自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
モスクワ、クレムリンの地下深く。
かつて冷戦時代に核シェルターとして設計され、その後、現代の高度な情報戦と電子戦に対応するために幾度も改修を重ねてきた極秘の特別会議室。分厚いコンクリートと鉛、そして最新の電波吸収素材に覆われたこの空間には、地上の容赦ない凍てつく寒さも、モスクワ市内の絶え間ない喧騒も一切届かない。
一切の外部通信が物理的かつシステム的に完全に遮断され、スマートフォンやスマートウォッチといったあらゆる電子機器の持ち込みは、最高指導者たる大統領の最側近であっても例外なく厳禁とされていた。重厚なマホガニーの円卓の上に並べられているのは、厳重な機密透かしの入った分厚い紙の資料と、クレムリン内部の閉域ネットワークのみに繋がる有線接続の強固な端末だけである。
SOHA
壁面を覆う巨大なマルチスクリーンには、音もなく、だが圧倒的な熱量を持った映像が流れ続けていた。
中東の強烈な日差しを照り返す、リヤド万博における『日本・サウジ未来体験館』の威容。
流暢なアラビア語や英語、フランス語、さらには各国の複雑な方言までをも完璧に操り、各国のVIPを案内するオラクル義体の滑らかで不気味なほどの動作。
真っ白なポッドから這い出し、ある者は顔を覆って泣き崩れ、ある者は恍惚とした表情で天を仰ぐ体験者たちの狂乱。
そして何より――アメリカ合衆国大統領キャサリン・ヘイズが、大勢のプレスの前で「中に入ってみれば、分かりますよ」という歴史的な一言を言い残し、深い沈黙と共に立ち去る瞬間の映像。
この閉ざされた地下会議室の空気は、鉛のように重く、そして同時に、行き場のない奇妙な熱を帯びていた。
円卓を囲むのは、ロシア連邦の最高権力者であるウラジーミル・ボグダノフ大統領を筆頭に、安全保障会議書記、国防相、対外情報庁(SVR)長官、連邦保安庁(FSB)をはじめとする国内治安機関長官、経済開発相、そして大統領直属の科学技術顧問といった、国家の中枢を担う限られた高官たちである。
彼らの眼差しには、一様に同じ色が浮かんでいた。
人間の理解を超えた「深淵」を覗き込んでしまった者の、拭い去れない畏怖と困惑。
アメリカ合衆国の大統領が、あの未知なる白いポッドに入った。
その事実を知った瞬間、ウラジーミル・ボグダノフに「静観する」という選択の余地は残されていなかった。アメリカの最高指導者が、自らの神経系で“何か”を直接体験し、あのような表情で言葉を失った。ならば、世界を二分する陣営のもう一方の極として、敵対する超大国のトップとして、それを知らぬまま部下の作成した報告書だけで国家戦略を練るわけにはいかなかったのだ。
それは、大国としての単なる見栄や、つまらない対抗心などではない。
世界の形を、現実の定義を根本から変えるかもしれない技術の正体を、アメリカの大統領だけが「自らの生きた身体と脳で理解している」という絶対的な情報の非対称性を、ロシアという国家は決して許容できなかった。
ボグダノフは即座に水面下で極秘裏に動き、サウジアラビアのアブドゥル皇太子に対して、国家間の裏の駆け引きを用いた非公式な最重要ルートで強い要請を行った。
結果として、ボグダノフ大統領自身、そして今この場にいる情報、国防、科学分野の最側近の何人かは、極秘裏にお忍びでリヤドへ飛び、VIP枠のさらに奥底の不可侵領域で、あのフルダイブを体験済みであった。
ボグダノフは、スクリーンで明滅を続けるリヤドの熱狂を見つめたまま、微動だにしなかった。
深く特注の革張り椅子に腰掛け、両手を顔の前で組んだまま、氷のような沈黙を保っている。
側近たちは、誰一人として口を開かない。彼らの主たる最高権力者が最初の言葉を紡ぐまで、ただ息を潜めて待つのがこの部屋の絶対的な流儀だった。誰も急かさず、ただ大統領の思考の歯車が噛み合い、言葉という刃の形をとる瞬間を待機している。
