自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第206話 火星を見下ろす空の箱舟

「……寝癖、ついてるよ。村上支援官補」

 

 その声に、村上恒一は洗面台の鏡から顔を上げた。

 振り返ると、妻の澪が、少しだけ呆れたような、でも楽しそうな顔をして立っていた。彼女の左手薬指には、シンプルな銀色のリングが光っている。

 

「だから、その肩書きで呼ぶのはやめてって。胃が痛くなるから」

 恒一は、寝癖を水で濡らしながら苦笑した。

 

 早川澪は、今では村上澪となっていた。

 ただし、ヤタガラスの居住区に初期からいる住民たちの間では、今でも「早川さん」の方が通りがいい。本人も、「イベントの調整とか、そっちの方が話が早いから」と笑って受け入れている。

 

「でも、今日はその肩書きの出番でしょ?」

 澪が、洗面台の横に置かれたタブレット端末を指差す。

 

 恒一は、タオルで頭を拭きながら端末の画面に目を落とした。

 そこに表示されているのは、今日の自分の業務スケジュールだ。

 

【ヤタガラス居住区運営支援室・本日の業務】

 件名:国際火星長期滞在実証ミッション・第一陣着陸 内部観覧イベント進行補助

 

「これ、歴史的瞬間の割に、進行表のフォーマットが完全に市民会館の文化祭なんだよな」

 恒一は、渋い顔をして呟いた。

 

「それを回すのが、私たちの仕事でしょ」

 澪が、恒一の背中をポンと叩く。

 

 恒一は、洗面台を出て、寝室の窓のブラインドを開けた。

 

 そこに広がっていたのは、地球の青空でも、見慣れた都市のビル群でもなかった。

 

 漆黒の宇宙空間。

 そして、その中心に巨大な存在感を放って浮かぶ、赤褐色の惑星。

 

 火星だ。

 

 現在、ヤタガラスは地球の上空を離れ、火星の近傍宙域に展開している。

 今日行われる人類初の「火星着陸」という歴史的イベントにおいて、ヤタガラスは表向きには存在しないことになっている。アメリカのヘイズ大統領も、ロシアのボグダノフ大統領も、この巨大な飛行都市が火星のすぐそばにいることは知らない。

 だが、万が一の事態……着陸船の致命的なトラブル、未知の病原体による感染、あるいは居住モジュールの深刻な破損などが起きた場合、即座に介入して救助・隔離・医療対応を行うための『絶対的な保険(バックアップ)』として、息を潜めて待機しているのだ。

 

「……二年前は、朝起きたら実家の六畳半の天井だったんだけどな」

 恒一は、火星を見下ろしながら、ポツリと漏らした。

 

 無職で、親戚の紹介で「生活モニター」という名目でこの船に乗り込み、毎日ゲームをして食堂の飯の美味さに感動していただけの自分が。

 今では『ヤタガラス居住区運営支援員』という、特別公務員扱いの肩書きを持ち、妻までいて、火星を見下ろす部屋で朝の支度をしている。

 

「今は火星。出世したね、村上くん」

 澪が、後ろから恒一の肩に顎を乗せて笑う。

 

「出世っていうか、人生の座標が完全にバグってる」

 

「二年前、空飛ぶ秘密基地のプールで騒いでた人が、よくここまで来たよね」

 

「……それ言われると、何も言い返せない」

 恒一は、あの頃の自分の呑気さを思い出して、少しだけ顔を赤らめた。

 

 ◇

 

 恒一と澪が『大展望ホール』に到着すると、そこはすでに異様な熱気とお祭り騒ぎに包まれていた。

 

 普段は地球の青い海や流れる雲海を見下ろすための巨大なガラス張りの空間が、今日は完全に「火星着陸の祝賀会場」へと様変わりしている。

 ホールの中央には、NASAの公式映像と、JAXAからの管制データ、そしてアンノウン機関の内部監視データを統合した、巨大な立体ホログラムが展開されていた。

 

 集まっているのは、ヤタガラスの住民たちだ。

 恒一たちと同じ初期生活モニター組、後からやってきた技術者や研究者の家族、医療区画のスタッフ、そしてヤタガラス内に設立された学校に通う子供たち。

 

「村上! 今日は運営側かよ。偉くなったな!」

 初期モニター組の顔見知りが、恒一を見つけて声をかけてきた。

 

「偉くはない。クレームを最初に受ける位置になっただけだ」

 恒一が苦笑して返す。

 

