自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第169話 入らなければ伝わらない未来

 東京都内某所。

 表向きは「次世代没入型展示技術に関する非公開視察」という名目で押さえられたその地下施設は、数日前にゲーム業界の大人たちが十六時間待ちの行列を作った『フルダイブ試験場』と同じ系統の設備であった。

 だが、本日の空気は、あの日の「夢のチケットを手に入れた子供のような狂乱」とは、根本的に異なっていた。

 

 施設の内外には、黒スーツの公安警察、自衛隊系の私服警備員、屈強なサウジアラビア側の王室護衛、そして日本政府のSPが幾重にも交差している。

 施設の最奥に用意された特別区画には、真新しい純白の『フルダイブ・ポッド』が三基、静かに鎮座していた。

 

 内閣官房参事官の日下部は、ポッドの前で胃の痛みを堪えながら立っていた。

 本日の体験者は、ゲーム開発者でもなければ、政府の役人でもない。サウジアラビア王国のアブドゥル・アル・ラシード皇太子、その人である。

 一国の、それも中東の巨大な富と未来を握る国家の最高指導者を、未知の神経接続装置(フルダイブポッド)の中に入れるのだ。万が一、脳神経への異常やログアウト不全といった事故が起きれば、それは即座に修復不能な外交問題——あるいは戦争の火種にすらなり得る。

 

(たった十五分から二十分の体験だ。……だが、この二十分で、日本とサウジの未来が根本から変わる。絶対に、何も起きるな)

 

 日下部は、内心で祈るようにそう念じた。

 

 ポッドの傍らでは、綾瀬厚労大臣が、日本側とサウジ側の合同医療チームに向けて最終の安全確認を行っていた。

 

「体験時間は最大でも十五分から二十分とします。

 痛覚は完全に無効。嗅覚は制限。味覚は無効。触覚は、安全と規定された範囲内。平衡感覚への負荷は、VR酔い防止のために極限まで抑制します。

 強制ログアウト手順は三段階用意し、医師が常時バイタルを監視します。サウジ側の医療チームにも、リアルタイムの生体ログの閲覧権限を完全に付与します」

 

 サウジ側の医療責任者は、神経質そうに眉をひそめていた。

 

「もし、殿下の神経活動や心拍数に、当方が規定する安全閾値を超える異常が認められた場合……即座に強制停止していただきます」

 

「もちろんです」

 

 綾瀬厚労大臣が、力強く頷く。

 

「こちらもそれを最優先事項として運用します」

 

 施設の管理AIであるオラクルが、スピーカー越しに補足する。

 

『緊急停止権限は、日本側医療責任者、サウジ側医療責任者、ならびにシステム管理者であるオラクルの三者に、同等に付与されています。いずれか一者が異常と判断した時点で、即座にセーフティー・ログアウトが実行されます』

 

 その徹底したフェイルセーフの仕組みを聞き、サウジ側の医師たちも少しだけ安堵の表情を見せた。

 

 ◇

 

 重厚な防音扉が開き、アブドゥル皇太子が入室してきた。

 王族としての威厳ある足取り。だが、その瞳は、新しいゲーム機を前にした少年のように完全に輝いていた。

 

「……これが、フルダイブのポッドか」

 

 皇太子は、純白のポッドの滑らかな表面を撫でながら、感嘆の声を漏らした。

 

「はい、殿下」

 

 日下部が、一歩前に出て丁寧に説明する。

 

「ただし本日は、あくまで安全性を最優先した『制限版』のデモンストレーションとなります。

 戦闘、恐怖演出、痛覚、過度な快楽刺激、強い平衡感覚への負荷は、すべて排除されております」

 

 皇太子は、少しだけ残念そうに眉を下げた。

 

「……剣と魔法は?」

 

「ございません」

 

「空は飛べるのか?」

 

「初回では、飛行体験も組み込んでおりません」

 

 綾瀬厚労大臣が、医療的な観点から即座に釘を刺す。

 

「……かなり、慎重だな」

 

 皇太子が苦笑する。

 

