自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第182話 火星へ届く日、夢の規制は終わらない

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス。

 大統領執務室(オーバルオフィス)の窓からは、手入れの行き届いたローズガーデンと、高く澄み切った青空が見える。だが、その平和な風景とは裏腹に、室内の空気は窒息しそうなほどに重く、そして狂気じみた情報量で満たされていた。

 

 キャサリン・ヘイズ大統領は、レゾリュート・デスクの上に山積みになった極秘資料の束を見つめ、深く、深い溜め息を吐いた。

 

 彼女の視線の先にあるファイル群のタイトルは、どれも一国の大統領が数ヶ月かけてじっくりと議論すべきレベルの重い案件ばかりである。

 『火星軌道到達ミッション最終ブリーフおよび火星長期滞在構想に関する民間(スペースX)提案』。

 『SpaceX・NASA・JAXA共同運用に関する政府公式広報案』。

 『フルダイブ国際規制委員会準備メモおよび各国の動向』。

 『ロシアにおける高刺激フルダイブ市場(ブラックマーケット)創設リスク』。

 『EUによる記憶データ抽出・売買の全面禁止規制提案』。

 『主要宗教団体共同声明案:魂の不可侵性について』。

 そして、『日本政府からの限定技術回答およびアンノウン機関の技術到達度』。

 

「……火星に行く話と、人間の記憶を売買する話が、同じ机の上に同時に乗っているの、政治として何か間違っている気がするわ」

 ヘイズ大統領は、こめかみを強く揉みほぐしながら、低く呟いた。

 

 執務室のソファに腰掛けるタイタン・グループの総帥、ノア・マクドウェルが、いつものように楽しげな笑みを浮かべて肩をすくめた。

「大統領。政治が間違っているわけではありません。人類史が、少々忙しすぎるだけです」

 

「忙しすぎるのよ。人間の処理能力(キャパシティ)を超えているわ」

 ヘイズが鋭く睨むと、CIA長官のエレノア・バーンズが、一切の感情を排した能面のような顔で本題を切り出した。

 

「大統領。本日の議題は、大きく分けて二つです。

 一つ目は、まもなく訪れる『火星軌道到達』に伴う、宇宙開発世論の異常な過熱への対応。

 二つ目は、『フルダイブ国際規制委員会』の設立準備と、それに付随して新たに浮上した『記憶データ問題』です」

 

「どちらも、一つずつで丸一日が潰れる、いや政権が吹っ飛ぶレベルの案件ね」

 ヘイズは、呆れたように手元のペンを置いた。

 

「残念ながら、両方とも今日の午後に同時に処理しなければなりません」

 ノアが、無慈悲な事実を突きつける。

 

 ◇

 

「では、まず宇宙開発の方から」

 NASA長官が、少しだけ誇らしげな表情で立ち上がった。彼の背後には、国家安全保障補佐官も控えている。

 

「大統領。SpaceX、NASA、そして日本のJAXAによる日米共同運用ミッションは、まもなく火星軌道へと到達します。予定通りに進めば、数時間以内に火星周回軌道への投入が完了し、アンノウン由来の超高速推進技術による人類初の『深宇宙ミッション成功』が歴史に刻まれます」

 

 その言葉自体は、人類にとって手放しで祝うべき偉業のはずだった。

 だが、ヘイズ大統領の表情は硬い。

 

「念のため確認するわ。……今回のミッションは、火星に『降りる』わけではないのよね?」

 

「はい」

 宇宙政策補佐官が即答する。

「現段階では、あくまで『火星周回軌道への到達と長期観測』が目的です。軌道上からの高精度地形マッピング、将来の有人着陸地点の安全調査、そして地球との深宇宙通信中継システムのテスト。これらがミッションの全容であり、有人着陸やベースキャンプの建設はまだ数段階先の話です」

 

「なのに」

 ヘイズは、デスクの上の民間企業のファイルを苛立たしげに指差した。

「世間はもう、『火星コロニー(植民地)』の話をしている」

 

