自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第185話 夢に応募フォームを付けた男

 ホワイトハウスの地下深く。大統領や国家安全保障会議の主要メンバーだけが使用を許される、高度機密会議室である。

 分厚い防音扉と電子シールドに守られたその部屋は、地球上のどんな喧騒からも切り離された絶対的な静寂に包まれていた。だが、今日ばかりは、その静寂の質が普段の深刻な軍事・安全保障会議とは少しばかり異なっている。

 

 表向きの議題は『火星長期居住構想に関する政府・民間宇宙企業協議』。

 しかし実態は、『アメリカ政府が、暴走する民間企業トップを全力で止めようとするが、恐らく止めきれないであろう絶望的な会議』であった。

 

 円卓の上座に座るキャサリン・ヘイズ大統領は、手元の端末に表示された報告書を見つめながら、静かに息を吐いた。

 彼女の両脇には、ノア・マクドウェル、エレノア・バーンズ、そしてNASA長官といった、アメリカの宇宙政策と国家運営を担う重鎮たちが顔を揃えている。

 

 そこへ、会議室の重厚な扉が開き、一団が姿を現した。

 先頭を歩くのは、SpaceXのCEO、レオナード・グレイ。

 人類の火星軌道到達という歴史的偉業を成し遂げたばかりの彼は、まるで自分の裏庭に新しい秘密基地を作った少年のような、底抜けに明るく、そして傍若無人な上機嫌さを全身から発散させていた。

 

 だが、その後ろに続くSpaceXの幹部たちの様子は、トップとは残酷なほど対照的だった。

 法務責任者は、三徹はしたかのような深いクマを目の下に刻み込み、亡霊のような足取りで歩いている。広報責任者は、絶え間なくアラートを放つタブレットを抱え込み、虚空を見つめていた。人事・選抜プログラムの責任者に至っては、リアルタイムで跳ね上がり続ける『火星移住応募者数』の巨大なグラフを前に、完全に魂が抜けた顔をしている。

 

 アクセルをベタ踏みするトップと、その摩擦熱で焼け焦げかけている実務陣の構図が、そこに凝縮されていた。

 

「レオナード。忙しいところ、来てくれてありがとう」

 ヘイズ大統領が、形式的な歓迎の言葉を述べる。

 

「大統領に呼ばれて断るほど、私はまだ火星に住んでいないのでね」

 レオナードは、軽口を叩きながら円卓の席についた。

 

「あなたが火星に住んだとしても、アメリカ国籍である限り呼び出しますよ」

 エレノア・バーンズが、氷のような声で即答する。

 

「それは心強い。火星と地球のホットライン開通テストには最適だ」

 皮肉を全く意に介さないレオナードの態度に、ノア・マクドウェルが口元を手で覆って楽しそうに笑いを堪えた。

 

「雑談はそこまでにしましょう」

 ヘイズが場を引き締める。

「NASA長官。まずは本日の最重要事項から」

 

「はい、大統領」

 NASA長官が、手元のホログラムプロジェクターを操作した。円卓の中央に、極めて厳重な暗号化が施されたデータファイルが浮かび上がる。

 

「日本政府より、火星居住環境に関する限定技術パッケージの共有がありました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、レオナードの瞳が、獲物を見つけた猛禽類のように鋭く輝いた。

 

「正確には」

 NASA長官は、書類の文言を間違えないように慎重に読み上げる。

「アンノウン由来技術を、日本政府側の『アンノウン機関』が現代の宇宙開発運用向けに翻訳・評価し、我々にも扱える限定仕様としてパッケージ化したものです」

 

「分解、リバースエンジニアリング、軍事転用、および第三国への提供は一切禁止」

 エレノアが、冷徹な条件を付け加える。

「あくまで日本側管理下でのモジュール供与という形になります。我々は使用権を得るだけで、技術の根幹を所有するわけではありません」

 

