自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスからほど近い、厳重な警備が敷かれた瀟洒な迎賓施設において、今宵、一つの歴史的な祝宴が開かれようとしていた。
表向きの名称は、『国際火星長期滞在実証ミッション 出発記念レセプション』。
会場には、世界各国の首脳、宇宙機関の代表、防衛・科学技術のトップ、そして選ばれし一部のグローバルメディアが招かれている。
豪奢なシャンデリアの下、タキシードやイブニングドレスに身を包んだ要人たちがグラスを傾け、静かな熱気を孕んだ会話を交わしていた。
だが、この場にいる誰一人として、これが単なる「科学の進歩を祝う平和な晩餐会」だなどとは思っていない。
会場の正面壁面には、超高精細な巨大スクリーンが設置されている。
そこに映し出されているのは、明日フロリダのケネディ宇宙センターから打ち上げられる予定の、流線型の白銀の火星輸送船。
そして、地球・月・火星の現在の位置関係を示す3Dホログラム。
その横には、今回のミッションに参加する『第一陣六名』の顔写真と詳細なプロフィールが、誇らしげに掲示されていた。
エリック・ヘイル(アメリカ/ミッションコマンダー)
瀬尾航平(日本/生命維持・安全プロトコル担当)
アナスタシア・ヴォルコワ(ロシア/閉鎖環境運用・長期滞在維持担当)
劉天宇(中国/建設・機械系運用担当)
アーシャ・ラマン(インド/医療・生理学・微生物管理担当)
ルーカス・マイヤー(ESA/惑星科学・地質調査担当)
そして、スクリーンの右上に赤く輝くデジタルタイマーが、静かに、しかし暴力的なまでの存在感で時を刻んでいる。
『火星軌道到達予定まで:五日と12時間45分』
かつて、火星は「数ヶ月から半年以上かけて向かう、遠く冷たい赤い星」だった。
燃料を極限まで計算し、軌道力学の針の穴を通すようなスイングバイを繰り返し、宇宙飛行士の精神が摩耗するのを耐え抜いて、ようやく辿り着けるかどうかの決死の旅。
だが今、その距離は『五日』に縮められた。
もちろん、物理的に火星が地球に近づいたわけではない。
人類の側が、日本のアンノウンからもたらされた「秒速150km級推進」「小型核融合炉」「慣性ダンパー」という、物理法則をあざ笑うかのような『常識外れの足』を手に入れてしまったからだ。
しかし、会場にいる実務者たちは皆、痛いほど理解している。
移動は五日になった。
だが、火星で「生きる」ことの困難さまでは、短縮されていない。
火星の空気は依然として人間を数分で殺す毒であり、放射線は容赦なく細胞を焼き、砂嵐は機械を削る。自然の過酷さは、人間の都合に合わせて優しくなってはくれないのだ。
◇
会場の照明がわずかに落とされ、ざわめきが静まった。
ステージの中央に、ホスト国であるアメリカ合衆国のキャサリン・ヘイズ大統領が登壇した。
彼女の表情は明るく、大国の指導者としての揺るぎない誇りに満ちていた。しかし、その言葉選びには、政治家としての極めて緻密な計算と慎重さが隠されている。
「皆様、本日は歴史的な夜です」
ヘイズ大統領のよく通る声が、会場全体を包み込む。
「明日、国際火星長期滞在実証ミッションの第一陣が、地球を出発します。彼らは五日間の航行を経て、来週、火星の軌道へと到達する予定です」
会場から、抑えきれないような感嘆の拍手が起こる。
ヘイズは、少しだけ口角を上げて微笑んだ。
「人類が火星へ向かうという計画を立てたとき、私たちはかつて、数ヶ月から数年に及ぶ途方もない航海を覚悟していました。……しかし今、彼らは五日で向かいます」
彼女はそこで一拍置き、会場の最前列に座る日本の矢崎薫総理へ視線を向けた。
「もっとも、それが我々人類全体の努力“だけ”で成し遂げられたと言うには、少しだけ正直さが足りないでしょう」
