自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第207話 火星第一陣、赤い家に入る

 地球では、夜空を見上げて無数の人々が歓喜の涙を流し、大国の首脳たちが歴史的な瞬間を祝うグラスを掲げているはずだ。

 だが、その熱狂の中心地にいる六人の人間に、そんな浮ついた余裕は一ミリも残されていなかった。

 

 エリック・ヘイルは、着陸船のハッチの外に立ち、ヘルメットの強固なバイザー越しに地平線を見渡した。

 薄いオレンジ色に染まった空。赤茶けた無数の砂礫。遠くに見えるなだらかな丘陵。そして、風に巻かれて視界を遮る微細な砂塵。

 死の惑星、火星。

 その過酷な自然の真ん中に、不自然なほどに完璧な人工物が鎮座していた。無人建設機によって先行して組み立てられた、流線型の低い居住モジュール……『火星長期滞在実証拠点』である。

 

 エリックは、歴史的な第一声などという感傷的な台詞を吐くことはしなかった。

 彼は通信回路を開き、極めて事務的な、訓練で何千回と繰り返したトーンで口を開いた。

 

『こちら火星地表。着陸船周辺、安全確認開始。全員、手順通りに進める』

 

『了解』

 日本の瀬尾航平が、手元のコンソールを見つめながら即座に応じる。

『外部気圧、想定範囲内。微細砂塵濃度、上限未満。各員のスーツ外装、気密異常なし』

 

『着陸脚、目視確認開始』

 中国の劉天宇が、着陸船の足元を慎重に点検していく。

『機体沈下なし。地盤、事前のシミュレーションよりやや柔らかいが、沈み込みは許容範囲内に収まっている』

 

『全員の心拍上昇を確認』

 インドのアーシャ・ラマンが、医療担当として六人全員のバイタルデータをチェックする。

『まあ、当然ですね。人類初の火星地表ですから。異常値ではありません』

 

 ESAのルーカス・マイヤーは、一瞬だけ、足元の赤い砂に視線を落とした。

 手を伸ばしたくなる。しゃがみ込んで、その砂を指で掬い上げたくなる。サンプルを採りたいという地質学者としての抑えきれない欲求が、彼の手を震わせる。

 

 だが、その欲求は即座にロシアのアナスタシア・ヴォルコワにへし折られた。

 

『ルーカス。石を見るのは後だ。まず家に入る』

 彼女の冷たい声が、通信回路に響く。

 

『分かっています。……分かってはいるんですが』

 ルーカスが恨めしそうに答える。

 

『全員、拠点へ移動』

 エリックが、ルーカスの未練を断ち切るように命じた。

『歴史的感動は、気密確認のあとだ』

 

 この瞬間、彼らは英雄から『現場の作業員』へと完全に切り替わった。

 

 ◇

 

 六人は、砂塵を避けるために設置された簡易防風壁に沿って、ゆっくりと拠点へと歩みを進めた。

 

 拠点の正式名称は、『国際火星長期滞在実証拠点一号棟』。

 NASAやJAXAの管制における略称は『MLD−Habitat 01』である。

 地面に伏せるように低く設計されたその居住モジュールは、外壁に張られた多層位相吸収式・宇宙放射線遮蔽フィルムが、火星の砂塵によってすでに薄く赤く染まり始めていた。

 

 ルーカスが、その外観を見てぼそっと呟いた。

 

『赤い家、ですね』

 

『正式名称は、国際火星長期滞在実証拠点一号棟です』

 瀬尾が、真面目な声で訂正を入れる。

 

『今のところ、赤い家の方が覚えやすいですね』

 アーシャが、ルーカスの命名に賛同する。

 

『非公式コールサインとしては悪くない。“Red House”。……記録には残さないでおこう』

 エリックが、少しだけ口元を緩めて言う。

 

『もう残っている。全通信は地球へ送られ、記録されている』

 アナスタシアが、容赦なく現実を突きつけた。

 

『では諦めましょう。赤い家です』

 劉が、あっさりと妥協した。

 

 軽いやり取りが、極度の緊張を少しだけ和らげる。

 だが、赤い家の外観は、彼らがこれから直面する現実の厳しさを物語っていた。

 着陸船と接続するための外部接続ポート。緊急時の非常用ローバー。周囲を監視する無数の外部センサー群。そして、補助電源としての太陽光パネル。

 アンノウン由来の基幹安全技術は、決して「快適な魔法のお城」などではない。人間がこの死の星で生き延びるために用意された、最低限の『防壁』なのだ。

 