「殿下の安全が、我々の最優先事項です」

 

 日下部が頭を下げると、皇太子は納得したように肩をすくめた。

 

「分かっている。私がここで倒れたら、君たちの胃が壊れるのだろう?」

 

(……すでに壊れています、殿下)

 

 日下部は表情を一切崩さずに、内心で血の涙を流した。

 

 ◇

 

『本デモは、三つの段階で構成されています』

 

 オラクルが、アラビア語、英語、日本語の三ヶ国語に対応した完璧な音声でガイダンスを開始する。

 

『第一段階、日本の桜並木。

 第二段階、宇宙ステーション展望室。

 第三段階、未来リヤド都市シミュレーション。

 いずれも、医療安全基準による制限下で実行されます』

 

 皇太子が、最後の一言に興味深く反応した。

 

「未来リヤド?」

 

 経産省の担当官が、前に出て説明する。

 

「殿下の国が目指す『未来都市構想』を、日本側のゲーム・アニメ・都市演出チームが、安全な範囲で体験空間化いたしました。あくまで試作ですが、この技術が持つ方向性をご覧いただきたいと考えております」

 

 サウジ側の都市開発担当官が、驚いて身を乗り出した。

 

「我々が公開している都市計画のデータを使ったのか?」

 

 今回のデモ設計の現場責任者である黒瀬(星海インタラクティブ開発本部長)が、プロフェッショナルの顔で答える。

 

「公開情報と、サウジ側から以前共有いただいた一部のコンセプト資料をもとに、仮想体験用に再構成しています。

 ……これは、建築上の『完成予想図』ではありません。未来を『身体で感じるための演出空間』です」

 

 この黒瀬の言い方が、極めて重要だった。

 彼らは勝手にサウジの都市計画を再現し、その粗を指摘しようとしているのではない。あくまで、万博という「体験を売る場」において、この技術がどう機能するかという『演出』を見せようとしているのだ。

 

 ◇

 

「では、ポッドへ」

 

 日下部の案内に従い、皇太子がポッドへと向かう。

 サウジ側の護衛たちが、一瞬だけ緊張で身体を硬くする。

 医師たちが、皇太子の頭部と手首に非侵襲型のバイタルセンサーを慎重に取り付けていく。

 

 サウジ側医師、日本側医師、そしてオラクルが、同時に生体データのチェックを開始する。

 

『心拍数、上昇傾向。……興奮による正常範囲内です』

 

 オラクルの報告に、皇太子はポッドに横たわったまま笑った。

 

「それはそうだ。私は子供の頃から、画面の向こう側の世界に入るこの日を、ずっと待っていたのだから」

 

 その言葉に、見守っていた黒瀬や島村たちゲーム業界の面々が、少しだけ表情を緩めた。

 彼らもまた、同じ夢を追いかけてここまで来たのだ。

 

 皇太子は、ポッドのカバーが閉まる直前、日下部を真っ直ぐに見据えた。

 

「日下部殿。

 ……これは、一人のゲーム好きとしてではなく、国家の未来を背負う者として体験する。

 だから、遠慮なく君たちの『未来』を見せてくれ」

 

「承知いたしました。殿下」

 

 日下部が、深く一礼する。

 

『——フルダイブ、開始します』

 

 オラクルのアナウンスと共に、皇太子の意識は現実の肉体から切り離され、電脳の海へと沈んでいった。

 

 ◇

 

 皇太子がゆっくりと目を開ける。

 

 そこは、満開の桜並木だった。

 

 視界を埋め尽くすほどの、淡い薄紅色の花びら。

 足元には、年月を感じさせる硬い石畳。

 見上げれば、雲一つない柔らかく澄んだ青空。

 頬を撫でる春の風が吹き抜け、桜の枝がサラサラと揺れる音が聞こえる。

 遠くからは、穏やかな川のせせらぎと、小鳥のさえずり。

 

 周囲に人の気配はない。誰かに見られているような監視の感覚もない。ただ、絶対的な静寂と美しさだけがそこにあった。

 