やがて、重厚な静寂を切り裂くように、ボグダノフが低く、しかし部屋の隅々の冷気までを震わせるような声で口を開いた。
「……これは、神の技術だ」
その率直すぎる響きに、会議室の空気が一瞬にして凍りついた。
徹底した冷徹な現実主義者であり、非科学的な概念や宗教的な神秘主義を嫌うボグダノフの口から出た言葉としては、あまりにも異質で、危険な響きを持っていたからだ。
だが、ボグダノフは組んだ手を解き、ゆっくりと首を横に振って、自らの言葉をすぐさま訂正した。
「いや、違うな。神の技術という表現は、いささか正確性に欠ける。……これは、人間に『神の真似事』をさせる技術だ」
側近たちの間に、微かな、だが確かな緊張が走る。
フルダイブは、単に美しい映像や心地よい音響を見せるだけの“素晴らしい体験”ではない。人間の五感を完全に支配し、物理法則の制約を一切受けない「全く新しい世界」をゼロから創造し、それを他人の脳に直接、現実として体験させる技術。
つまりそれは、人間が創造主(クリエイター)側に限りなく近づくための、あるいは他者の現実認識を完全に支配するための、究極の統治ツールであるという本質を、ボグダノフは極めて正確に突いていた。
「日本の奥底に潜む『アンノウン』という存在が、いかに常軌を逸した異常な天才であるか。……私はあの白い箱の中で、骨の髄まで思い知らされたよ」
ボグダノフは、手元にあった分厚いファイル――リヤド万博以前に、ロシアのSVRやFSBといった各情報機関が総力を挙げて作成した『日本のアンノウン』に関する分厚い分析報告書――を無造作に持ち上げ、机の中央へと乱暴に放り投げた。
バサリ、という重く乾いた音が響く。
「我々は今まで、優秀な君たちが書いたこの報告書を読んで、彼らを理解したつもりになっていた。それが、どれほど致命的で、巨大な間違いであったか」
安全保障会議書記が、慎重に、言葉を徹底的に選びながら口を挟んだ。
「大統領。我々の情報機関は、日本のアンノウンが成し遂げてきた数々の異常な技術的ブレイクスルーを、可能な限り正確に追跡し、分析してきたつもりです。ナノテクノロジー、未公開のエネルギー技術、義体兵器。それらの情報をパズルのように組み合わせ、国家としての対応策を練ってきました」
「ああ、その通りだ。君たちはよくやっていた。組織としては満点だ」
ボグダノフは部下の働きを頭から否定しなかった。だが、その低い声には、国家としての限界への自戒が深く込められていた。
「我々は、アンノウンの動きをチェスの手のように、一手ずつ観察していた。ある時は医療分野での圧倒的な技術。ある時は未知のエネルギー制御。ある時は自律型AI。そして今回は中東での展示技術。……我々は、それぞれを別々の『駒の動き』として捉え、我々の知る既存の盤面のルールの上で、彼らの戦略を分析していた」
ボグダノフは、机に投げ出された報告書の表紙を、冷ややかな指先でトントンと叩いた。
「だが、自らの神経でフルダイブを体験して、はっきりと分かった。これは、駒をどう動かすかという次元の話ではない。アンノウンは、我々が必死に勝負している『盤面そのもの』を、丸ごと燃やし尽くし、全く別のルールの世界を作り替えようとしている側にいる存在だ」
ボグダノフの言葉の圧倒的な重みに、軍のトップである国防相が眉根を深く寄せた。
「あの報告書の活字とデータだけでは、そこまで見えなかったと仰るのですか」
「見えない」
ボグダノフは断言した。
「フルダイブは、文字を読んで理解できる技術ではない。中に入って、自分の神経系に直接流し込まれる情報で理解する技術だ。だからこそ、我々は彼らの本当の恐ろしさを、その出力の次元の違いを、完全に読み違えた」