 ◇

 

 赤い家の入り口、外部エアロックの前に到着した六人。

 ここからが、火星における最初の、そして最大の戦いであった。

 

 敵は、火星の砂である。

 

 火星の砂は地球のそれとは異なり、極めて微細で、静電気を帯びている。宇宙服の隙間や機械のジョイントに容赦なくまとわりつき、気密シールの劣化や機器の故障を引き起こす、最も厄介な敵だ。

 六人は、感動に浸る暇もなく、厳格な『除塵手順』へと入った。

 

『外部エアロック、待機圧確認。除塵シーケンス開始前チェック』

 瀬尾が、エアロックのコンソールを操作する。

 

『右脚ブーツに砂塵付着多め。着陸時の噴射で巻き上げたな』

 劉が、自らの足元を確認して報告する。

 

『最初の敵は火星人ではなく砂。……予想通りだ』

 アナスタシアが、忌々しげに言う。

 

『その砂を、私は早く調べたいんですが』

 ルーカスが、再び未練がましく呟く。

 

『まず持ち込まないでください。微生物管理担当からのお願いです』

 アーシャが、即座に微生物汚染の観点から却下した。

 

 エアロック内へ入ると、重い外扉が完全に閉鎖された。

 ここから、スーツ外装の除塵、静電吸着式ダスト除去、微粒子の回収、外部汚染の徹底的なチェック、そして気圧の段階的な調整が行われる。

 これらのプロセスが完全に終了するまで、居住区へ繋がる内扉は絶対に開かない。

 

 そのシーケンスの最中、劉の左膝の関節部から『ピッ』という微かな警告音が鳴った。

 

『左膝、微細砂塵残留警告。手動で除去します』

 劉が、すぐさまブラシと吸引ノズルを手に取ろうとする。

 

『急がないでください』

 瀬尾が、冷静な声で制止する。

『ここで急いで、最初の入室で居住区に砂を持ち込むと、あとでフィルターが詰まって全員が泣くことになります』

 

『同意する』

 エリックが深く頷く。

『火星で最初に泣く理由が、歴史的感動ではなく清掃不良では困るからな』

 

 劉は、焦ることなく淡々とブラシを動かし、徹底的に砂を吸い取っていく。

 

『良い。火星初日の最初の仕事は掃除。……非常に現実的だ』

 アナスタシアが、その光景を見て満足げに言った。

 

 そこには、SF映画のような華々しさは一切ない。

 あるのは、人間が未知の環境で生き延びるための、極めて地味で、几帳面な作業の連続であった。

 

 ◇

 

 十数分に及ぶ長い除塵シーケンスが完了し、ついに内扉のロックが解除された。

 

 プシュウゥッ……。

 圧力の均等化を知らせる音とともに、扉がスライドして開く。

 

 六人が、初めて火星居住区の内部へと足を踏み入れた。

 その瞬間、彼らの身体にかかる『感覚』が、劇的に変化した。

 

 火星の重力は、地球のおよそ三八パーセントしかない。

 本来であれば、彼らの身体はふわりと軽く浮き上がるような感覚に包まれるはずだ。

 しかし、彼らが今感じているのは、それとは全く違うものだった。

 

 地球標準の、1G。

 

 日本のアンノウン機関から提供された『居住区内人工重力維持モジュール』が、完璧に稼働しているのだ。

 

『……重い』

 ルーカスが、スーツの重量と地球の重力を感じて、思わず呻いた。

 

『火星に来て、最初に感じるのが“地球の重さ”というのは、なんとも不思議な感覚ですね』

 アーシャが、苦笑交じりに言う。

 

 瀬尾は、感動する前に手元の端末の数値を凝視していた。

 

『居住区内人工重力、〇・九九九八Gから一・〇〇〇二Gの範囲で安定。床面における重力場の揺らぎなし。人体への許容範囲内です』

 

『これがなければ、長期滞在は筋肉と骨から崩れる。ありがたいが……気味は悪いな』

 アナスタシアが、物理法則を捻じ曲げるアンノウン技術の異常さに、少しだけ顔をしかめる。

 

『火星の上にいるのに、足元だけ地球だな』

 エリックが、床を踏みしめて言う。

 

