自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの大統領執務室(オーバルオフィス)は、早朝の爽やかな陽光に包まれていた。だが、室内の空気は昨晩の祝賀ムードとは完全に一変し、息苦しいほどの密度を持っていた。
火星軌道到達、そして第一陣六名による『火星長期滞在実証拠点(赤い家)』への入室成功。
人類史における金字塔が打ち立てられたことで、世界中は今、歴史的な歓喜と興奮の嵐の中にいる。アメリカ国内においても、ミッションの表の主導国であるキャサリン・ヘイズ大統領の支持率は、一晩にして空前の数字へと跳ね上がっていた。
しかし、大統領の顔に喜びの色はない。
ヘイズは、レゾリュート・デスクの上に山積みになった分厚いファイルと、ひっきりなしに明滅する情報端末の通知を睨みつけ、深く、そして極めて不機嫌な声で呟いた。
「……面倒くさいわね」
ソファに深く腰掛けていたタイタン・グループ総帥のノア・マクドウェルが、優雅にコーヒーカップを傾けながら笑った。
「大統領。支持率は記録的に上がっていますよ。再選に向けて、これ以上ない追い風です」
「支持率で、火星行きの座席は増えないわ」
ヘイズが、冷たい視線でノアを射抜く。
「問い合わせの件数は、昨日の夜からさらに指数関数的に増大しています」
CIA長官のエレノア・バーンズが、一切の感情を排した能面のような顔で報告する。
「各国の首脳、国連事務総長、巨大多国籍企業、大富豪、そしてメディアから。すべての要求が、一点に集中しています」
「せめて金を出してから話をしなさいよ……」
ヘイズは、額を押さえて呻いた。
◇
エレノアが、手元のタブレットを操作し、殺到している要求のリストを空中に投影した。
「現在、我々アメリカ政府に寄せられている要求を、大きく五つに分類しました」
【一、各国政府からの外交要求】
・第二陣に自国の宇宙飛行士を確実に入れたい。
・火星居住地に『国連枠』あるいは『地域代表枠』を設けたい。
・自国の研究者を優先的に送りたい。
・火星拠点に自国の国旗を掲げたい。
・将来の火星居住権および資源採掘権の『先行確約』を要求。
【二、国際機関・国連関係からの政治的要求】
・国連による『火星監視団』を現地へ派遣したい。
・『国連火星居住地管理委員会』を新設し、アメリカから主導権を移譲すべき。
・火星は人類の共有財産であり、米日による独占は国際法違反であるとの懸念。
・次便には『公平な国際参加枠』の確保を要求。
【三、民間企業からのビジネス参入要求】
・火星に自社の研究機材を無償で送りたい。
・火星拠点の壁面に企業の『広告権』を買いたい。
・火星通信インフラおよび宇宙建設事業として、ただちに参入したい。
・大手食品会社が「火星での最初の食事」の公式スポンサーになりたい。
【四、富豪・投資家からの資金提示】
・一人十億ドル出すから、次の便で火星旅行をさせろ。
・着陸しなくていいから、火星周回ツアーだけでも企画しろ。
・火星居住モジュールの追加建設費を全額出すから、自分の名前を施設につけろ。
・レオナード・グレイの火星事業へ直接出資するための窓口をよこせ。
【五、宗教・文化・メディアからの特別な要求】
・火星で祈りを捧げたい。人類初の火星礼拝を行いたい。
・火星生活のドキュメンタリーを独占撮影したい。次便に必ず記者を同行させろ。
・火星からライブ配信を行う権利をよこせ。
「……国連枠、宗教枠、メディア枠、富豪枠……」
ヘイズ大統領は、呆れ果てて息を吐き出した。
「火星は豪華客船じゃないのよ」
「今のところ、世界中がそう勘違いしていますね」
ノアが肩をすくめる。
「五日で火星に着いてしまったという事実が、彼らの距離感と危機感を完全に麻痺させてしまったのです」
「火星のあの『赤い家』は、六人の人間が死に物狂いでチェックリストを埋めて、ようやく息をして寝たばかりの、極めて脆弱な実験拠点よ」
ヘイズは、強い語気で言い放った。
「観光地でも、国連のツアー会場でも、企業の展示会場でもないわ」
「その冷酷な現実(認識)を、公式に、かつ決定的な形で世界へ示す必要があります」
エレノアが、実務のトップとして進言する。
「曖昧な態度をとれば、彼らは『交渉次第で席が取れる』と勘違いし、圧力をさらに強めてきます」
◇
商務長官が、少しだけ前向きな提案を口にした。