ボグダノフは、円卓を囲む部下たちを一人ひとり、ゆっくりと見渡した。その氷のように鋭い眼光は、一切の幻想や希望的観測を排した、冷徹な現実のみを映し出していた。
「率直に言おう。――我々は、アレには勝てない」
会議室が、完全に凍りついた。
強大なロシア連邦を率いる絶対権力者であり、いかなる困難にも屈しないはずのボグダノフが、戦う前から明確な「敗北」を口にしたのだ。それは、この場にいる誇り高きロシアの高官たちにとって、最も聞きたくない、あり得ないはずの言葉だった。
だが、ボグダノフは逃げずに続けた。
「アンノウンという規格外の存在が日本側にいる時点で、国家間の技術覇権における『一位争い』は、すでに完全に詰んでいる。日本は、通常の国家間競争をしているのではない。全く別のルールで、全く別の盤面を我々の目の前に持ち込んでいるのだ。そこでは、我々が誇る核兵器の数も、広大な領土も、意味を持たない」
「大統領。……流石に、そこまで絶望的な評価を下す必要はないのではありませんか?」
国防相が、国家としての屈辱を隠しきれない震える声で反論した。「我々には、世界に誇るべき科学アカデミーの叡智と、膨大な軍事研究の蓄積があります。時間と予算をかければ、必ずや……」
「そこまでだ、と言っている」
ボグダノフの声が、絶対零度の冷たさで響いた。
「フルダイブを直接体験した者なら分かるはずだ。あれは単なる万博の展示技術などではない。学習、訓練、政治宣伝、医療、娯楽、都市計画、そして戦争。人間が関わるありとあらゆる事象の前提を、根本から覆す。アンノウンは、既存のテクノロジーの枠を超え、人類史そのものの軌道を変えようとしている大天才だ」
ボグダノフの瞳の奥には、強烈な悔しさと、それ以上の深い畏怖が混ざり合っていた。
「最大の問題は、その事実を我々が紙の束で読んで、『知った気』になっていたことだ。自らの体験の欠如が、国家の目を曇らせた」
ボグダノフの決定的な敗北宣言を受け、会議室は圧死しそうなほどの重い沈黙に包まれた。
その沈黙を破ったのは、共にリヤドへ飛び、実際にポッドへ入り、世界の形が変わる瞬間を肌で感じた高官たちの証言だった。彼らもまた、大統領と同じく、打ちのめされた現実を共有していた。
「私も、大統領と全くの同意見です」
安全保障会議書記が、苦渋に満ちた顔で口を開いた。
「体験するまでは、どんなに優れていても『高度なVR映像技術』の延長だろうと高を括っていました。ですが、全く違いました。あれは、現実世界の代替品などではない。現実という概念を、全く別の形で設計し直すための技術です」
「軍事的な観点から言えば、あれは究極の戦場エミュレーターになります」
国防相も、先ほどの反発を引っ込め、純粋な軍人としての残酷な評価を下した。
「あれを使えば、完全な戦場を脳内に再現できます。新兵に、本物の戦場に立つ前に、極寒の泥に塗れる不快感、骨を砕かれるような痛み、そして死の絶対的な恐怖の環境を歩かせることができる。そして何より、指揮官に対して、取り返しのつかない『敗北』を何度でも経験させられる。……これまで我々が膨大な血と命を支払って得ていた実戦の経験を、仮想空間の中で無傷で積ませることができる。これは軍事革命です」
「潜入工作や諜報活動にも、革命的な応用が可能です」
対外情報庁(SVR)長官が、目を血走らせて興奮気味に続けた。
「ターゲットとする外国の空港、厳重なホテル、政府の役所、地下鉄の駅、あるいは複雑な繁華街。我々のエージェントが実際にその地を踏む前に、何度でもその空間を歩かせ、予行演習させることができる。現地の言語だけではありません。人々の距離感、視線の圧力、空気の読み方、裏路地の腐臭といった、現場でしか得られない感覚を完璧に訓練できる」
「研究分野においても同様です」
科学技術顧問が、狂気すら孕んだ声で発言した。