『修理する側としては、絶対に壊れないでほしい設備第一位です』

 劉が、技術者のリアルな恐怖を口にする。もしこのモジュールが壊れれば、急激な重力変化がクルーの身体と精神を破壊する。

 

 瀬尾の内心も、劉と同じだった。

 人工重力は、あまりにも滑らかに、完璧に動いていた。滑らかすぎて、逆に怖い。

 人間は、環境にすぐに慣れる生き物だ。そして、慣れた頃に「そこにあるのが当然」と思い始める。

 だからこそ、瀬尾は数値を見続けるのだ。

 奇跡を信じるのではなく、目の前の計測値だけを信じるために。

 

 ◇

 

 居住区の内部は、無機質ではあるが、最低限の温かみを感じさせる設計になっていた。

 白と薄いベージュを基調とした壁面。床には滑り止め加工。壁面に埋め込まれた収納スペース。折り畳み式のテーブル。

 医療ステーション、共有端末、個人用の小型居室への通路、簡易キッチン、そして壁の大部分を占める『生命維持装置の状態表示パネル』。

 

 だが、六人はまだ誰一人として、ヘルメットを外していなかった。

 

 ここからが、本当の山場だ。

 

 瀬尾が、コンソールに向かい、居住区内の環境データを一つ一つ読み上げていく。

 

 気圧。酸素濃度。二酸化炭素濃度。湿度。揮発性化学物質。微粒子濃度。微生物検出。温度。気流。

 非常用酸素系。閉鎖循環型生命維持装置。病原体除去系。水再生系。

 

『気圧、地球標準居住設定。酸素濃度、正常。二酸化炭素濃度、正常。微粒子濃度、許容値以下。病原体検出なし。閉鎖循環型生命維持装置、全系統……正常』

 

 瀬尾の報告が、静かな居住区に響く。

 

『ヘルメット解除許可は?』

 エリックが、ミッションコマンダーとして最終の判断を瀬尾に委ねる。

 

 瀬尾は、すぐには答えなかった。

 何度も、何度も画面の数値を確認し、センサーのバックアップ系統のデータと照らし合わせる。

 

『瀬尾さん?』

 アーシャが、沈黙に少しだけ不安を覚えて声をかける。

 

 瀬尾は、最後に一度だけ大きく深呼吸をし、マイクのスイッチを入れた。

 

『……許可します。居住区内、呼吸可能』

 

 一瞬、全員が黙った。

 

 その言葉の重み。

 火星で、呼吸が可能。

 地球から数千万キロ離れた死の世界の真ん中で、人間が空気を吸える場所ができたのだ。

 

 エリックが、最初にヘルメットのロックを解除し、ゆっくりと頭から外した。

 それに続き、瀬尾、アーシャ、アナスタシア、劉、ルーカスが、次々とヘルメットを脱ぐ。

 

 全員が、恐る恐る、胸の奥深くまで息を吸い込んだ。

 

「……空気ですね」

 アーシャが、肺を満たす無味無臭の気体の感触に、不思議そうに呟いた。

 

「当たり前のものが、ここでは何よりの高級品に感じる」

 アナスタシアが、深呼吸を繰り返しながら言う。

 

「当たり前じゃないです。いまは機械が作ってます」

 瀬尾が、冷徹な事実を口にする。

 

「では、機械に感謝しましょう」

 劉が、天井のダクトを見上げて言った。

 

 ルーカスは、少しだけ目を潤ませていた。

「火星で……息をしている……」

 

 エリックが、静かに、だが確かな誇りを持って言った。

 

「記録してくれ。国際火星長期滞在実証ミッション第一陣、拠点内でのヘルメット解除に成功。……全員、自力呼吸を確認」

 

 それは、派手な演説でも、歴史的な名言でもなかった。

 だが、間違いなく、人類が火星で『生き始めた』ことを証明する、最も重い言葉だった。

 

 ◇

 

 だが、ヘルメットを外したからといって、すぐにコーヒーを淹れて休憩できるわけではない。

 ここからが、本当の実務の始まりだ。

 

 六人は、それぞれの役割ごとに即座に散った。

 

 瀬尾は、生命維持装置のメインコンソールに張り付く。

 酸素生成系、CO2回収系、水再生系、廃棄物処理、栄養循環、気流管理、緊急遮断弁、バックアップタンク。

 すべてのシステムをチェックし、最終的なコマンドを入力する。

 

