自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第208話 ジャミングオン! 火星一日目成功、次は国連で胃が痛い

 東京都千代田区永田町、首相官邸。

 地下五階に構築された『特別情報分析室』は、地上の歓喜や喧騒から完全に切り離された、絶対の密室である。分厚い鉛と特殊電磁波吸収材に覆われたこの空間には、空調の微かな稼働音だけが、まるで冷徹な時計の針のように単調に響いていた。

 

 円卓を囲むのは、矢崎薫内閣総理大臣を筆頭に、官房長官、外務大臣、霧島大悟防衛大臣、御堂周作経済産業大臣、榛名理人科学技術担当大臣、そして内閣情報官。

 さらに、スクリーンの傍らには、内閣官房参事官の日下部と、いつものように着古した作業着姿の工藤創一が立っていた。加えて本日は、火星ミッションの進捗を共有するため、JAXAおよび防衛省の連絡官も同席している。

 

 火星居住地一日目の成功が確認されてから、まだ半日も経っていない。

 地上では、連日連夜、各国のメディアがこの歴史的偉業を褒め称え、SNSは「新しい時代」の到来を祝う言葉で埋め尽くされている。世界中から日本政府へも、数え切れないほどの祝辞と問い合わせが殺到していた。

 だが、この地下室に集められた面々の顔に、祝祭の余韻は微塵もなかった。彼らの表情には、終わりの見えない激務による濃い疲労と、次に押し寄せてくる巨大な政治的波浪に対する極度の警戒感だけが張り付いている。

 

 日下部が、感情を完全に排した声で、手元の端末を操作した。

 

「外部通信遮断。内部記録は政府管理ログのみへ限定。音声、映像、端末同期、すべて隔離環境へ移行。……ジャミング、オン」

 

 ブゥン……という、内臓を微かに震わせる極低周波の駆動音が室内の空気を満たし、照明が警戒を示す薄暗い赤色へと切り替わった。

 

 その物々しい演出に、工藤が少しだけ目を輝かせて反応した。

 

「おお、なんかカッコいいですね。『ジャミングオン』って。いよいよ秘密会議が始まるって感じで」

 

 日下部は、端末から目を離さずに、即座に冷や水を浴びせた。

 

「言っていることは、単に“ここから先の話が外に漏れたら即座に国際問題に発展するので、物理的にも電子的にも全部塞ぎます”という、ただの安全措置の宣言です。ロマンはありません」

 

「急に胃が痛くなる言葉に変換されましたね……」

 工藤が、肩を落として苦笑する。

 

 矢崎総理が、組んだ手の上に顎を乗せ、少しだけ自嘲気味に笑った。

 

「最近の我が国では、この『ジャミングオン』という言葉は、華々しい作戦開始の合図ではなく、各所で燃え上がった火種を消すための『火消し開始』の合図になっていますね」

 

「ええ。四方八方に火の粉が飛びすぎています。一つ消せば、また三つ燃え上がる有様です」

 日下部が、深く、重い溜息とともに同意した。

 

 ◇

 

「では、最初の議題に入りましょう。火星居住地一日目の、成功報告です」

 矢崎総理の促しを受け、JAXAの連絡官が立ち上がった。

 

 彼の表情は、歴史的快挙を成し遂げた組織の代表としては、あまりにも生真面目で淡々としていた。

 

「——第一陣六名からの、初回運用ログです」

 連絡官がスクリーンにデータを展開しながら、無機質に読み上げていく。

 

『第一陣六名、火星長期滞在実証拠点一号棟へ入室完了』

『居住区内人工重力維持モジュール、正常稼働』

『多層位相吸収式・宇宙放射線遮蔽フィルム、遮蔽率基準値内』

『閉鎖循環型生命維持装置、有人滞在モードへ移行』

『居住区内でのヘルメット解除成功。全員、自力呼吸確認』

『水再生系初期表示差分〇・七パーセント、微小気泡排出後に解消』

『初回食事摂取完了』

『乗員心理状態、興奮傾向あり。ただし安定』

『第一夜、交代監視体制へ移行』

 

 そこには、「人類にとっての偉大なる飛躍」といったポエティックな表現は一つもない。ただ、機械が正常に動き、人間が息をして、飯を食って、寝る準備をしたという、事実の羅列だけがあった。

 

 だが、会議室にいた閣僚たちは、その無味乾燥なログを聞いて、一様に深い安堵の息を漏らした。

 

「初日としては、これ以上ない最高の結果ですね」

 防衛省の連絡官が、張り詰めていた肩の力を抜いて言った。

 

「はい。火星居住地の一日目は、大成功と言ってよいでしょう」

 日下部も、この瞬間だけは評価を惜しまなかった。

 

 工藤が、スクリーンに映し出された火星の赤い大地の画像を見て、素直に目を輝かせた。

 

「いやー、凄いですね。火星居住地! 人間が、本当にあそこで寝泊まりしてるんですよ!」

 

 日下部が、半眼になって工藤を見た。

 

「テラ・ノヴァという、地球とは別の次元の異星に広大な工場を建てて住み着いている人間が、何を今更感動しているのです」

 