「現実の物理空間では危険すぎて不可能な極限環境を仮想空間で再現し、研究者自身が身をもって体験できる。実験計画の立案、致死的な放射能漏れ事故への対応シミュレーション、未知の設計レビュー。使い道はまさに無数、無限大です」
各分野のトップたちが語る、フルダイブの圧倒的な可能性。それは同時に、この技術を他国に独占された場合の、ロシアという国家の死を意味していた。
安全保障会議書記が、冷や汗を拭いながら議論を総括するように言った。
「大統領。皆様の意見を総合すれば、フルダイブ技術は、現時点で公開されたアンノウン関連技術の中でも、最も広範に、そして最も深く全世界の社会構造を壊す『危険な爆弾』です。……アメリカと同調するのは極めて不本意ではありますが、この件に関しては、早急に厳格な国際的な規制委員会を立ち上げ、管理の枠組みを作るべきかと存じます」
書記の提案は、常識的であり、大国としての責任ある対応に思えた。
アメリカも間違いなくその方向へ動く。ならば、ロシアもそのテーブルにつき、共に技術の暴走を抑え込む側に回るべきだという論理だ。
ボグダノフは、安全保障会議書記の言葉を静かに聞いていた。
その表情からは感情が読み取れない。やがて、彼は短く、だが鋭い声で返した。
「……規制?」
そのたった一言で、会議室の空気が一変した。
冷徹な合理主義者であるボグダノフの目が、獲物を狙う猛禽類のように細められていた。
「はい」
安全保障会議書記は、ボグダノフの気迫に押されながらも答えた。
「アメリカのヘイズ大統領も、この技術の危険性に気づき、間違いなく厳格な国際管理協定を提案してくるはずです。我々も表向きはそこに乗り、共同で管理体制を敷きつつ、内部の情報を引き出すべきかと」
ボグダノフは、ゆっくりと頷いた。
「表向きは、な」
ボグダノフの唇の端が、微かに、だが確かに歪んだ。
「だが、ただアメリカに同調し、規制側に回って大人しくしているだけでは……あまりにも勿体ないとは思わないか?」
部下たちは息を呑み、沈黙した。
ボグダノフが、単なる現状維持や安全策に満足していないことは明らかだった。
「いいか、よく聞け」
ボグダノフは身を乗り出し、円卓の中心に向けて低い声を放った。
「日本が一位を取ることは認めよう。アンノウンという規格外の存在が向こうにいる以上、それは避けられない絶対の現実だ」
ボグダノフは一拍置き、言葉に最大の重量を乗せた。
「だが、それは……我々ロシアが『二位』にならないという理由にはならない」
その強烈な宣言に、安全保障会議書記が思わず身を固くした。
「……大統領? それは、どういう意味でしょうか」
「簡単なことだ」
ボグダノフは再び深く椅子に寄りかかり、薄く笑った。
「アメリカは、その潔癖症と民主主義のシステムゆえに、自ら厳格な規制を敷き、欲望を自制する。EUの連中も、倫理やら人権やらという退屈な理屈をこね回して、自縄自縛に陥るだろう。多くの国は、未成年保護や依存症対策という美しい建前を掲げて、規制の側に回る。それは確実だ」
ボグダノフの視線が、経済開発相を捉えた。
「だが、民衆はどう思う? 彼らの本音はどうだ?」
経済開発相は、ボグダノフの意図を察し、明確に答えた。
「……間違いなく、使いたがります。どれほど政府が危険だと言おうが、あの圧倒的な体験を求めて殺到するはずです」
「その通りだ」
ボグダノフは満足げに頷いた。
「世界中の人間は、あのリヤドの映像を見て、すでに心の底で“中に入りたがっている”。……我々は、そこを徹底的に突く」
ボグダノフは、ロシアが今後取るべき「表向きの戦略」を整理し始めた。
「我々ロシアが国連や国際社会で掲げる旗は、こうだ。『フルダイブは、一部の先進国や西側同盟国だけが独占してよい技術ではない。人類全体に広く開かれるべき、教育、医療、文化、そして福祉の技術である』と」
安全保障会議書記は、素早くメモを取りながら確認した。