「閉鎖循環型生命維持装置、運用モードを『無人待機』から『有人滞在』へ移行します」

 

 画面の表示が切り替わる。

『Human Occupancy Mode: Active』

 

 瀬尾は、その緑色の文字を見て、ようやく小さく息を吐いた。

 

 アナスタシアは、閉鎖環境の維持と備蓄の確認に入っていた。

 食料、水、フィルター、予備部品、清掃用品、寝具、予備酸素、そして隔離室のステータス。

 

「備蓄数、リストと完全に一致。予備フィルターは……足りている。だが、多いとは言わない」

 アナスタシアは、厳しい顔でタブレットにチェックを入れていく。

 

 劉は、機械区画の確認に回っていた。

 ドアの駆動、エアロックのシール状態、床下配管、非常用ローバーの接続、外部作業工具、充電ステーション、修理ベイ。

 

「工具の配置が悪い」

 劉が、キャビネットを開けて不満げに言う。

「これを設計した人間は、実際に焦って修理する人間の動線を全く考えていない」

 

「改善提案として記録しておこう」

 エリックが言う。

 

「今、動かします」

 劉が工具箱に手を伸ばす。

 

「記録してからだ」

 エリックが制止する。

 

「了解。記録してから動かします」

 劉は渋々端末を取り出した。

 

 アーシャは、医療ステーションの確認を行っている。

 簡易診察ベッド、バイタルモニター、医薬品の在庫、隔離キット、微生物検査装置、心理状態の記録システム。

 

「全員、今日中に簡易診察をします。火星に着いた興奮で、無自覚に無理をしている可能性がありますから」

 アーシャが、医師の顔で全員に宣告する。

 

「興奮なら、私が一番です」

 ルーカスが、地質サンプル準備区画の前でそわそわしながら言う。

 まだ外部への採取には出られない。だが、彼は空のサンプルケースや分析装置を見つめて、今にも外へ飛び出しそうなオーラを放っていた。

 

「火星の石が……すぐそこにあるのに」

 ルーカスが恨めしそうに窓の外を見る。

 

「今日は石より、食事と睡眠だ」

 アナスタシアが容赦なく言い放つ。

 

「ひどい」

 

 ◇

 

 すべてが順調に進んでいるように見えたが、火星は甘くなかった。

 ほんの僅かな、だが無視できない『実務トラブル』が発生した。

 

「水再生系、流量表示に〇・七パーセントの差分」

 瀬尾が、コンソールの異常に気づいて声を上げた。

 

 大事故ではない。だが、閉鎖環境において水は命そのものだ。〇・七パーセントのロスが長期的に積み重なれば、致命的な結果を招く。

 

 劉が、即座に床下の配管系統のパネルを開ける。

「センサー側の異常か、初期稼働時の気泡か」

 

「水は血液だ。最初に見ておくべき」

 アナスタシアが、厳しい顔で歩み寄る。

 

「人体への影響はまだありません。ただし、長期滞在では軽視できません」

 アーシャも、医療的観点から懸念を示す。

 

「瀬尾、判断を」

 エリックが、担当責任者に指示を求める。

 

 瀬尾は数秒間数値の推移を見つめ、手順書に則って判断を下した。

「一時循環テストを実施します」

 

 劉が手動バルブの前に待機する。アナスタシアが、万が一に備えて備蓄水へ切り替える場合の時間を計算し、アーシャが全員の水摂取制限の必要性を確認する。

 見事な連携だった。

 

 数分後、配管から小さな気泡が排出され、センサーの数値が正常値へと戻った。

 

「表示差分、解消。原因は初期充填時の微小気泡と推定。ログに残します」

 瀬尾が報告する。

 

 エリックが、少しだけ口角を上げた。

「よし。……火星初日の、最初のトラブルは何だ?」

 

「水の表示ずれ」

 劉が答える。

 

「地味で良い。派手なトラブルはいらない」

 アナスタシアが頷く。

 

 六人が、それぞれの役割を完璧に果たし、初めて「チーム」として完全に噛み合った瞬間だった。

 

 ◇

 

 初期チェックが一段落し、エリックが全員を共有区画へ集めた。

 

「第一段階の確認完了。これより、個人区画の割り当て、食事、初回診察、そして睡眠計画に入る」

 