「なあ、これ外部への配信は見れるのか? 地球の実況と同じやつ」

 

「ここで流れるのは完全に内部向け専用だ。外には一切出せない。スクショも録画も無理。投稿しようとすると、秒でオラクルに弾かれるからな」

 恒一は、支援員としての注意事項を口にする。

 

「二年前から何も変わってねえな、そのへんの厳しさは」

 住民が笑う。

 

「変わったよ。弾かれたあとに、俺の部署へ『警告通知』が来るようになったからな。次やったら、容赦なく俺が説明会送りにするから気をつけろよ」

 

「うわ、権力者だ」

 軽口を叩き合いながら、住民はホログラムの方へと歩いていった。

 

 恒一は、その背中を見送りながら内心で苦笑した。

(二年前の俺なら、あの検閲警告にビビって端末を投げそうになってたのにな……)

 それが今では、警告を出す側に回っている。人間の順応力というものは、ある意味でアンノウンの技術よりも恐ろしいのかもしれない。

 

「恒一、ちょっとこっち手伝って! 火星ラーメンの列が伸びすぎてる!」

 少し離れた屋台ブースから、澪が声を張り上げた。

 

「火星ラーメンって何だよ」

 恒一は、急いで駆けつけながらツッコミを入れる。

 

「住民のアイデア投票で採用されたの。赤味噌とトマトのスープで、火星の赤土をイメージしてるんだって」

 澪が、忙しそうに整理券を配りながら答える。

 

「赤土って、食欲湧かないだろ普通……」

 

「でも完売予想だよ。並んで並んで!」

 

 恒一は、長蛇の列をなす住民たちをカラーコーンで誘導しながら、ふと思った。

 

 火星に人が降りる。

 それは間違いなく、人類史の教科書に太字で載る大事件だ。

 なのに、自分の目の前では、子供が赤いゼリーを床にこぼし、清掃スタッフが慌てて拭き取り、澪が「こら、走らない!」と注意している。

 

 歴史的瞬間というのは、案外、こういう生活の騒音の中で起きるものらしい。

 

 ◇

 

『本日の火星長期滞在実証ミッションは、NASA、JAXA、各国宇宙機関、および関連企業の公式ミッションです』

 ホールのメインスピーカーから、オラクル義体のクリアな合成音声が響き渡る。住民向けの事前説明が始まった。

 

『当艦・ヤタガラスは、公式ミッションには一切参加いたしません』

 

 住民たちが、少しだけざわつく。

 

『ただし、有人宇宙ミッションにおける予期せぬ事故に備え、緊急救助、および医療隔離拠点として、現在火星近傍にて待機状態を維持しています』

 

 恒一は、小声で澪に囁いた。

「つまり、見守り兼、保険ってことだな」

 

「あと、特等席での見物ね」

 澪が笑って返す。

 

「それ言うと怒られるやつだ」

 

 オラクルの音声が続く。

『ヤタガラスの存在、位置、能力に関する情報は、引き続き最高機密に属します。外部への発信はいかなる形式でも禁止されています。

 内部チャットでの感想共有は許可されておりますが、位置情報、当艦の航行能力、艦内構造、救助プロトコルの詳細に関する推測投稿は、システムにより自動削除されます』

 

 そのアナウンスを聞いた住民たちの反応は、見事なまでにドライだった。

 

「はいはい、いつものね」

「知ってた」

「火星まで来ても、検閲は検閲なんだな」

「むしろ、システムがちゃんと動いてるってことで安心するわ」

 

 笑い声すら漏れるその光景に、恒一は深々と感心した。

 この数年で、この街の住民たちは完全に『秘密』に慣れきってしまっている。

 機密情報の塊である巨大要塞の中に住みながら、それを「ちょっと面倒な町内会のルール」くらいの感覚で受け入れているのだ。

 

 ◇

 

 午前十一時四十五分。

 巨大なホログラム・スクリーンに、火星輸送船の映像が映し出された。

 

 五日間の超高速航行を終え、すでに火星の周回軌道に投入されている母船。

 ヤタガラスは、それよりも少し高い軌道から、光学迷彩(ステルス)を維持したまま、まるで神の視点のように彼らを見下ろしている。

 

『火星輸送船、着陸シーケンス準備完了』

 オラクルの音声が、少しだけ緊張感を帯びる。

『第一陣六名のバイタル、全員正常。……着陸船分離まで、三十秒』

 