「なるほど。障害を持つ方や高齢者にも、未来を体験する権利がある。貧しい発展途上国の子供たちにも、高品質な教育環境を仮想空間で平等に与えるべきである……戦争被害者の心のケアに使うべきである、といった主張ですね」
「その通りだ」
ボグダノフは冷笑した。
「そう主張すれば、西側のメディアも無下には反対できない。過剰な規制は強者の論理であり、世界的な『体験格差』を固定化する悪政である。アメリカ主導の管理枠組みは、事実上の技術独占に他ならないと徹底的に批判するのだ」
経済開発相が、深く頷いた。
「『人道的普及』という絶対的な大義名分を掲げるのですね。それならば、アメリカの規制強化に不満を持つ国々や、ビジネスチャンスを狙う多国籍企業を、我々の陣営に引き込むことができます」
「そして、何よりも民衆を取り込める」
ボグダノフは冷ややかに笑った。
「人は、どれほど危険だ、倫理に反すると言われても……自分たちが『夢を見る権利』を決して手放そうとはしない生き物だ」
表向きの美しい建前を確認したボグダノフは、声のトーンを落とし、より黒く、より現実的な「裏の狙い」へと話を進めた。
「フルダイブ技術の最大の特徴は、あの白いポッドという物理的な装置が必要になるという点だ」
ボグダノフは、スクリーンのポッドを指差した。
「つまり、巨大な施設が必要になる。体験者はその場所へ物理的に足を運ばねばならない。医療スタッフの常駐が必要であり、運用するための膨大な人員とエネルギーが必要になる。……そして、ポッドが置かれたその場所に、莫大な金が落ちるということだ」
経済開発相が、まるで宝の地図を見つけたかのように身を乗り出した。
「フルダイブ施設は、単なる娯楽施設ではありません。それは新たな観光資源であり、最先端の医療施設であり、世界中の学生を集める教育機関であり、他国の軍隊を呼び込む軍事訓練施設にもなります」
「そうだ。日本やサウジアラビアがリヤドで見せたのは、誰もが微笑む『安全で美しい未来』だった。……だが、世界には、それだけでは満足しない人間が必ずいる」
ボグダノフの目に、野心的な光が宿った。
「より過激な体験。より自由な体験。より刺激の強い体験。……アメリカやEUの厳しい規制の枠組みの中では絶対に提供できない、法と倫理のグレーゾーン。それを大金を出してでも求める人間は、必ず現れる」
国内治安機関長官が、眉を深くひそめて警告した。
「大統領、それは非常に危険な道です。そのような過激な仮想体験を提供すれば、国内に深刻な依存症患者を生み出し、凶悪犯罪や社会不安を呼び込む温床になります」
「だから、国家が厳重に管理するのだ」
ボグダノフは、治安のトップを鋭い視線で制した。
「無秩序に開放するのではない。我々が首輪を握った上で管理する。……だが、決して『禁止』はしない。それが西側との決定的な違いになる」
ボグダノフの方針を受け、各省庁のトップたちが、ロシア独自のフルダイブ利用構想を次々と提示し始めた。
まず口火を切ったのは、国防相だった。
「軍事利用に関してですが、我が国の広大な国土と過酷な気候を生かしたシミュレーションが考えられます。極寒の寒冷地戦闘訓練、複雑に入り組んだ都市戦訓練、過酷な山岳戦訓練。これらを仮想空間で同盟国や友好国の軍隊、あるいは民間軍事会社に有料で提供するのです。特に、絶え間ない砲撃下での判断訓練や、指揮官教育への価値は計り知れません」
「ほう」とボグダノフが促す。
「先程も申し上げた通り、一度の敗北で貴重な部隊や機材を失うことなく、指揮官に『絶望的な敗北』を何度でも経験させることができます。仮想空間で部隊が全滅する痛みを味わい、そこから何を学ぶか」
「敗北の苦さを骨の髄まで経験できる指揮官は、現実の戦場でも強い」
ボグダノフは深く頷いた。
「はい。ただし、精神への負荷は極めて強烈になります。慎重に調整しなければ、指揮官の精神そのものが破壊されます」