会場から、ドッと上品な笑いが漏れた。
大統領自らが、アメリカの力だけでなく、外部の「超常的な力」に依存している事実を、ジョーク交じりに認めたのだ。
「はい。アンノウンの恩恵です」
ヘイズは、その単語を隠さずに口にした。
「その事実を、今夜くらいは素直に認めてもよいでしょう」
再び笑いが起きる。だが、その笑いの裏には、各国首脳や軍関係者たちの「技術覇権を握る日本への強烈なジェラシーと警戒心」が確かな重さを持って存在していた。
ヘイズは、表情を引き締めた。
「ですが、皆様。火星で生きるのは、アンノウンではありません」
彼女は、スクリーンの六人の写真と、会場の隅に固まって座っている彼ら本人たちへ真っ直ぐに視線を向けた。
「火星の過酷な環境で設備を守り、空気を管理し、医療を担い、岩石を調べ、機械を直し、毎日の記録を残すのは……ここにいる、六名の人間です」
会場の視線が、一斉に六人の宇宙飛行士たちに集まる。
彼らは立ち上がることはせず、ただ静かに前を見据えていた。
「人類は今、二つの新しい領域へ足を踏み入れています」
ヘイズは演説を続ける。
「一つは、火星という赤い大地。そしてもう一つは、フルダイブという新しい仮想領域です。私たちは今、物理の宇宙へ進むと同時に、意識の宇宙へも進み始めました」
ここで、彼女は再び矢崎総理、そしてロシアのボグダノフ大統領へ視線を向けた。
「今夜は、日本の矢崎薫総理、そしてボグダノフ大統領にもご出席いただいています。
宇宙開発は、長らく国家間の競争の歴史でもありました。しかし、明日出発する船には、アメリカの技術と人材だけでなく、日本、ロシア、中国、インド、欧州の知恵と勇気が乗っています」
ヘイズは、グラスを高く掲げた。
「では、来週、彼らが何の問題もなく火星の軌道に立てることを祈って。
そして、この赤い星への最初の長期滞在実証が、人類全体の未来への確かな一歩となることを祈って。
……乾杯」
「乾杯!」
グラスの触れ合う澄んだ音が、会場のあちこちで響き渡った。
◇
乾杯が終わると、会場は和やかな歓談の場へと移行した。
ヘイズ大統領は、シャンパングラスを片手に、SPの護衛を軽く手で制しながら、矢崎総理の元へ歩み寄った。
表向きは同盟国の首脳同士の親密な会話。だが、その中身は互いの腹を探り合う完全な政治である。
「カオル。今日は来てくれてありがとう」
ヘイズは、親しげな笑みを浮かべて言った。
「日本の技術的協力なしには、明日の出発はあり得なかったわ。本当に感謝しているのよ」
「こちらこそ、お招きいただき光栄です」
矢崎総理も、完璧な外交スマイルで応じる。
「日本一国だけで抱え込むには、宇宙は少々広すぎますから。アメリカの強大な運用能力とリーダーシップには、我々も助けられています」
「あら、そのわりには、日本はずいぶんと重要な『鍵』をしっかり握っているけれど」
ヘイズの目が、グラス越しに鋭く光った。
火星の生命維持システム、核融合炉のコア、そしてフルダイブのクラウド管理。全てを日本がブラックボックスとして囲い込んでいることへの、チクリとした牽制だ。
矢崎総理は、少しだけ苦笑して首を横に振った。
「鍵を握っているというより……鍵を無理やり渡されて、どう管理すべきか日々頭を抱えて困っている、という方が、正確な表現ですね」
ヘイズが、軽く声を立てて笑った。
「それはジョーク?」
「半分は」
「残り半分は?」
「……本心です」
矢崎総理が少しだけトーンを落として答えると、ヘイズは目を細めた。
日本の首相が、これほど率直に弱音を吐くのは珍しい。
「我々は、火星へ行くための圧倒的な輸送手段と生命維持技術を得ました」
矢崎総理は、グラスのシャンパンを見つめながら静かに言葉を継いだ。
「ですが同時に、誰をその船に乗せるのか、誰を乗せないのか、事故が起きた時にどの国の法律で誰が責任を取るのかという、途方もなく重い政治的・倫理的な問題も一気に抱え込むことになりました。