 ホールが、静まり返った。

 はしゃいでいた子供たちも黙り、火星ラーメンの屋台のスタッフも手を止め、全員がスクリーンを食い入るように見つめる。

 澪が、そっと恒一の手を握った。恒一も、少し汗ばんだその手を強く握り返す。

 

 恒一の視界には、大展望窓の向こうに広がる圧倒的な赤い惑星の姿と、スクリーンに映る小さな着陸船の姿が同時に飛び込んでくる。

 

(あの小さな船の中に、人間が六人も乗っているのか……)

 画面の中では、まるで豆粒のように頼りなく見える。

 でも、その豆粒の中で、日本の瀬尾航平が空気のチェックリストを血眼になって確認し、インドのアーシャ・ラマンが乗員の脈拍を監視し、アメリカのエリック・ヘイルが声を落ち着かせて全体の指揮を執っているのだと思うと、恒一は急に胸が詰まるような感覚を覚えた。

 

『十、九、八……』

 

 カウントダウンが響く。

 

『三、二、一。……分離(セパレーション)』

 

 無音の宇宙空間で、着陸船が母船から静かに切り離された。

 

 ホールから、小さな、しかし熱の込もった歓声が上がる。

 

 ◇

 

 ここからが、このヤタガラスの特等席の真骨頂だった。

 着陸船は、眼下に広がる赤い惑星へ向かって、ゆっくりと、しかし確実に高度を下げていく。

 大展望窓越しに肉眼で見えるのは、かすかな光点に過ぎない。だが、中央のホログラムがそれを高精細に拡大し、データとして可視化する。

 

 赤褐色の大地。

 薄い大気の縁。

 着陸船の推進ユニットが発する、減速のための強烈なプラズマの光。

 そして、着陸予定地点には、事前に無人機によって建設された『火星長期滞在実証拠点』の姿がはっきりと確認できた。

 

『火星長期滞在実証拠点、基幹安全モジュール稼働確認』

 オラクルが、アンノウン由来のコア技術のステータスを読み上げる。

『居住区内人工重力維持モジュール、安定。

 多層位相吸収式・宇宙放射線遮蔽フィルム、遮蔽率基準値内。

 閉鎖循環型生命維持装置、温度・気圧・酸素濃度・二酸化炭素濃度・水再生系、すべて正常値で推移中』

 

 住民たちから、「よし」「すげえ」「これで死なないな」と安堵のざわめきが漏れる。

 

 恒一は、その報告を聞いて思った。

 

 火星で人間が即死しないための『心臓部』は、アンノウンの圧倒的な技術によって守られている。

 でも、その施設に入っていく六人は、これから毎日、自分の手でチェックリストを埋め、掃除をし、フィルターを交換し、エラーを潰し、膨大な報告書を書くのだ。

 結局のところ、世界というものは、派手な『奇跡』と、地味な『当番表』の両方が揃って、初めて回っていくものなのだと。

 

 ◇

 

『警告。着陸船、横風補正値上昇』

 

 その時、オラクルの声が微かにトーンを変えた。

 ホールが、一瞬で水を打ったように静まり返る。

 

『火星低層大気において、予測より微細砂塵の濃度が高いエリアを通過中。

 減速噴射補正、プラス二・三パーセント』

 

 重大な事故ではない。だが、未知の星に降りるという絶対的なリスクが、その無機質な数字の裏から生々しく顔を覗かせた。

 

 恒一の端末に、運営側からの通知がポップアップする。

 

【住民向けアナウンス準備:警戒レベル黄】

 

 恒一の背筋に、冷たい汗が流れた。

 彼は即座にマイクを手に取り、少しでも住民の不安を和らげるための声を出した。

 

「皆さん、落ち着いてください。現在の表示は、着陸のための自動補正の範囲内です。危険判定ではありません。システムは正常に機能していますので、その場でお待ちください」

 

 自分の声が、驚くほど震えていないことに、恒一自身が一番驚いていた。

 二年前の自分なら、このアラートが出た瞬間に誰よりも先にパニックになり、「どうなるんだよ!」と喚き散らしていたはずだ。

 澪が、隣で少しだけ安心したように小さく頷く。

 