「いやいや、それとこれとは違いますよ!」

 工藤は、身振り手振りを交えて熱弁を振るう。

「やっぱり火星は特別ですよ。俺たちが子供の頃から、夜空に見上げてきたあの赤い星じゃないですか。テラ・ノヴァの開拓とは、別の方向の強烈なロマンがありますって」

 

「その、あなたが感じる『ロマン』の保守点検を、一体誰が命懸けで行っていると思っているのですか」

 日下部が、冷ややかな声で現実を突きつける。

 

 工藤は、少しだけ口籠り、視線をそらした。

「……瀬尾さん、ですね」

 

「はい。JAXAの瀬尾さんです。彼がコンマ数パーセントのエラーを見逃さず、マニュアル通りにバルブを調整しているからこそ、あなたの言うロマンは窒息せずに済んでいるのです」

 

 矢崎総理が、二人のやり取りを聞いて小さく笑い声を立てた。

 

「人類が火星に抱く壮大な夢を、その足元で支えているのが、一人の日本人技術者の『チェックリスト』であるというのは、実に我が国らしい、泥臭くも頼もしい現実ですね」

 

 ◇

 

「その瀬尾航平氏についてですが」

 日下部が、声のトーンを一段落として補足に入った。

 

「彼は表向き、JAXAの生命維持・安全プロトコル担当として派遣されています。……だが実際には、我々アンノウン機関側の『特別協力者』としての役割も帯びています」

 

 その言葉に、霧島防衛大臣が鋭く反応する。

「アンノウン機関の特別協力者。……ということは、彼は『ヤタガラス』の存在を知っているのか?」

 

 日下部が頷く。

「はい。テラ・ノヴァ側の詳細や、工藤氏の存在までは伏せていますが……『万が一の事態に陥った際、公式には表に出せない、地球外の救助手段(ヤタガラス)が火星近傍に待機している』という事実と、そのための緊急通信プロトコルについては、最低限の範囲で伝達してあります」

 

「あ、知ってたんですね」

 工藤が、少し驚いたように言う。

 

「生命維持の最高責任者ですからね」

 日下部が答える。

「最悪の事態が発生した際、酸素や水が尽きるまでどこまで粘れば『救助』が来る可能性があるのか。そのタイムリミットを知らないままでは、彼は正しいトリアージや決断を下せません。現場の責任者に、その命綱の存在を隠したまま死地に送り出すことは、我々の判断基準では許容できませんでした」

 

「重い情報ですね。……彼一人に背負わせるには」

 矢崎総理が、遠い火星でその秘密を抱えながらコンソールに向かっているであろう技術者を思い、顔をしかめた。

 

「ですが、出番がなくて本当によかったですね」

 工藤が、純粋な安堵の声を漏らす。

 

 日下部の顔が、極めて真面目なものに変わった。

 

「本当に、その通りです。

 ……ヤタガラスの出番があるということは、すなわち、表向きの国際火星ミッションが『致命的な破滅』に陥っているということを意味します。あの空飛ぶ要塞は、火星においては、出番がないことこそが最大の成功なのです」

 

「確かに……。ヤタガラスが姿を現したら、助かってもその後の説明で世界中がパニックになりますもんね」

 工藤も、事の重大さを理解して頷く。

 

「火星で人類が第一歩を記し、ヤタガラスはただの静かな傍観者として何もせずに済んだ。……今日は、それも含めての『成功』ですね」

 矢崎総理が、静かに結論づけた。

 

 ◇

 

「さて、現場の無事は確認できました。……問題は、ここから先の『地球側』の騒ぎです」

 

 日下部の合図で、外務省幹部が立ち上がり、分厚い資料を広げた。

 火星着陸成功後、世界中から日本政府へ向けて殺到している、凄まじい量の祝辞と問い合わせのレポートである。

 

「アメリカは、ヘイズ大統領名義で『人類は火星へ到達したのではなく、火星で生活を始めた』という、非常に力強く、未来志向の声明を発表しました」

 外務省幹部が読み上げる。

「ロシアは、アナスタシア・ヴォルコワ氏の参加を国内向けに大々的に報じ、『火星で空気と水を守る者たちに敬意を表する』と、珍しく情緒的な発表を行っています。中国は劉天宇氏を『中国技術者の歴史的貢献』として称揚し、インドはアーシャ・ラマン氏を『火星医学の第一歩』として国民的英雄のように扱っています。ESAもルーカス・マイヤー氏の地質調査への期待を表明しました」

 

「祝辞だけを見れば、実に平和で素晴らしい国際協調の姿ですね」

 官房長官が、皮肉っぽく笑う。

 

「ええ。祝辞『だけ』なら、ですが」

 外務省幹部が、資料のページをめくり、表情を硬くした。

「問題は、その後に続く、怒涛の問い合わせの津波です。

 現在、世界各国の政府、宇宙機関、国連関連組織、そして莫大な資本を持つ民間研究機関から……実質的なミッションの窓口となっているアメリカ政府に対して、凄まじい数の要求が殺到しています」

