自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第183話 火星は誰のものか、あるいは赤い星に国境線を引く前に

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス。

 世界の中心に位置する大統領執務室(オーバルオフィス)は、分厚い防音ガラスと厳重な警備によって外部の喧騒から完全に隔絶されている。

 だが、壁に据え付けられた大型モニターから流れるニュースの音声だけは、前日から続く地球規模の熱狂を、容赦なくこの静寂の部屋へ運び込んでいた。

 

『——ご覧ください! これが探査船から送られてきた火星のライブ映像です!』

『SpaceX、NASA、JAXAの共同ミッションが成し遂げた、人類史における偉大なる一歩……!』

『ネット上ではすでに、最初の火星移住者は誰になるのかという話題で持ちきりです!』

 

 画面の中では、宇宙の漆黒を背景に浮かぶ巨大な赤い円盤が、ゆっくりと自転している。

 続いて、ヒューストンの管制室で抱き合い、涙を流して歓喜する技術者たちの姿。民間宇宙開発の寵児レオナード・グレイが、興奮冷めやらぬ様子で「アンノウンよ、愛してる」と投稿した画面のキャプチャ。そして、星条旗を背にして格調高く祝辞を述べる、キャサリン・ヘイズ大統領自身の姿。

 それらの映像が、各国のニュースネットワークで際限なくループ再生されている。

 

 ヘイズ大統領は、レゾリュート・デスクの奥で深く椅子に腰掛けたまま、淹れたてのコーヒーを一口含み、無言でそのモニターを見つめていた。

 表情に、昨日の祝祭を喜ぶような色は微塵もない。むしろ、その眉間には深く険しいシワが刻まれている。

 

「素晴らしい祝祭でしたね」

 

 ソファ席に優雅に脚を組んで座っていたノア・マクドウェルが、手元のタブレットから視線を上げて微笑んだ。

 彼の声には、いつものようにどこか他人事のような、シニカルな響きが混ざっている。

 

「ええ。昨日だけならね」

 

 ヘイズはコーヒーカップをソーサーに戻し、溜め息をついた。

 

「本日は、その祝祭が生んだ現実問題の処理です。大統領」

 

 ノアの対面に座るエレノア・バーンズが、手元の分厚いファイルの束を整えながら、氷のように冷たい声で告げた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、一切の夢やロマンを排した、純粋な実務家のそれである。

 

「分かってるわ。だから朝から胃が痛いのよ」

 

 ヘイズはこめかみを指で揉みほぐした。

 モニターの中では、ニュース番組のコメンテーターが身振り手振りを交えて熱弁を振るっている。

『火星コロニーは一体いつ実現するのでしょうか? そして、最初の火星住民はどの国から、どのような基準で選ばれるべきなのでしょうか? SpaceXの募集フォームには——』

 

 ヘイズは手元のリモコンを操作し、モニターの電源をブツリと切った。

 部屋に、重苦しい静寂が戻る。

 

「……人類は火星に届いた。その瞬間から、もう火星を地球の政治で汚し始めているわね」

 

「人類はそういう生き物です、キャサリン」

 ノアが肩をすくめた。

「新しい土地を見ると、まず夢を見て、次にそこに境界線を引こうとする。それが我々の進化の歴史であり、本能ですから」

 

 オーバルオフィスには、ノアとエレノアの他に、NASA長官、国家安全保障補佐官、そして宇宙政策補佐官が顔を揃えていた。

 前日の祝宴の余韻など完全に吹き飛んだ、極めて重く、実務的な会議の幕開けである。

 

「では、最初の議題です」

 宇宙政策補佐官が、手元の資料を会議テーブルの中央にスライドさせた。

「レオナード・グレイ率いる民間企業群が昨日発表した、『火星コロニー人材募集』について。現在、世界中のネット空間でこの話題が爆発的に拡散されています」

 

 資料には、SNSでバズり散らかしている投稿のスクリーンショットが添付されていた。

 エンジニア、医師、閉鎖環境農業技術者、建築家、教育者、果ては元軍人や宗教団体関係者、投資家、インフルエンサーに至るまで、あらゆる階層の人々が火星に夢を見ている。

 

