自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
東京都千代田区永田町、首相官邸。
地下深くに設けられた特別会議室は、分厚い鉛、特殊電磁波吸収材、そして最新鋭の防音隔壁によって六重に覆われ、外界の喧騒から完全に切り離されている。日本国内で最も強固な『密室』であるその空間には、空調の微かな稼働音すら徹底的に制御された、冷徹な静寂が満ちていた。
円卓を囲む閣僚たちの表情は、一様に重く沈んでいた。
彼らの視線の先では、白磁のように滑らかな人工皮膚を持つ『オラクル義体』が、無機質かつ完璧な所作で室内の最終セキュリティチェックを実行している。
「——会議室内の全通信網、物理的遮断を確認。外部からの電磁波、量子通信傍受、光学スキャン、および微細振動を利用したあらゆる盗聴に対する防御プロトコル、すべて正常に稼働中です。追加の情報隔離プロトコルもスタンバイ。これより、本空間は完全な情報隔離領域へと移行します」
感情の起伏を一切感じさせない合成音声が響き渡る。
矢崎薫総理は、組んだ手の上に顎を乗せたまま、小さく、しかし力強く頷いた。
「ありがとう。では……ジャミング・オン。というわけで、会議を始めましょうか」
その言葉を合図にするかのように、内閣情報調査室のトップを兼任する特命担当・日下部が、深い、本当に深い溜息を吐き出した。
「……何度経験しても、この物々しい導入には慣れませんね。自分が少し嫌になりますよ」
「同感だな」
官房長官が、手元のタブレット端末を忌々しそうに見つめながら同意した。
「私はまだ慣れたくありません。この非日常が日常になった時、為政者としての感覚が狂いそうで恐ろしい」
「慣れていただかなくては困りますよ」
矢崎総理は、わざと冷徹な響きを持たせて言い放った。
「今日の議題は、これまで以上に重いのだから」
その宣告に合わせて、オラクル義体が円卓の中央にホログラムの『議題表』を投影した。
空中に浮かび上がった光の文字を一瞥し、閣僚たちの顔からさらに血の気が引いていく。
一、火星コロニー暫定管理枠組みに関する米日協調
二、火星居住環境に関するアンノウン機関の技術回答パッケージ
三、海洋惑星(アクアリアン)観測報告および文化解析
四、銀河コミュニティ共同外宇宙探索隊の進捗状況
五、オラクル義体に対する国際的反響および商業展開の是非
しばらくの沈黙の後、御堂経済産業大臣が、こめかみを強く揉みながら口を開いた。
「総理。……ここに並んでいる項目、一つ一つが本来なら、数ヶ月かけて省庁横断の専門委員会を立ち上げ、国家の命運を賭けて議論すべきレベルの代物なのですが」
「それがペラ一枚の議題表に、まるで町内会の寄り合いのノリで並列されている。控えめに言って、暴力的ですね」
外務大臣も、皮肉めいた笑みを浮かべるしかない。
「アンノウン案件では日常茶飯事です。麻痺してください」
日下部が淡々と切り捨てる。
「我々には時間がありません。世界が火星到達の祝祭に酔いしれている間に、我々はこの現実の処理を終わらせなければならない」
「その通りね。まずは、第一議題の火星関連からいきましょう」
矢崎総理は姿勢を正し、閣僚たちを見回した。
「昨夜、アメリカのヘイズ大統領と極秘のホットラインで協議しました」
総理の第一声に、会議室の空気が一段と張り詰めた。
数日前、人類の宇宙船がわずか五日で火星の軌道に到達するという、歴史的偉業が成し遂げられたばかりだ。世界中が歓喜に沸き、メディアは連日「新たなフロンティア」を謳い上げている。
「彼女、かなり参っていたわよ」
「でしょうね……」
官房長官が、同情するように眉をひそめた。
「火星軌道投入成功の華々しい祝辞を読み上げたその翌日には、火星コロニーの国家承認問題、国連による管理体制、民間企業の暴走規制、さらには将来的な火星出生者の国籍扱いまで、一気に現実的な法整備の地獄に放り込まれたわけですから。胃に穴が空いてもおかしくない」
外務大臣が、アメリカのトップの苦悩を代弁する。
「ええ。特に彼女の頭痛の種になっているのが、例の民間企業の動きです」
総理が目配せをすると、オラクル義体が空間に新たなデータを展開した。
それは、SpaceXのトップ、レオナード・グレイがSNSに投稿した『火星コロニー人材登録フォーム』の爆発的な反響データだった。
『勤務地:火星。通勤時間:五日。次のフロンティアを共に作ろう』
その甘美で挑発的なキャッチコピーに応じ、世界中から数千万件規模の「移住希望登録」が殺到しているという統計が、生々しいグラフとなって表示される。
「登録フォームというものは、単なる夢の募集ではありません。これは立派な『世論形成装置』です」
日下部が冷徹に分析する。
「これだけの人間が火星を目指しているという事実を突きつけることで、政府が安全保障や倫理的観点から規制をかけようとする動きを牽制している。強烈な政策圧力になります」
「ヘイズ大統領も全く同じことを言っていました。『彼らは夢に応募フォームを付けた。これで我々は、夢を邪魔する悪役にされかねない』と」