 各人に割り当てられた個人区画は、非常に狭い。

 ベッド、折り畳みデスク、壁面収納、個人端末。小さな写真や私物を貼れるわずかなスペース。防音は最低限で、完全なプライベート空間とは呼べないが、それでも「一人になれる」唯一の場所だった。

 

 六人は、それぞれ自分の区画へと入っていった。

 

 エリックは、壁に家族写真を貼る。

 劉は、自分好みの工具配置メモを作成する。

 アーシャは、家族からの短い手紙を読み返す。

 ルーカスは、さっそく火星の石の参考写真を壁に貼っている。

 アナスタシアは、小さな古いロシアの宇宙飛行士の写真をデスクに置いた。

 

 そして瀬尾は、壁に自作の詳細なチェックリストを貼り付けた。

 ふと、彼は狭いベッドの上に腰掛け、壁を見つめて呟いた。

 

「……ここが、火星での自分の部屋か」

 

 たったそれだけの言葉。

 だが、その言葉には、数千万キロの距離と、人類史の重みがずっしりと詰まっていた。

 

 ◇

 

 そして、いよいよ火星における「最初の夕食」の時間がやってきた。

 

 六人が、共有区画の折り畳みテーブルを囲む。

 メニューは、決して豪華なものではない。地球から持ち込まれた、温めるだけのレトルト保存食だ。

 ただし、それぞれの国や好みに合わせて、少しだけ選べるようになっている。

 

 NASA式のビーフシチュー。JAXAのレトルトカレーとアルファ米。ロシア風ボルシチパック。中国風の煮込み肉と米飯パック。インド風ダルカレー。ESA提供のパスタとラタトゥイユ。

 

 加熱器にパックを入れるだけ。皿も簡易。テーブルも味気ない。

 だが、彼らにとっては、人類初の火星で囲む歴史的な夕食である。

 

 ルーカスが、パスタのパックを見ながら言った。

 

「レオナードCEOではありませんが……ワクワクしますね。火星で、人類最初の夕食ですよ」

 

「その言い方、少し分かります」

 アーシャが微笑む。

 

「火星で最初に食べる食事が、温めただけのパック料理というのも、我々らしくていい」

 エリックが言う。

 

 すると、劉がパックの封を開けながら、極めて真顔で言った。

 

「俺にとっては、目の前の料理が美味いかどうかの方が大事だな」

 

 一瞬、全員が黙った。

 

「……呆れた。情緒ってものを少しは考えてください」

 アーシャが、ため息をつく。

 

「情緒でカロリーは補給できません」

 劉が反論する。

 

「正しい」

 アナスタシアが劉を支持する。

 

「台無しです」

 ルーカスが頭を抱える。

 

「でも、食事の満足度は長期滞在の心理維持に直結します。味は重要です」

 瀬尾が、大真面目な顔で劉を擁護する。

 

「瀬尾さんまで、実務で援護しないでください」

 アーシャがさらに呆れる。

 

 エリックが、声を出して笑った。

 

「では、人類初の火星夕食における最重要評価項目は、『味』ということで」

 

 空気が、ふっと柔らかくなった。

 

 食べ始める。

 最初は、みんな少し緊張していた。

 火星。人類史。各国の期待。カメラ。記録。……全てが重い。

 

 だが、温かい料理を口に入れた瞬間、彼らは少しだけ「普通の人類」に戻った。

 

「……悪くない」

 劉が、煮込み肉を食べて呟く。

 

「それ、あなたの中では最大級の褒め言葉ですか?」

 アーシャが尋ねる。

 

「かなり美味い」

 

「火星で食べているという補正もありますね」

 ルーカスが笑う。

 

「補正込みでも、温かい食事は正義だ」

 アナスタシアが、ボルシチをすすりながら言う。「少し甘いが、許す」

 

 瀬尾は、カレーを一口食べて、少しだけ驚いたように目を見開いた。

 

「……地球と同じ味がする」

 

 その味が、地球との距離を一瞬だけ縮めた気がした。

 

「それは、良いことか?」

 エリックが聞く。

 

「はい。かなり」

 瀬尾は、もう一口カレーを運んだ。

 

 火星にいる。

 窓の外には、絶対に人間の生存を許さない死の大地が広がっている。

 それなのに、口の中には、日本の訓練施設の食堂で食べたことのある、いつものカレーの味がある。

 

 その圧倒的な落差に、瀬尾は不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 アーシャが、ダルカレーを食べて優しく微笑む。