「壊れないギリギリの範囲を探り出せ」
ボグダノフは非情に言い放った。「ただし、決して甘くするな。ロシアの軍事訓練は、西側のぬるま湯とは違うということを世界に示せ」
続いて、対外情報庁長官が静かに発言を求めた。
「我が情報機関の潜入工作員育成にも、極めて有効なプログラムを構築できます」
長官は手元の資料を見ながら、淡々と説明する。
「実在する敵国の都市を、センチメートル単位で完全再現できなくとも構いません。似たような都市構造、似たような言語環境、そして似たような『社会的圧力』を仮想空間内に構築できれば、それで十分なのです」
「具体的には?」
「ターゲット国の国際空港での厳しい入国審査の手続き練習。滞在するホテルや、機密情報をやり取りする会議場での動線確認。現地の治安機関から『監視を受けている』という極度のプレッシャー下での行動訓練。不意に警察に職務質問された際の、自然な対応。尾行を撒くための群衆への紛れ込み方。……交渉前に、相手国の文化的背景を身体で体験させておくことも可能です」
対外情報庁長官の顔に、底知れぬ自信が浮かんだ。
「これまで、何年もの歳月をかけ、命がけの現場でしか積めなかった泥臭い経験を、完全に安全なモスクワの地下で積ませることができる。これは、工作員育成の歴史のパラダイムを根本から変えます」
「逆に言えば、敵国のアメリカが、我々のモスクワ市街や政府施設を模した訓練環境を作り、工作員を送り込んでくる可能性もあります」
国内治安機関長官が、防諜の観点から警戒を露わにした。
「だからこそ、我々が後れを取ってはならないのだ」
ボグダノフが強く念を押した。「我々が先に環境を作り、他国を凌駕する経験を積まねばならない」
軍事と諜報の実践的な議論が一段落したところで、科学技術顧問がおずおずと、しかし核心を突くように発言した。
「大統領。私は、このフルダイブ技術が、単なる展示技術やシミュレーターに留まらないと考えています。……私は、アンノウンのあの異常な技術的ブレイクスルーの根源に、この技術そのものが関わっているのではないかと推測しています」
「どういう意味だ?」
ボグダノフが鋭く問う。
「もし、このフルダイブ空間の内部で、人間の『時間感覚』を操作できるとしたらどうでしょう」
科学技術顧問は、会議室の全員の反応を窺うように見回した。
「現実世界ではわずか一時間しか経っていなくとも、仮想空間の中にいる人間の主観では、一日、一ヶ月、あるいは一年に感じられるようなシステムです。……もし、その引き伸ばされた時間の中で、設計、実験、失敗、そして検証を無限に繰り返せるのだとしたら。研究者は、人間にとって最大の壁である『現実の時間的制約』から完全に解放されます」
その仮説の恐ろしさに、ボグダノフの顔色が変わった。
「アンノウンは、すでにそれをやっていると?」
「あくまで仮説、可能性に過ぎません」
科学顧問は慎重に言葉を選んだ。「ですが、もしそうであるならば、我々がこれまで報告書で追っていたアンノウンの異常な開発速度は、彼の本当の『主観時間』からすれば、決して異常でもなんでもないのかもしれません」
会議室が、深海の底のような静寂に包まれた。
「彼は、我々と同じ二十四時間を生きている、ただの天才ではない。我々よりも遥かに膨大な時間を生き、想像を絶する経験を積んだ天才かもしれないのです」
その言葉は、ロシアという国家の科学技術における完全敗北を意味していた。
だが、ボグダノフは絶望するどころか、不敵な笑みを浮かべた。
「……だからこそ、一位争いは綺麗に捨てるのだ」
「はい」
科学顧問も頷いた。「まともに追いつこうとするのではなく、彼が作り出した技術の中で、我々が有利に利用できる部分だけを徹底的に探り出すべきです」
経済開発相が、これまでの議論を踏まえて熱っぽく語り始めた。