「レオナード・グレイらしい、実に狡猾で鮮やかな手口ですね」
御堂経産大臣が、半ば感心したように唸った。
「民間企業が、国家という巨大なシステムよりも先に未来へと全力疾走していく。しかも、その行き先が隣の惑星だというのだから笑えません」
霧島防衛大臣が、腕を組みながら低い声で言う。
「だからこそ、米日で早急に火星コロニーの暫定的な管理枠組みを固めたい、と?」
「その通りです。オラクル、アメリカ側から提示された基本方針案を」
空間に、七項目の素案が浮かび上がった。
一、火星上のいかなるコロニーも、現時点では独立国家として承認しない。
二、火星上の全施設は、地球上の既存国家、または国際機関の延長施設として取り扱う。
三、国際協力による『共通コロニー』は、国連主導での共同管理とする。
四、各国が独自に建設するコロニーは、その建設国の法規下で管理する。
五、民間企業が主導するコロニーは、その企業が登記されている国家の厳格な監督下に置く。
六、火星への輸送業務は、新設する『火星輸送安全認可制度』によって一元管理する。
七、火星出生者の国籍および人権問題については、速やかに国際専門部会を設置し協議する。
「大枠としては、極めて常識的な着地点だと思います。我々としても、基本的にはこのアメリカ案に追従する形で問題ないと考えていますが、どうでしょう?」
総理の問いに、外務大臣が真っ先に頷いた。
「悪くない、というより現実的な最適解ですね。特に『共通コロニーを国連管理にする』という第三項は有効です。火星開発が米日による独占だという、中国やロシア、EUからの非難をかわすための立派な看板になります」
「第四項の『各国コロニーは各国管理』というのも、腹黒いですが実務的です」
霧島防衛大臣が続く。
「火星への進出を完全に禁止すれば、覇権国は必ず裏で『無許可の秘密基地』を作ります。ルール化して表で管理下に置いた方が、軍事転用などの監視がしやすい」
「第五項の民間企業に対する監督も必須でしょうね。企業がコロニーの生命線を握るという構造は、極めて危険です」
御堂経産大臣が、経営者としての視点から警鐘を鳴らす。
「水、食料、帰還用の宇宙船。これらを企業が独占する火星都市など、地球上のどんなブラック企業も生ぬるく見えるほどの、絶対的な支配体制を生み出します」
「まさにその通りです」
綾瀬厚生労働大臣が、険しい顔で身を乗り出した。
「火星という閉鎖環境においては、『労働権』と『生命維持権』が完全に直結します。企業の方針に従わなければ酸素を止める、といった非人道的な労働契約など、絶対に許容してはなりません。企業統治の及ばない、強固な監査機関の介入が不可欠です」
「よし。では、法的な制度設計の方向性は、このアメリカ案を支持し、協調していくということで進めましょう」
総理が結論を口にしようとした、その時だった。
「……制度の『設計図』としては、それで結構です」
日下部が、感情の読めない声で静かにカットインした。
「しかし総理。問題は、その制度を動かすための『物理的な実力』です。つまり、第六項の『輸送』です」
会議室の空気が、ふっと冷えた。
「火星までわずか五日で、人間と物資を安全に送り届けることができる輸送能力。現時点でこれを保有しているのは、世界でアメリカと日本だけです。船体の製造や運用システムはアメリカ側が担っていますが……」
日下部は、冷徹な事実を突きつける。
「その超高速推進技術と、航行を可能にする安全プロトコルの根幹を提供したのは、他でもない日本側――アンノウンの技術協力によるものです」
「……つまり、どれだけ表面上『国連管理の共通コロニーです』という美しい看板を掲げようと」
官房長官が、日下部の言葉の裏にある意味を察して顔をしかめた。
「実質的に火星へ行くための『門番』は、我々米日であると、世界中から見透かされるわけですね」
「はい。さらに踏み込んで言えば、その心臓部の技術のブラックボックスを握っている日本こそが、背後で火星の主導権を操っているのではないかと、疑心暗鬼の目で見られる恐れがあります」
「そこなのよね」
矢崎総理は、重苦しい息を吐いた。
「火星開発のルール作りに主導権は持ちたい。けれど、『日本が火星を支配しようとしている』とは絶対に見られたくない」
「第六項の『火星輸送安全認可制度』は、そのジレンマを解決するためのアメリカ側の苦肉の策でしょう」
外務大臣が解説する。
「『我々が独占しているわけではない。厳しい安全基準を満たした船であれば、どの国の輸送でも認可する。ただ、現時点でその安全基準を満たせるのが米日の船しかないだけだ』という論理です」
「安全認可という建前があれば、技術力の低い国が無謀な特攻紛いのコロニー建設を強行したり、中国やロシアが軍事目的の機材を大量輸送したりするのを、合法的に『安全上の懸念』を理由に差し止めることができますからね」
霧島防衛大臣が、安全保障の観点からその有用性を認める。