……正直なところ、技術を渡されたというより、責任範囲をいきなり宇宙規模に広げられてしまった気分です」
ヘイズは、その言葉に深い理解と少しの同情を寄せるように頷いた。
「アンノウンの贈り物は、いつも綺麗なリボンの中に、時限爆弾が一緒に入っているわね」
「ええ。そして、その爆弾の解体マニュアルを、うちの日下部が毎晩胃を痛めながら必死に読んでいる状態です」
ヘイズが、今度は心底楽しそうに笑った。
「あの優秀な日下部参事官には、本当に同情するわ」
「私もです。できれば彼に休暇をあげたいのですが、当分は無理でしょうね」
日米のトップ二人が、アンノウンという規格外の存在に振り回される「被害者」としての奇妙な連帯感を共有した瞬間だった。
◇
「お二人とも、今夜は歴史的な夜ですな」
そこへ、重厚な足音とともに、ロシアのボグダノフ大統領が近づいてきた。
彼の態度は極めて紳士的であり、表情には余裕の笑みが浮かんでいる。だが、その言葉の端々には、大国としての冷徹な探りが隠されていた。
「宇宙開発という人類の新たな舞台に、我々ロシアを閉め出さず、重要な役割で参加させてくれたことには、率直に感謝していますよ、ヘイズ大統領」
「火星第一陣に、あなた方の国のアナスタシア・ヴォルコワを入れたのは、政治的な妥協やバランスだけではありません」
ヘイズは、ロシアの牽制を躱すように実務的な理由を挙げた。
「極寒の極地基地や閉鎖環境におけるロシアの運用ノウハウは、あの死の星で生き残るために、純粋に必要だったのよ」
「分かっています」
ボグダノフ大統領は、満足げに頷いた。
「彼女は我が国が誇るべき最高の人材です。火星のような過酷な環境では、カメラに向かって派手な英雄的スピーチをする者よりも、水と酸素と電力を一滴も無駄にしない、冷徹な人間こそが生き残る。違いますか?」
「まったく同感です」
矢崎総理が、ボグダノフの言葉に同意する。
「火星で本当に必要なのは、他国より先に旗を立てる者ではなく、基地の空気と機械を守り続ける者です。だからこそ、我々日本も瀬尾航平というエンジニアを送り込みました」
ボグダノフ大統領は、矢崎総理へ視線を移した。
「その意味では、日本の瀬尾氏も、極めて重要な……いや、最も重要な役割を担いますな。
生命維持と安全プロトコル。火星では、我々政治家の演説などよりも、そちらのブラックボックスのシステムの方が、よほど彼らの命を直接的に握っている」
「耳が痛いわね」
ヘイズが、ロシア大統領の皮肉に軽く肩をすくめる。
「政治家はいつの時代も、現場の有能な人間に生かされているものです」
ボグダノフ大統領が笑うと、三人の間に和やかな空気が流れた。
ここまでは、大国同士のスマートな外交のやり取りだった。
だが、ボグダノフ大統領は、本題のジャブを放つタイミングを見逃さなかった。
「ところで、矢崎総理」
ボグダノフは、声のトーンをわずかに落として言った。
「我々としては、フルダイブというもう一つの新しい領域から閉め出されなかったことにも、深く感謝しています。……正直なところ、宇宙と仮想空間の両方の覇権から外されれば、我が国の国内世論はかなり荒れ狂ったでしょうからな」
「火星もフルダイブも、人類全体の未来に関わる領域よ」
ヘイズが、すかさずアメリカの立場として割って入る。
「ただし、国際社会が定めた安全基準とルールを、厳格に守る国に限るけれどね」
「もちろんです」
ボグダノフ大統領は、全く悪びれずに微笑んだ。
「我々ロシアも、今は大人しく日本の定めたルールとオラクルの監査を学んでいるつもりですよ。……少なくとも、表向きは」
「今のは、極めて悪質なジョークとして受け取るわ」
ヘイズの目が、一瞬だけ鋭く冷酷に光った。
「ええ、ぜひそうしてください」