 

「具体的な内容は?」

 総理が問う。

 

 日下部が、冷ややかに先回りして答えた。

「聞くまでもありません。『次の火星便はいつ出るのか』、ですね」

 

「はい。その通りです」

 外務省幹部が、溜め息混じりにリストを読み上げる。

「第二陣への参加枠はあるのか。貨物便はいつ出るのか。国連としての専用枠は設けられるのか。民間研究機関や大学は参加可能か。各国の専門家やジャーナリストを送れるのか。……要するに、『俺たちも早く火星に乗せろ』という強烈な圧力です」

 

 矢崎総理が、呆れたように苦笑した。

「予想通りといえば、予想通りですね。人類の欲というのは、本当に限界を知らない」

 

「予想通りです」

 日下部も頷き、そして、どこか清々しい、悪役のような笑みを浮かべた。

「そして、今回は大変ありがたいことに、その問い合わせの『主たる窓口』は、すべてアメリカ政府が引き受けてくれています」

 

「……日本には来てないんですか?」

 工藤が不思議そうに首を傾げる。

 

「もちろん来ていますが、我々はすべて『表のミッション管理と次便のスケジュール調整は、主導国であるアメリカ政府(NASA)が取り仕切っている』と、涼しい顔でホワイトハウスへ横流ししています」

 日下部が、事も無げに答える。

「つまり、世界中からの身勝手な要求の津波を最初に真っ向から被るのは、ヘイズ大統領とNASAというわけです」

 

 矢崎総理が、日米同盟のパートナーに対して少しだけ申し訳なさそうに言った。

 

「ヘイズ大統領には、本当に……申し訳ないですね」

 

 すると日下部が、非常に爽やかな、今日の会議で一番の良い笑顔で即答した。

 

「申し分ないですね」

 

「……今、申し訳ないじゃなくて、申し分ないって言いました?」

 工藤が、耳を疑うように突っ込む。

 

「はい」

 日下部は全く悪びれずに肯定した。

「アメリカ政府が前面に立って盾になってくれるおかげで、日本政府の胃が直接圧迫されずに済んでいます。非常に快適です」

 

「日下部さん、顔に出ていますよ」

 矢崎総理が、苦言を呈しつつも笑いを堪えきれない。

 

「久しぶりに、私の胃痛の三割ほどを、アメリカへ立派に『輸出』できましたからね」

 日下部は、満足げに手元の資料を整えた。

 

「胃痛の国際分担……」

 工藤が、恐ろしい外交用語を耳にしたかのように震えた。

 

 ◇

 

「とはいえ、我々もただ隠れているわけにはいきません」

 矢崎総理が、表情を引き締めて工藤の方を向いた。

「アメリカが次便のスケジュールを組むにしても、我々の出す『技術的許可』がなければ船は飛びません。工藤さん、技術的には、次の火星便をすぐに出しても問題はないのですね?」

 

 工藤は、手元の端末を取り出し、アンノウン由来技術の稼働データを空間にホログラムで展開した。

 

 小型核融合炉。

 秒速一五〇キロ級推進系。

 慣性ダンパー。

 居住区内人工重力維持モジュール。

 多層位相吸収式・宇宙放射線遮蔽フィルム。

 閉鎖循環型生命維持装置。

 

「そうですね。ヤタガラス経由で送られてきているデータを見る限り、地球側で提供したテクノロジーはすべて、設計通りの数値を維持して正常稼働しています。……オールグリーンです」

 

「“オールグリーン”という言葉が、これほどありがたいとは思いませんでした」

 日下部が、珍しく素直に安堵の息を吐く。

 

「ただし」

 工藤が、すかさず言葉を継いだ。

「あくまで『技術的なシステムとしては』、です」

 

「と、いいますと?」

 総理が問う。

 

「機械が動くことと、それを現場で回すことは別です。……人を増やすなら、それに合わせて生命維持の負荷も増えるし、フィルターの交換頻度も上がる。人員の選抜、貨物の優先順位、現地の居住区の受け入れキャパシティ、そして何より、現場にいる瀬尾さんたち六人の『作業負荷』がどれだけ増えるか。そこは、技術データだけじゃ測れません」

 

 日下部が、工藤のその言葉を聞いて、目を細め、深く感心したように頷いた。

 

「……素晴らしい。工藤さんが、『技術のスペック』と『現場の運用』を明確に分けて語ってくれるようになったのは、我々政府にとって大変助かります」

 

「最近、日下部さんたちに怒られ続けて、ようやく覚えましたからね」

 工藤が、少し照れくさそうに頭を掻く。

 

「では、日本政府としては、技術的な審査はクリアしているとして、アメリカ政府に『次便許可』を出す方向でよいですね?」

 矢崎総理が確認する。

 

「はい。技術審査上は問題ありません」

 日下部が答える。

「ただし、次便の『性格』については、事前にアメリカ側と明確に合意しておくべきです」

 

「性格、ですか?」

 工藤が首を傾げる。

 