「大統領。各国政府や国連の無茶な要求はともかく……富豪や企業からの資金提供の提案は、一考の余地があるのではないでしょうか」
「金、ね」
ヘイズが、冷たい目で資料を見る。
「はい。火星周回旅行に一人十億ドル、居住モジュール追加建設費の全額負担、研究資金の全額拠出……。彼らの提示している金額は、NASAの年間予算を軽く凌駕する規模になり得ます」
商務長官が、数字の持つ力に押されながら言う。
ヘイズは、少しだけ表情を緩めた。
「まだ、金を出すから火星旅行をしたいと言っている強欲な富豪の方が、よっぽど好感を持てるわ」
ノアが、意外そうに目を瞬かせた。
「それは意外ですね。大統領は、金持ちのワガママが一番お嫌いかと思っていました」
「少なくとも彼らは、自分が『特権を買いたいだけだ』と隠していないわ」
ヘイズは、冷笑を浮かべる。
「それに、SpaceXは民間企業でしょう? 利益追求は当たり前よ。彼らが火星への初期投資を回収しようとするのを、政府が完全に否定するのは間違っているわ」
「まあ、宇宙開発に民間資本の爆発力を入れるなら、そういう剥き出しの欲望も、強力な燃料になりますからねぇ」
ノアが、資本主義の真理を語る。
「ええ。欲望は嫌いじゃないわ。制御できるなら、ね」
ヘイズの目が、再び険しくなった。
「問題は、“人類共有の利益”とか“公平性”とか“国際貢献”とか、綺麗な言葉ばかりを並べ立てて……金も、物資も、責任も一切出さずに、ただの『座席』だけを要求してくる連中よ」
「国連枠、ですね」
エレノアが、大統領の怒りの矛先を正確に言語化する。
「舐めてるわね」
ヘイズの瞳が、絶対零度に冷えた。
◇
国務長官が、国連関連の要望をまとめた資料を慎重に提示する。
「国連事務局、および一部の加盟国、国際委員会からの公式な見解です」
国務長官が読み上げる。
「『火星は人類共通の財産であり、特定の国家や企業による独占は許されない。したがって、火星居住地には国連監視団の派遣が必須であり、第二陣には国連が推薦する公平な国際枠を設けるべきである』と」
ヘイズは、椅子に深く背中を預け、冷ややかに言った。
「言っていること自体は間違っていないわ。私も、火星をアメリカや日本だけの植民地にするつもりはないもの」
「しかし?」
ノアが促す。
「でも、いまあの『赤い家』で六人の命を維持しているのは、NASAとJAXAと各国宇宙機関の現場であり、レオナードのSpaceXであり、そして何より、日本から提供されたアンノウン技術よ」
「国連は、まだ火星に何も運んでいませんね」
ノアが、皮肉っぽく微笑む。
「そう。空気も、水も、放射線防護のフィルターも、医療物資も、予備部品も、二十四時間体制の管制シフトも、緊急対応チームの待機も。……彼らは何も出していないわ」
ヘイズは、デスクをトンと叩いた。
「何も出していない段階で、“我々は人類の代表だから、公平な座席を寄越せ”は通らないわ」
「ですが、国連そのものを完全に敵に回すわけにはいきません」
エレノアが、外交的なバランスを指摘する。
「表向きには、国際協調のポーズを保つ必要があります」
「分かっているわ。だから言い方は選ぶ」
ヘイズは、外交手腕に自信を見せた。
「でも、基本線は絶対に変えない。……無償で恩恵に預かることだけを望む輩(やから)の要求は、すべて突っぱねるわ」
「輩」
ノアが、大統領の口から出た直接的な単語に吹き出す。
「輩よ」
ヘイズは真顔で言い切った。
◇
「……とはいえ」
ヘイズは、一度深く息を吸い込み、自分たちの立ち位置を冷静に再確認した。
「正直に言えば、我が国が大きい顔をしすぎるのも、非常に危ういわね」
その言葉に、同席していた国防総省の担当者が少し不満そうに身じろぎした。
アメリカは表向き、今回の火星ミッションの完全な主導国である。NASAが計画を統括し、エリック・ヘイルがミッションコマンダーを務め、船を飛ばしたのはアメリカの民間企業だ。アメリカが主導権を握って何が悪いのか、というのが軍の一般的な感覚だ。
ヘイズは、その不満を察して、彼らを鋭く見据えた。
「勘違いしないで。もちろん、NASAの血の滲むような努力も、エリックたちの命懸けの訓練も、レオナードの会社の圧倒的な開発力も、すべて本物よ。それを誇りに思う気持ちは私にもある」
ヘイズは言葉を区切り、現実を突きつけた。