「はい……」

 補佐官が、少し言いにくそうに頷く。

 

「人類は、“軌道に着いた”というだけの事実を、“もう火星の土地を買える”と勝手に解釈する、極めて想像力(よくぼう)の豊かな生き物ですからね」

 ノアが、人間の本質を皮肉って笑った。

 

「最悪の悪徳不動産業者みたいな言い方ね」

 ヘイズが吐き捨てる。

 

 事態を急激に過熱させているのは、民間企業……特にSpaceXの暴走とも言える先走りだった。

 補佐官が、困惑した顔で新たな資料を提示する。

 

「大統領。SpaceX側は、まだ我々政府の方針が正式に固まる前から、自社のウェブサイト等を通じて以下のような募集や登録フォームを大々的に公開し始めています」

 

 ・火星長期滞在候補者の事前エントリー

 ・火星インフラ建設エンジニアの募集

 ・閉鎖環境農業技術者、宇宙医療専門家のスカウト

 ・火星居住区(コロニー)建設計画のコンセプトアート公開

 ・一般市民向け『火星コロニー志望者・関心表明フォーム』

 

「……あのレオナード、何もまだ決まっていませんよ? と、今すぐ直接電話して怒鳴りつけたい気分だわ」

 ヘイズ大統領は、頭を抱えた。

「政府の安全審査も、国際法での火星の領有権問題も、日本のアンノウン機関からの技術供与の継続性すら担保されていないのに、勝手に火星移民のチケットを売り始めているようなものじゃない」

 

「言うべきでは?」

 エレノアが、冷徹に法と秩序の観点から進言する。

 

「ダメよ。それは完全に水を差すことになる」

 大統領としての政治的嗅覚が、それを制止した。

「今、この瞬間に火星軌道到達という人類の偉業に世界中が熱狂している最中で、アメリカ大統領が『まだコロニーなんて夢のまた夢です、はしゃがないで』と冷水を浴びせれば、国内世論だけでなく世界中の未来への期待をへし折る、政治的に最悪の悪手になるわ」

 

「しかし、言わなければ、彼らの『火星移民ブーム』は我々のコントロールを完全に離れて独走します」

 ノアが、楽しそうに危機を煽る。

 

「分かっているわ。だから頭が痛いのよ」

 

 ◇

 

 さらに、問題は民間企業の暴走だけではなかった。

 国家安全保障補佐官が、国際政治の火種について説明を始める。

 

「火星コロニー論がこれほど過熱すると、宇宙開発に積極的な国々……中国、ロシア、EU、インドなどは、当然のように『自国の権益』を主張し始めます」

 

 補佐官が懸念する各国の思惑は、極めて生々しいものだった。

 自国民を、最初期火星居住者(ファースト・コロニスト)の枠にねじ込みたい。

 自国語や自国文化を、火星の新しい社会に残したい。

 火星基地の運営ルールや、将来的な資源採掘の権益を確保するテーブルに座りたい。

 そして何より、火星という新しい星の第一世代に『自国の血』を入れたい。自国の旗を立てたい。

 

「特に、国内で強いナショナリズムを抱える国ほど、“火星に我が国の代表を送るべきだ”という凄まじい政治的圧力が、今後数ヶ月で急激に高まるでしょう」

 補佐官が警告する。

 

「人類は、まだ火星の表面に安全に住めるかどうかも分からないというのに。もう席取り合戦(イスとりゲーム)を始めているのね」

 ヘイズは、人類の変わらぬ領土的野心に呆れ果てた。

 

「火星の地表はまだ無人なのに、政治と利権だけが光の速さで先に入植していますね」

 ノアが、またしても秀逸な皮肉を言う。

 

「本当に、嫌な表現ね」

 

「問題は、火星コロニーが将来的に『国家主権問題』『移民の選抜基準』『人種・国籍代表の割り当て問題』という、地球上のあらゆる差別と対立をそのまま宇宙空間へ持ち出す火種になる可能性です」