「もちろん。黒箱(ブラックボックス)でも、動けばいい」

 レオナードは、全く気にした様子もなく手を振った。

「宇宙開発は昔から、人間が完全に理解しきれないものを信用して、空へ飛ぶ仕事だ。爆発せずに機能するなら文句はない」

 

「……私は今、その恐ろしい発言を聞かなかったことにしたい」

 NASA長官が、露骨に眉をひそめてこめかみを揉んだ。

 

 円卓の中央に、日本側から共有された技術パッケージの概要が表示される。

 

【一、居住区内人工重力維持モジュール】

 ・火星コロニー内部を、地球標準の1G環境に維持可能。低重力による健康被害を防止。

 

【二、多層位相吸収式・宇宙放射線遮蔽フィルム】

 ・火星表面の宇宙放射線量の九九・九九九パーセント以上を遮蔽可能。

 

【三、閉鎖循環型生命維持装置】

 ・温度、気圧、酸素濃度、湿度、二酸化炭素、水再生、廃棄物処理、微生物管理、病原体除去、栄養循環を完全自動制御。

 

 深い沈黙が、会議室を支配した。

 SpaceXの技術者たちが何十年もかけて血を吐く思いで研究し、NASAが莫大な予算を投じてなお解決の糸口すら見えなかった火星居住の「死の壁」が、たった三行の箇条書きであっさりと解決されていたからだ。

 

「ハ、ハハハ……」

 レオナードが、ゆっくりと笑い声を漏らし始めた。

 

「レオナード」

 ヘイズが、嫌な予感を含んだ声で呼ぶ。

 

「ハハハハハハ! 凄いな、アンノウン!」

 レオナードは、ついに堪えきれなくなったように大声を上げて笑った。

 

「正確には、日本政府から共有されたアンノウン由来技術の『限定パッケージ』です。アンノウン機関の翻訳の賜物ですよ」

 エレノアが釘を刺す。

 

「細かい表現は政府に任せる! とにかく、一番面倒な物理と生物の問題は全部解決じゃないか!」

 レオナードは立ち上がりそうになる勢いで身を乗り出した。

 

「全部ではありません」

 NASA長官がたしなめるが、レオナードの耳には入らない。

 

「低重力での筋力低下? 1Gモジュールで解決。致死的な放射線? フィルムを貼って解決。空気と水と温度? 箱を置いて解決。火星までの絶望的な距離? 輸送船で五日で解決だ」

 レオナードは、指を一つずつ折り曲げながら数え上げ、最後に不敵に笑った。

「残っているのは、法律と人間だけだ」

 

「そこが、一番厄介なのよ」

 ヘイズ大統領が、深い疲労を込めて言った。

 

 レオナードは手元のタブレットを操作し、空間のホログラムを自分のデータに上書きした。

 そこに表示されたのは、洗練されたCGで描かれた『初期火星コロニー』のロードマップだった。

 

「これなら……早ければ『一年』だ」

 

 会議室の全員の動きが、ピタリと止まった。

 

「……一年?」

 ヘイズが、自分の耳を疑うように聞き返す。

 

「無人での初期インフラ構築に十年、有人拠点確立にさらに十年。それが従来の計画だったはずですが」

 NASA長官が、常識的なスケジュールを提示する。

 

「十年? それは、火星を地獄のような砂漠として扱っていた頃の話だ」

 レオナードは、古い教科書を捨てるように言った。

「今は違う。人工重力があり、放射線を防ぎ、完璧な生命維持がある。軌道上に資材を集積し、自動建設ロボットを地表に降ろして基礎を組み、モジュールを接続して加圧する。そして人間を入れる。技術的な死の壁が消えた今、一年あれば初期コロニーは立つ」

 

「待ちなさい、レオナード」

 ヘイズが、鋭い声で制止した。

 

「待っていたら、また十年後になる」

 