「現時点で、彼らが開設した火星コロニー人材登録フォームには、世界中から数千万件規模のアクセスが殺到し、実際の登録者数も天文学的な数字に膨れ上がっています」

 

「馬鹿げているわ」

 ヘイズは呆れたように息を吐いた。

「まだ火星の地表に、小石一つ落としてすらいないのよ? 探査船が軌道に入っただけで、なぜ移住の話になっているの」

 

「『夢は先に応募するもの』……だそうです。ネット上のミームですが」

 ノアが薄く笑いながらタブレットの画面を読み上げた。

 

「ネットの無責任な名言を、政府の最高意思決定会議に持ち込まないで」

 ヘイズが鋭く睨む。

 

「科学的な観点から申し上げれば、火星コロニーを語るなど時期尚早にもほどがあります」

 それまで黙っていたNASA長官が、苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。

「軌道に入っただけであり、地表環境の安全性も、高線量放射線に対するシールド技術も、低重力下での長期滞在における人体への影響も、何一つ検証されていません。一般市民は誤解していますが、火星は夢の土地ではありません。防護服なしで外に出れば、人間を数分で殺す過酷な死の環境です」

 

「分かっているわ。だからこそ、レオナードの暴走をどこかで止めなければならないのだけれど……」

 ヘイズは腕を組み、考え込んだ。

「今、政府がしゃしゃり出て『火星移住など当分不可能だ』と強く言いすぎれば、私はせっかくの人類の夢に冷や水を浴びせる、無粋で頭の固い大統領になってしまう」

 

「レオナードは夢を売っています。それは彼のビジネスモデルの根幹です」

 ノアが静かに指摘した。

「問題は、彼がその夢に『応募フォーム』という具体的な出口を付けてしまったことです」

 

「応募フォームは、強力な世論形成装置として機能します」

 エレノアがノアの言葉を引き継ぐ。

「数千万人の応募者が存在するという明確なデータは、『こんなにも火星へ行きたがっている人々がいるのだから、政府は規制を緩和し、支援をすべきだ』という、今後の政策判断への強烈な圧力として利用されます」

 

「つまり、レオナードは一般市民の夢を人質に取って、政府に対する政治カードを作り上げたわけね」

 ヘイズの瞳に、冷たい怒りが灯った。

「本当に……民間企業というものは、政府の制約をすり抜けて、誰よりも先に未来へ走るのが好きね」

 

「未来にこそ、手付かずの巨大な市場があるからです」

 ノアが当然のように答えた。

 

「レオナード・グレイ個人の扱いは後回しにするわ。まずは、根本的な法制度の整理からよ」

 ヘイズは姿勢を正し、宇宙政策補佐官に向き直った。

「ネットの連中は『火星で働く』だの『火星に温泉を作る』だの『火星ゴルフ』だのと無邪気に騒いでいるけれど、もし仮に火星に人を送った場合、その人間は一体どこの法律に従うことになるの?」

 

「それが、最大の懸案事項です」

 補佐官は立ち上がり、背後のホワイトボードにマーカーで箇条書きを始めた。

 

 ・火星そのもの

 ・火星上の施設

 ・火星にいる人間

 ・火星で採掘される資源

 ・火星で生まれた子供

 ・民間企業が建てた居住区

 ・国際共同コロニー

 ・軍事利用の禁止範囲

 

「……地獄の目次ね」

 ずらりと並んだ項目を見て、ヘイズは思わず天を仰いだ。

 

「はい。しかもこれは、まだほんの序章に過ぎません」

 補佐官は真面目な顔で頷き、説明を始めた。

「現在の宇宙条約の基本原則に基づけば、宇宙空間や天体は、いかなる国家による領有権の主張も認められていません。つまり、『火星はアメリカの領土だ』と宣言することは不可能です」

 

「だが、現実に人が住む施設を作るなら、何らかの管理主体が必要になる」

 

「おっしゃる通りです。宇宙条約では、宇宙活動を行う民間企業は、その登録国家の監督責任下に置かれます。また、国家が打ち上げた物体や建設した施設には、その登録国の管轄権が及びます。

 つまり、火星に基地を作った場合、それは『独立した火星国家』ではなく、『地球の国家が管理する宇宙施設』として扱うのが、法的に最も自然な解釈となります」

 