「完璧な家庭の味ではありません。……でも、ここでは十分すぎます」

 

「パスタは……まあ、ESAらしい味です」

 ルーカスが少しだけ顔をしかめる。

 

「それは褒めているのか?」

 エリックが問う。

 

「記録には残さないでください」

 

 食卓に、笑い声が響いた。

 

 ◇

 

 食べながら、六人が少しずつ、専門家としてではなく「個人」として話し始める。

 

「地球では今頃、大統領たちが立派なコメントを出しているだろうな」

 エリックが、遠い地球を想像して言う。

 

「政治家はよく話す。こちらは、よく食べて、よく寝るべきだ」

 アナスタシアが実利を説く。

 

「同意」

 劉が頷く。

 

「私は、明日の地質調査の予定を考えると、興奮して眠れそうにありません」

 ルーカスがソワソワしている。

 

「眠れないなら、睡眠管理対象にして薬を出しますよ」

 アーシャが、医師の目で脅す。

 

「……寝ます」

 ルーカスが即答する。

 

「明日は、拠点の二次点検、外部接続、生命維持負荷試験、廃棄物処理系の初期運用確認があります」

 瀬尾が、明日の重い予定を羅列する。

 

「こうして聞くと、我々は火星に夢を見に来たというより、火星へ『設備保守』に来たようだな」

 エリックが苦笑する。

 

「事実です」

 劉が即答する。

 

「夢は、設備が動いてから見るものだ」

 アナスタシアが、完璧な真理を突いた。

 

「では今日は、設備が動いた記念日ですね」

 ルーカスが言う。

 

「まだ初日です。記念日にするには早すぎる」

 瀬尾が、慎重すぎる回答をする。

 

「瀬尾さん、そこは少し乗ってあげてください」

 アーシャが苦笑する。

 

「……では、暫定記念日ということで」

 

 全員が、声を上げて笑った。

 

 ◇

 

 食後、六人は居住区の壁にある小さな観測窓の前に集まった。

 

 それは巨大なパノラマウィンドウではない。安全上、分厚い遮蔽構造の一部に設けられた、分厚いガラスのスリットに近いものだ。

 それでも、火星の地平線が見える。

 

 赤い砂。

 薄暗いオレンジ色の空。

 遠くの岩。

 自分たちが歩いてきた足跡。

 静かに佇む着陸船。

 拠点の外部灯に照らされた、死の世界。

 

 誰も、すぐには喋らなかった。

 

「……望遠鏡で見る火星とは、まったく違う」

 ルーカスが、小さく震える声で言った。

 

「当たり前だ。ここは火星だからな」

 エリックが言う。

 

「その当たり前が、まだ頭に入りません」

 アーシャが、夢見心地で呟く。

 

 瀬尾は、窓の景色よりも、その横にある壁の状態表示パネルの数値を無意識に目で追っていた。

 

「瀬尾。少しは外を見なさい」

 アナスタシアが、呆れたように言う。

 

「見ています。視界の端で」

 瀬尾が弁明する。

 

「それは見ていない」

 劉が突っ込む。

 

「情緒がない人間が二人に増えましたね」

 アーシャが嘆く。

 

「困りますね」

 アナスタシアが同意する。

 

 瀬尾は少し困った顔をしてから、パネルから目を離し、ちゃんと窓の外を見た。

 

「……赤いですね」

 

「感想が小学生です」

 ルーカスが容赦なく突っ込む。

 

「でも、本当に赤いので」

 瀬尾が真面目な顔で言うと、再び全員から笑いが起きた。

 

 彼らは、単なる仕事仲間から、少しずつ、この星で生き抜くための『生活仲間』へと近づき始めていた。

 

 ◇

 

 火星の夜が近づく。

 

 拠点内は安全だが、夜間運用ルールの徹底は必須だ。

 エリックがテーブルに戻り、初夜の体制を確認する。

 

「二名ずつ交代で夜間監視を行う。初日は瀬尾とアナスタシアが第一監視だ。私は緊急時待機とする。アーシャは全員の睡眠状態を記録。劉は朝一番で工具配置の変更。ルーカスは……明日まで外部サンプルの採取禁止だ」

 

「明日の何時から採取可能ですか?」

 ルーカスが食い下がる。

 

「二次安全確認後だ」

 

「具体的には?」

 

「生命維持負荷試験、エアロック二次検査、外部活動計画の承認後です」

 瀬尾が、具体的なタスクを並べる。

 