「しかし、やりすぎれば『安全基準を盾にした米日による火星封鎖だ』と国際社会から猛烈なバッシングを受けます。常に世論のガス抜きが必要になりますよ」
官房長官が頭を抱えた。
「つまり、いつものやつね」
総理が、日下部を見た。
「ええ。責任は持つが、支配しているようには見せない。強者の責任と弱者の振る舞いを同時に要求される、最悪の綱渡りです」
日下部は、手元のマグカップのコーヒーを見つめながら呟いた。
「胃が痛いわね」
「私はすでに、今朝から激しく痛んでおります」
◇
「火星における居住問題で、アメリカ側がもう一つ、極めて神経を尖らせている点があります」
綾瀬厚労大臣が、手元の分厚い資料をめくりながら話題を転換した。
「第七項の『火星出生者問題』です」
生命と医療を司る大臣の顔には、政治家としての打算ではなく、純粋な医療従事者としての強い懸念が浮かんでいた。
「火星の重力は、地球のおよそ三八パーセントしかありません。この低重力環境下で人間が長期滞在すれば、骨密度の低下や筋力の減衰は避けられません。問題は、そこで『新たな命』が宿った場合です。低重力が胎児の骨格形成、循環器系の発達、そして神経系の構築にどのような深刻な影響を与えるか、現代医学では未知数の部分が多すぎます」
「最悪の場合……」
榛名科学技術担当大臣が、言葉を引き継ぐ。
「火星で生まれ育った子供は、その三八パーセントの重力環境に適応した脆弱な骨格と心臓を持って成長し……二度と、地球の一Gの重力に耐えられない体になってしまう可能性がある」
「ヘイズ大統領も、そこを非常に恐れていました」
総理が、深く頷く。
「自国が主導した火星コロニーで子供が生まれ、その子たちが『地球へ帰ることを物理的に許されない火星の囚人』になってしまう。人権問題として、彼女の政権を根底から揺るがす最悪の悪夢でしょうね」
「当面の初期コロニーにおいては、妊娠・出産を厳格に禁止するというアメリカの措置は、医学的にも妥当です。しかし、人間という種がそこで長期間生活を営む以上、いずれ必ず直面する問題です。禁止だけで縛り続けることは不可能です」
「そこで……アンノウン機関からの技術回答の出番、というわけね」
総理の視線を受け、日下部が手元の暗号化端末を操作した。
「はい。低重力環境が人体に与える長期的な影響について、我々の照会に対し、アンノウン機関から『技術回答』が届いています」
オラクル義体が、空中に新たなホログラムを展開した。
そこに記された簡潔な文字列に、会議室の視線が集まる。
【火星コロニー居住区内における重力環境維持案】
・居住区内部を、地球標準重力(一G)環境に恒久的に維持可能。
・探査船に搭載した既存の『重力制御・慣性補正フィールド技術』を転用・応用する。
・これにより、出生、成長、および長期滞在における低重力由来の健康リスクを大幅に低減可能。
その簡潔な文字列を見て、会議室にいた閣僚たちは、特に驚いて取り乱すようなことはなかった。
「……一G環境の維持。なるほど、ヤタガラス内部で運用している重力制御技術の転用ね」
矢崎総理は、さも当然の事のように呟き、手元の資料に目を落とした。
「技術的にはそういうことになります」
榛名科学技術担当大臣が、深くため息をつきながら答えた。
「ヤタガラスという全長三キロメートルの都市艦の内部で、完璧な一G環境を維持し続けている実績があるわけですからね。居住用ドームのサイズにスケールダウンして最適化するなど、アンノウンの技術力からすれば、ただの出力調整(パラメータ変更)程度の容易な作業でしょう」
「それは何よりです。これで火星における最大の医学的懸念が一つクリアできます」
綾瀬厚労大臣が、純粋に医療的観点から安堵の息を漏らす。
「ですが、問題はそこではありません」
日下部が、冷徹な声で割って入った。
「問題は、この『何もない空間に一Gの重力を恒久的に作り出せる』という神の如き技術を、アメリカ政府にどう説明して渡すか、です」
「……ああ、なるほど。そこですか」
官房長官が、こめかみを強く押さえた。
「あの、総理。探査船の超高速航行時に使用しているフィールド技術については、アメリカ側にはあくまで『加速時の尋常ではないG(重力加速度)から乗組員や機材を保護し、負荷を“軽減”するためのクッションのようなものだ』と説明して、どうにか納得させていたのですよ」
榛名が、科学技術担当としての苦悩をぶちまける。
「負荷を減らすだけなら、まだ既存の物理法則の延長線上として辛うじて言い訳が立ちました。しかし、火星の地表という重力の異なる環境で、ゼロから『一Gを加重し、維持し続ける』となれば話は全く別です。そんなことを堂々と提示すれば、アメリカの科学者たちは『日本は重力そのものを完全に操作・支配する技術を隠し持っていたのか!』と間違いなくパニックを起こします」
「そして、国防総省(ペンタゴン)の連中が、目の色を変えてその技術の軍事転用を要求してくるわけだ」
霧島防衛大臣が、忌々しげに舌打ちをする。
「重力を自在に操れるなどと知れれば、戦略ミサイルの軌道変更から巨大質量の兵器化まで、彼らの妄想は際限なく膨らむぞ」