 裏では今この瞬間も、ヤタガラスの救助班が極度の緊張の中で待機しているはずだ。

 医療隔離区画のスタンバイ。回収艇の発進準備。そして、日下部参事官やアンノウン機関の管制との、暗号通信による『ヤタガラスを表に出すかどうかの判断ライン』の確認。

 もちろん、それはあくまで『保険』だ。発進しないに越したことはない。

 だが、恒一はそれを知っているからこそ、余計に緊張した。

 

 この街は、ただの見物客としてここに来ているわけではない。

 もしあの船が落ちれば、あるいは致命的なエラーが起きれば。ここは祝賀会場から、人類史上初の地球外救命現場へと一瞬で変貌する。

 その時、自分はパニックになる住民たちを避難誘導し、医療区画への動線を確保する『運営側』になるのだ。

 

 特別公務員という肩書きの重さが、恒一の肩にズシリと乗しかかった。

 

 ◇

 

『着陸船、最終減速フェーズへ移行』

 オラクルの声が響く。

 

『高度、二十。

 十五。

 十。

 五。

 ……接地、確認』

 

 一瞬の、無音。

 

 続いて、ホールのスピーカーから、NASA管制室のくぐもった音声がクリアに流れた。

 

『Touchdown confirmed.』

 

 そして、JAXA側の音声も重なる。

 

『火星着陸、確認』

 

 オラクル義体が、ホール全体に向けて宣言した。

 

「国際火星長期滞在実証ミッション第一陣、火星地表への着陸に……成功しました」

 

 ドオォォォォン……!

 大展望ホールが、文字通り爆発した。

 

 割れんばかりの拍手。

 地鳴りのような歓声。

 泣き出して座り込む住民。

 互いに抱き合って背中を叩き合う技術者たち。

 子供たちの、鼓膜を破るような叫び声。

 

「火星だ!」

「本当に降りたぞ!」

「人間が、火星にいる!!」

「やったああああああ!!!」

 

 澪が、目に涙を浮かべて恒一の首に抱きついた。

 

「降りた! 恒一、降りたよ!」

 

 恒一は、澪の背中を抱きしめ返しながら、上手く言葉を返すことができなかった。

 

「……降りたな」

 

 ただそれだけ。

 だが、彼の視界もまた、涙で滲んでいた。

 

 二年前、自分は何者でもない、ただの六畳半の無職だった。

 それが今、人間が火星に降りる瞬間を、火星のすぐそばと言っていい距離の特等席で見ている。

 しかも隣には、それを一緒に喜んでくれる妻がいる。

 

 人生というものは、たまに、本当に悪ふざけみたいな速度で変わるものだ。

 

 ◇

 

 着陸成功の熱狂が続く中、スクリーンには火星の地表に鎮座した着陸船の姿が映し出されていた。

 

 やがて、船のハッチがゆっくりと開く。

 

 最初に降りてきたのは、ミッションコマンダーであるアメリカのエリック・ヘイルだ。

 だが、彼はSF映画の英雄のように、大仰に旗を立ててポーズを取るような真似はしなかった。彼が最初に行ったのは、ハッチ周辺の安全確認と、後続のクルーが降りるための動線の確保だった。

 

 続いて、日本の瀬尾航平が降り立つ。彼はすぐさま手に持った端末を操作し、外部環境のチェックを開始する。

 アーシャがエリックのバイタルを確認し、アナスタシアが居住区側との接続ステータスをチェックし、劉が着陸脚と外部機材の目視点検を行う。

 そして、ルーカスは火星の地面を見た瞬間、少しだけ動きを止めて固まっていたが、すぐにエリックに肩を叩かれて我に返っていた。

 

 通信回線が開き、エリックの第一声がホールに響いた。

 

『こちら火星地表。国際火星長期滞在実証ミッション第一陣、着陸成功。……これより、拠点安全確認に入ります』

 

 派手な名言など、一つもなかった。

 

 恒一は、思わず笑ってしまった。

 

「第一声が“安全確認に入ります”なの、本当に現場だなあ」

 

「でも、そこがいいんじゃない?」

 澪が、涙を拭いながら微笑む。

 

「うん。すごくいい」

 

 続いて、瀬尾の少し緊張した、だが事務的な声が入る。

 

『生命維持拠点、外部接続系統の確認開始。……チェックリスト一番、外部気圧、想定範囲内。二番、気密シールの状態……』

 

 ヤタガラスの住民たちの間から、ドッと笑い声が漏れた。

 

「瀬尾さん、火星に着いて一分でチェックリスト読み上げてるぞ」

「最高に信用できる男だな」

「歴史的スピーチより、まずはチェックリスト。間違いない」

 