 エレノアが、CIA長官としての冷徹な未来予測を語る。

 

「ええ、分かっているわ」

 ヘイズは、大統領としての重い責任を噛み締めた。

「誰を火星へ送るかは、誰を『人類の未来』へ送るか、という究極の選別になる。……下手な采配をすれば、地球上の戦争の理由になるわ」

 

 ヘイズは、宇宙開発に関する当面の暫定方針を素早く整理した。

 

「火星軌道到達は、国を挙げて大々的に祝う。

 ただし、コロニー建設を政府として正式にバックアップする段階ではないことは明確にする。

 SpaceXには、民間募集の過激な表現を少し抑えるよう非公式に伝達。

 NASAと日本のJAXAには、今回のミッションが純粋な『科学探査』としての意義を持つことを前面に出すよう広報調整を指示して。“火星植民”ではなく、“火星長期探査への偉大なる第一歩”という堅実な表現に統一すること」

 

「了解しました」

 補佐官たちが頷く。

 

「火星の偉業に水を差さず、かといって過熱する火星移民熱に油も注がない。……極めて難しい綱渡りですね」

 ノアが、大統領の苦労を評価するように言う。

 

「政治はだいたい綱渡りよ」

 ヘイズは、短く吐き捨てた。

 

 ◇

 

「次に、二つ目の議題です。フルダイブ国際規制委員会について」

 エレノアが、別の分厚い資料をデスクに広げた。

 

 リヤド万博で日本のアンノウン機関が公開したフルダイブ技術。それは、世界各国の政府に強烈なパラダイムシフトを引き起こしていた。

 エレノアが、各国の最新の規制方針とスタンスを整理して報告する。

 

「まず、我が国アメリカは、この技術を『戦略技術』として国際管理下に置くことを強く主張しています。医療、教育、訓練、災害対応への応用は認める一方で、痛覚同期、恐怖刺激、長時間利用、そして未成年の利用については極めて厳しい制限をかける方針です。……コア技術は日本政府およびアンノウン機関が完全に管理する前提で、強い国際監査機関の設置を求めています」

 

「EUは?」

 ヘイズが問う。

 

「EUは、人権、倫理、精神的データ保護、そして未成年保護を最重視しています。彼らは、フルダイブ中の体験ログを『最高レベルの個人情報』として扱い、政治宣伝、宗教勧誘、広告誘導への使用を厳格に制限。さらにはプラットフォーマーに強力な依存症対策を義務付ける、分厚い規制法案を準備中です」

 

「中国は?」

 

「完全な国家管理前提です。教育、職業訓練、そして『思想統制』への利用を主目的とし、民間の自由な娯楽としてのフルダイブ利用は強く統制される見込みです」

 

「予想通りね」

 ヘイズが小さく頷く。「そして、一番厄介なのが……」

 

「はい。ロシアです」

 エレノアの顔が、一段と険しくなる。

 

 ロシア政府は表向き、「フルダイブは人類全体に開かれるべき技術であり、体験格差を固定化すべきではない」「過剰規制は先進国の技術独占だ」と、人道的普及を掲げている。

 

「しかし、日本政府からのインテリジェンス分析とも完全に一致していますが、我々の懸念は……ロシアが『規制に反対する自由な体験市場』の受け皿になろうとしている可能性です」

 

 エレノアの言葉に、会議室が静まり返った。

 

「西側諸国が厳しく禁止するであろう、痛覚を伴う高負荷体験、極限サバイバル、戦闘、恐怖、そして極めて依存性の高い報酬設計を持ったフルダイブ空間を、ロシアが自国のサーバーで『合法的に』提供する。……過激な体験を求めるユーザーの巨大な地下市場(ブラックマーケット)を、国を挙げて構築する気です」

 

「危険な夢ほど、よく売れますからね」

 ノアが、資本主義の暗部を突く。

 