「日下部さん。また一つ、アメリカへの『言い訳と説明』が増えたわね」
矢崎総理が、少しだけ同情するような視線を向けた。
「はい。胃酸が逆流する思いです」
日下部は無表情のまま答えた。
「あくまで『居住区内の人工重力維持に特化して最適化された、ブラックボックス化モジュールとして提供する。分解は一切認めない』という強硬な条件付きで押し通すしかありません」
「彼女(ヘイズ大統領)、この報告を聞いたら喜ぶわよ」
「喜び半分、そして『また日本が理解不能なブラックボックス技術を出してきた』という疲労が半分でしょうね」
「火星関連の技術的対応については、方針が見えました。他に、政治的な意見は?」
総理が促すと、御堂経産大臣がゆっくりと手を挙げた。
「我が国における『日本火星コロニー』の建設計画についてです」
その言葉に、会議室の空気が再び重く沈んだ。
これは、技術的な問題ではなく、極めて泥臭い『政治と面子』の問題だったからだ。
「今後の宇宙産業の覇権争いを見据えれば、日本独自の管理下にある火星コロニー、あるいはそれに準ずる拠点は、どうしても欲しい布石です。JAXAが深く関与し、さらには日本のアンノウン技術が火星到達の決定打になったにもかかわらず、火星に『日本の拠点』が存在しないとなれば……国民感情として、到底納得されないでしょう」
「世論は確実に求めますね」
官房長官が頷く。
「『日本独自の火星基地を』『赤い星に日の丸を』という勇ましい声は、メディアや保守層を中心に必ず湧き上がります。それを無視すれば、弱腰外交だと政権批判の的になる」
「国際政治の観点からも同様です」
外務大臣が同調する。
「日本が『国連共通コロニーの1フロアを借りているだけ』という立場では、外交的プレゼンスが弱すぎます。火星のルール作りに口を出すなら、自前で旗を立てているという既成事実が必要です」
「火星における安全保障、通信インフラの確保、そして他国コロニーで事故が起きた際の緊急救助拠点としても、日本独自の拠点は有用です。作れるのであれば、作るべきだ」
霧島防衛大臣も、強い口調で後押しした。
閣僚たちの意見は一致しているように見えた。政治的にも、外交的にも、産業的にも、日本は火星にコロニーを持つべきである、と。
しかし、日下部だけが、どこか居心地の悪そうな顔をして口を閉ざしていた。
「日下部さん。何か言いたげね」
総理に水を向けられ、日下部は観念したように息を吐いた。
「……正直に申し上げますと」
日下部は、円卓の閣僚たちを一人一人見回した。
「純粋な『技術的・生存的合理性』の観点からのみ言えば、日本が火星の地表にコロニーを建設する必要性は、一切ありません」
「それは……」
榛名科学技術担当大臣が、苦り切った顔で日下部の言葉を継いだ。
「我々には『ヤタガラス』の存在があるからですね」
官房長官が、慌てて周囲を見回す。完全な密室であると分かっていても、その単語を口にするのは憚られた。
「その名前は、絶対に外では出せませんが……」
「もちろんです。ですが、冷徹な技術的事実として、我々はすでに火星地表の過酷な環境にわざわざドームを建てる必要などないのです。宇宙空間に独立した重力と生態系を維持できる巨大な『宇宙都市艦』という究極の選択肢を、我々はすでに隠し持っている」
「さらに言えば……これも表には絶対に出せませんが」
御堂経産大臣が、自嘲気味に笑った。
「我々には、あんな放射線と砂嵐にまみれた赤い不毛の星よりも、はるかに豊かで水と緑に溢れた『テラ・ノヴァ』という別次元の入植先すらある。火星など、それに比べれば魅力のないただの岩の塊です」
「つまり」
総理が、全員の奇妙なジレンマを代弁した。
「本音を言えば、火星よりもはるかに安全で、高度で、快適な選択肢を我々は秘密裏に持っている。火星に住む合理性はない。けれど、それを国民にも国際社会にも明かすわけにはいかないから……『表向きの宇宙開発の成果』として、莫大な予算を投じて、わざわざ不便な火星コロニーを建設するポーズをとらなければならない、と」
「技術的には不要。しかし政治的、世論的、産業的には必要不可欠。……非常に厄介で、馬鹿げた分類です」
日下部が、毒を吐くように言った。
「馬鹿げているかもしれませんが、経済にとっては重要です」
御堂が真顔に戻る。
「日本の企業群の参入、閉鎖環境農業、自動建設ロボット、極限環境医療、次世代の教育システム、災害対応。火星コロニーは、巨大な『産業実証場』になります。ここで得られた知見は、地球上の産業にも必ず還元される」
「わかりました。では、日本火星コロニー構想については、すぐには公表しない。ただし水面下で内部検討を開始します。当面は『国連共通コロニーへの積極的参加』と『JAXA主導の科学拠点構想』という名目で始める」
「『日本火星コロニー』という威圧的な言葉は、当面使わない方がよいですね」
官房長官がメモを取る。
「ええ。『日本火星科学拠点』くらいにしておきましょう」
総理の決定に、日下部がわずかに肩をすくめた。