『第一段階。身体感覚調整環境』

 

 オラクルの案内音声が、風景を壊さない程度に静かに響く。

 

『ゆっくりと、一歩お進みください』

 

 皇太子は、言われた通りに右足を踏み出した。

 

 ——カツッ。

 靴の裏から、石畳の確かな硬さが伝わってくる。

 

 次の一歩を踏み出す。

 風に舞い落ちた桜の花びらを少しだけ踏み、靴底がわずかに滑る、その極めて微細な物理演算の摩擦(フィードバック)。

 皇太子は、思わず立ち止まり、右手を空に向かって伸ばした。

 一枚の花びらが、彼の人差し指に触れ、かすかな感触を残して風に流されていく。

 

「……」

 

 皇太子は、自分の手を見つめ、石畳を踏みしめ、そして深く息を吸い込んだ。

 

「……これは、映像ではない」

 

『肯定します。視聴ではなく、体験です』

 

「私は、ここに立っている」

 

 桜並木の演出は、極めて穏やかだった。

 だが、その圧倒的なまでの『存在感(プレゼンス)』が、逆に彼の魂を揺さぶった。

 サウジアラビアの砂漠地帯で生まれ育った彼が、全く違う気候、全く違う風土、全く違う文化である『日本の春』を、視覚的情報ではなく、自らの身体で、皮膚で、感覚で理解したのだ。

 

 皇太子は悟った。

 文化とは、どれほど言葉や映像で説明するよりも、「その場所を歩かせる」ことで一瞬にして伝わるのだと。

 この段階で、彼の中でフルダイブ技術の『観光』『教育』、そして『文化外交』の装置としての価値が、天文学的に跳ね上がった。

 

 ◇

 

 視界に舞う桜吹雪が、やがて画面を覆い尽くすように白く広がり——次の瞬間、フッと景色が暗転した。

 

 皇太子が次に立っていたのは、静謐な宇宙ステーションの展望室だった。

 

 足元は、金属的な硬さを持つ安定した床。

 無重力ではない。地球上と同じ重力が再現されている。

 そして、巨大なガラス窓の向こうに、圧倒的なスケールの『青い地球』が浮かんでいた。

 

『第二段階。非日常環境』

 

 オラクルが解説する。

 

『平衡感覚への負荷を避けるため、室内重力は通常(1G)に設定されています』

 

 皇太子は、無意識のうちに窓へと歩み寄っていた。

 そこにあるのは、息を呑むほど美しい地球。

 

 渦を巻く白い雲。

 深く青い海。

 ゆっくりと回転し、夜を迎えた大陸の輪郭に浮かび上がる、黄金色の都市の光。

 音はほとんどない。ただ、ステーション内部の生命維持装置の低い駆動音だけが響いている。

 

「……宇宙飛行士は、いつもこれを見ていたのか」

 

 皇太子が、窓ガラスに触れながら呟く。

 

『実際の宇宙空間の視界や光源とは異なり、安全な教育・展示用に調整された映像です』

 

「それでも、十分だ」

 

 地球を見下ろしながら、皇太子の顔から「ゲーム好きのオタク」の表情が完全に消え去り、国家指導者としての冷静で巨大な思考が回り始めた。

 

 宇宙から見る地球には、国境線は見えない。

 砂漠も、海も、大都市も、すべて同じ一つの惑星の表面でしかない。

 この技術があれば、宇宙へ行く資金も体力もない世界中の子供たちに、この景色を見せることができる。

 利権で争う国家指導者たちに、地球を外から見下ろすという『視座』を強制的に与えることができる。

 

「……これは、教育だ。そして、究極の外交でもある」

 

 皇太子のその一言は、外部のモニターで彼を監視していた日本側の心臓を強く打った。

 

「……狙い通りだ」

 

 黒瀬が、拳を握りしめて小声で言った。

 島村は、皇太子のその反応を見て、感極まって泣きそうになっていた。

 

 ◇

 

 宇宙ステーションの窓の向こうの青い地球が、ゆっくりと、美しい砂色へと染まっていく。

 