「アメリカ政府として、表向きあなたを完全に止めるつもりはないわ。でもね」

 ヘイズは、大統領としての重圧を背負った目で彼を見据えた。

「法律が、全く追いついていないのよ。国際的な枠組みも、労働者保護のルールも、火星で子供が生まれた際の国籍問題も、民間企業が支配するコロニーの監督法も、何一つ未整備なの。頼むから、少しだけ止まってほしいわね」

 

 それを聞いたレオナードは、大袈裟に肩をすくめてみせた。

「おいおい。母親みたいなことを言わないでくれよ、大統領」

 

「……母親?」

 

「火星コロニーという最高のごちそうが目の前にあるってのに、止まれって言うのか? テーブルの前に座っている腹ペコの子供に、お行儀よくナイフとフォークの使い方が決まるまで食べるなと言うようなものだぞ?」

 

「言うんじゃないの?」

 ヘイズが、あまりにも冷ややかで真っ当な正論を即答した。

 

「…………」

 レオナードは、数秒間完全に固まった後、気まずそうに頭を掻いた。

「……そうですね。まあ、今の例えは少し悪かった」

 

「ふっ……」

 ノアが、ついに堪えきれずに吹き出しそうになり、慌てて咳払いをして誤魔化した。エレノアは氷の彫刻のように無表情を貫いている。

 

「ともかく」

 レオナードは気を取り直して言葉を継いだ。

「SpaceXとして、立ち止まるつもりはありません。もちろん、アメリカの国益になるように行動しますし、政府と敵対する気もない。だが、イノベーションは止まるわけにはいかない」

 

「ええ。分かっているわ。世界中の人々が火星コロニーを熱狂的に求めていることも、痛いほど理解している。……だからこそ、怖いのよ」

 

 レオナードは、傍らに立つ自社の人事責任者に顎で合図を送った。

 死んだ目をした人事責任者が、震える指で端末を操作し、ヘイズ大統領の目の前に巨大な『応募者データ』のリストを展開した。

 

「大統領。法律面の整備がまだだというのは理解します。企業は法律に縛られるだけじゃない、法律に守られている面もある。そこは実業家として分かっているつもりだ」

 レオナードの真摯な言葉に、ヘイズは少し意外そうに彼を見た。

 

「でも、これを見てください」

 

 空間に、圧倒的な数のグラフ、国籍、年齢、専門分野、そして志望動機のテキストが滝のように流れ落ちていく。

 

【医師】【看護師】【救急救命士】

【閉鎖環境農業技術者】【水質管理エンジニア】

【建築家】【構造工学者】【宇宙工学者】【ロボット技術者】

【元軍人】【警察官】【消防士】

【教師】【心理士】【牧師・宗教者】

【料理人】【芸術家】

【富豪】【インフルエンサー】

【火星でラーメン屋をやりたい日本人】

【何もできませんが火星に行きたいです勢】

 

「……ラーメン屋?」

 ヘイズが、リストの奇妙な一文に目を留めた。

 

 人事責任者が、感情のない声で補足する。

「火星でラーメン屋をやりたいと希望する日本人は、我々の想定を遥かに超えて多いです。備考欄に『低重力でも湯切りはできますか?』という質問が多数寄せられています」

 

「そこは、そんなに重要なの?」

 ヘイズが怪訝そうに尋ねる。

 

「文化定着の観点では極めて重要です」

 ノアが、社会学的な視点から即座に解説した。

「最初の火星都市に、探査ではなく『飲食店を作りたい』と考える人間がいるというのは、彼らが火星を『入植地』ではなく『生活圏』として見ている何よりの証拠です。日常を宇宙に持ち込もうとしている」

 

「インフルエンサーと富豪はどうするつもりですか?」

 エレノアが、冷たい声でレオナードに問う。

 

「排除はしない。だが、最初の入植者には絶対にしない」

 レオナードは即答した。

「火星は、金持ちがSNSで自慢するための観光地ではない」

 

「その線引きがきちんとできるなら、まだ少しは安心できるわね」

 ヘイズが安堵の息を漏らす。

 