「大統領。つまり、このフルダイブ技術を、我が国ロシアの『新しい成長産業の柱』にするということですね」
「そうだ」
ボグダノフは力強く肯定した。
「いつまでもエネルギーや天然資源、旧態依然とした軍需産業だけに頼って国家を維持する時代は、そう長くは続かない。これからの世界の覇権は、人々の『体験』を握った国が取る」
ロシアが国家戦略として狙うのは、アメリカの倫理的規制の網の目を潜り抜けた、広大で未開拓の市場だった。
一つ目は、『過激フルダイブ観光』。
西側諸国が倫理委員会や人権団体の圧力で規制せざるを得ないような、強烈な刺激を伴う体験を、ロシアの国家管理下で世界に向けて提供する。
極寒のシベリアや絶海の孤島を舞台にした極限のサバイバル体験。本物の痛覚設定(制限付き)をオンにした戦場体験。過去の凄惨な歴史戦争のリアルな再現。精神の限界を試すようなホラー・恐怖体験。決して成人向けの低俗なコンテンツではなく、あくまで人間の限界に挑む「強刺激体験産業」としてブランディングする。
二つ目は、『軍事・警備訓練の輸出』。
自国軍だけでなく、国内外の政府、民間軍事会社(PMC)、警備会社向けに、ロシアの過酷な仮想訓練環境を有料で提供する。
三つ目は、『科学・産業シミュレーション』。
原子力発電所の事故対応、致死性の高い化学プラントでの危険作業、宇宙空間での活動など、現実ではリスクが高すぎる訓練環境を構築し、世界中の研究機関に売り込む。
四つ目は、『医療・リハビリ観光』。
表向きは「人道的普及」の看板として機能する。西側よりも安価で大量の医療用フルダイブ環境を提供し、世界中の患者をロシアに集める。
五つ目は、『文化・歴史の観光資源化』。
帝政ロシアからの壮大な歴史、宇宙開発競争の軌跡、極地開拓の過酷な歴史などを仮想空間で追体験させ、ロシアの文化的な影響力を世界に拡大する。
「上手くインフラを整え、世界の欲望を刺激できれば……」
経済開発相は、バラ色の未来を描くように言った。「『最高のフルダイブを体験するためには、ロシアへ行くしかない』という、巨大な人の流れを作ることができます」
「そうだ」
ボグダノフの目に、獰猛な光が宿る。
「西側の連中が、安全基準や倫理の議論で足踏みし、身動きが取れなくなっている間に、ロシアは世界の『体験市場』を丸ごと取りに行く」
だが、ここで国内治安機関長官が待ったをかけた。
「世界から人を呼ぶのは結構ですが、国内への普及はどうされますか? これほど刺激の強い技術を国内に野放しに広げれば、間違いなく社会秩序は崩壊します。過激な仮想体験で残虐な行為に慣れきった者が、現実と仮想の区別を失い、凶悪犯罪に走る危険も十分にありますし、反政府的な思想の温床にもなりかねません」
「国内向けは、厳格な国家管理下に置く。完全自由化する必要など全くない」
ボグダノフは、事もなげに言った。
「では、外貨獲得向けの外国人用サービスと、自国民向けのサービスを完全に分けるということですか?」
経済開発相が確認する。
「そうだ」
ボグダノフは頷いた。
「国内の国民には、国家によって徹底的に統制・検閲された愛国教育、健全な職業訓練、有事に備えた軍事予備訓練、そして医療応用のみを提供する。……そして、外貨を落とす外国人向けには、西側で禁じられている『刺激的で自由な体験』を大いに売る」
「それは……明らかな二重基準(ダブルスタンダード)になりますが」
安全保障会議書記が、懸念を口にした。
「国家とはそういうものだ」
ボグダノフは、一切の躊躇なく言い切った。「自国民の徹底した統制と、他国からの搾取。それを両立させてこそ、真の強国と言える」
最後に、世界情勢を動かすアメリカとの駆け引きについての議論となった。
「アメリカは間違いなく、フルダイブに関する強固な国際管理協定を提案してくるでしょう。我々はどう対応しますか」