 次に皇太子が立っていたのは、見渡す限りの広大な砂漠だった。

 

 サウジアラビアの、抜けるように青く乾いた空。

 吹き抜ける熱風。

 実際の熱さは医療制限によってカットされているが、空気の乾いた質感と匂いは完璧に伝わってくる。

 

 遠くには、まだ何もない、ただの地平線。

 

『第三段階。未来ビジョン環境』

 

 オラクルが告げる。

 

『これより、リヤド未来都市構想の体験用シミュレーションを開始します』

 

 皇太子の目の前で、広大な砂漠のキャンバスに、光の線が走った。

 

 道路が敷かれる。

 送電網が繋がり、水路が巡る。

 地下の巨大なインフラが構築され、その上に豊かな緑化帯が広がる。

 最先端の研究都市。

 人々の活気に満ちた居住区。

 巨大な文化施設。

 スタジアム。

 空を飛び交うドローンの交通網。

 太陽光の反射で輝く発電施設。

 直射日光を遮り、快適な温度に保たれた歩行空間。

 そして、世界の中心となる『リヤド国際博覧会』の巨大な会場。

 

 都市が、皇太子の目の前で、まるで早送りの魔法のように立ち上がっていく。

 ただし、それは過剰で荒唐無稽なSF都市ではない。現実の延長としての、サウジアラビアが本当に作りたいと切望している、血の通った未来。

 

 皇太子は、歩き出した。

 砂の上から、美しく舗装された未来都市の大通りへ。

 

 両側からは、豊かな緑の香りと、噴水の水の音がする。

 遠くからは、平和に暮らす市民たちと、子供たちの笑い声。

 巨大な展示館の前には、万博を訪れた世界中の人々のシルエットが行き交っている。

 

『これは、建築上の完成予測図ではありません』

 

 オラクルが、黒瀬の意図を代弁する。

 

『未来の可能性を、自らの身体で理解するための“演出空間”です』

 

「……可能性」

 

 皇太子は、未来リヤドの中心広場に立ち止まった。

 そこには、国民を扇動するような巨大なスクリーンも、国家の威信を誇示する派手な演説もない。

 ただ、美しい空の下で、人々が歩き、話し、学び、暮らしている。それだけの、当たり前の平和な未来。

 

 皇太子が、ゆっくりと手を伸ばす。

 噴水から跳ねた水しぶきが、彼の人差し指に冷たい感触を残す。

 心地よい風が通り抜け、足元からは涼しい石材の感触が伝わってくる。

 

 彼は、言葉を失っていた。

 ただ、この歩ける未来の感触を、全身で噛み締めていた。

 

 そして、最後に、静かに言った。

 

「……これは、国民に見せなければならない」

 

『体験終了準備に入ります』

 

「待て。もう少しだけ」

 

『安全時間の上限に接近しています。これ以上の延長は推奨されません』

 

 皇太子は、小さく苦笑した。

 

「……なるほど。“戻りたくない”というのは、非常に危険な感情だな」

 

 皇太子は、この技術が持つ甘美な毒(依存リスク)を、自らの身体で直感的に理解していた。

 

「この技術は、国民に絶対の希望を見せる。だが、同時に……現実から目を逸らさせる危険な麻薬でもある」

 

 その冷静なリスクへの理解を口にし、皇太子は自らログアウトの手順を受け入れた。

 

 ◇

 

 プシュッ、と軽い排気音を立てて、ポッドのカバーが開いた。

 

 日本とサウジの医療チームが即座に駆け寄り、バイタルを確認する。

 

「バイタル安定。ただし心拍数は高めです」

 

 日下部が、極度の緊張で固くなった声で呼びかけた。

 

「殿下。……ご気分は、いかがですか」

 

 皇太子は、ゆっくりと上体を起こし、しばらく何も言わなかった。

 差し出されたミネラルウォーターを受け取り、ゆっくりと一口飲む。

 周囲の全員が、固唾を飲んで彼の第一声を待った。

 

 やがて、皇太子は深く息を吐き、口を開いた。

 