「大統領。俺は正直、火星に行きたいなんて本気で思っているのは、俺たちみたいな頭のネジが飛んだ宇宙バカだけだと思っていた」

 レオナードの声から、いつもの軽薄さが消え、真面目な熱がこもった。

「だが違った。みんな行きたいんだ。医師も、農家も、教師も、料理人も、何の資格もない普通の若者たちも。みんな、火星に『何か』を見ている」

 

「……夢の土地、ね」

 

「そうだ。夢の土地だ。だが、地球からの『逃げ場』ではない」

 レオナードは、円卓の上のホログラムを払いのけ、全員を見据えた。

 

「火星は逃げ場ではない。地球で生きづらい人間の避難所でも、富豪の遊園地でも、我々のような企業の鉱山都市でもない」

 

 会議室が、しん、と静まり返った。

 稀代のイノベーターであり、夢想家である男の核心が、そこにあった。

 

「火星は、人類が自分たちの社会を『もう一度設計し直す』ための巨大な実験場だ」

 

 レオナードの言葉は、ただのビジネスマンの枠を越え、一種の思想家のような重みを持っていた。

 

「地球では、都市の構造も、法律も、階級も、国境も、何百年、何千年の積み重ねで複雑になりすぎた。どこかで設計を間違っていても、しがらみが多すぎて簡単には直せない。だが、火星は違う。火星にはまだ何もない」

 彼は、何もない空間を掴むように手を握った。

「最初の空気、最初の水、最初の道路、最初の学校、最初の病院、最初の労働契約、最初の自治規則。全部、過去の失敗を教訓にして、最初から最も合理的に設計できる。人類の社会を、イチからやり直せるんだ」

 

「……それは、極めて危険な思想でもあります」

 エレノアが、歴史の重みを知る者として冷酷に指摘した。

「完全にコントロールされた理想社会を作ろうとした人間は、歴史上、しばしば最悪の地獄を作ってきました。設計者が全能感に酔えば、そこは簡単にディストピアになります」

 

「知っている」

 レオナードは、エレノアの視線から逃げずに頷いた。

「だからこそ、政府が必要なんだろう?」

 

 ヘイズが、少しだけ驚いたように眉を上げた。

 

「俺は、政府をただの邪魔者だとは思っていない。手続きが死ぬほど遅いとは思っているがね」

「ありがとう。全く褒められている気はしないけれど」

 

「政府はブレーキだ」

 レオナードは、真っ直ぐに大統領を見た。

「ブレーキのないロケットは、必ず爆発する。だが……エンジンのないブレーキも、永遠に宇宙には行けない」

 

「良い比喩ですね。腹立たしいほどに」

 ノアが、皮肉な笑みを浮かべて言った。

 

 ヘイズは深く、長く息を吐き出し、そして覚悟を決めたようにレオナードを見返した。

 

 

 

「はあ……」

 ヘイズ大統領は、円卓の空気を震わせるほど深く、長く息を吐き出した。そして、覚悟を決めたような、あるいは手に負えない子供の悪戯を前にしたような、複雑な眼差しでレオナードを見返した。

 

「あなたがそこまで言うなら……アメリカ政府としては、最大限の努力はするわ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、レオナードの顔にパッと太陽のような明るい光が差した。

「さすがは大統領だ! そう言ってくれると信じて――」

 

「ただし」

 ヘイズが、その歓喜を鋭い声で叩き斬る。

 同時に、大統領の隣に座るエレノア・バーンズが、無言で分厚いファイルの束を円卓の中央に滑らせた。

 

「SpaceXも、完全に政府と連携して動くこと。勝手なスタンドプレーは一切許さない。いいわね?」

「もちろんだとも。我々は常に法と秩序を愛する優良企業だ」

「軽く返事しないで。今から条件を読み上げるわ」

 

 ヘイズは、手元の端末に目を落とし、冷徹な為政者の顔に戻った。

 