「問題は、我々がどこまで規制するかです」

 エレノアが、ジレンマを提示する。

「未成年利用、高刺激体験、痛覚同期、長時間没入。これらを全て完全に禁止すれば、ユーザーは必ずロシアのサーバーに流出します」

 

「……禁酒法の宇宙版、いや、精神版ね」

 ヘイズ大統領が、かつてのアメリカの失敗を重ねて呟いた。

 

「ろくでもない比喩ですが、極めて分かりやすいですね」

 ノアが笑う。

 

「だからこそ、日本政府も『完全禁止ではなく、管理された民間利用の道(特区など)』を模索しています」

 エレノアが、日本のしたたかな戦略を評価する。

 

「そこは日本と合わせましょう」

 ヘイズは決断した。

「最低限、未成年の脳は絶対に守る。痛覚の100%同期は医療や研究以外は禁止。高刺激の成人向けコンテンツは、認定施設での医療監視を前提とした『管理された選択肢』として残す。政治と宗教の強制体験は厳禁。……そうやってガス抜きをしないと、本当に全てがロシアの地下市場に流れてしまう」

 

 ◇

 

「大統領。ここからが、今日最大の爆弾です」

 エレノアの言葉に、ヘイズは嫌そうに眉を寄せた。

 

「EUが最も強く反応し、危惧しているのは、実はフルダイブ技術そのものではありません」

 

「何?」

 

「……『記憶データ』です」

 

 その言葉が出た瞬間、オーバルオフィスの空気が一気に冷え込んだ。

 常に楽しそうな笑みを浮かべているノアの顔からも、少しだけ笑みが薄れた。

 

「記憶データ……つまり、フルダイブ空間で体験した内容、あるいは人間の脳内にある経験を、デジタルデータとして取り出して、別の他人にコピーして渡す技術、ということ?」

 ヘイズが、嫌悪感を隠さずに尋ねる。

 

「概念としては、その通りです」

 大統領科学技術顧問が、専門家として重い口を開いた。

「フルダイブ技術が“体験を新しく創る技術”であるならば、記憶データ技術は“体験を保存し、複製し、市場で流通させる技術”です」

 

「……最悪ね」

 ヘイズは、吐き捨てるように言った。

 

「先日、日本政府のアンノウン機関に対して、非公式に照会を行いました」

 エレノアが、冷酷な事実を告げる。

 

「嫌な予感がするわ」

 

「記憶データの抽出・移植は……アンノウンのテクノロジーの中に、『技術としてはすでに存在する』との回答を得ました」

 

 重苦しい沈黙。

 

「……存在するのね」

 

「はい。ただし、日本政府としては、この技術を解禁する予定は一切ない。民間への提供も、国際社会への公開も、現時点では絶対に行わないと明言しています」

 エレノアが、日本側の防波堤の堅さを伝える。

 

「それは良い。日本政府の判断は正しいわ。

 ……良いけど、『存在している』という事実そのものが最悪なのよ」

 ヘイズは、机を苛立たしげに叩いた。

 

「見える地雷ですね」

 ノアが、その危険性を的確に表現する。

 

「本当にそう。しかも、“あのアンノウンがすでに開発済みである”ということは、物理的に不可能ではないという証明よ。……つまり、いつか他の誰か(他国の研究機関や企業)が、同じ技術に自力で到達できる可能性があるということ」

 

「はい。理論的な可能性が示された時点で、世界中の脳科学研究機関、IT企業、そして軍が、一斉にその後を追い始めます」

 科学技術顧問が、技術競争の止められない現実を指摘する。

 

「……最悪」

 ヘイズは、本日二度目の同じ言葉を口にした。

 

 ◇

 

「この『記憶データ』の存在可能性について、世界の宗教界が極めて強い反応を示し始めています」

 エレノアが、さらなる火種となる資料を提示した。

 