「ええ」

 日下部は、ホワイトボードにマーカーで書き出した。

「第二陣として新たな『人』を乗せるのか。

 それとも、純粋な『補給物資便』とするのか。

 予備部品と医療物資を優先するのか。新たな研究装置を積むのか。

 各国の政治的な要求を反映した『政治枠』を入れるのか。……そこを曖昧にしたままGOサインを出せば、アメリカとの次の調整会議が地獄になります」

 

「最初の次便は、人員追加ではなく、貨物、予備部品、そして緊急時の医療物資を優先すべきでしょうね」

 矢崎総理が、極めて現実的な判断を下す。

 

「同感です」

 日下部も強く支持した。

「無計画に人を増やせば、それはコロニーではなくただの遭難者の集まりになります。人を増やす前に、赤い家の『運用余力』を確実に増やすべきです」

 

「火星でも、やっぱりロマンより先に『予備部品』なんですね」

 工藤が、少しだけ苦笑する。

 

「どこへ行っても同じです」

 日下部が、冷徹に言い切った。

「夢を語るより先に、まずは生命維持装置のフィルターを確保しなければ、夢を見る前に窒息して終わります」

 

 ◇

 

 次便の技術的許可の方向性が見えたところで、日下部が手元の資料をめくり、今日最も重い議題へと歩を進めた。

 

「そうなると、次はいよいよ……国連での『火星居住地問題』を本格的に処理しなければなりません」

 

 会議室の空気が、ズン、と物理的な重さを持って沈み込んだ。

 

「国連、ですか……」

 矢崎総理が、渋い顔をして呟く。

 

「火星居住地問題って、具体的には国連で何を話すんですか?」

 工藤が、純粋な疑問を口にする。

 

 日下部が、ホワイトボードにズラリと項目を書き出していった。

 

 ・火星長期滞在実証拠点の最終的な『管理主体』の決定

 ・火星における国家の領有権主張の完全禁止条約

 ・第二陣以降の国際参加枠の配分ルール

 ・火星資源の採取権および研究権の帰属

 ・火星居住者の法的地位と、万が一の『火星出生者』の国籍問題

 ・事故発生時の各国の責任分担

 ・遭難時の国際的な救助義務プロトコル

 ・科学データの共有範囲と帰属

 ・民間企業(SpaceX等)の参入条件と規制

 ・軍事利用の完全禁止と査察権

 ・拠点に組み込まれた『アンノウン由来技術』の不可侵性の維持

 ・国連による監視枠の有無

 

「……うわぁ」

 工藤は、そのリストを見ただけで、露骨に嫌そうな顔をした。

「文字の羅列を見ただけで、面倒くささが伝わってきますね」

 

「はい。極めて面倒くさいです」

 日下部が、無表情のまま即答する。

「ですが、これを今、面倒だからと放置すれば……数ヶ月後、火星は各国の利権と軍事的な野心が衝突する、最も血生臭く、もっと面倒くさい戦場になります」

 

「火星にはまだ、たった六人の人間しかいないというのに……」

 矢崎総理が、深い溜め息を吐いた。

「地球ではもう、火星の利権を巡る醜い椅子取りゲームが始まっているわけですね」

 

「すでに始まっています」

 外務省の幹部が、冷酷な現実を告げる。

 

「早いですね、相変わらず」

 工藤が呆れる。

 

「人類は、未知への挑戦や科学的な理解には膨大な時間をかけますが……『権益争い』においてだけは、光の速さで動く生き物ですからね」

 日下部が、人類の業の深さを皮肉った。

 

 ◇

 

「——その国連での覇権争いに関連して」

 

 矢崎総理が、声のトーンを落とし、円卓の全員を静かに見回した。

「この前の、ワシントンでの火星出発前レセプションの席で……ロシアのボグダノフ大統領が、私に直接、一つの提案を持ちかけてきました」

 

 総理は、少しだけ間を置き、その爆弾を投下した。

 

「ロシアとして、日本の国連安全保障理事会・常任理事国入りを、正式に推薦・支持したい、と」

 

 会議室の空気が、一瞬にして凍りつき、そして完全に静止した。

 

「……」

 日下部も、その情報は事前に耳にしていたはずだが、改めて公式の議題として出されたことに、小さく息を呑んだ。

 

「……今ここで、それを正式な議題にするということは。総理、受ける方向で調整するということですか?」

 日下部が、慎重に問う。

 

「ええ。決して、悪くない取引です」

 矢崎総理は、冷徹な外交官の顔で答えた。

 

 工藤が、首を傾げて尋ねる。

「あの、すいません。常任理事国って、そんなに簡単に『増やそうぜ』って言って増やせるもんなんですか?」

 

「簡単ではありません」

 日下部が、工藤に向けて解説する。

「日本にとっては、戦後何十年もかけて追い求めてきた長年の悲願です。国連改革、安保理改革……その中心にある最大のテーマの一つでした」

 

 外務省幹部が引き継ぐ。

「これまで日本は、経済規模の大きさ、国連分担金の多さ、国際社会への貢献実績、そして安全保障上の責任などを理由に、幾度となく常任理事国入りを求めてきました。……ですが、既存の常任理事国(P5)の複雑な利害対立、地域バランス、そして何より『拒否権』という絶対権力の希釈化を恐れる思惑に阻まれ、進展は常に限定的でした」