 誰かが旗を立てるよりも前に、人間はまず、自分が生き残るための確認作業を始める。

 それは、どこまでも泥臭く、しかし何よりも尊い、人類の『生活の始まり』の光景であった。

 

 ◇

 

 着陸成功後、大展望ホールは完全な祝賀モードへと移行した。

 外部への配信が一切禁止されているため、ここは世界で最も機密性が高く、そして最もリラックスした『内部の祭り』の空間となっていた。

 

 ノンアルコールのシャンパンが配られ、火星ラーメンの屋台は長蛇の列で早々に完売。子供たちは「次は私が火星に行く!」と興奮して走り回り、初期モニター組の古参たちは「俺たちも二年前、初めてヤタガラスの雲海を見た時、あんな風に固まってたよな」と笑い合っている。

 研究者たちは感動で泣き崩れ、技術者たちはすでに着陸データを覗き込んで「あそこの減速タイミングが……」と激しい議論を始めている。

 そして、生活支援班のスタッフが「おい、床に飲み物をこぼすな! 掃除ロボットの動線が塞がるだろ!」と、容赦なく現実の注意を飛ばしていた。

 

 恒一もまた、イベント運営としてホール内を走り回っていた。

 

「グラスはそこの回収ボックスへお願いします! 火星ゼリーは一人二個までです! あ、そこのお兄さん、内部チャットで今の位置情報を書こうとしたでしょ、あとで説明会だからな!」

 

 澪が、その様子を見てクスクスと笑う。

 

「完全に、運営側の顔だね」

 

「俺もそう思う。自分が怖いよ」

 恒一が肩をすくめる。

 

「でも、似合ってるよ」

 

「……ありがとう」

 恒一は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。

 

 ◇

 

 祝賀の喧騒から少しだけ離れ、恒一は巨大な展望窓の前に立った。

 

 眼下には、赤い惑星が広がっている。

 その地表のどこかに、いま、六人の人間がいる。

 

 彼は、二年前の自分を思い出した。

 

 六畳半の万年床。

 エナジードリンクの空き缶の山。

 ソシャゲのデイリーミッションをこなすだけの毎日。

 親戚のおじさんからの、怪しげな電話。

 澪との初対面の気まずさ。

 大食堂の窓が開いて、初めて雲海を見た時の、あのパニック。

 SNSの検閲警告に怯えた日々。

 そして、「ここ、街じゃん」と気づいた、あの日の夜。

 

 そして現在。

 自分は特別公務員で、澪は妻で、ヤタガラスは火星のすぐ傍にいて、自分は火星着陸イベントの裏方を回している。

 

(人生が始まった気がしたあの日から、二年か。……本当に、始まってしまったんだな)

 

 始まった人生は、想像していたよりずっと忙しく、ずっと責任が重く、そして……ずっと楽しかった。

 

 澪が、静かに隣に来て並んだ。

 

「何、考えてるの?」

 

「二年前の俺に言ったら、絶対に信じないだろうなって」

 

「何を?」

 

「『お前、二年後には結婚して、政府関係者になって、火星の上で仕事してるぞ』って」

 

 澪は、吹き出して笑った。

 

「うん。間違いなく通報されるね」

 

「だよな」

 

 二人で、声を出して笑った。

 

 ◇

 

「恒一、ちょっとお願いがあるんだけど」

 澪が、少し悪戯っぽい顔をして言った。

「締めの一言。……住民代表として、挨拶して」

 

「は? 聞いてないぞ」

 恒一が慌てる。

 

「運営支援員でしょ?」

 

「そういう時だけ肩書き使うのやめてくれない?」

 

 だが、周囲の住民たちがそれに気づき、拍手が起き始めた。

 初期モニター組の連中が「村上、行け!」「出世頭の挨拶聞かせてくれよ!」と囃し立てる。

 

 恒一は、渋々といった様子でマイクを受け取った。

 政治家のような、立派で上手なスピーチなどできるわけがない。彼は、ただ素直に、自分の感じたことだけを言うことにした。

 

「えー……村上恒一です。

 二年前、俺はここに、ただの生活モニターとして来ました。最初は、飯がうまいとか、部屋が広いとか、空飛んでるっぽくてヤバいとか、そのくらいしか考えてませんでした」

 

 住民たちから、同意の笑いが漏れる。

 