「条件その一。まずは、あのふざけた登録フォームの修正よ」

「ふざけてなどいない。あれは人類の夢の――」

「『火星コロニー人材募集』という煽情的な表現は、今後一切使用を禁止します」

 ヘイズは、レオナードの反論を全く意に介さずに言い渡した。

「今後は、『火星長期滞在関心登録』、あるいは『火星居住適性研究プログラム』という名称へ即座に変更しなさい」

 

 その決定に、SpaceXの広報責任者が、両手で顔を覆って天を仰いだ。

「ああ……。人類の壮大な夢が、ただの退屈な行政文書になっていきますね……」

「素晴らしいことです。全くもって素晴らしい」

 逆に、三徹明けの法務責任者が、生気のない目で深く頷きながら賛意を示した。

「夢などという曖昧なものは、訴訟と賠償請求の温床でしかありません。法務としては大統領の提案に全面的に賛同します」

 

「夢を訴訟にしないための措置よ」

 ヘイズが法務責任者に同情的な視線を向けた後、レオナードを見た。

「いいだろう」レオナードは渋々頷いた。「名前は変える。だが、入口そのものは絶対に閉じない」

 

「条件その二」

 エレノアが、氷のような声で引き継ぐ。

「火星の土地、住居、雇用、移住権、国籍、および自治権の付与を示唆する表現は、いかなる媒体においても禁止です」

 

「もちろん、土地を切り売りするつもりはないさ」

 レオナードは鼻で笑った。

「火星の不動産業者を名乗るには、さすがにまだ早い」

 

「……『まだ』と言いましたね」

 ノアが、その一言を逃さずに目を細める。

 

「いつかは必要になるだろう?」

「その『いつか』を、今の段階で勝手にやらないでちょうだい、と言っているのよ」

 ヘイズが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

「条件その三」

 宇宙政策補佐官が、事務的な口調で続く。

「あなたがたが構築する初期火星拠点は、今後設立される『国連火星共同管理区域』、および日本との『火星輸送安全認可制度』の枠組みと完全に整合させること」

 

「国連か……」

 レオナードは露骨に顔をしかめた。

「意思決定が遅そうだ」

 

「ええ、遅いわ。絶望的にね」

 ヘイズが即答する。

「でも、絶対に必要よ。火星という新たな世界を、アメリカの一民間企業の『私有地』に見せないための、極めて重要な政治的カモフラージュなのよ」

 

「分かっているさ」

 レオナードは、不満げながらも実業家としての理解を示した。

「表の看板は『国際協調』。だが、実際にそれを推進するエンジンは我々アメリカ。そして、誰も文句を言えない安全基準の根幹を握っているのは日本とアメリカ。……そういうことだろう?」

 

「口に出すと国際問題になる極めて不適切な理解ですが、実務上はおおむねその通りです」

 エレノアが、表情一つ変えずに肯定した。

 

「条件その四。労働者保護の徹底」

 労働省系の補佐官が、厳しい顔で資料を読み上げる。

「帰還権の絶対保証、医療権の確保、そして酸素・水・食料への無条件のアクセス保証。企業による生命維持インフラの懲罰的利用の禁止。労働契約の政府監査。閉鎖環境における精神衛生ケアと、ハラスメント対策。……そして、初期段階における出産および家族形成の制限ルールです」

 

「火星では、雇用主が従業員の『呼吸する権利』そのものを握ることになるのよ」

 ヘイズが、真っ直ぐにレオナードを見据えた。

「地球のブラック企業が『給料を払わない』のとは、次元が違うの。これは生命そのものの支配よ」

 

「分かっている」

 レオナードも、そこだけは茶化さずに真顔で答えた。

「火星で酸素や水を人質にして社員を脅すような真似をする管理職がいたら、俺がそいつを真っ先に、宇宙服なしでエアロックの外に放り出してやる」

 

「……その発言は、法的に極めて問題があります」

 エレノアが即座に指摘する。

 