 

「それを、あのロシアが推薦するって……相当すごいことなんですか?」

 工藤が、事の重大さを測りかねて聞く。

 

「すごいどころの話ではありません」

 日下部が、眼鏡のブリッジを押し上げながら答える。

「ロシアが、日本の常任理事国入りを『表舞台で公式に支持する』と動けば、それは世界の外交地図の前提が根底から書き換わることを意味します」

 

 矢崎総理が、ボグダノフ大統領の意図を紐解く。

 

「ボグダノフ大統領は、私にこう言いました。

『日本は、フルダイブ技術の開発からロシアを完全に閉め出すことはしなかった。火星居住地の第一陣枠からも、ロシアを閉め出さなかった。ならばロシアとしても、日本に対して最大限の友好的な交渉材料を示す用意がある』と」

 

「……誠意、なんですかね?」

 工藤が、ロシア大統領の行動を純粋に解釈しようとする。

 

「誠意であり、極めて計算高い取引であり、そしてアメリカへの牽制です」

 日下部が、一刀両断にする。

 

「ロシアは、日本へ特大の恩を売りたいのです」

 矢崎総理が続ける。

「同時に、日本がアメリカ一辺倒の完全な従属国になることを避け、自分たちとの独自のパイプを維持させたい。そして何より……これから国連で決まるであろう『火星とフルダイブの新しい国際秩序』のルール作りのテーブルに、自国の強固な席を確実に確保しておきたい。そういうことです」

 

「なるほど。めちゃくちゃ分かりやすいですね」

 工藤が納得する。

 

「ええ。見返りが明確で分かりやすい取引は、外交においては非常にありがたい部類に入ります」

 日下部も、ロシアの冷徹な合理主義を評価した。

 

 ◇

 

「……ついに、常任理事国ですか」

 

 日下部が、手元の資料を見つめながら、珍しく深い感慨を漏らした。

 普段ならどんな特大ニュースでも即座に実務のリスク評価に移る彼が、一拍だけ黙り込んだのだ。

 

「ええ。日本国の悲願と言ってもいいでしょう」

 矢崎総理が、重々しく頷く。

 

「ただし、手放しで喜べる話ではありません。国内の世論は確実に割れるでしょうね」

 官房長官が、政治的な火種を懸念する。

「拒否権を既存国と同等に持つのか、持たないのか。国連軍やPKOにおける軍事的な責任分担はどうするのか。常任理事国として、どこまで世界の紛争や安全保障に『血を流す責任』を負うのか。……激しい議論になります」

 

「しかも今回は、従来の核兵器や領土問題を巡る安保理改革だけではありません」

 外務省幹部が補足する。

「火星居住地、フルダイブ技術、そして何より『アンノウン由来技術』という、人類がかつて経験したことのない新しい次元の管理対象が絡んできます」

 

「今後、国連は間違いなく、火星とフルダイブの利権を巡る主戦場になります」

 日下部が、冷徹な視点で未来を予測する。

「その際、日本が常任理事国として『中枢の決定権』を持っていることは、決して悪くありません。むしろ……外野にいて文句を言うだけの立場でいる方が、はるかに危険です」

 

「外から『アレはダメだ』って文句を言われるより、中で『こういうルールにしようぜ』って作る側にいた方がいいってことですね?」

 工藤が、直感的に本質を突く。

 

「はい。その通りです」

 日下部が頷く。

「そして現実問題として、日本はすでに火星の生命維持システムと、フルダイブのクラウド管理という、次世代インフラのルール形成に最も深く関わっています。……常任理事国という政治的な『肩書き』が、後から我々の実力に追いついてきた、という形ですね」

 

「責任が、さらに巨大に増えるということでもありますが」

 矢崎総理が、覚悟を込めて言う。

 

「すでに、日本の責任は宇宙規模にまで膨れ上がっています。これ以上増えようが、実務上の負担は変わりませんよ。肩書きだけが追いついていない状態だったのですから」

 日下部が、半ば自暴自棄のように吐き捨てた。

 

 ◇

 

「では、この提案に対する各国の『票読み』を確認しましょう」

 日下部が、現実的な外交シミュレーションへと進む。

 

「まず、アメリカの反応は?」

 

「すでに、レセプションの裏でヘイズ大統領と話をしています。彼女も、アメリカとして全面的に推薦・支持すると明言してくれました」

 矢崎総理が答える。

 

「アメリカは当然ですね」

 日下部が頷く。

「日本を正式に国際秩序の中核(常任理事国)に引き上げることで、日本が管理するアンノウン技術を、アメリカ主導の既存の国際制度の中に安全に接続・固定化できる。しかも、最大の障壁であるロシアが先に『推薦する』と言い出したのですから、アメリカがそれに反対して泥をかぶる理由はどこにもありません」

 

「むしろ、ここでアメリカが乗らないと、日本がロシア側に傾くリスクがあるから、絶対に乗るしかないってことですか?」

 工藤が言う。

 