「でも、我々が今、火星へ行けているのは、アンノウンの恩恵のおかげでもあるのよ」
誰も、反論できなかった。
「五日で火星へ行ける超高速推進系。
それを動かす小型核融合炉。
致死的な加速を殺す慣性ダンパー。
火星居住地の人工重力。
放射線遮蔽フィルム。
閉鎖循環型の生命維持装置。
……これらがなければ、今回の火星ミッションは絶対に成立していなかった。根本の扉を開けたのは、日本側よ。そこを忘れて傲慢に振る舞えば、我々はただの『勘違いした覇権国』になるわ」
「ですが、大統領」
ノアが、静かに日本の意図を代弁する。
「日本は、アメリカが表の主導権を握ることを望んでいます。彼らは、世界中からの問い合わせやクレームの津波を、アメリカに被ってもらいたがっているのです」
「ええ。だからそうするわ」
ヘイズは、少しだけ自嘲気味に笑い、資料を閉じた。
「日本が、アメリカに仕切ることを望んでいる。なら、我々は表に立って堂々と仕切る。……ただし、それは世界中に座席を配るだけの『お人好しな係』ではないわ」
ヘイズの瞳に、強大な国家指導者としての絶対的な光が宿る。
「我々は、秩序を作る係よ」
◇
その時、執務室のモニターに、SpaceXのCEO、レオナード・グレイからのビデオ会議の接続要請が入った。
「ちょうどいいわ。繋いでちょうだい」
ヘイズが命じると、画面にレオナードの顔が映し出された。
彼は、火星着陸の成功の熱から全く冷めておらず、今にも画面から飛び出してきそうなほどの興奮状態にあった。
『大統領! 火星は成功しました!』
レオナードが、挨拶もそこそこにまくし立てる。
『次は拡張です! 第二陣の派遣、追加の居住モジュールの投下、民間研究区画の開設、さらには限定的な火星周回ツアーの募集も——!』
「レオナード」
ヘイズは、氷のような声でその言葉を遮った。
「まず、補給よ」
『補給?』
レオナードは、不意を突かれたように言葉に詰まった。
『……もちろん補給も重要ですが、世界中の投資家が今、火星に資金を出すと言っているんです! この熱が冷める前に、次の夢を——』
「最初の次便は」
NASA長官が、レオナードの夢想を物理的な現実で叩き潰すように割り込んだ。
「予備部品、空気フィルター、医療物資、追加のセンサー群、工具、バックアップ電源、食品、そして消耗品です」
レオナードの顔が、露骨に渋くなった。
『……夢のあるリストではありませんね。投資家向けのプレゼンには全く向かない』
「火星で、その“夢”を殺さないためのリストです」
エレノアが冷徹に告げる。
「あと、トイレ関連の予備部品もあります」
ノアが、極めて現実的で泥臭い項目を付け加えた。
『……人類の火星史に残る記念すべき第二便が、トイレ部品を運ぶわけですか?』
レオナードが、本気で嫌そうに言う。
「人間の尊厳に関わる、最重要物資よ」
ヘイズが即答する。
「閉鎖環境では、本当にそうです。水再生系にも直結しますからね」
NASA長官が、経験から大真面目に同調した。
レオナードは、数秒間黙り込み……やがて、観念したように両手を上げた。
『……分かりました。
火星開拓とは、夢を乗せる前にフィルターとトイレ部品を届けることだと、投資家たちに説明しますよ』
「それが説明できるなら、あなたは本物の宇宙企業経営者よ」
ヘイズが、少しだけ口角を上げて褒めた。
◇
「では、具体的な次便の優先順位表を確認します」
NASA長官が、ホワイトボードのモニターにリストを表示した。
【最優先(必須)】
・生命維持装置の交換用フィルター
・水再生系の予備部品
・CO2吸収材
・医療物資、隔離キット
・食料、緊急用携行食
・工具、エアロック用シール材
・外部センサー、通信機器の予備
・廃棄物処理系の部品(トイレ含む)
【次点(余裕があれば)】
・地質調査用の追加装置
・作業用ローバーの補修部品
・居住区拡張の準備資材
・心理ケア用の娯楽物資
・追加の衣類
・文化品、手紙、家族からのメッセージデータ
【後回し(不可)】
・追加の人員(第二陣)
・政治家
・報道関係者
・宗教関係者
・観光客
・富豪
・国連監視団
・スポンサーの広告物
ヘイズは、そのリストの最後尾を一瞥し、冷たく命じた。
「一番最後の『後回し(不可)』の欄。……全部まとめて、“今ではない”にしておいて」
「表現を少し柔らかくします」