「したがって、アメリカ政府としての現時点での最も現実的な整理は、火星コロニーを『独立国家として扱わない』ことです」

 エレノアが補足した。

 

「当然ね」ヘイズは力強く頷いた。「五日で火星へ届いたからといって、五日で新国家が誕生するわけではない。火星は当面、地球国家の延長施設、あるいは研究基地、実験区域として扱うべきよ」

 

「ただし大統領」

 ノアが釘を刺す。

「数人、数十人の科学者が滞在している間はそれで通用するでしょう。しかし将来的に、数万人、数十万人という人間が火星で暮らすようになれば、彼らは必ず独自の文化を持ち、独自の自治を求め始めます。歴史が証明しています」

 

「だからこそ、最初の法的位置づけが極めて重要なのです」

 エレノアが冷徹に言い放つ。「後から権利を剥奪することは困難ですが、最初から枠組みを嵌めておくことは可能です」

 

「具体的なコロニーの分類案は?」

 

「大きく三つに分類します」

 宇宙政策補佐官がホワイトボードを指し示した。

 

「第一に、『国連管理の共通コロニー』。

 正式名称案は『国連火星共同管理区域』とします。これは最初に建設される国際共同拠点で、各国が公平に参加できる科学研究や環境調査の拠点と位置づけます。

 『アメリカと日本が火星を独占した』という国際社会からの批判をかわすための、象徴的な存在です」

 

「看板は国連、実務は我々、というわけね」

 ヘイズが皮肉っぽく笑う。

 

「国連管理という美しい看板は必要です」ノアが同意した。「ですが、船の操縦桿まで国連の官僚たちに渡す必要はどこにもありません」

 

「第二に、『各国管理コロニー』。

 将来的に、中国、ロシア、EU、インドなどが独自に火星基地を作りたがるのは確実です。それを完全に禁止すれば、外交的な衝突は避けられません。

 したがって、各国が自国管理の火星基地を作る権利自体は認めます。南極の昭和基地やマクマード基地のような扱いですね。適用される法律も、事故や犯罪の処理も、原則としてその建設国家の責任とします」

 

「ただし、それらが無秩序に乱立すれば火星は無法地帯になるわ」

 

「ええ。ですから、火星全体の環境保護、安全基準、緊急通信規則、救助協定などは、国際的な統一ルールとして遵守させる必要があります」

 

「そして第三が……一番厄介な代物ね」

 ヘイズの視線が、ホワイトボードの『民間企業コロニー』という文字に突き刺さった。

 

「はい。レオナード・グレイのような民間資本が単独で建設する居住区です。

 法的な整理としては、民間企業の火星コロニーは、その企業の登録国……つまり、我々アメリカ政府の強い監督下に置くべきです」

 

「つまり、レオナードが火星に街を作り、そこで事故が起きたり反乱が起きたりした場合、最終的な管理責任はすべてアメリカ政府が背負わされるということね」

 

「はい。少なくとも、国際社会はそう見なします」

 

「最悪ね」

 

「企業が作る都市には、無限の夢があります」

 ノアが肩をすくめた。

「そして、歴史上だいたいの場合、目も当てられないような問題を引き起こします。かつての東インド会社然り、南米のプランテーション然り」

 

「言い方が柔らかいだけで、結局最悪と言っているわね、ノア」

 

「火星における企業コロニーの危険性は、地球の比ではありません」

 エレノアが手元のタブレットを操作し、モニターにいくつかの条項案を映し出した。

「企業が独自の警備組織を武装させれば、それは私兵になります。独自通貨を発行し、独自の裁判制度を敷けば、それは事実上の企業国家です。

 何より恐ろしいのは、火星では『酸素』と『水』と『食料』を完全に企業が握ることになるという点です」

 

 その言葉に、会議室の空気が一段と冷え込んだ。

 

「火星で企業が生命維持インフラを握るということは、地球で水道や電力を握るのとは次元が違います」

 エレノアは淡々と事実を述べる。

「それは、文字通りの生殺与奪の権です。『ストライキを起こすなら酸素の供給を止める』『辞めたいなら地球への帰還チケットは自腹で買え(ただし数百億円かかる)』……そうした契約が結ばれる可能性があります」