「その通りです」

 日下部が肯定する。

 

「次に、中国ですが……」

 矢崎総理が、少し言葉を選ぶ。

 

「中国は、我々が握っている『オリジナル医療用キット』と『火星の建設参加枠』という強烈なカードによって、かなり骨抜きにされています」

 日下部が、冷酷な事実を述べる。

「中国が日本の常任理事国入りを心から喜ぶとは到底思えませんが……ここで反対して拒否権を行使し、日本を激怒させて人工臓器、医療キット、火星参加枠、フルダイブの開発調整で決定的に不利になることを、今の彼らが望むとは思えません」

 

「彼らも、劉天宇氏を火星の第一陣に送り込んでいますからね」

 外務省幹部が補足する。

「彼ら自身も、これから作られる『火星の秩序』から外れることは絶対に避けたいはずです」

 

「医療用キットの力、強すぎません?」

 工藤が、自分の作ったアイテムの政治的破壊力に引いている。

 

「人間は、自らの健康と寿命の限界には、絶対に勝てない生き物ですからね」

 日下部が、身も蓋もない真理を突いた。

 

「次に、イギリスです」

 矢崎総理が続ける。

「イギリスとは、すでに人工臓器の治験枠や、『バンドエイドMK3』の限定的な軍事医療連携で、水面下で深く動いています。彼らの賛成は確実にとれるでしょう」

 

「英国は、むしろ日本を正式な常任理事国にして、『米・英・日』の強固なラインを国連の制度として固定化したいはずです」

 日下部が分析する。

 

「じゃあ、これでアメリカ、ロシア、中国(消極的黙認)、イギリスの四カ国。……かなりいけるんじゃないですか?」

 工藤が、楽天的な声を上げた。

 

 だが、日下部の顔は、険しいままだった。

 

「残りがあります」

 

「……フランス?」

 工藤が首を傾げる。

 

「はい。フランスです」

 

 ◇

 

 会議室の空気が、スッと冷え、一段と重くなった。

 

 工藤が、素朴な疑問を口にする。

「フランスって、13m級核融合炉でITER施設を貸してくれて、ガッツリ連携してるじゃないですか。普通にいけるのでは?」

 

「工藤さん。フランス外交は、そう甘くはありません」

 日下部が、忌々しげに言う。

 

「え、仲悪いんですか?」

 

「仲が悪いわけではありません」

 外務省幹部が、苦笑しながら訂正する。

「むしろ、核融合炉の実証や医療技術、欧州における連携においては、極めて良好な協力関係にあります」

 

「ですが、常任理事国入りとなれば、話は全くの別次元です」

 日下部が、冷徹な外交の力学を解説する。

「フランスにとって、今のこの瞬間こそが、自国が持っている『賛成票(拒否権を行使しないこと)』という外交カードの価値が、歴史上最も高く跳ね上がる瞬間なのです。

 彼らが、何も要求せずに『はい、賛成しますよ』と無条件で素直にサインすると思う方が、どうかしています」

 

「……」

 矢崎総理も、険しい顔で同意する。

「フランスは、欧州の中で常に独自の核戦力を持ち、独自外交を展開し、独自の国際的地位を何よりも重視してきた国です。彼らが日本の常任理事国入りを支持し、国際社会のパワーバランスの変更を認めるならば……それに見合うだけの、強烈な『何か(見返り)』を必ず求めてくるでしょう」

 

「何を要求してくるんですか?」

 工藤が問う。

 

「それが、まだ分からないから不気味なのです」

 日下部が、ため息をつく。

 

 外務省幹部が、想定される要求のリストをホワイトボードに書き出していく。

 

『欧州向けフルダイブ管理センターの、フランス国内への設置権』

『フランス国内への、次世代核融合実証炉の優先導入確約』

『医療用キットの、フランスへの供給枠の拡大』

『火星の第二陣、または第三陣へのフランス人枠の絶対確保』

『ESA(欧州宇宙機関)内における、フランス主導権の担保』

『フランス語圏アフリカ諸国への、アンノウン技術支援枠の優先確保』

『国連火星管理機関の本部を、パリへ誘致すること』

『文化・教育フルダイブ分野での、フランス優遇の優先協定』

『“軍事転用防止”という大義名分での、アンノウン技術に対する技術監査権の要求』

『アンノウン機関との、直接協議窓口の設置要求』

 

「うわぁ……多い」

 工藤が、ズラリと並んだ強欲な要求のリストを見てドン引きする。

 

「フランスは、芸術と料理と、そして『外交』の国です」

 日下部が、彼らの恐るべきしたたかさを語る。

「そして外交とは、商売です。彼らは、自分の持っている札が一番高く売れる瞬間を、絶対に逃しません」

 

「だからこそ、こちらも丸腰で交渉に臨むわけにはいきませんね」

 矢崎総理が、決意を込めて言った。

 

 ◇

 

「では、フランスに対して『渡せるカード』と『絶対に渡せないカード』の分類を、今のうちに明確にしておきましょう」

 日下部が、ホワイトボードを三つの領域に区切った。

 