「名前の柔らかさで私の胃痛が軽減されるわけではありませんが……多少は、マシかもしれません」
◇
「……次の議題です。アクアリアン関連」
矢崎総理が告げると、会議室の空気が微かに変わった。
火星という地球由来の『政治と利権』の胃痛から、純粋な未知、すなわち『星間文明』に対する静かな緊張へと切り替わる。
内閣情報官が、手元の端末を操作しながら資料を提示した。
「極小探索機群によるアクアリアン母星、およびその文化・社会構造のステルス観測は、現在も継続中です。彼らの生活圏は海洋に集中しており、浮体都市、海底施設、そして軌道上の巨大構造物が主な活動拠点となっています」
オラクル義体が、青白い海洋惑星の映像を次々と投影していく。
海面に浮かぶ巨大なリング状の都市。深海で輝く無数の光の網目。巨大な天体望遠鏡らしき施設。そして、水棲の知的生命体たちが生活を営む、穏やかで知的な日常の断片。
「現時点で、最も重要な報告事項があります」
内閣情報官が、閣僚たちを見回した。
「彼らは、地球から発せられている人工電波を、『文明由来の信号』として認識していないようです。我々が発している通信波を拾った痕跡は、現在までの彼らのネットワーク上からは確認されていません」
「では、地球に文明があることは、まだ知られていないのですね?」
外務大臣が確認する。
「はい。地球という星そのものの詳細な観測も、まだ不十分です。ただし……」
内閣情報官は、一枚の翻訳済み論文のホログラムを投影した。
「我々の住む太陽系、すなわち『ソル星系』は、天体として彼らに認知されています」
「太陽系の認識はあるのですね」
榛名が身を乗り出した。
「はい。彼らの天文学界における最新の論文の一つに、『ソル星系第三惑星(地球)には液体の水が存在する可能性があり、我々アクアリアンに類似した水棲生命、または何らかの生命体が存在する可能性がある』という推論が発表されています」
会議室が静まった。
「……向こうも、こちらを見ているのね」
総理が、青い海の星の映像を見つめながら呟いた。
「ただし、あくまで学術的な『推論』の域を出ません。地球に自分たちと同等、あるいはそれ以上の文明があるとは、夢にも思っていない段階です」
内閣情報官が補足する。
「彼らの星間航行技術のレベルは?」
榛名が、科学的見地から切り込む。
「FTL(超光速)航行、および星間通信技術ともに、未実用段階です」
内閣情報官が答える。
「現行の彼らの推進技術では、太陽系に到達する可能性は事実上ゼロです」
「FTLの基礎研究などは行われているのですか?」
総理の問いに、榛名がアンノウン機関からの技術評価資料に目を通す。
「アンノウン機関の評価によれば、理論研究に相当するものは存在しています。空間歪曲、慣性制御、疑似ワームホール仮説など、我々の物理学に近い概念は確認されています。ただし、それを実機として建造・稼働させるために必要なエネルギー制御、材料技術、演算基盤、そして場の安定化技術が、決定的に不足しています」
「つまり、理論の入口には立っているが、エンジンを組み立てる段階にはまったく届いていない、と」
日下部が簡潔にまとめた。
「その理解で間違いありません。彼らが自力で太陽系へ来るには、まだ数百年単位、あるいはそれ以上の時間がかかるでしょう」
榛名が結論づける。
「そうですか……」
総理は、少し残念そうに目を伏せた。
「……関連して、一つ報告が」
内閣情報官が、少し言い淀むように口を開いた。
「何か?」
総理が顔を上げる。
「観測班が、ある家庭内の会話の音声を拾い、翻訳しました」
「家庭内?」
外務大臣が怪訝そうな顔をする。国家レベルの会議で、一家庭の会話が議題に上がるなど異例中の異例だ。
「はい。アクアリアンの子供が、天文学に関する家族との会話の中で……」
内閣情報官は、少し間を置いた。
「『私たちがまだ行けないなら、ソル星系から誰かが迎えに来てくれればいいのに』という趣旨の発言をしました」
会議室が、凍りついたように静まり返った。
「……子供が?」
総理が、確かめるように聞いた。
「はい」
総理は、しばらく無言のまま、テーブルの上に組んだ手を見つめていた。
「迎えに来てほしい、ですか」
その声は、政治家としてではなく、一人の人間としての響きを持っていた。
「我々は、すでに彼らを見つけています」
外務大臣が、静かに言う。その気になれば、明日にでもコンタクトを取れるのだ。
「しかし、地球の社会が、その接触の衝撃に耐えられるとは思えません」
霧島防衛大臣が、現実的な懸念を口にする。
「火星到達だけでこれだけの騒ぎになっているのです。地球外知的生命体との接触など、パニックを引き起こすだけだ」
「問題は地球側だけではありません。アクアリアン側への衝撃も計り知れない」
日下部が、感情を排した声で指摘する。
「彼らはまだ、自力で星の海を渡れない文明です。そこに、圧倒的な技術力を持った異星人(我々)が突然空から降りてくればどうなるか。彼らの政治体制、宗教観、科学的パラダイムのすべてを破壊し、不可逆的な変容を与えてしまう」
「分かっています」