矢崎総理は笑顔を保ちながらも、内心で激しく胃を痛めていた。
(この二人の超大国のトップの間に立って調整し続けなければならない日下部さんの苦労が、今更ながら痛いほどよく分かるわ……)
◇
ボグダノフ大統領は、さらに踏み込んできた。
「矢崎総理。できれば……あの素晴らしい技術をもたらした『アンノウン本人』にも、一度、直接お会いして感謝を伝えたいものですな」
会話の温度が、一気に氷点下まで下がった。
表情は三者とも笑顔のままだが、この一言は完全に、日本の技術独占への牽制と、アンノウンへの接触権を狙う強烈なジャブであった。
ヘイズ大統領が、即座に反応して壁を作った。
「それは、私も同じ気持ちよ」
ヘイズはボグダノフを一瞥してから、矢崎総理を見る。
「でも、残念ながらアメリカ大統領である私も、まだアンノウン本人には一度も会えていないの。……ねえ、カオル。いつになったら、彼を紹介してくれるの?」
ヘイズの言葉は、「アメリカですら会えていないのだから、ロシアが会えるわけがない」という牽制でありながら、同時に日本に対して「そろそろ隠し通すのは限界よ」という圧力をかけるものだった。
矢崎総理は、柔らかく、だが決して隙を見せない笑顔で返した。
「彼は……非常に、変わり者ですから」
「変わり者?」
ボグダノフ大統領が、興味深そうにオウム返しにする。
「ええ」
矢崎総理は、少しだけ困ったような表情を作ってみせた。
「アンノウン対応チーム以外には、連絡も滞りがちです。そして、何より発明の方向性が突拍子もない。……我々日本政府としても、彼を制御しきれず、日々困らされているのが実情なのです」
これは、日本政府としての偽らざる本音であった。
だが、この超大国の首脳たちが集まる権謀術数の場においては、それは高度な『外交ジョーク』あるいは『はぐらかし』としてしか受け取られない。
ボグダノフ大統領が、愉快そうに声を立てて笑った。
「ハハハ! なるほど。いかにも天才にはありがちな話ですな!」
ヘイズも、口元に笑みを浮かべる。
「本当に?
私には、カオルが『人類史という点で見てもっと一番重要な人物』を、我々から巧妙に隠して独占しているようにも見えるけれど?」
「隠していると言うより……」
矢崎総理は、軽く溜め息をついて言った。
「こちらも、彼を完全に『捕まえられていない』、と申し上げた方が事実に近いですね」
「それもジョーク?」
ヘイズが、探るように目を細める。
「残念ながら、かなり本気です」
矢崎総理は、日下部の疲労しきった顔を思い出しながら、本心からの愚痴をこぼした。
「最近では、白石医師たちが人工臓器で必死に人を救っている姿を見て、自分も何か『普通に人の役に立つもの』を出したいと言い出しましてね」
「それは、とても良いことでは?」
ヘイズが、不思議そうに尋ねる。
「ええ。動機は良いことです。
……その結果、『視力回復薬』というものが出てきました」
ボグダノフ大統領の目が、一瞬だけ鋭く光った。
「ほう。視力回復薬」
「また新しいものが出てきたのね」
ヘイズも、即座に警戒レベルを引き上げる。
「はい。現在、アンノウン対応チームと厚生労働省が総出で、治験と制度設計の調整に追われています。本当に、休む暇もありません」
ヘイズは、少し笑いながらも、目は全く笑っていなかった。
「カオル。……その視力回復薬で、軍事的な『視覚強化(エンハンスメント)』ができるようになると、アメリカとしては少し困るのだけれど。……あくまで、純粋な視力回復だけよね?」
「はい。今は、それだけです」
矢崎総理が即答する。
「……今は?」
「ええ。今は」
ボグダノフ大統領が、またしても楽しげに笑い声を上げた。
「怖い怖い。日本はいつも、言葉の裏に爆弾を隠している。