「……素晴らしいものを、体験できた。

 日本政府、アンノウン機関、そしてこのデモを作った皆様に、心から感謝する」

 

 日下部が、肩の力を抜いて安堵の息を漏らす。

 黒瀬や島村たちゲーム業界の面々も、ようやく呼吸を再開したように胸を撫で下ろした。

 

 しかし、皇太子はすぐに表情を引き締め、周囲で成り行きを見守っていたサウジ側の高官たちへと向き直った。

 

「だが、これは『言葉』では伝わらない」

 

 サウジ側の高官たちが、一瞬困惑の表情を浮かべる。

 

「説明を聞いても、映像を見ても、どれだけ分厚い資料を読んでも駄目だ」

 

 皇太子は、彼らを力強い目で指差した。

 

「入らなければ、分からない」

 

「殿下、それほどですか」

 

 サウジ側の都市開発担当官が、疑念交じりに問う。

 

 皇太子は、珍しく強い、有無を言わせぬ口調で命令を下した。

 

「入れ」

 

 サウジの一同が、完全に固まる。

 

「順番に入れ。医師も、都市開発担当も、文化担当も、警備責任者もだ。……これは、お前たちが自ら体験しなければ、絶対に判断できない」

 

 日下部は、一瞬だけ綾瀬厚労大臣を見た。

 

「一名ずつ、短縮版のコースであれば可能です」

 

 綾瀬厚労大臣が即座に答える。

 

「ただし、事前問診とバイタル確認をパスした方のみとなります」

 

「それでいい。全員、確認を受けろ」

 

 ◇

 

 ここから、サウジ側関係者の怒涛のフルダイブ体験が始まった。

 

 最初にポッドから出てきたのは、都市開発担当官だった。

 彼は体験前、「仮想都市など、きれいなCG映像と何が違うのか」と懐疑的だった男だ。

 

 だが、彼はポッドから這い出すなり、震える声で言った。

 

「……図面では、なかった」

 

「何がですか?」

 周囲が問う。

 

「都市計画とは、線と数字のデータではない。……人が歩く場所だ。これは、自分の足で歩いて初めて分かる」

 

 その言葉に、デモを作った黒瀬が小さく頷いた。(ゲーム画面じゃない、場所だ)……自分が数日前に感じたことと、全く同じ真理だ。

 

 次に体験したのは、サウジの文化担当官。

 彼は、第一段階の桜並木で最も深く心を打たれていた。

 

「日本の春を、言葉で説明されたことは何度もある。写真も、美しい映像も見た。

 ……だが、本物の花びらが指に触れるまで、私は日本の美しさを何も知らなかった」

 

 モニター越しにその言葉を聞いた島村が、感極まって泣きそうになる。

 

「サウジの砂漠も、同じように世界に見せられる。我々の深い文化も、言葉ではなく『身体』で伝えられるのだ」

 

 ここで、この技術の『文化外交』としての圧倒的な価値が、サウジ側で確定した。

 

 続いて、医療責任者が冷静な顔でポッドに入った。

 彼は安全性をチェックするため、極めて懐疑的な視点で体験に臨んだ。

 

 戻ってきての第一声は、周囲を凍らせた。

 

「危険です」

 

 日本側の医療チームが一瞬、顔色を失う。

 

「悪い意味ではない」

 

 医療責任者は、興奮を抑えきれない様子で続けた。

 

「完成度が、あまりにも高すぎる。

 依存性、現実へ復帰する際の強烈な落差、長時間使用時の精神への負荷。……管理なしに大衆へ普及させれば、国家規模の社会問題になる」

 

「同意します。だからこそ、我々は厳しい制限をかけています」

 綾瀬厚労大臣が強く頷く。

 

「しかし……厳格な管理下で運用できるならば、医療リハビリ、精神ケア、教育訓練において、人類史上の革命を起こせる」

 

 最も手強いと思われていた医療責任者が、安全面での最大の味方となった。

 