「ただの比喩だ!」

「CEO」

 法務責任者が、死んだ目でレオナードの袖を引いた。

「お願いですから、今後いかなる場においても、その『エアロックから放り出す』という比喩は禁止とさせてください。本気で労基署と人権団体が飛んできます」

 

「条件その五。入植者の選抜は、政府の厳格な監督下に置くこと」

 ヘイズが五つ目の指を立てた。

「誰を火星に送るかは、SpaceX単独では決めさせない。NASA、指定医療機関による健康診断、心理評価、そして外交枠としての国際協力枠も入れる」

 

「選抜のプロセスが果てしなく遅くなるぞ」

 レオナードが不満を露わにする。

 

「火星で死者や発狂者が出るよりマシよ」

「大統領の仰る通りです」

 NASA長官が、専門家として強い口調で割って入った。

「火星での長期滞在には、高度な技術スキルだけでは不十分です。極限の閉鎖環境への耐性、集団生活における協調性、そして何より、致命的なトラブルが起きた際の『精神的安定性』が必須になります。夢や勢いだけで行ける場所ではないのです」

 

 その言葉を聞いて、SpaceXの人事責任者がおずおずと手を挙げた。

「あの……先ほどのリストにあった、『何もできませんが火星に行きたいです勢』の方々はどうなりますか?」

 

「初期枠では、当然ながら全員不合格(不可)です」

 NASA長官が冷酷に切り捨てる。

 

「だが、いつかは必要になる」

 レオナードが、強い意志を持って反論した。

「火星に必要なのは、訓練された宇宙飛行士や天才的なエンジニアだけじゃない。何の専門知識もない普通の人間が、地球と同じように笑って暮らせるようになって、初めてそこは『コロニー』と呼べる場所になるんだ」

 

 その言葉に、ヘイズは少しだけ目を細め、小さく頷いた。

「……ええ。いつかは、ね」

 

「条件のすり合わせができたところで、具体的なロードマップを見せよう」

 レオナードは、円卓の中央に新たなホログラムを展開した。

 それは、先ほど豪語した『一年』という常軌を逸したスケジュールを、恐ろしく緻密な実務レベルにまで落とし込んだ計画書だった。

 

【Phase 0:法制度・安全認可(期間:即時〜3ヶ月)】

 ・政府との安全認可制度の調整。

 ・日本側からの技術パッケージ受領と、制限仕様への適合テスト。

 ・国連共通コロニーとの接続方針の策定。

 ・登録フォームの『関心登録』への修正と、既存応募者の適性データ化。

 

【Phase 1:無人建設準備(期間:3〜6ヶ月)】

 ・火星表面の候補地(赤道付近の平原)の最終選定。

 ・先遣隊としての自動建設ロボット群の投入と、基礎モジュールの降下。

 ・多層位相吸収式・放射線遮蔽フィルムの自動施工。

 ・閉鎖循環型生命維持コアの設置と、通信・電力基盤の構築。

 

【Phase 2:環境安定試験(期間:6〜9ヶ月)】

 ・居住区内の『1G人工重力モジュール』稼働試験。

 ・気圧、酸素濃度、湿度の恒久安定試験。

 ・水再生・廃棄物循環システムの実稼働と、閉鎖農業実験の開始。

 ・医療モジュールの遠隔起動と、各種緊急脱出シミュレーション。

 

【Phase 3:限定有人滞在(期間:9〜12ヶ月)】

 ・10〜30人規模の初期滞在要員の派遣。

 ・NASA、SpaceX、および国際枠からの厳格な選抜。

 ・医師、生命維持技術者、心理士を必須とする。

 ・滞在期間は短期に限定。出産・家族帯同は厳禁。完全な帰還保証を前提とする。

 

 ホログラムの数字とタスクの羅列を前に、NASA長官は絶望的な顔で頭を振った。

「……一年で『都市』を建設するなど、やはり物理的にも組織的にも不可能です」

 