 

「酸素で労働者を縛る企業都市なんて、悪夢そのものね」

 ヘイズは吐き気を催すような感覚を覚えて眉をひそめた。

「住民契約の国際標準化、労働権、医療権、緊急帰還権の絶対保障。そして生命維持インフラを人質に取るような契約の全面禁止。企業による実質的な独立国家化は絶対に防がなければならないわ」

 

「しかし大統領、我々には彼らを制御するための、極めて強力なカードがあります」

 国家安全保障補佐官が、重々しい口調で発言した。

 

「火星への輸送力ね」

 

「はい。これが現在の、太陽系における最大の現実です」

 安全保障補佐官はモニターに、地球と火星を結ぶ無数の航路予測図を表示した。

「火星まで五日で人や物資を送れるあの超高速推進技術は、現時点ではアメリカ単独のものではありません。

 船体と運用を担うのはSpaceX。ミッション全体を管理するのはNASA。そして、肝心のアンノウン由来の推進技術の根幹部分を管理し、整備・安全プロトコルを提供しているのは、日本のJAXAと裏のアンノウン機関です」

 

 補佐官は全員の顔を見回した。

 

「つまり、火星への輸送力は実質的に、アメリカと日本の共同管理状態にあります。日本の同意と技術協力なしには、我々であっても火星へ定期便を飛ばすことはできません」

 

「そこが最大のレバーね」ヘイズは頷いた。

 

「赤い星の玄関口の鍵は、まだ我々と日本の手の中にあります」

 ノアが満足げに言った。

「どの国が『宇宙は全人類の共有財産だ』と声高に叫ぼうが、民間企業が『火星に百万人の都市を作る』と豪語しようが、現実に人と物資を送れる手段を持たなければ、火星に基地など一つも作れません」

 

「つまり、誰が火星に行けるかは、当面我々が決められるということ」

 

「正確には、アメリカと日本が合意した範囲で、です」

 エレノアが厳密に訂正する。

「我々はこれを活用し、『火星輸送安全認可制度』を設立すべきです。火星へ向かう全有人ミッションおよび大型貨物輸送を、国際的な認可制とします」

 

「なるほど」ヘイズは目を細めた。

「生命維持基準を満たさないずさんな基地への輸送は禁止。緊急帰還計画がないコロニーへの無謀な入植は禁止。環境汚染リスクのある資材の輸送は禁止。……安全基準を盾にすれば、いくらでも民間や他国の暴走を物理的に食い止められるわね」

 

「はい。火星では、補給船が来ないことは死を意味します。我々が輸送の認可権を握っている限り、無秩序な火星開発は完全に制御できます」

 

「ただし、それを露骨に政治的圧力として使いすぎれば、アメリカと日本は『火星を独占する邪悪な門番』として国際社会から一斉攻撃を受けます」

 NASA長官が懸念を示した。「安全基準に基づく審査であることを、極めて透明性高くアピールする必要があります」

 

「他国や企業を、力で支配してはいけません」

 ノアがウインクをした。

「我々はただ、『皆様の命を守るために、扉の鍵は我々が預かっておきますね』と微笑むだけでいいのです」

 

「安全という名の、極めて上品な制御装置ですね」エレノアが評価する。

 

「相変わらず、嫌な言い方をするわね」

 ヘイズは軽く溜め息をつき、次の議題を促した。

 

「この方針案に対する、各国の反応予測です」

 国家安全保障補佐官が資料をめくった。

 

「まず中国ですが、間違いなく『共同管理への公平な参加』と『技術共有』を要求してきます。宇宙は全人類のものであるという建前を使い、輸送枠の確保と、可能ならばアンノウン技術の移転を狙うでしょう」

 

「技術移転は?」ヘイズが問う。

 

「不可です。日本政府が絶対に認めません」エレノアが即答した。

 

「認めたら、火星開発どころか、地球上の軍事的な安全保障バランスが根底から崩壊します」

 ノアも同意する。

「五日で火星へ行けるエンジンは、数分で地球の裏側に核弾頭を届けるミサイルにもなりますからね。彼らもそれは分かっています」

 