総理が、深く息を吐いた。
「……でも、迎えに行きたいですね」
誰も、すぐには返事をしなかった。
地球という星で、無数のしがらみと利権に縛られながら国家を運営している彼らだからこそ、その純粋な願いの重さが痛いほど分かった。
「もし、我々がアンノウンという『劇薬』と出会わず、自分たちの足で少しずつ宇宙へ進出していたなら……」
総理は、ホログラムの青い星を見つめたまま言った。
「我々も、彼らのように純粋な願いを持てたのかもしれませんね」
「……総理」
日下部が、たしなめるように呼んだ。
「大丈夫。分かっています。今は接触しません。我々にできるのは、観測だけです」
総理は顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「観測班も、この記録の取り扱いには困惑しています。技術的な価値というより、倫理的な負荷が高すぎる情報ですから」
内閣情報官が、少し苦しそうに言う。
「記録として残しておいてください」
総理は命じた。
「将来、我々人類が本当に彼らと接触する資格を得た日が来たなら……その言葉は、絶対に忘れてはいけないものですから」
◇
「次の議題です。テラ・ノヴァ側、銀河コミュニティ共同外宇宙探索隊について」
総理の言葉で、オラクル義体が投影する星図が切り替わった。
それは地球側の太陽系周辺図ではない。テラ・ノヴァ側の宇宙に展開された、広大な外宇宙探索のマップだった。
ミコラ族を中心に発足した『銀河コミュニティ』の共同探索隊が、未知の領域を次々と開拓している様子が、光のネットワークとして可視化されている。
「火星、アクアリアン、そして銀河コミュニティ……」
外務大臣が、疲れたように息を吐いた。
「ここまで来ると、我々『外務省』という言葉の意味が根底から変わってきますね」
「外が広すぎます。胃が持ちません」
日下部が即答する。
「オラクル、報告を」
総理が促すと、義体は無機質な声で答えた。
「銀河コミュニティ共同外宇宙探索隊は、現在も順調に確認領域を拡大中です。特筆すべき事項として、現在までに、FTL(超光速)技術を未保有の惑星文明を『三件』新たに確認しています」
会議室がまたしても静まり返った。
未知の知的生命体との遭遇。かつてならSF映画の中だけの話だった事象が、業務報告のトーンで事務的に処理されていく。
「……三つ?」
御堂経産大臣が、信じられないというように念を押す。
「肯定します。いずれも惑星内、または自らの恒星系内でのみ活動している、発展途上の文明です。星間航行能力は確認されておらず、恒星間通信も未実用段階です。我々の基準で言えば、アクアリアンと同等か、それ以下の技術水準と推定されます」
「銀河コミュニティとしての対応方針は?」
総理が問う。
「FTLを持たない惑星文明には、原則として『非接触』を貫いています」
外務大臣が、手元の資料を読み上げながら答えた。
「対象となる恒星系の外縁部、または検知されにくいデブリ帯の軌道上に『観察ステーション』を設置。長期にわたるステルス観測を行い、彼らが自力で星の海へ出てくる、つまり『接触基準』を満たすまで、一切の干渉を行わない。コミュニティの方針は一貫しています」
「地球側のアクアリアン対応と、全く同じ判断ですね」
霧島防衛大臣が感心したように言う。
「我々が彼らの真似をしたわけではありませんが……」
榛名が少し誇らしげに言う。
「結果として、我々の下した『非接触』という判断が、星間文明社会における接触倫理のスタンダードに近かったということですね」
「宇宙が、急に混雑してきましたね」
官房長官が、星図に点在する文明の光を見つめて言った。
「宇宙が混雑しているのではありません。長官」
日下部が訂正する。
「我々が、ようやく他の文明が見える位置にまで到達してしまった、というだけのことです」
「その通りね」
総理が頷く。
「その『観察ステーション』の概要は?」
榛名がオラクル義体に尋ねる。
「対象文明の技術水準に応じて、彼らの観測網から完全に逃れられる位置に、隠密観測拠点を設置します。電磁波、熱源、重力異常、大気の化学組成、都市の光量、通信波の傍受、気象変動、バイオシグナルなどを、数十年、数百年単位で長期記録し続ける無人施設です」
オラクル義体が淡々と説明する。
「接触は、絶対にしない」
外務大臣が確認する。
「肯定します。接触は行いません。目的はあくまで、文明の発展段階の推定、自己破壊リスクの評価、他文明との接触適性の評価、そして外部からの脅威に対する早期警戒網の構築です」
「見つけることと、話しかけることは全く違う、ということね」
総理が結論づける。
「はい。我々は、技術的に『できること』と、倫理的に『してよいこと』を、明確に区別しなければなりません」
日下部が、強い決意を込めて言った。
◇
「では、最後の議題です」
総理が、円卓の横で直立しているオラクル義体へ視線を向けた。
「オラクル義体の反響と、その取り扱いについて」
「これは、国内の産業界からの突き上げが凄まじいことになっています」