「都市とは言っていない」

 レオナードが、静かに、だが熱を込めて訂正した。

「人間が火星の地表に立ち、ヘルメットを脱いで、最初の呼吸ができる場所だ。それさえあればいい」

 

「それを、決して『コロニー』と呼ばないこと」

 ヘイズが、釘を刺すように言った。

「国家の承認と法整備が追いついていない以上、その言葉は政治的リスクが高すぎるわ」

 

「では、『火星長期滞在実証拠点』とでも呼ぼうか」

 レオナードが、皮肉っぽく肩をすくめる。

 

「それなら、政府としても検討の俎上に載せられるわ」

 大統領が承認の意を示すと、SpaceXの広報責任者が、またしてもタブレットを抱え込んで呻いた。

「ああ……。人類の新しい故郷(コロニー)という夢が、また一つ、お役所言葉の行政文書になりました……」

 

「素晴らしいことです。心底、素晴らしい」

 法務責任者が、今日一番の安らかな笑顔を浮かべた。

 

 白熱した実務的な議論が一段落し、SpaceXの幹部たちと政府の役人たちが、具体的な手続きの調整のために部屋の隅へと移動した。

 円卓には、コーヒーカップを挟んで、ヘイズ大統領とレオナード・グレイだけが向かい合う形で残された。

 

「……レオナード」

 ヘイズが、政治家の仮面を少しだけ外し、一人の人間として静かに問いかけた。

「あなたは本当に、火星に人間を住ませたいのね」

 

「もちろんだ」

 レオナードは、コーヒーを一口飲みながら事も無げに答える。

 

「……怖くないの?」

 

 その問いに、レオナードはコーヒーカップを置く手をピタリと止めた。

 そして、いつもの自信に満ちた道化の仮面を剥ぎ取り、大統領の目を真っ直ぐに見返した。

 

「怖いさ」

 

 ヘイズは、少し意外そうに目を見開いた。彼がそんな弱音に近い言葉を、これほど素直に口にするとは思っていなかったのだ。

 

「火星は、人を殺す星だ」

 レオナードの声は、低く、重かった。

「どれだけ日本のアンノウン技術が優れていようと、ミスが一つあれば人間は死ぬ。放射線に焼かれ、空気が抜け、凍りつく。法律の整備が遅れれば、酸素を対価にした凄惨な搾取が起きる。……夢や希望だけで無計画に突っ込めば、あそこは簡単に地獄になる。怖くないわけがない」

 

「……なら、なぜこれほどまでに急ぐの。一年という無謀なスケジュールを掲げてまで」

 

「今、人類が『火星』を見ているからだ」

 レオナードは、手元の端末で静かに増え続けている『応募者リスト』の数字を見つめた。

 

「夢は、すぐに冷める。政治は遅れる。市場は飽きる。人間という生き物は、昨日まで夜空の星を見上げて熱狂していたのに、明日にはスマートフォンの別のニュースを見て、宇宙のことなんかきれいさっぱり忘れてしまうんだ」

 

 彼は、拳を固く握りしめた。

「だから、人類の熱が冷めないうちに……この夢が燃えているうちに、どうしても『形』を与えなければならない。誰も後戻りできないような、物理的な楔を火星に打ち込まなければならないんだ」

 

「……危険な考えね」

 ヘイズは、彼の狂気にも似た情熱の裏にある、冷徹な計算を理解して息を呑んだ。

 彼は、人間の「飽き」という最大の敵と戦うために、意図的にこの無謀な速度を出しているのだ。

 

「だから、あなたがいるんだろう」

 レオナードは、再びいつもの不敵な笑みを浮かべた。

「俺がアクセルを踏み抜き、あなたが手綱を握る。悪くない組み合わせだ」

 

「言っておくけれど、私はあなたの保護者ではないわよ」

 ヘイズが呆れたようにため息をつく。

 

「だが、火星という知らない家へ遊びに行く子供たちに、ちゃんとした『お行儀』を教えてやる人間は必要だろう?」

 