 フルダイブ技術そのものについては、実は世界の宗教関係者の反応は割れていた。「身体の動かない信者への救済になる」「歴史的な聖地の巡礼を体験できる」と肯定的な声がある一方で、「現実逃避だ」「疑似的な宗教体験の乱用だ」という批判もあった。

 

 しかし、『記憶データ』となると、世界中の宗教指導者たちの見解は完全に一つにまとまり、強烈な拒否反応を示した。

 

「彼らは、人間の体験や記憶をデータ化し、複製して他者に移植する行為を……『人間の魂の経験を切り売りする行為である』と激しく非難しています」

 エレノアが、各宗教団体の共同声明案を読み上げる。

「他者の苦しみや歓喜を、商品として摂取することは倫理的か。記憶の複製は、神が与えた個人の人格の境界を破壊する。殉教の苦痛、奇跡の体験、あるいは極度の恐怖や快楽をデータ化して市場で売買することは、魂を引き裂く行為に等しい、と」

 

「魂を引き裂く行為、ね」

 ヘイズが、その重い言葉を反芻する。

 

「宗教的な表現としては過激ですが、我々が抱く倫理的懸念としては、完全に理解できる感覚です」

 エレノアも同意する。

 

「良い経験や、単なる学習データ(自転車の乗り方など)だけなら、まだ議論の余地はあるでしょう」

 ノアが、珍しく極めて真面目な顔で言った。

「しかし、人間の過激な感情を伴う経験を売買し始めたら……それは完全に『精神汚染市場』になりますよ」

 

「精神汚染市場。嫌な言葉だけど、それが正しいわね」

 

 科学技術顧問が、最悪のシナリオ(危険な記憶データ市場の例)を淡々と挙げていく。

 戦場で人が死ぬ瞬間の恐怖の記憶。

 拷問被害者の絶望の記憶。

 致死量の薬物を使用した際の究極の快楽記憶。

 カルト教団の集会での異常な恍惚の記憶。

 他人の恋愛や、家族との死別の記憶。

 ……そして、子供時代の純粋な幸福の記憶を、金持ちに売り飛ばす貧困層の出現。

 

「フルダイブは、あくまで『これは仮想現実だ』と分かって入るものです」

 ヘイズ大統領が、二つの技術の決定的な違いを口にする。

「でも、記憶データは違う。他人の経験が、自分の脳の中に『自分の過去』として直接刻み込まれる。自分の中に、得体の知れない他人が残る」

 

「はい。他人の強烈な体験を、自分の経験として処理してしまい、人格が崩壊する危険性が極めて高いです」

 エレノアが、情報機関の尋問や洗脳の観点からその恐ろしさを肯定する。

 

「人間は、自分が積み重ねてきた『経験』でできています」

 ノアが、静かに語る。

「その経験をデータとして売買できるようになれば……人間そのものが、市場の商品(コンテンツ)になります」

 

「もうやめて。気分が悪くなる」

 ヘイズは、本気で吐き気を感じて顔をしかめた。

 

「記憶データは、フルダイブとは完全に別枠で扱うわ」

 大統領としての、強い決断だった。

「原則、全面禁止。商業利用はいかなる場合も認めない。医療や研究用途に限定するとしても、政府の特別認可、国家倫理委員会の承認、本人の完全な同意、そして厳格な監査を必須とする。……フルダイブの国際規制委員会の中に、記憶データを専門に扱う特別部会を早急に立ち上げなさい」

 

「EUは、間違いなく諸手を挙げて賛成するでしょう」

 エレノアが頷く。

 

「宗教界も乗りますね。世界の最先端の科学規制と、最も古い宗教倫理が、完全に同じ方向を向いて手を結ぶ。歴史的にも極めて珍しく、面白い光景です」

 ノアが、少しだけ元の調子に戻って笑う。

 

「日本政府にも、このアメリカの方針を明確に伝えてちょうだい。アンノウン機関がその技術を封印するというのなら、アメリカも同調して世界中で完全に封印する、と」

 