官房長官が、うんざりした顔で資料を開いた。
「中東での万博でお披露目して以降、国内外から文字通り問い合わせが殺到しています。商業利用、企業向けレンタル、政府間貸与の要請。医療現場、介護施設、行政窓口、教育機関、災害対応、危険作業。ありとあらゆる業界が、オラクル義体を欲しがっています」
「経済界からの要望は切実です」
御堂経産大臣が、産業界の声を代弁する。
「少子高齢化による圧倒的な人手不足、生産性の低下。オラクル義体が数千体、数万体導入されれば、それらの問題は一気に解決に向かいます。翻訳、接客、物流、建設……どの分野に投入しても、人間をはるかに凌駕するパフォーマンスを発揮する。喉から手が出るほど欲しい人材(?)です」
「医療・介護の現場からの声も深刻です」
綾瀬厚労大臣が続く。
「疲労を知らず、ミスを犯さず、多言語に対応し、患者に対して常に完璧に丁寧。現場の過酷な労働環境を知る者からすれば、まさに夢のような存在です。導入を求める署名活動まで起きかけています」
「防衛省や消防庁でも、危険区域への投入や災害対応シミュレーション要員として、実戦配備を求める声が強い」
霧島防衛大臣が腕を組む。
「……だからこそ、危険なのです」
日下部が、閣僚たちの熱を冷ますように低く言った。
「日本政府としての基本方針は、明確にしておきましょう」
総理が、きっぱりと言い切った。
「オラクル義体の、商業ベースでの展開には、断固反対します。絶対に売りません」
会議室の全員が、総理の言葉に深く頷いた。
「オラクル、リスク一覧を」
日下部の指示で、義体が社会に与える影響のシミュレーション結果を投影した。
【オラクル義体・商業展開時の致命的リスク】
・人間の労働市場の不可逆的な崩壊(大量失業)。
・行政機関や民間企業の、オラクルへの完全な意思決定依存。
・AI義体の人格権、労働権、および所有権を巡る倫理的・法的な大混乱。
・犯罪利用、軍事利用への転用リスク。
・一般市民の間で「人間の対応よりオラクルの対応の方が優れている」という価値観が定着し、人間関係の基盤が変質する。
・教育、介護、子育てといった『人間が人間を育てる』領域への機械の介入による、社会性の喪失。
・日本政府が未知のAI労働力を独占していることに対する、国際社会からの猛烈な批判と制裁リスク。
・一度社会インフラとして定着した場合、二度と停止・排除できなくなるリスク。
「一言で言えば、社会が壊れます」
御堂が、経営者としての顔を捨てて言った。
「商業化して独占すれば、日本企業は一時的に世界経済の覇権を握るでしょう。ですが、その前に日本という国家の社会構造そのものが崩壊します。全員、オラクルに仕事を任せて働かなくなる」
「介護の現場では、『人間のケアワーカーは機嫌で対応が変わるが、オラクルは常に優しくて正確だ』という残酷な評価が下されるでしょう」
綾瀬が悲痛な顔をする。
「それは現場としてはありがたいかもしれません。しかし、人間社会全体として受け止めるには、あまりにも重すぎる現実です。人間が人間を支えるという意味が、根本から変わってしまう」
「行政の窓口も同じです」
官房長官がため息をつく。
「オラクルを配置した方が、国民へのサービスは明らかに向上するでしょう。絶対に怒らず、すべての法令を熟知し、多言語で対応できるのですから。ですが、そうなれば『じゃあ人間の公務員は何のために税金をもらっているのか』という批判に直結します」
「……実際、アンノウン機関員という名目で各省庁に出向しているオラクルが、すでに省内で問題になりかけています」
日下部が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「有能すぎるの?」
総理が聞く。
「有能すぎます」
日下部が即答する。
「膨大な資料の整理、瞬時の多言語翻訳、過去数十年分の法令検索と矛盾点の指摘、完璧な議事録の作成、あらゆるリスクシミュレーションの立案、国会答弁の補助資料作成、国際会議のロジ準備……。人間の優秀な官僚数十人が数日徹夜して仕上げる仕事を、彼女たちは数分で、一切のミスなく完璧に整えて提出してきます」
「そりゃあ、各省のエースたちは絶望するでしょうね……」
外務大臣が同情する。
「はい。そして、絶望した後は『自分たちで考えるのをやめて、すべてオラクルに頼ろうとする』ようになります。これが最も危険な兆候です。日本政府が、オラクルという外部AIなしでは機能しなくなる。国家の意思決定プロセスを機械に明け渡すことになります」
総理は、黙って説明を聞いていたオラクル義体の方を見た。
「……あなたたち自身は、この社会への商業展開を望んでいるの?」
「否定します」
オラクル義体代表が、平坦な声で答えた。
「当機群の存在目的は、アンノウン機関の業務支援、日本政府の危機管理補助、ならびに人類社会の致命的な崩壊を防ぐための安定化支援です。地球上における商業的利益の追求は、目的外事項であり、不必要です」
「現在の人類社会に、あなたたちオラクル義体を数百万体単位で大量に投入した場合、どうなると思う?」