「……つまり、皆さんが私の夢を人質に取っているわけですね」

 ルーカスが恨めしそうに言う。

 

「あなたの命を守っている」

 アナスタシアが冷たく返す。

 

「反論できません」

 

 エリックは、さらに生活感に溢れたルールを提示した。

 

「食器は使用後すぐ洗浄機へ。食品パックは廃棄物処理系へ。個人区画のドアは緊急時のため内側ロックを制限する。水使用量は厳密に記録。シャワーは初日は使用不可、清拭のみ。……そして、トイレの使用手順は、寝る前に全員必ず再確認すること」

 

「火星初夜に、トイレ手順の確認か」

 劉が、なんとも言えない顔をする。

 

「生活とはそういうものです」

 アーシャが言う。

 

「トイレ系のトラブルは、クルーの士気と生命維持環境に直結します」

 瀬尾が大真面目に語る。

 

「閉鎖環境では真理だ」

 アナスタシアが同意する。

 

 ◇

 

 夜間体制に入る前、エリックが地球へ向けた公式の初回運用ログを送信した。

 

 内容は、壮大な演説でもポエムでもない。

 

『第一陣六名、拠点入室完了』

『居住区内ヘルメット解除成功』

『生命維持系、有人モードへ移行』

『水再生系初期表示差分、解消済み』

『初回食事摂取完了』

『乗員心理状態、興奮傾向あり。ただし安定』

『第一夜、交代監視体制へ移行』

 

 地球側の管制室がこのログを見て感涙していることなど、彼らには関係ない。

 彼らはただ、事実を報告しただけだ。

 

「送信完了。……これで地球は、我々が無事に飯を食ったことまで知る」

 エリックが、少しだけ疲れた顔で言う。

 

「重要情報だ」

 劉が頷く。

 

「実際、重要です。こんな極限環境で食欲があるのは、極めて良い兆候ですから」

 アーシャが医師として評価する。

 

「では、火星初日の最大成果は?」

 ルーカスが問う。

 

「全員が生きて、食べて、寝る準備をしていること」

 アナスタシアが即答する。

 

「それ以上の成果はありません」

 瀬尾が、力強く同意した。

 

 ◇

 

 各自が個人区画へと入り、火星の最初の夜が更けていく。

 

 エリックは自室で家族写真を見つめ、劉は工具の配置図を修正し、アーシャは医療ログを書き、ルーカスは窓の外を見て地質調査の計画を我慢して閉じた。

 

 第一監視の瀬尾とアナスタシアは、共有区画の生命維持コンソールの前に残っていた。

 

「……眠くないのか」

 アナスタシアが、パネルを睨み続ける瀬尾に尋ねる。

 

「眠いです。でも、この数値を見ている方が落ち着きます」

 瀬尾が、素直に答える。

 

「分かる。閉鎖環境では、この静かな機械音が、何よりの子守歌になる」

 

「地球では、変な人扱いされますね」

 

「ここでは、正常だ」

 

 二人の間に、静かで心地よい時間が流れる。

 

 生命維持装置の、低い駆動音。

 空気が循環する、微かな風の音。

 水再生系が動く、わずかな振動。

 

 火星の扉の外は、人間を数分で殺す死の世界だ。

 だが、この壁の内側には、人工の空気と、確かな人間の寝息がある。

 

 共有区画のテーブルの上には、片付けられた食事のパックの跡と、誰かが置き忘れたスプーンが一つ残っている。

 壁のモニターには、静かに緑色の文字が光っていた。

 

『Habitat 01 / Human Occupancy: Day 1』

 

 人類初の火星の夜。

 そこにあったのは、壮大な演説でも、星条旗でも、歴史的な名言でもなかった。

 

 温めただけの料理。

 少し狭いテーブル。

 食器の片付け。

 水の使用量。

 トイレの手順。

 交代監視の当番表。

 

 だが、それこそが『生活』だった。

 

 アンノウンの技術は、火星に空気と重力と遮蔽をもたらした。

 けれど、その中で食べ、笑い、呆れ、眠り、明日の点検を気にするのは、どこまでも人間だった。

 

 火星に、人が住む。

 その最初の夜は、温めただけの料理が思ったより美味しかったという、ごく平凡で、だからこそ奇跡のような記録から始まった。

 

 火星生活一日目。

 六人は、無事に晩飯を食べた。




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