……しかし、視力回復薬とは素晴らしい発明ですな。実は私も最近、細かい書類の文字が少し読みにくくて困っているのだ。昔のように視力が戻るというなら、ぜひ我が国にも欲しい技術だ」
「それは、我が国も同じよ」
ヘイズが、すかさず牽制する。
「アメリカの若い世代はゲームと端末の見すぎで視力低下が社会問題になっているし、老眼に悩む有権者も多い。医療技術としての価値は計り知れないわ」
「我が国も似たようなものです」
ボグダノフ大統領が肩をすくめる。
「もっとも、我々の若者はゲームだけでなく、寒い部屋にこもって暗い画面を見すぎる傾向がありますがね」
「それは医療というより、ロシアの暖房政策の問題では?」
ヘイズの皮肉に、三人の間に再び笑いが起きた。
矢崎総理は、穏やかな表情を崩さずに言った。
「視力回復薬は、まず日本国内で慎重に治験を行います。
失明や重度障害を治すような魔法ではありません。眼精疲労、老眼、調節機能の低下などに限定した、あくまで『民生用』の医薬品です」
「その説明を聞いて安心したいところだけれど……」
ヘイズは、シャンパングラスを軽く揺らした。
「あなたたちの言う“民生用”は、たまに世界秩序の根底を揺るがすから油断できないのよね」
「……否定できないのが、辛いところです」
矢崎総理のその返答は、日本の本気すぎる愚痴だった。
しかし、アメリカとロシアのトップは、それを高度な外交的ジョークとして笑いながら、裏では本気で情報のピースを拾い集めていた。
◇
少し離れた場所から、その三国のトップの会話を眺めている二人の人物がいた。
ノア・マクドウェルと、エレノア・バーンズである。
「大統領たちが、グラスを片手に笑いながら、アンノウンへの接触権を牽制し合っている。
……いいね。とても平和な地獄だ」
ノアが、ワイングラスを傾けながら楽しそうに呟く。
「ボグダノフ大統領は、感謝を伝えたいという名目で、アンノウン本人と直接交渉できるルートを探っていますね」
エレノアが、冷徹な分析を述べる。
「ヘイズも同じだよ」
ノアが肩をすくめる。
「ただ、彼女は『私もまだ会えていない』と先に牽制することで、日米だけがアンノウンを独占しているという印象を少し薄め、ロシアを牽制した」
「矢崎総理の『こちらも捕まえられていない』というのは、どこまでが本音でしょうか」
エレノアが、日本の情報統制の真意を測る。
「たぶん、完全に本音だね」
ノアは、愉快そうに笑った。
「そして、それが一番ひどい。世界を激震させている最重要人物が、本当に日本政府の管理下にも完全に収まっていない、自由気ままな変人だということだからね」
「日本政府が完全に制御しているというより……」
エレノアが、かつて会談したある男の顔を思い浮かべる。
「日下部参事官という一人の官僚が、必死に被害を受け止め、取り繕っている構図ですね」
「日下部には、日米両国から特別功労勲章を出してもいいくらいだね。
名称は『人類防波堤章』かな」
「本人は、勲章よりも一ヶ月分の胃薬と休暇を希望するでしょうね」
「違いありません」
ノアは、心底おかしそうに笑い声を漏らした。
◇
会場のもう一方の一角では、明日火星へと旅立つ『第一陣六名』が、それぞれ異なる空気を纏って静かに佇んでいた。
ミッションコマンダーのエリック・ヘイル(アメリカ)は、次々と近づいてくる各国の政治家や出資者たちから握手を求められ、愛想よく、しかし疲れた顔で応対を続けていた。
(火星の死の環境に行く前に、地球の政治という重力で押し潰されそうだ……)
彼は内心で深くため息をつきながら、明日の出発をただ待ち望んでいた。
生命維持・安全プロトコル担当の瀬尾航平(日本)の周りには、JAXAの関係者や日本の政治家が集まり、何度も彼にプレッシャーをかけていた。
「瀬尾君、頼むぞ」
「君が日本の誇りだ。空気を守るんだ」
瀬尾は、愛想笑いを浮かべながらも、少しだけ辟易とした声で返した。