 そして、警備責任者。

 彼は体験前、「王族をこんな仮想空間の箱に入れるなど、護衛上は悪夢でしかない」と強く反対していた。

 

 だが体験後、彼の顔色は完全に変わっていた。

 

「……これは、警備訓練にも使える」

 

 日下部が、強烈な嫌な予感を覚える。

 

「要人警護、大規模な群衆誘導、テロ対処、施設からの避難。現実では絶対に実行できない過酷なシミュレーション訓練が、ここでは完全に再現できる」

 

 その言葉に、霧島防衛大臣が小さく反応を示した。

 日下部が即座に釘を刺す。

 

「本日の議題は、あくまで万博の展示デモです。軍事や警備のシミュレーターではありません」

 

「もちろんです」

 

 警備責任者は形式的に頷いたが、その目は完全に「本気で実戦配備を考える軍人」のそれであった。

 

 最後に、皇太子の親族である若い王族が体験した。

 彼は生粋のゲーム好きであり、純粋にエンターテインメントとして感動し、興奮してポッドから飛び出してきた。

 

「まさに至高の体験だ!

 入ってみろ。入らなければ、これは絶対に分からないぞ!」

 

 その後、サウジ側の高官たちの間で、同じ言葉が何度も繰り返された。

 

「至高だった」

「説明不能だ」

「入れ」

「自分の足で歩け」

「見れば分かるのではない。入れば分かるのだ」

 

 皇太子が最初に発した「入らなければ伝わらない」という強烈なメッセージが、サウジ関係者全員に完全に伝播していた。

 

 ◇

 

 だが、この熱狂は、日本側にとって想定外の事態を引き起こした。

 

「殿下、本日の体験枠には限りが……」

 

 日下部が、次々と列を作り始めたサウジ側の随行員たちを見て、冷や汗を流しながら進言する。

 

「分かっている。だが、これは国家の意思決定に必要な体験だ。こちらで優先順位をつける」

 

「医療チェックの問診とバイタル確認を通過した方のみとなります」

 綾瀬厚労大臣が譲らない。

 

「もちろんだ。我々も安全を最優先する」

 

 ここで、オラクルがスピーカーから淡々と無慈悲な計算結果を告げた。

 

『本日の予定を再計算します。

 現在の希望者数から算出される総体験時間は、休憩および医療問診を含めて、十一時間四十分です』

 

 日下部は、胃が限界を突破して千切れるのを感じた。

 

「先日の、業界人の十六時間待ちよりは短いですね」

 

 黒瀬が、少しだけ同情するように小声で言う。

 

「比較対象が根本的におかしいです」

 

 日下部は、無表情のまま虚空を睨みつけた。

 

 ◇

 

 一通り主要な高官たちが体験を終えた後、皇太子、日本側トップ、サウジ側中枢だけの非公開の小会議が開かれた。

 皇太子の表情は、完全に国家を導く政治家の顔になっていた。

 

「これは、間違いなく万博の目玉になる」

 

 経産省の担当官が、誇らしげに頷く。

 

「だが、単なる目玉にしてはならない」

 

 皇太子は、強い決意を込めて言った。

 

「これは、遊園地で行列を作るただのアトラクションではない。国家の未来を、民に見せるための『玉座』だ」

 

 日下部は、その「玉座」という表現に少し警戒した。宗教的な権威に寄りすぎると、世界的な反発を招く危険があるからだ。

 

「もちろん、儀式や玉座という言葉を公式には使わない」

 

 皇太子は、日下部の懸念を見透かしたように続けた。

 

「だが、私が言いたい意味は分かるだろう。

 人は、未来を分厚い資料では決して信じない。しかし、一度その未来を自分の足で歩けば、信じる。これはそういう装置だ」

 

「だからこそ、見せ方を慎重に管理する必要があります」

 

 矢崎総理が、画面越しに静かに念を押す。

 

「同意する。この技術は、国民に絶対の希望を与える。同時に、現実を軽く見せる危険もある」

 

 皇太子が、フルダイブの価値と危険性の両方を完璧に理解していることを示し、日本側もようやく安堵した。

 