エレノアが、外交的配慮を加える。
「“将来的な検討対象”ですね」
ノアが、完璧な官僚言葉を提示する。
「便利な言葉ね。それでいいわ」
ヘイズが承認した。
◇
「大統領。では、富豪や企業からの資金提供の提案は、どのように扱いますか?」
商務長官が、巨額の資金の使い道を相談する。
「火星旅行を買いたい金持ちは、今は絶対に乗せない。でも、彼らの金を拒否する必要はないわ」
ヘイズが、したたかな方針を打ち出す。
「では、どうやって資金を?」
ノアが問う。
「『火星補給基金』を作るのよ」
ヘイズは、ニヤリと笑った。
「火星へ行きたいなら、まず今あそこにいる六人の生命維持に金を出しなさい、と世界中の富豪に呼びかけるの」
「つまり、座席の購入ではなく、補給基金への『寄付』という形にするのですね」
エレノアが確認する。
「そう。そして、寄付したからといって、座席は一切保証しない。
……ただし、将来的な民間火星プログラムの審査において、彼らの『宇宙開発への貢献実績』として評価する余地は残しておくわ」
「企業にとっては悪くないですね。CSR(企業の社会的責任)として強力なアピールになります」
商務長官が、ビジネスの落とし所を評価する。
「富豪にとっては、火星へ行くための『順番待ち券』に見えるでしょうね」
ノアが、人間の心理を突く。
「順番待ち券ではないわ」
ヘイズが冷徹に否定する。
「でも……そう見えるくらいは、構わないわね」
アメリカの資本主義的したたかさが、最高レベルで発揮された瞬間だった。
◇
「国連枠への公式回答案がまとまりました」
国務長官が、文書を提示する。
『火星長期滞在実証拠点は、現段階では極めて脆弱な初期実証施設であり、生命維持・医療・補給・安全運用が最優先である。
国連との協議は歓迎するが、第二便および初期補給便において、役割なき国連推薦枠を設ける予定はない。
将来的な国際管理枠組みについては、日本、アメリカ、参加各国、および国連加盟国と協議する』
ヘイズは一読し、小さく頷いた。
「悪くないわ。ただ、“役割なき”をもっと外交的な表現にして」
「“必要な専門性と現地運用上の必然性を伴わない”でどうでしょう」
エレノアが、即座に修正案を出す。
「長いけど、嫌味なく刺さりますね」
ノアが評価する。
「採用」
ヘイズが決定し、さらに一文を追加した。
「『火星に向かうすべての人員・物資は、現地居住者の生命維持と安全運用を最優先に判断される』。……これを、一番上に置いて」
ヘイズの目に、強い決意が宿る。
「誰も、“人類のため”なんていう綺麗事で、あの六人の空気を削らせないわ」
◇
「最後に、日本政府への連絡です」
ヘイズが、矢崎総理へ送る極秘のメッセージ案を確認する。
・火星第一陣一日目成功への祝意。
・次便は補給・予備部品・医療物資優先で調整する。
・国連枠や政治枠は現段階では認めない。
・富豪・企業資金は補給基金へ誘導する。
・国際参加枠は、現地での負荷評価が終わった後に協議する。
・日本の技術審査データと、火星側の現場意見を何より重視する。
・国連での火星管理枠組みは、日米で共同主導したい。
「カオル(矢崎総理)には、これでいいでしょう」
ヘイズは満足げに頷いた。
「大統領」
ノアが、悪戯っぽく尋ねる。
「“あなたたちが押し付けた胃痛、ちゃんとこちらで処理していますよ”とは、書かないのですか?」
「書かないわよ」
ヘイズが呆れる。
「でも、書かなくても伝わるでしょう」
「総理は、間違いなく理解されると思います」
エレノアが同意する。
「日本の日下部参事官は?」
ノアが続ける。
「笑うでしょうね」
ヘイズが、遠く離れた日本の官僚の顔を思い浮かべて言う。
「笑いますね。間違いなく」
ノアも同意する。
「腹立つわね」
ヘイズは、少しだけ口を尖らせた。
日米間の、奇妙な信頼と軽口の応酬であった。
◇
「国内向けの発表準備に入ります」
ヘイズは、アメリカ国民に向けた大統領声明の推敲を始めた。
火星への夢を潰さないようにしながら、過酷な現実を伝える必要がある。
「……人類は火星で生活を始めた。だが火星はまだ観光地ではない。
第一陣の生命維持と安全が最優先である。
次便は補給と安全運用支援を中心にする。民間資本の参加は歓迎するが、これは座席の販売ではない。
国際協力は重要だが、役割と責任を伴う必要がある。