安全保障会議書記が問う。
「参加する」
ボグダノフの即答に、部下たちは少しだけ驚いた表情を見せた。
「参加しなければ、ルール作りの内側から情報を取ることはできない」
ボグダノフは、クレムリンの主としての狡猾さを見せた。
「規制作りのテーブルには、堂々と座る。そして、表向きには『人道的普及』『体験格差の是正』『発展途上国への安価な提供』を強く主張し続ける。西側諸国による過剰な規制は、事実上の技術独占であると批判し、規制の抜け穴を広げるように動くのだ」
「表では人道の旗を振りながら、裏では市場を独占し、技術の深淵に接触する、と」
対外情報庁長官が、大統領の策謀を正確に代弁した。
「その通りだ」
ボグダノフは深く頷き、ここにロシア連邦の新たな国家戦略の方針が完全に固まった。
ボグダノフは、円卓を囲む部下たちを一人ひとり見据え、最終的な結論を宣言した。
「アンノウンには勝てない。日本が技術覇権の一位を取ることは、事実として認める。……だが、アメリカが二位になる必要はどこにもない」
会議室が、水を打ったように静まり返った。大統領の言葉が、部屋の隅々にまで染み渡っていく。
「アメリカは、自らの民主主義と潔癖さゆえに、規制で自らの手を縛るだろう。EUは、倫理と人権の呪縛で身動きが取れなくなる。中国は、体制維持のための徹底した統制を優先しすぎて、民衆に魅力的な夢を見せきれないはずだ」
ボグダノフは、ゆっくりと立ち上がった。
「ならば、我が国ロシアが、世界中の人間が求める『自由で過激な夢の受け皿』になる。それこそが、次の時代を生き抜くための我々の道だ」
「それは……極めて危険な夢です、大統領」
安全保障会議書記が、畏れを込めて呟いた。
「だからこそ、莫大な価値がある」
ボグダノフは不敵に笑った。
「国防省としては、フルダイブ技術そのものの確保、あるいは、安全に利用できる環境の構築を、国家の最優先課題として動きます」
国防相が、力強く敬礼した。
「ああ、頼む。……だが、決して日本と正面から敵対するな。彼らの機嫌を損ねれば、元も子もない。サウジアラビアとの太いパイプを最大限に利用しろ。アメリカの規制案には積極的に参加し、同時に穴を探し続けろ」
ウラジーミル・ボグダノフの目には、冷たく燃えるような野心が宿っていた。
「ロシアは、フルダイブ時代の『二位』を、何としても狙い取る」
ロシア連邦大統領ウラジーミル・ボグダノフは、日本の奥深くに潜むアンノウンという存在に対し、明確に「勝てない」と敗北を認めた。
だが、それは決して国家としての降伏を意味するものではなかった。彼にとって、不可能な一位の座を諦めることと、競争そのものから降りて敗北を受け入れることは、全くの別物であった。
世界中がフルダイブを「神の技術」と持て囃し、アメリカ合衆国がそれを核兵器より危険な戦略資産として厳重に管理しようと動く中、ロシアは全く別の、より黒く現実的な道を選ぼうとしていた。
国際的な規制の会議室に神妙な顔をして座りながら、裏では人間の欲望を刺激する自由な夢を売る。
弱者への人道と平等を声高に語りながら、法外な外貨を稼ぎ出す過激な体験市場の独占を狙う。
アンノウンという、人類の枠を超えた輝かしい太陽には、決して手が届かないかもしれない。だが、その強烈な光が地上に落とす『濃い影の市場』にならば、ロシアの鋭い牙を突き立てる余地は十二分に残されている。
リヤドの砂漠で白いポッドが公開されたあの日を境に、フルダイブ以前の世界と、フルダイブ以後の世界は、もはや完全に別物となってしまった。
そして今、強大なる北の帝国は、自らのプライドを冷徹に切り捨て、その新しい世界における「圧倒的な二位の椅子」を奪い取るために、静かに、そして獰猛に動き始めたのである。
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