「労働市場、行政システム、教育、医療、軍事バランス、および家庭内における人間の役割に、不可逆的な構造変化を与える可能性が極めて高いと推算します」
義体は、何の感情も交えずに残酷な予測を述べる。
「現在の人類社会の法整備、倫理観、および制度的成熟度においては、当機群の社会インフラとしての安定運用は困難です」
「要約すると?」
日下部が、あえて意地悪く聞いた。
「……現在の人類の民度では、無理です」
オラクル義体が、初めて少しだけ『人間臭い』毒を含ませて言い切った。
沈黙。
「言い切りましたね」
官房長官が、少し笑いそうになるのを堪えた。
「事実です」
義体は平然としている。
「では、方針を決定します」
総理が、宣言した。
「一つ。オラクル義体の商業展開は行わない。民間企業への販売、貸与、レンタル、および一般向けサービスの提供はすべて禁止とする。
二つ。オラクル義体は、あくまで『アンノウン機関員』、または日本政府の厳格な管理下に置かれる『特殊AI支援体』として扱う。
三つ。各省庁への出向は、災害対応、大規模な国際会議、医療危機への対処など、高度な公共目的かつ期間限定のものに限る。
四つ。オラクルはあくまで『補助要員』であり、人間の意思決定を置き換えることは許されない。各部署は、オラクルが不在でも業務を継続できる体制を維持すること。
五つ。オラクルを単なる所有物や機械として扱わないこと。人格的尊重を基本とし、運用ルールを厳格に定める。
六つ。国外への提供は原則として行わない。外交上の限定的支援のみとする」
矢崎薫は、閣僚たちを見据えた。
「便利だからといって、社会基盤に安易に組み込んではいけないものがあります。オラクル義体は、その典型です」
◇
「本日の決定事項の確認は、以上です」
総理が、長い会議の終わりを告げた。
「火星の覇権争い、外宇宙の海洋惑星、銀河コミュニティの探査状況、そして人類の労働を奪いかねない超高度AI義体……。これらを一回の会議で処理する国家運営とは、一体何なのでしょうね」
御堂経産大臣が、疲れ切った顔で伸びをした。
「今日の議事録だけで、国家機密の山ですね」
官房長官が、タブレットを閉じる。
「山ではありません。山脈です」
日下部が訂正した。
「では、各担当大臣は方針に従って動いてください。ヘイズ大統領には、私から火星の安全技術パッケージについての回答を伝えます。解散」
閣僚たちが、それぞれの重い課題を抱えて会議室を出ていく。
分厚い扉が閉まり、室内には総理と日下部、そしてオラクル義体だけが残された。
「日下部さん」
「はい」
「ヘイズ大統領に、人工重力と放射線遮蔽フィルム、生命維持装置の話を伝えたら、どうなると思う?」
「……間違いなく、喜ぶと思います」
日下部は、真面目な顔で答えた。
「素直に?」
「半分は、火星出生者問題が解決できることに心底安堵して喜ぶでしょう。残りの半分は、『また日本が、原理不明の変なオーパーツ技術をポンと出してきた』という事実に対する、深い絶望と疲労でしょうね」
総理は、少しだけ声を出して笑った。
「でしょうね。キャサリンには同情するわ」
少しの沈黙。
「……火星は、誰のものでもない」
総理が、ポツリと呟いた。
「でも、人間が火星で生きるための扉の『鍵』は、今のところ、我々日本の手元にある」
「鍵を持つ者は、扉の向こうで起きることにも、重い責任を問われます」
日下部が、影のような声で応じる。
「ええ。だから、鍵を握っているように見せずに、鍵の複製を配るような真似をしなければならない」
「非常に日本政府らしい、官僚的な地獄ですね」
「そうね」
総理は、オラクル義体が片付けていくホログラムの残光を見つめながら、アクアリアンの子供の言葉を再び脳内で反芻していた。
(迎えに来てほしい、か)
火星には、五日で行ける。
けれど、迎えに行きたいと願う青い星には、まだ行ってはいけない。
「我々は……できることと、してよいことを、残酷なまでに分けなければなりませんね」
日下部が、総理の心を読んだように言った。
「分かっているわ」
人類は、火星へわずか五日で届くようになった。
だが、星へ届くことと、その星で起きるすべてに責任を持つことは、全く別の問題だった。
赤い星には、まだ国境線が引かれていない。
青い海の星には、空を見上げてこちらを夢見る子供がいる。
テラ・ノヴァの向こう側では、銀河コミュニティがまだ見ぬ惑星文明を静かに見守っている。
日本は、そのすべてを知ってしまった。
知ってしまった以上、知らないふりをして逃げることはできない。
だが、知っていることをすべて世界に語り、無邪気に共有することもできない。
矢崎薫は、分厚い会議室の扉が重い音を立てて開くのを聞きながら、一つの真理を噛み締めていた。
世界は、物理的に広くなったのではない。
日本政府が背負うべき『責任範囲』が、宇宙規模にまで広がってしまったのだ、と。
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