

「……歓迎会?」

 

 国家の最高機密施設で歓迎会。またしても、脳の処理が追いつかない。

 トレイを持ってオドオドしている白石たちのところに、制服の係員ではなく、エプロン姿の女性が笑顔で近づいてきた。

 

「あ、新しく来た方ですよね。ようこそ、ヤタガラスへ!」

 

 美沙が、反射的にペコリと頭を下げた。

 

「白石です。よろしくお願いします」

 

「こちらこそ! 最初はびっくりしますよね。私たちもそうでしたから」

 

 女性は気さくに笑った。彼女は、すでにこのヤタガラスで生活している「既存住民」のようだった。

 

「歓迎会って、毎回やってるんですか?」

 

 蓮が興味津々で尋ねる。

 

「ええ。新規入居者さんがまとまって来た時は、だいたいやってますよ。ここの生活はちょっと独特なので、最初に顔見知りを作っておいた方が、お互い安心ですからね」

 

 食堂の中を見渡すと、既存住民たちが自然な形で新規入居者のテーブルに混ざり、あちこちで談笑の花を咲かせていた。

 

「ニュース見ましたよ。アンノウン機関の方ですよね?」

「すごいですね。核融合炉を研究するんですか?」

「医療系の方もいるんでしょう? 実はうちの親戚が、がんしぼり君の治験で助かりまして……」

 

 住民たちは、彼らが「アンノウン機関の研究者」であることを知っていた。

 白石は、急に話しかけられて返答に困った。

 

「あ、いや……詳しいことは、まだちょっと、お話しできなくて……」

 

 守秘義務がある。どこまで話していいのか分からない。しかし、住民の男性は慣れたように笑って頷いた。

 

「でしょうね! 分かってますよ」

 

 美沙が、小声で白石に囁いた。

 

「……普通に受け入れられてるわね」

 

「ここの『普通』が分からない」

 

 白石は、ローストビーフを皿に盛り付けながら、深い溜め息をついた。

 

 ◇

 

 食事中、白石たちは同席した既存住民たちから、このヤタガラスでの「生活のリアル」について色々と教えてもらった。

 

「ヤタガラスは普段、太平洋や日本近海の公海上をずっと巡回してるんですよ。たまーに、位置を変えるみたいですけどね」

 

 住民の男性が、ビールを飲みながら教えてくれる。

 

「月に一度くらい、『外部展望イベント』っていうのがあるんです」

 

 別の女性が、楽しそうに身を乗り出した。

 

「大気圏外から地球を見る日とか、月の近くまで行く見学会とか」

 

 白石家、全員の動きがピタリと停止した。

 

「……月の、近く?」

 

 蓮が、フォークを落としそうになりながら聞き返した。

 

「ええ。あくまで船内から窓越しに見学するだけですけどね。希望者が多いので抽選制です」

 

「大気圏外って……この艦で?」

 

 白石が、信じられないという顔で尋ねる。

 

「はい。最初は外の景色を見て気絶しそうになりますよ。でも慣れると、青い地球を眺めながらコーヒーを飲めるようになります」

 

 美沙が、遠い目をしながら復唱した。

 

「……地球を眺めながら、コーヒー」

 

「あ、映画館はたくさんありますけど、人気作が公開される時は早めに端末から予約した方がいいですよ」

 

 さらに別の住民が、極めて日常的なアドバイスをくれる。

 

「あと、百貨店の三階に良い寝具を売ってるお店があります。最初は環境が変わって寝つきにくいでしょうから、自分に合った枕とか買っておくといいですよ」

 

 その言葉に、美沙がハッとして真面目な顔でメモを取り始めた。

 

「三階ですね。ありがとうございます」

 

「おい」

 

 白石が、妻を小突く。

 

「君は今、月の話より寝具の方が重要なのか」

 

「当たり前じゃない」

 

 美沙は、キッパリと言い切った。

 

「明日も、明後日も、私たちの生活は続くのよ。ちゃんと眠れないと、体壊すわよ」

 

 蓮が、肩を震わせて笑った。

 

「母さん、強すぎる」

 

 白石も、呆れを通り越して、思わず笑ってしまった。この異常な環境の中で、彼女のそのブレない強さが、自分たち家族を繋ぎ止める最大の錨(アンカー)になっていることは間違いなかった。

 

 その夜、白石は与えられた3LDKの部屋で、しばらく眠れなかった。

 

 窓の外には、地上では決して見られない高さの雲が流れている。ここは研究施設ではない。街だった。一万人が暮らし、映画館があり、食堂で歓迎会が開かれ、家族がご近所付き合いを始める、空を飛ぶ街だった。

 

 だが、白石は分かっていた。この街の本当の中心は、生活区画ではない。

 

 明日、自分たちは研究区画へ入る。その奥にあるのは、アンノウンが人類へ投げ渡した、まだ名前もつけきれていない未来の欠片だ。

 

 白石は、隣の部屋で眠る息子の気配を感じながら、そっと目を閉じた。

 

 閉域研究施設。政府はそう説明していた。

 

 だが、そこは地下でも、孤島でも、無機質な研究所でもなかった。空の上に浮かぶ、ひとつの都市だった。

 

 そして翌朝。

 五百人の科学者たちは、その都市の奥にある、本当の扉の前へ立つことになる。

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。