「ありがとうございます。ですが……火星で一番怖いのは、英雄気分で浮かれることより、チェックリストの項目を一つ見落とすことです。私はただの設備屋ですから、最後までマニュアル通りに動きます」
その徹底した現場主義の答えは、いかにも日本の技術者らしかった。
閉鎖環境運用担当のアナスタシア・ヴォルコワ(ロシア)の元には、先ほどまでヘイズ大統領と談笑していたボグダノフ大統領が歩み寄り、短く言葉を交わした。
「祖国は、君を誇りに思っている」
大統領の言葉に対し、アナスタシアは一切表情を崩さずに答えた。
「誇りよりも、水再生システムの予備フィルターをもう一つ余分に積んでほしいです」
ボグダノフ大統領は、その身も蓋もない要求に、ふっと声を立てて笑った。
「ハハハ。実にロシアらしい、現実的で素晴らしい返答だ」
建設・機械系運用担当の劉天宇(中国)は、中国側の代表団から「中国の宇宙技術の威信を示すのだ」と周囲に誇らしげに紹介されていた。
だが、劉本人は、政治的な宣伝には一切興味がないという顔で、グラスの水を飲んでいた。
(火星で旗を振ってアピールする時間があるなら、その前にロボットアームの予備系統の動作テストをもう一度確認したい)
彼の頭の中は、すでに火星の砂埃の中での修理作業でいっぱいだった。
医療担当のアーシャ・ラマン(インド)の周りには、若い研究者や他の宇宙機関の家族連れが集まり、尊敬の眼差しを向けていた。
「火星に行っても」
アーシャは、彼らに向かって穏やかに微笑んだ。
「我々人間の体は、地球生まれの脆弱なままです。その事実を絶対に忘れないように、彼らの命を診ます」
地質調査担当のルーカス・マイヤー(ESA)は、ヨーロッパの政治家たちが「EUの代表として」と持ち上げるのを完全に無視し、近くにいた科学者相手に、火星の岩石サンプルの採取方法について熱弁を振るい続けていた。
「……だから、その地層のボーリングには、アンノウンのドリル技術が不可欠で……!」
政治家たちは、完全に彼の専門的な話についていけず、苦笑しながら離れていった。
彼ら六人は、人類の夢と政治の象徴としてこの会場に立たされている。
だが、その本質は、誰もが「現場で生き残るための専門職」であった。
◇
パーティーの終盤。
SpaceXのCEO、レオナード・グレイが壇上に立った。
本来の彼であれば、ここで「我々が火星を支配する! 殖民地化の始まりだ!」と派手な言葉で世界を煽り立てたかったはずだ。
だが今回は、NASAのアメリア・ロスやJAXAの三嶋玲奈から「もし一言でも余計なことを言ったら、その場でマイクの電源を切る」と強烈な釘を刺されていた。
それでも、レオナードの内に秘めた熱は、決して消えることはなかった。
「皆様」
レオナードは、会場を見渡し、いつもより少しだけ落ち着いたトーンで演説を始めた。
「私は、子供の頃から火星へ行きたかった。
火星に旗を立てて、所有権を主張したかったわけではない。
火星を、ただの地図の上の赤い点や、天体望遠鏡で見るだけの星ではなく……人間が実際に働き、失敗し、機械を修理し、食事をし、そして眠る。そういう『生きた場所』にしたかったのです」
会場が、静かに彼の大風呂敷に耳を傾ける。
「もっとも」
レオナードは、ニヤリと笑って六人の宇宙飛行士の方を見た。
「明日出発する六名に言わせれば、『お前の夢を語る前に、早く最終チェックリストを片付けさせろ』という話でしょうがね」
会場から笑いが起きる。
エリックは苦笑し、瀬尾は本気で「その通りだ」と頷いていた。
「アンノウンの奇跡的な技術は、我々と火星との距離を、わずか五日に縮めました。それは事実です」
レオナードの声が、熱を帯びる。
「だが、火星を人間の居場所にするのは、アンノウンではありません。