 ◇

 

 会議の終盤、皇太子が正式な申し出を行った。

 

「リヤド万博におけるフルダイブ展示区画の建設費、警備費、医療支援、および大規模な運営支援の費用は、すべて我が国が全面的に負担する」

 

 日下部は予想していたが、あまりにも規模の大きい申し出に重圧を感じた。

 

「ただし、技術の中核には触れない。

 ポッドの運用、神経接続の制御、オラクルによるシステム管理は、すべて日本側が握れ。……我々は、あなた方が輝くための『舞台』を整える」

 

 これは、前回の会議で日下部が定めた方針と完全に合致していた。

 

「未来リヤドのシミュレーションは、我々サウジ側の都市計画部門と共同で、さらに精緻にブラッシュアップしたい」

 都市開発担当官が提案する。

 

「桜並木のように、我々の文化の深さや、砂漠の美しさを伝える空間も作りたい」

 文化担当官が要望する。

 

「体験人数、時間、禁忌条件、ログアウト後の休憩義務について、日サ共同の絶対的な安全基準を作りたい」

 医療責任者が医療的協定を求める。

 

「施設警備と参加者の導線は、我々と日本側で共同設計する必要がある」

 警備責任者が実務的な調整を要求する。

 

 日下部の仕事が、また雪ダルマ式に増えていく。

 

 ◇

 

 皇太子が、デモの設計を担当した黒瀬たちゲーム業界側へ向き直った。

 

「この素晴らしい体験を作ったのは、あなた方か」

 

「基盤はアンノウン機関です」

 

 黒瀬は、奢ることなくプロとして答えた。

 

「我々は、体験の流れと演出の一部を、安全な範囲で調整したにすぎません」

 

「それでも、素晴らしかった」

 

 皇太子は、彼らに向かって深く頭を下げた。

 

「あなた方は、未来を“歩ける形”にしてくれた。

 ……『ゲーム会社』というものを、私は今日、改めて尊敬した。あなた方はただの遊びを作っているのではない。人がまだ行けない場所を、先に作っているのだな」

 

 島村が、その言葉を聞いて思わず感極まり、目頭を押さえた。

 これは、ゲーム業界の人間にとって、国家や金よりも重い、最大の報酬であった。

 

「ありがとうございます、殿下」

 

 黒瀬は、深く、深く頭を下げた。

 

「俺……ゲーム会社にいて、本当によかった……」

 

 芹沢が、裏で小声で呟き、島村が何度も頷いていた。

 

 ◇

 

 施設を出る前、皇太子が再び純白のポッドを振り返った。

 

「日下部殿。

 ……私は今日、未来を見たのではない」

 

「では、何を?」

 

 日下部が問う。

 

「未来を、歩いたのだ」

 

 皇太子は、満足げに微笑んでから、サウジ側の随行員たちへ向かって力強く宣言した。

 

「リヤドに、この未来への『扉』を作る。

 ただし、鍵は日本が持て。……我々は、世界中の人々がその扉の前に立つための、最高の舞台を作るのだ」

 

 日下部は、皇太子の後ろ姿を見送りながら、静かに思った。

 また一つ、世界を根本から変える巨大な展示計画が、後戻りできない形で動き出してしまったのだと。

 

 その頃。

 オラクルが、本日のサウジ関係者の体験後アンケートの集計結果を、無慈悲に日下部の端末へ転送してきた。

 

【体験者満足度:100%】

【再体験希望率:100%】

【言語化困難と回答:100%】

【代表的自由記述:入ってみろ】

 

 日下部は、その画面を見て深く頭を抱えた。

 

「オラクル。……それはアンケートとして全く機能していません」

 

『肯定します。

 ただし、全員が同一傾向の回答を示しているため、本デモの体験の訴求力は、極めて高いと評価されます』

 

 こうして、フルダイブ技術は、単なるゲームでも、単なる万博の展示でもなくなった。

 それは、国家が未来を語り、世界を牽引するための、全く新しい『言語』になろうとしていた。

 

 




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