「なら、国連コロニーへの参加枠と、中国独自の火星基地建設を認めることで妥協点を探るしかないわね。ロシアは?」

 

「ロシアも『特定国家による火星の独占反対』を主張し、独自基地の建設権を要求してくるでしょう。

 懸念すべきは、彼らが火星の裏側などに、国際査察を拒否するような軍事転用研究拠点や、極限環境実験施設を作る可能性です」

 

「火星にまで地球の悪癖を持ち込むなと言いたいけれど、無理でしょうね」

 ヘイズは頭を抱えた。「監視衛星の網を構築して、睨みを効かせるしかないわ」

 

「EUは少し事情が異なります」

 宇宙政策補佐官が発言した。

「彼らは『火星人権憲章』や『火星環境保護法』など、強力な規制枠組みの策定を主導しようとするはずです」

 

「EUの官僚主義は面倒だけど、今回は味方に使えるわね」

 ヘイズは口角を上げた。

 

「はい。EUが騒いでくれれば、アメリカ国内のレオナード・グレイのような企業コロニーの暴走を、『国際的な規制があるから』という口実で抑え込むことができます」

 エレノアが頷いた。

「彼らは、民間企業への強力なブレーキとして極めて有用です」

 

「他には?」

 

「インドは人口比に基づく参加枠と、火星農業研究への関心を強くアピールしてくるでしょう。

 そして中東諸国は、豊富なオイルマネーを背景に、『火星ドーム都市構想』の主要なスポンサーになりたがっています。彼らにとって、過酷な砂漠に未来都市を築くノウハウは、そのまま火星開発のロマンと直結しています」

 

「どの国も、火星という白紙のキャンバスに、自分たちの理想と夢を描きたがっているのね」

 

「赤い星は、地球のあらゆる欲望の投影先になっています」

 ノアが感慨深げに言った。

 

「問題は、そのキャンバスに国境線と軍事施設、そして独占資本の旗まで描きたがる者がいることです」

 エレノアの言葉が、会議室に冷たい現実を突きつけた。

 

「さて……まだ一つ、もっとも厄介な問題が残っています」

 宇宙政策補佐官が、少し言いにくそうにタブレットを操作した。

 モニターに映し出されたのは、『火星出生者の法的地位』という文字である。

 

「もうその話をするの?」ヘイズは顔をしかめた。

 

「今議論しておかなければ、将来必ず火星で揉めます」

 補佐官は真剣な眼差しで答えた。

 

「火星で子供が生まれた場合、その子の国籍はどうなるのか。親の国籍を継承するのか、それともコロニーを管理している国家の国籍になるのか。国連コロニーで生まれた場合は?

 さらに深刻なのは、火星の低重力下で生まれ育った子供は、骨格や筋肉の発達が地球の重力に耐えられず、一生地球へ降りられない『火星人』になる可能性が高いという医学的見地です」

 

 NASA長官が深く頷いた。

「医学的・倫理的観点から言えば、初期の火星コロニーにおける妊娠・出産は、長期間にわたって厳格に禁止すべきです。放射線や低重力が胎児の発育に与える影響は、まったくの未知数ですから」

 

「しかし長官、法律で禁止しても、人間が生活を営む以上、必ず起きます」

 エレノアが冷徹に指摘した。

 

「人間だからね」ヘイズは同意した。

 

「人間は、どこへ行っても生活を始めます。そして生活は、必ず次世代を生み出します。それをシステムで完全に縛ることは不可能です」

 ノアの言葉に、反論できる者はいなかった。

 

「……暫定方針をまとめるわよ」

 ヘイズは決断を下した。

「初期の火星コロニーにおいては、安全上の理由から妊娠・出産を原則禁止とする。長期居住者には厳格な医療契約を結ばせること。

 しかし万が一出生した場合は、原則として親の国籍を継承させる。火星出生者の自治権問題や、地球帰還困難者への人権保障については、直ちに国際的な専門部会を立ち上げて法的枠組みの検討を開始しなさい」

 

 ヘイズはペンを置き、大きく息を吐いた。

 

「火星に子供を作る前に、火星で子供を守る法律を作らなければならない。この順番だけは、絶対に間違えてはいけないわ」

 