……それは、ここにいる六名の人間であり、彼らを地球から支える何千、何万というエンジニア、医師、管制官、研究者、そして整備士たちなのです」
その言葉は、アンノウンへの過度な依存を戒め、人類自身の努力の価値を再定義する、力強いメッセージだった。
「明日、彼らは地球を離れます。
五日後、彼らは火星の軌道へ届きます。
……しかし、本当のミッションは、到着したその瞬間から始まるのです」
レオナードは、拳を握りしめた。
「火星という死の星で、空気を守り、水を守り、機械を直し、データを地球へ送り続ける。
それができた時。人類は初めて“火星へ行った”のではなく、“火星で生きる準備を始めた”と言えるでしょう」
彼は、グラスを高く掲げた。
「赤い星へ。
そして、そこへ向かうすべての、人間の手へ。
……乾杯!」
「乾杯!」
会場から、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
ヘイズ大統領は、その演説に満足げに頷いた。
矢崎総理は、レオナードが余計な暴走をしなかったことに、少しだけ安堵の息を吐いた。
ボグダノフ大統領は、ワイングラスを傾けながら、彼らの熱狂の裏にある次の覇権を計算している。
ノアは「綺麗にまとめたね」と呟き、エレノアは「余計な発言がなくて助かりました」と冷静に評価した。
◇
パーティーが終了し、会場の熱気が引いた後。
VIP用の控室に戻った六人の宇宙飛行士たちは、窓の外の夜景や、モニターに映る発射施設の映像を静かに眺めていた。
長い言葉は必要なかった。
「……明日だな」
エリック・ヘイルが、静かに言う。
「明日ですね」
瀬尾航平が、短く答える。
「華やかなパーティーより、明日の手順確認をしている時の方が、よほど落ち着く」
アナスタシアが、冷たいロシアの夜を思い出すように呟く。
「同感です。政治家の美しいスピーチより、私の書いたチェックリストの方が信用できますから」
劉天宇が、エンジニアとしての矜持を口にする。
「でも、あの人たちのスピーチで、世界が私たちを見ていることはよく分かりました」
アーシャが、プレッシャーを受け止めながら微笑む。
「火星の石は、政治家の演説や世論なんて気にしない。だからこそ、私は少し安心しているよ」
ルーカスが、地質学者らしい独特の視点で締めくくった。
エリックが、小さく笑った。
「では、明日からの石と空気と機械を相手にする日々に備えて……今は、少しでも休もう」
「睡眠不足で火星に行くのは、最初の事故原因として最悪ですからね」
瀬尾が真顔で同意し、六人は苦笑しながらそれぞれの部屋へと戻っていった。
彼らは、政治の象徴でも英雄でもない。
過酷な現場で生き残るための、六人のプロフェッショナルに戻っていた。
◇
フロリダ州、ケネディ宇宙センター。
夜の闇の中、強力なライトアップに照らされた発射施設に、流線型の白銀の宇宙船が静かに屹立している。
周囲では、技術者たちが最終の整備と点検を黙々と続けていた。
火星まで、五日。
かつてならSF小説の冗談にもならなかったその数字が、今では管制室のスケジュール表に、当たり前の現実として淡々と記されている。
だが、その五日は決してゴールではない。
赤い星へ届いたあと、人間は自らの力で空気を作り、水を循環させ、機械を直し、体調を管理し、圧倒的な孤独に耐えなければならない。
アンノウンの魔法は、道を短くしてくれた。
けれど、その死の道を歩く「足」までは、貸してくれないのだ。
明日、人類は火星へ向かう。
そして来週、六人の人間が、赤い大地に立つ。
それは、アンノウンの奇跡によって強引に開かれた扉だった。
だが、その重い扉をくぐり、未知の暗闇の中へ足を踏み入れるのは、どこまでも泥臭く、不完全な、人間の意志なのである。
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