「でも、ここで暮らして、働くようになって、結婚して……気づいたら今日、火星を見ています。

 たぶん、ここにいる人の多くも、似たようなものだと思います。最初は、国のとんでもない秘密に巻き込まれたと思ってた。……でも今は、みんなこの街の、普通の住民になってる」

 

 恒一は、少しだけ声のトーンを真面目なものにした。

 

「今日、六人が火星に降りました。

 でも、火星で本当の生活が始まるのは、これからです。

 空気を守って、水を回して、機械を直して、毎日を続ける。……それはたぶん、俺たちがこのヤタガラスの中でやってきたことと、少し似ているんじゃないかと思います」

 

 住民たちが、静かに頷く。

 

「だから、今日は。

 火星に降りた六人と、彼らが火星で始める新しい生活に。

 それから、俺たちのこの空の街にも。

 ……乾杯」

 

「乾杯!」

 

 ホールに、温かい声が響いた。

 恒一は、照れくさそうにそそくさとマイクを返した。

 

 澪が、小声で囁く。

 

「よかったよ」

 

「……手汗すごいんだけど」

 

「知ってる」

 

 ◇

 

 一方、ヤタガラスの管制区画。

 住民側の和やかな祝賀とは完全に切り離されたその部屋では、管制官たちが淡々と、しかし極度の緊張感を持って処理を続けていた。

 

「着陸成功。乗員バイタル正常。拠点接続準備中」

「火星居住区基幹安全モジュール、正常稼働維持」

「救助艇待機解除レベルを、一段引き下げます」

「医療隔離区画は、引き続き待機状態を維持」

「ヤタガラス、秘匿位置および光学迷彩の維持継続」

 

 主任管制官が、モニターから目を離さずに指示を出す。

 

「緊急救助プロトコル、待機段階をレベル二へ移行。……ただし、完全な解除は、火星拠点への初回入室と生命維持の確立が確認されるまで行わない」

 

『了承。ヤタガラス外部観測遮蔽、継続します』

 オラクル義体が、システムと連動して答える。

『火星輸送船および地表拠点からの直接観測リスク、許容値内です』

 

 ヤタガラスは、祝ってはいる。

 だが、彼らはまだ、一秒たりとも気を抜いてはいなかった。

 人類が完全に安全を確保するその瞬間まで、彼らは見えない守護者として、暗闇の中に留まり続けるのだ。

 

 ◇

 

 祝賀イベントが終わり、人が少なくなった大展望ホール。

 床には片付けられた紙皿。火星ゼリーの空き容器。子供が忘れていった、手描きの紙製の火星の旗。

 

 恒一と澪は、二人で窓の前に立ち、眼下の星を見下ろしていた。

 

 赤い地表の一点に、人類初の長期滞在実証拠点がある。

 そしてヤタガラスの内部には、普通に照明が灯り、掃除ロボットが床を磨き、誰かが夜食を買いにコンビニへと向かっている。

 

「……火星に、人が降りたんだよな」

 恒一が、確認するように言う。

 

「うん」

 澪が頷く。

 

「でも、明日の朝も俺、今日のイベントの報告書を書かなきゃいけないんだよな」

 

「歴史的瞬間にも、事務処理はあるからね」

 

「……夢がない」

 

「でも、それが『生活』でしょ」

 

 恒一は、小さく笑った。

 

「そうだな。火星でも、きっとそうなるんだろうな」

 

 火星に人が降り立った。

 それは、間違いなく歴史の教科書に太字で刻まれる瞬間だった。

 だが、ヤタガラスの中では、その瞬間にもラーメンの列が伸び、子供がゼリーをこぼし、運営支援員が内部チャットの検閲通知に頭を抱えていた。

 

 歴史というものは、いつも少しだけ生活臭い。

 

 かつて六畳半の部屋で、何者でもないまま腐りかけていた村上恒一は、今、火星を見下ろす空の街で、妻と並んで赤い星を見ている。

 

 アンノウンは、火星までの道を五日に短くした。

 ヤタガラスは、もしもの時のためにそのすぐそばまで来た。

 そして人間たちは、祝って、働いて、片付けて、明日の準備をする。

 

 火星で始まる生活も、きっと同じだ。

 奇跡の上に、退屈で、面倒で、そして愛おしい日常を一つずつ積み上げていく。

 

 その最初の一日を。

 ヤタガラスの住民たちは、火星の上から静かに見届けたのである。




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