 ◇

 

 その時。

 執務室のドアがノックされ、大統領秘書官が少し興奮した面持ちで入室してきた。

 

「大統領。緊急の案件ではありませんが、重要なご報告です。

 ……先ほど、SpaceX・NASA・JAXA共同の火星ミッションが、無事に火星周回軌道への投入に成功したとの第一報が入りました」

 

 ——。

 重く沈み込んでいた会議室の空気が、その一瞬だけ、フッと軽くなった。

 

 火星軌道到達。

 人類が長年夢見た、途方もない偉業の達成。

 

 ヘイズ大統領の厳しい顔が、その瞬間だけは一人のアメリカ人として、素直に緩んだ。

 

「……ついに、火星ね」

 

 秘書官がモニターをオンにする。

 テレビのニュース専門チャンネルでは、特番が組まれていた。

 

『速報です! SpaceX、NASA、そして日本のJAXAによる共同火星ミッションが、たった今、火星周回軌道への投入に成功しました! アンノウン由来の超高速推進技術により、わずか五日という驚異的なスピードでの到達です! 人類の火星長期探査時代が、ついに本格的な幕を開けました!』

 

 画面には、テキサスやフロリダの管制室で、スタッフたちが歓喜の声を上げ、抱き合い、涙を流している映像が映し出されている。

 そして、探査機から送られてきた、赤く乾いた巨大な火星の姿。

 世界中のSNSが、人類の偉業を祝福する言葉で埋め尽くされていた。

 

 ヘイズ大統領は、しばらくの間、無言でその美しい映像を見つめていた。

 

「人類がまた一歩、外へ出ましたね」

 ノアが、静かに、だが確かな敬意を込めて言う。

 

「ええ。これは、純粋に祝うべきことよ」

 ヘイズも深く頷いた。

 

「ですが、同時に……我々が先ほど懸念していた『火星コロニー問題』が、ここから猛烈な勢いで加速します」

 エレノアが、冷徹な官僚としての視点を忘れずに告げる。

 

「ええ。分かっているわ」

 

 テレビの中では、ニュースのコメンテーターたちが早くもはしゃぎ回っていた。

『火星コロニーはいつ完成するのでしょうか!』

『最初の火星居住者は、どんな人たちが選ばれるのか!』

『火星生まれの最初の人類は、いつ誕生するのか!』

『火星の領有権や国境は、どういうルールになるのか!』

 

 ヘイズは、その熱狂ぶりを聞いて、再びこめかみを強く押さえた。

 

「……フルダイブの規制だけでも頭が痛いのに、それに加えて、火星コロニーの国際法問題か……」

 

「人類は、外宇宙にも内宇宙にも、全く同時に猛スピードで進出しているわけです」

 ノアが、楽しげに言う。

 

「内宇宙?」

 

「フルダイブと、記憶データです。

 外側は火星へ。内側は人間の意識と記憶へ。……どちらも、誰もルールを決めていない、手付かずの未開のフロンティアですからね」

 

「詩的に綺麗にまとめても、私の仕事が減るわけじゃないのよ」

 ヘイズが恨めしそうに言う。

 

「むしろ、絶望的に増えますね」

 エレノアが、容赦なく事実を突きつける。

 

「知ってるわ」

 大統領は、力なく項垂れた。

 

 ◇

 

「優先順位を整理するわよ」

 ヘイズ大統領は、顔を上げ、再び世界のリーダーとしての顔に戻った。

 

「火星関連。

 火星軌道到達について、大統領としての公式な祝辞を直ちに出す。

 ただし、火星コロニーの建設については極めて慎重な表現に留める。SpaceXには、人材募集の過剰な表現を控えるよう非公式に強く要請。NASAとJAXAとは、あくまで『科学探査ミッション』としての広報調整を徹底。