【渡せるもの(交渉カード)】

 ・フランス国内への、核融合炉連携のさらなる拡大。

 ・医療技術の、共同治験枠の増設。

 ・フランス語圏向けの医療支援プログラムへの協力。

 ・文化・教育フルダイブ分野での、共同事業の立ち上げ。

 ・ESAの科学枠への、日本からの追加協力。

 ・火星の科学データの、フランス側への優先共有枠。

 ・国連における火星居住地ルール作りでの、共同提案国としての連携。

 ・フランス語圏教育向けの、フルダイブ教材の共同開発。

 

【渡せないもの(絶対拒否領域)】

 ・アンノウン本人(工藤氏)への直接接触権。

 ・アンノウン機関中枢への、常設監査権の付与。

 ・ヤタガラス関連のあらゆる情報。

 ・火星基幹安全モジュールの、分解・解析権。

 ・フルダイブ中枢クラウドの、フランスローカルでの管理権。

 ・軍事利用に直結する可能性のある技術情報の開示。

 ・医療用キットの無制限、または不透明な供給。

 

【渡すと危険なもの(グレーゾーン)】

 ・火星第二陣への、純粋な政治枠(役割なき)としてのフランス人のねじ込み。

 ・フルダイブ規制における、フランスだけの例外扱い。

 ・医療用キットの、フランス影響圏への地域偏重供給。

 ・国連火星管理機関を、フランス単独主導にすること。

 ・欧州内において、フランスだけを過剰に優遇し、ドイツ等との摩擦を日本が被ること。

 ・“技術監査権”という名目を借りた、アンノウン中枢への接近権。

 

 工藤が、リストの『渡せないもの』の一番上を見て、素朴に尋ねた。

 

「あの、アンノウン本人への直接接触権って……そんなにダメなんですか? 別に俺、会って挨拶するくらいなら別にいいですけど」

 

 日下部が、無言で、氷のような目で工藤を見た。

 

「……すみません。ちょっと聞いてみただけです」

 工藤は、慌てて視線をそらした。

 

「工藤さん。あなたがうっかり、ワインでも飲みながら『いいですよ』と一言言うだけで、我々の三年分の外交努力が、文字通り音を立てて爆散します」

 日下部が、低い声で威圧する。

 

「三年分……」

 

「あるいは、それ以上の損害かもしれませんね」

 矢崎総理も、真顔で追撃する。

 

「気をつけます。絶対に会いません」

 工藤は、首をすっぽんのようにすくめた。

 

「お願いします。本当に、心からお願いします」

 日下部は、疲労困憊の声で懇願した。

 

 ◇

 

 重苦しい外交のシミュレーションが一段落し、会議室に少しだけ息を抜く空気が流れた。

 工藤が、手元の端末で火星第一陣から送られてきた生活ログを眺めながら、ふと口を開いた。

 

「それにしても……火星で彼らが最初に食べたのが、温めただけの保存食(レトルト)だったって、なんかすごく良いですね」

 

「……良いんですか?」

 日下部が、怪訝そうに聞き返す。

 

「良いですよ」

 工藤は、画面の向こうの赤い星を想像するように微笑んだ。

「だって、あの火星の地表で、人間が『普通にご飯を食べている』って、めちゃくちゃ凄いことじゃないですか?」

 

「テラ・ノヴァという異星で普通に工場を建てて生活している人が言うと、何とも不思議な説得力がありますね」

 日下部が、呆れたように、しかし少しだけ毒を抜かれたように言う。

 

「いや、テラ・ノヴァはもう俺にとっては『自分の生活圏(職場)』になっちゃってるんで」

 工藤は笑う。

「でも、火星は違いますよ。あれは、地球人としての純粋なロマンです」

 

「工藤さんにとっても、火星は特別なのですね」

 矢崎総理が、少し驚いたように工藤を見つめる。

 

「はい。異星のゲートの向こうで暮らすのと、子供の頃からずっと望遠鏡で見ていたあの赤い星に、ついに人間が住み始めるのとでは、違う種類の感動があります」

 

 一瞬だけ、会議室が穏やかな、未来への希望に満ちた空気に包まれた。

 

 だが、日下部がすかさず現実の冷水を浴びせた。

 

「その感動の直後に申し訳ありませんが、工藤さん」

 日下部は、手元の分厚いファイルをトントンと叩いた。

「火星の第二便の編成、国連の火星管理委員会の立ち上げ、常任理事国問題の根回し、フランスとの泥沼の交渉、視力回復薬の治験設計、そしてアメリカ患者受け入れの第二波対応が、すべて現在、同時進行しています」

 

「……一気に現実が来ましたね」

 工藤が、ロマンをへし折られて苦笑する。

 

「我々の日常です」

 日下部が淡々と返す。

 

「火星の人たち、今ごろ寝てるんですよね?」

 工藤が、JAXAの連絡官に尋ねる。

 

「はい。第一夜は、日本の瀬尾さんとロシアのアナスタシアさんが監視当番に就き、他の四名は睡眠スケジュールに入っています」

 連絡官が報告する。

 