火星は人類全体の未来だが……未来は、フィルターと水再生系の整備から始まる」
ヘイズは、最後の一文をじっと考え込んだ。
「……火星への道は開かれました。
しかし、その道を広げるために最初に送るべきものは、旗でも、観光客でもなく。……そこにいる人々を生かすための、物資です」
「良いですね」
ノアが拍手をする。
「日本の日下部さんが、泣いて喜びそうな名スピーチです」
「そこは喜ばせたくないけど、まあいいわ」
ヘイズが苦笑した。
◇
数時間後。
レオナード・グレイは、民間投資家向けに緊急の説明会を開いていた。
集まっているのは、宇宙産業ファンドの重鎮、名だたる富豪、巨大IT企業のCEO、通信企業、建設企業、そしてメディアのトップたちだ。
彼らは皆、火星という新しいフロンティアの夢に沸き立ち、熱い視線をレオナードに向けていた。
だが、レオナードの口から出た言葉は、彼らの期待を裏切るものだった。
「皆さん。火星は開かれました。
……しかし、我々が最初に売るのは、座席ではありません」
会場が、不満と疑問の声でざわつく。
「最初に必要なのは、生命維持装置のフィルターです。
水再生系の予備部品です。医療キットです。食料です。……そして、トイレ部品です」
投資家たちが、露骨に微妙な顔をした。
そんな地味なものに、数百億ドルを投じる価値があるのか。夢がない。
レオナードは、彼らの反応を見て、ニヤリと笑った。
「つまらないと思いますか? 夢がないと?
……では、あなたは火星に向いていません」
レオナードの言葉が、鋭く投資家たちを刺した。
「火星開拓とは、そういう『つまらないもの』を、絶対に切らさない事業だからです」
彼は、壇上から一歩身を乗り出した。
「火星旅行の時代は、いずれ必ず来ます。
しかし、最初の火星ビジネスは『観光』ではありません。『補給』です。
誰かが、毎月、毎週、毎日、地球から五日かけて、地味な物資を送り続ける。……その退屈で完璧な『物流(ロジスティクス)』を制した者が、火星の未来のインフラを完全に支配するのです」
投資家たちの目の色が変わった。
ただの夢物語ではなく、確実で巨大な「独占インフラ」の匂いを感じ取ったのだ。
富豪の一人が、立ち上がって尋ねた。
「つまり、座席を買うより、補給インフラに投資しろと?」
「その通りです」
レオナードは、力強く言い切った。
「火星へ行きたいなら、まず、火星にいる人間を生かす側に回ってください。
……その貢献こそが、未来の火星への一番確実なチケットになります」
会場に、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
夢の投資から、現実のインフラ投資へ。火星ビジネスの第一歩が、最も堅実な形で動き出した瞬間だった。
◇
深夜。
ホワイトハウスの大統領執務室。
ヘイズ大統領は一人残り、デスクの上の山積みの要求書を片付けていた。
ノアとエレノアも、さすがに疲労の色を見せている。
ヘイズは、ふとモニターに映る火星の映像を見た。
赤い大地に、小さな小さな灯りが点いている。
そこに、六人の人間がいるのだ。
「……でも、まあ……悪くないわね」
ヘイズが、ポツリと呟いた。
「何がです?」
ノアが尋ねる。
「世界中が、我先に火星に行きたいと大騒ぎしている。
本当に面倒くさいし、胃が痛いけど……それは、火星が本当に『始まった』証拠でもあるわ」
「次は、補給便ですね」
エレノアが、実務のスケジュールを確認する。
「ええ」
ヘイズは深く頷いた。
「夢を運ぶ前に、フィルターを運ぶ。
それが、我々の最初の仕事よ」
火星行きの座席を求める声は、依然として世界中からホワイトハウスへ押し寄せ続けていた。
だが、その夜、アメリカ政府が最初に決めたのは、「誰」を火星へ送るかではなかった。
「何を」火星へ送るか。
答えは、華やかな国旗でも、大物政治家でも、記者団でも、富豪の夢でもない。
フィルター。水再生系の予備部品。医療物資。食料。工具。
そして、トイレ部品。
人類の火星時代は、またしても、あまりにも地味な物から始まっていた。
アメリカ政府はその日、世界中からの火星旅行の申し込みをすべて断り、代わりにトイレの予備部品を積むことを決めたのである。
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