「最後に、レオナード・グレイへの対応です」

 エレノアが本日の議題の総括に入った。

 

「彼を公式に叩くことはしないわ」

 ヘイズは即答した。

「彼は火星到達の最大の功労者であり、民間宇宙開発の象徴よ。国民人気も絶大。今彼を非難すれば、政府が人類の夢を潰した構図になる。それに、今後も火星開発においてSpaceX系企業の技術力は絶対に必要不可欠よ」

 

「公式には最大限の祝福を与え、非公式の裏ルートで強烈に釘を刺す、ということですね」

 ノアが面白そうに言った。

「私が直接、彼と話しましょうか?」

 

「あなたが話すと、火に油を注ぎそうだから却下」

 

「心外ですね」ノアが大げさに肩をすくめる。

 

「妥当な判断です」エレノアが一刀両断した。

 

「非公式のメッセージ内容はこうよ」

 ヘイズは指を折って数え上げた。

「火星コロニーの募集は、あくまで『関心登録』という表現に弱めること。実際の移住者の選抜開始ではないと明記させる。火星への居住は、政府および国際機関が定める厳格な安全基準に従うものであり、勝手な入植や土地の取得を約束するものではないと釘を刺す。

 夢は語っていい。でも、それを確定した未来の契約書のように見せてはいけないわ」

 

 一連の激論を終え、ヘイズは会議をまとめた。

 

「アメリカ政府の基本方針は決まったわね。

 火星コロニーは、現時点では独立国家とは認めず、地球国家の延長施設として扱う。

 共通コロニーは国連の看板を利用して国際協調をアピールしつつ、各国独自の基地建設も安全基準を満たす限りにおいて許可する。

 民間企業による実質的な企業国家化は絶対に阻止し、労働者の人権と生命維持の権利を法的に守る。

 そして何より、我々と日本が持つ『輸送能力』を安全認可制度という形でルール化し、火星へのゲートをコントロールする」

 

 ヘイズは立ち上がり、執務室の窓辺へと歩み寄った。

 

「火星は新しい星だけれど、そこへ行く人間は地球人よ。だから、地球の法律と責任を、重荷になっても持っていく必要があるの」

 

「大統領」

 エレノアが背後から声をかけた。

「この方針は、日本政府とすり合わせなければ何の意味も持ちません。輸送の中核技術と安全プロトコルは、彼らの協力なしには維持できませんから」

 

「日本は、火星の門番になりたがらないでしょうね」

 ノアがクスクスと笑った。

 

「でしょうね。特にあの堅物な日下部参事官あたりは、この地獄の目次を見てひどく胃を押さえるはずよ」

 ヘイズの口元に、今日初めてのわずかな笑みが浮かんだ。

 

「矢崎総理との極秘のホットライン協議を設定してちょうだい。議題は、火星コロニーの暫定管理枠組み。それから、レオナード・グレイの暴走への対処についてよ」

 

「日本側の第一声が想像できますね」

 ノアが言う。

 

「『またですか』でしょうね」

 エレノアが真顔で答えた。

 

「私も全く同じことを言いたいわ」

 

 会議が散会し、無人となったオーバルオフィス。

 ヘイズは一人残り、電源の落ちた黒いモニターの画面を見つめていた。

 つい先ほどまで、そこには熱狂する人々と、赤い惑星の鮮烈な映像が映し出されていた。

 

 人類は火星に届いた。

 だが、届いた瞬間から、その星は純粋な夢だけの場所ではなくなったのだ。

 

 これからは、息の詰まるような法律が必要になる。利権を調整する管理者が必要になる。

 命を預ける輸送許可と、企業と労働者を結ぶ契約書が必要になる。

 万が一の事態に備えた緊急帰還計画が必要になり、そして——まだ存在すらしていない、火星で生まれる子供たちの権利まで、今のうちから地球の人間が頭を悩ませて考えなければならないのだ。

 

 赤い星は、まだ誰のものでもない。

 だからこそ、地球上の誰もが、自分のものにしたがっている。

 

 キャサリン・ヘイズは、窓の外に広がる青い地球の空を見上げながら、自分に言い聞かせるように静かに呟いた。

 

「火星に国境線を引く前に、せめてルールくらいは引いておきましょう」

 




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