「なんか、そっちの方がよっぽど健康的で健全ですね」

 工藤が、徹夜明けの閣僚たちを見回して言う。

 

「ええ。死の星である火星の環境の方が、今の官邸の執務室よりはるかに健全かもしれません」

 日下部が、真顔で同意する。

 

「否定できないのが困りますね」

 矢崎総理も、思わず笑ってしまった。

 

 ◇

 

「では、本日の会議をまとめます」

 矢崎総理が、表情を引き締め、最終的な方針を宣言した。

 

「方針は五つ。

 

 一、次の火星便は『技術許可』を出す。

 ただし、最初の次便は人員の追加ではなく、補給、予備部品、医療物資を絶対優先とします。火星側のエリックや瀬尾たちの現場の意見を尊重し、居住地の負荷評価が終わるまでは、安易な第二陣の送り込みは許可しません。

 ……人を増やす前に、火星で暮らしている六人を支える。ここを誤ってはいけません」

 

「はい。夢より先に、まずは補給です」

 日下部が強く同意する。

 

「二、国連の火星議題に備える。

 火星の国家領有禁止、長期滞在拠点の国際共同管理、軍事利用禁止など、日本独自の法案モデルを準備してください。

 

 三、ロシアからの『常任理事国入り推薦』は、受ける方向で進める。

 ただし、日本がロシア寄りに傾倒したと見られないよう、アメリカ、イギリスと完全に足並みを揃えて対応します。

 

 四、アメリカ、イギリス、中国の支持を固める。

 アメリカとはヘイズ大統領と共同歩調を取り、イギリスとは既存の医療連携を使って支持表明を早めさせる。中国には、医療・火星参加・フルダイブ枠をカードにして、拒否権の行使を回避させます」

 

 総理は、そこで一息つき、声のトーンを一段階重くした。

 

「五、そして……フランス交渉の準備です」

 

「フランスが何を求めてくるか、現時点では読めません。ですが、必ず何かを要求してきます」

 日下部が、警戒心を最高に高めて言う。

 

「彼らは、日本の常任理事国入りという歴史的局面において、自国の票の価値が最も高まる瞬間を狙い澄ましています」

 外務省幹部も、厳しい顔で予測する。

 

「つまり、まだ何も始まってないけど、すでに面倒くさいってことですね?」

 工藤が身も蓋もない要約をする。

 

「はい。……それが外交です」

 日下部が、重々しく答えた。

 

「フランスとの会談は、急ぎません」

 矢崎総理は、冷静に策を練る。

「こちらの準備が整うまで、火星成功への祝意と、一般的な協力姿勢の表明に留めてください。彼らに先手を取らせないよう、交渉カードの精査を徹底してください」

 

「了解しました」

 日下部が頷く。

「フランス交渉のための特別チームを編成します。外務省、経産省、科学技術担当、アンノウン対応チームから精鋭を選抜。……ただし、アンノウン中枢、ヤタガラス、火星基幹安全モジュールの解析権は、交渉のテーブルにすら乗せない『対象外』として明確にブロックします」

 

「火星一日目が成功しただけなのに、もう国連と常任理事国とフランスとの駆け引きなんですね」

 工藤が、スケールの拡大の早さにため息をつく。

 

「成功したからです」

 日下部が、冷徹な真理を突いた。

「失敗していれば、我々は今頃、事故対応と責任のなすりつけ合いに追われていました。成功したからこそ、権益の調整という名の戦争が始まるのです」

 

「火星では、六人が人工の空気の中で眠ろうとしている」

 矢崎総理が、モニターの赤い星を見つめながら静かに言った。

「……地球では、その小さな居住地を巡って、国連の巨大な歯車が動き出している」

 

 会議室に、深い沈黙が落ちた。

 

 日下部が、最後に手元の端末を確認し、会議の終了を告げた。

 

「ジャミングは継続します。

 ……次の戦場は、国連です」

 

「火星より遠そうですね」

 工藤が、ポツリと呟く。

 

「少なくとも、外交的には火星より遠いです」

 日下部は、資料の束をパタンと閉じた。

「そして、一番遠いのは……たぶん、パリです」

 

 ◇

 

 火星居住地の一日目は、無事に終わった。

 六人の人間は、アンノウンの技術に守られた赤い家の中で、息を吸い、飯を食べ、交代で眠る準備をしている。

 

 だが地球では、その赤い星に生まれた小さな拠点を巡って、安保理、常任理事国、国連改革、火星管理条約という、途方もなく巨大な政治の歯車が回り始めていた。

 

 ロシアは、老獪な笑顔で手を差し出した。

 アメリカは、覇権を維持するために頷いた。

 イギリスは、実利を得るために乗るだろう。

 中国は、喉から手が出るほど欲しい技術のために拒みにくい。

 

 そして、芸術と外交の国・フランスだけが、まだ不気味な沈黙を保っている。

 

 ジャミングオン。

 火星の次は、国連である。

 日本の官僚たちの胃を削る戦いは、宇宙へ舞台を広げても、決して終わることはない。




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