 そして、火星の長期滞在と将来的なコロニーの法的課題について、国家安全保障会議の下に政府内検討チームを至急立ち上げる。

 

 フルダイブ関連。

 日本、EU、サウジアラビアと連携し、国際規制方針を早急にすり合わせる。

 ロシアの高刺激市場の独占に対抗するため、完全禁止ではなく、認定施設と医療監視を前提とした『管理された民間利用』を軸とする。未成年の利用制限、政治・宗教の強制体験の禁止を国際ルールの絶対条件とする。

 

 記憶データ関連。

 原則、全面禁止。商業利用はいかなる場合も認めない。医療・研究用途も厳格な監査を必須とする。

 フルダイブ国際規制委員会の中に専門部会を設け、宗教界の指導者、倫理学者、神経科学者を巻き込んで、世界的なコンセンサス(魂の不可侵性)を形成する」

 

 ヘイズは、一気にそこまで指示を出し終え、深く息をついた。

 

「……人類が火星に届いたという歴史的な日に、私は『人間の記憶データの商業利用禁止』の法律を考えている。

 未来の歴史家がこの日の記録を見たら、腹を抱えて笑うでしょうね」

 

「笑うか、泣くか、それとも頭を抱えて悩むか、でしょうね」

 ノアが微笑む。

 

「少なくとも、退屈はしないでしょう」

 エレノアが淡々と言う。

 

「だから、世界は退屈なくらいで丁度いいと言っているのよ」

 ヘイズは、本心からの願いを口にした。

 

 ◇

 

 秘書官が、大統領の演説用の『祝辞原稿』の草案を持って入ってきた。

 

 ヘイズは、その原稿を受け取り、冒頭の一文に目を通した。

 

『本日、人類は再び、あの赤い惑星へ向けて、途方もなく大きな一歩を踏み出しました——』

 

 ヘイズは、その一文を読み、少しだけ、本当に少しだけ微笑んだ。

 

 火星到達は、確かに希望だ。

 フルダイブも、記憶データも、一歩間違えれば人類を滅ぼしかねない危険な技術であり、がんじがらめに規制しなければならない劇薬だ。

 それでも、人類は立ち止まらずに、前へ、前へと進んでいる。

 

 ただ、その歩幅が、あまりにも異常に大きすぎるだけなのだ。

 

「……歩く速度というものを覚えなさい、人類」

 ヘイズは、原稿を見つめながら小さく呟いた。

 

「無理ですね。人類は、走るのが大好きですから」

 ノアが、人間の本質を笑う。

 

「だからこそ、彼らが全力で走って転ぶことを大前提にして、崖の前に強固な『柵』を作るのが、我々政府の仕事です」

 エレノアが、冷徹な官僚としての覚悟を口にする。

 

「本当に、最悪の仕事ね」

 大統領は、皮肉っぽく笑って原稿にサインをした。

 

 その日、人類の放った探査機は、ついに火星の軌道へと届いた。

 世界中の管制室では歓声が上がり、テレビやスマートフォンの画面には、美しく乾いた赤い惑星の姿が映し出された。

 人類は、外へ、さらに外の宇宙へと進もうとしていた。

 

 だが、その全く同じ日、同じ時刻に。

 ホワイトハウスの奥深く、大統領執務室では、「フルダイブ」と「記憶データ」という技術をいかにして法で縛り付けるかが、血みどろの真剣さで議論されていた。

 

 人類は、内側へも猛スピードで進もうとしていた。

 夢の中へ。記憶の中へ。

 かつて宗教が「魂」と呼んで不可侵としていた領域の、すぐそばへ。

 

 空へ向かうロケットの輝かしい軌跡と、人間の意識を縛るための記憶データ規制案の赤い警告線。

 その両極端な二つの未来を同じ机の上で見比べながら、キャサリン・ヘイズ大統領は、疲労と少しの興奮を抱えながら思う。

 

 未来というものは、あまりにも多方面から、同時に来すぎるのだ、と。

 

 




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