「また、その例え?」

「今回は、状況に合っていると思うがね」

 

 ヘイズは、もう一度深く、長くため息をついた。

「……本当に、手のかかる子供ね」

 

「火星という新しい星に最初に立つには、それくらい我儘で手がかかる方が、ちょうどいいのさ」

 

 数時間後。

 SpaceX本社ビルの一角にある、ガラス張りの巨大なオフィス。

 広報部と法務部のスタッフたちが、疲労と達成感の入り混じった顔で、自社の公式ウェブサイトの根幹部分を書き換える作業に没頭していた。

 

 かつて、世界中を熱狂させたあのセンセーショナルなタイトル。

 

『火星コロニー人材募集(Mars Colony Recruitment)』

 

 その文字列が削除され、新たなタイトルが打ち込まれる。

 

『有人火星長期滞在・居住適性研究プログラム(Mars Settlement Readiness Registry)』

 

 そして、かつては「火星で働き、暮らす最初の一員になろう」と書かれていたシンプルなキャッチコピーの下に、法務部が魂を込めて作成した、長大で厳格な免責事項(ディスクレーマー)が追加された。

 

『本プログラムは、将来的な有人火星長期滞在に関心のある専門家・研究者・および一般候補者の適性情報を事前に登録・研究するためのものです。本登録は、火星への移住、雇用の確約、居住権の付与、土地の取得、またはいかなる選抜プログラムへの合格をも保証するものではありません。登録されたデータは、政府機関の監督のもと、厳密な適性研究のみに使用されます――』

 

「……夢が、随分と長たらしい行政文書になりましたね」

 広報責任者が、モニターを見つめながら乾いた笑いを漏らした。

 

「素晴らしいことです」

 法務責任者が、その隣で熱いコーヒーをすすりながら、心からの賛辞を贈った。「これで我々は、訴訟の嵐から身を守ることができる」

 

 執務室の奥から歩いてきたレオナードが、その書き換えられた画面を覗き込んだ。

 彼は、長たらしく堅苦しい法律用語の羅列を見て、少しだけ可笑しそうに笑った。

 

「それでいい」

 レオナードの言葉に、オフィスにいた社員たちが一斉に彼を見た。

 

「夢は、ただ頭の中で描いているうちは、ただの幻だ」

 レオナードは、窓の外に広がる地球の空を見上げながら言った。

「こうして、堅苦しい『書類』になって初めて……夢は現実に近づくんだ」

 

 サイトが更新された直後。

 ページの名前が変わり、夢のない長大な免責事項が追加されたにもかかわらず――カウンターの数字は、数秒の停滞の後、再び凄まじい勢いで跳ね上がり始めた。

 

 名前が変わっても、警告文が増えても、人類は登録をやめなかった。

 

 ロンドンの医師が登録ボタンを押す。

 テキサスの大規模農家の次男が登録する。

 ドバイの建築家が登録する。

 日本の田舎町の教師が登録する。

 

 あの日、「火星でラーメン屋をやりたい」と書き込んだ日本人は、サイトの更新に気づいて自身の登録情報を修正し、備考欄に新たな一文を付け加えた。

『1Gの人工重力があるなら、湯切りは完璧にできます。最高の豚骨スープを持っていきます』

 

 そして、『何もできませんが火星に行きたいです』と書いていた無数の名もなき人々もまた、相変わらず不格好な志望動機を書き連ねて、送信ボタンを押し続けていた。

 

 火星は、まだ誰のものでもなかった。

 そこにはいかなる国境線もなく、都市もなく、学校も病院も、そしてラーメン屋も、まだ存在していない。

 

 だが、あの赤い星へ向かうための『最初の履歴書』は、すでに何千万という人類の手によって書き始められていた。

 

 彼らが抱く夢は、依然として遠い夢のままだった。

 けれどその日、人類の夢は初めて、為政者が机の上で読める『書類』の形を取り始めたのである。

 

 




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