自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
東京都千代田区永田町、首相官邸。
地下五階の『特別情報分析室』は、いつものように外界から完全に切り離された絶対の静寂に包まれていた。分厚い鉛と電磁波吸収材に守られたこの空間は、今や地球上で最も密度が高く、最も多くの『人類の機密』が処理される場所となっている。
円卓を囲むのは、矢崎薫内閣総理大臣を筆頭に、官房長官、外務大臣、榛名理人科学技術担当大臣、霧島大悟防衛大臣、御堂周作経済産業大臣。
スクリーンの傍らには、内閣官房参事官の日下部と、作業着姿の工藤創一が立っている。さらに本日は、外務省の『銀河コミュニティ対応チーム』の若手幹部、アンノウン機関連絡担当、そしてJAXAの連絡官も同席していた。
日下部が、感情を排した声で端末を操作する。
「外部通信遮断。内部記録は政府管理ログへ限定。音声、映像、端末同期、すべて隔離環境へ移行。……ジャミング、オン」
ブゥン……という極低周波の駆動音が響き、室内の照明が警戒を示す薄暗い赤色へと切り替わった。
その演出に、工藤が少しだけ嬉しそうな顔をする。
「久しぶりに聞くと、やっぱりカッコいいですね。ジャミングオン」
日下部が、即座に冷や水を浴びせる。
「本日の議題は、銀河コミュニティにおける医療インフラ報告、および月面基地構想の二本立てです。格好良さよりも、胃痛への対策の方が重要になります」
「相変わらず容赦ないですね……」
工藤が肩をすくめる。
外務大臣が、手元にある分厚い資料の束を恨めしそうに見つめながら、深々と溜め息をついた。
「今回は、胃だけではなく、我が外務省の『人員』と『精神力』も激しく削られていますよ……」
矢崎総理が、苦笑交じりに口を開いた。
「では、まずその精神を削られたという、銀河コミュニティの報告からお願いします」
外務大臣は、重い腰を上げるようにして報告を始めた。
◇
「——先日、ミコラ族の母星圏近くで開かれた銀河コミュニティの仮設会議において、我々日本国代表団は、極めて重大な合意形成の場に立ち会いました」
外務大臣の背後のスクリーンに、会議の資料が展開される。
『銀河コミュニティ基本医療インフラ構想・暫定合意内容』
「提案されたのは、星間文明同士における遺伝子疾患、感染症、先天性疾患などの『病』の根絶に向けた、基本医療インフラの構築です」
外務大臣が読み上げる報告内容は、以下の通りであった。
一、加盟星間文明への医療インフラ構築の開始。
二、共通医療データ基盤の構築(匿名化・文明単位の知見から開始)。
三、病原体監視ネットワークの整備。
四、接触済み惑星文明への支援基準の策定(要請、同意、社会影響評価の必須化)。
五、未接触文明への医療介入の原則禁止。
六、『善意による文明改変』の禁止原則(医療支援は救済であって、文明支配ではない)。
矢崎総理が、その項目を一つ一つ確認し、静かに頷いた。
「……かなり重く、そして根源的な内容ですね」
「ええ。ですが、合意の内容自体は悪くありません」
外務大臣が答える。
「むしろ、銀河コミュニティという寄り合い所帯の黎明期において、これほど明確な倫理のガイドラインを最初に決められたのは、星間外交において極めて大きな成果です」
榛名科学技術担当大臣が、医学と科学の観点から感嘆の声を漏らす。
「遺伝子疾患や病の根絶が、国家間の利権ではなく『基本インフラ』として扱われるのですね」
「そこが、地球側では絶対に考えられない部分です」
外務大臣が、地球の現実と比較して言う。
「地球の国際会議なら、薬価、保険制度、特許権、巨大製薬会社のロビー活動、技術の軍事転用リスク、国内世論の反発などで、合意までに何十年も揉め続けます。
ですが、あちらの会議では、そうした泥臭い利権の話よりも先に、“我々は病を減らせる力を持っているが、それをどこまでやるべきか”という、神学論争のような倫理の次元から議論が始まるのです」
工藤が、純粋に感心して呟く。
「スケールが大きいですね……。なんか、本物の宇宙人って感じです」
外務大臣は、その工藤の言葉を聞いて、ピタリと言葉を止め……一拍置いてから、じっと工藤を見た。
「ええ。スケールが大きすぎるのです」
外務大臣の声に、隠しきれない疲労の色が混じる。
「だからこそ、その崇高な会議に出席して報告する我々の精神も、ゴリゴリと削られるのですよ」
◇
報告が一通り終わったところで、外務大臣が手元の資料をパタンと閉じ、ついに本音を漏らし始めた。
「……総理。正直に言いますと、この星間外交は、私にとって非常に『つらい』仕事です」
「つらい?」
矢崎総理が、眉を寄せて聞き返す。
外務大臣は、工藤の方をチラリと見てから、慎重に言葉を選んで言った。
「銀河コミュニティの場において、我々日本国は、ミコラ族や機械協約文明と同列の『成熟した星間文明』として扱われています。
そして私は、その代表として、“治せるからといって安易に治してよいわけではない”“我々は神になってはならない”などと、高尚な倫理と哲学を語ってきたわけです」
「立派な立ち回りだと思いますが?」
官房長官が首を傾げる。
「ええ。そこまではいいのです」
外務大臣は、深く溜め息をついた。
「しかし、その一方で。我々の足元であるこの地球では、工藤氏がもたらした人工臓器、フルダイブ、火星への五日航路、そして先日の視力回復薬などによって、社会構造と国際政治が現在進行形でぐちゃぐちゃに引っ掻き回されている真っ最中なわけです」
「ぐちゃぐちゃって……」
工藤が、少し傷ついたような顔をする。
「言い方を整えれば、急速かつ不可逆的な激震、ですね」
外務大臣が言い直す。
「整えても、だいぶ強い表現ですね」
官房長官が苦笑する。
「私自身の仕事の範囲で言えば、各国の特命全権大使からの面会要請、国連での裏工作、利権の奪い合い……毎日が修羅場です」
外務大臣は、ついに隠しきれない愚痴をこぼした。
「その泥沼の状況下で、私が銀河コミュニティの議場に向かって、“外部から文明を変えすぎてはいけません”などと偉そうに説教を垂れるのは……自分たちの現状を棚に上げているようで、精神的に非常につらいのです。どの口が言っているのかと、自分で自分に突っ込みたくなります」
工藤が、気まずそうに視線を泳がせた。
「……すみません」
「いえ。工藤氏だけを責めているわけではありません」
日下部が、即座にフォローに入った。
「工藤さんが無自覚に強大な技術を投下してくるのは事実ですが、それを『これは使える』と判断し、地球の制度や外交のカードとして強引に組み込み、結果として自らの首を絞めているのは、我々日本政府の側でもありますからね。……我々は、操縦桿を握り損ねている共犯者です」
「そういう意味では、日本国そのものが、強烈な自己矛盾を抱えながら星間外交の舞台に立っているわけですね」
矢崎総理が、現状の歪さを的確に要約して苦笑した。
「はい」
外務大臣が頷く。
「あちらの星間文明たちは、我々日本を『余裕のある成熟した上位存在』として見ています。しかし実態は、工藤氏の思いつきと、オーバーテクノロジーの波状攻撃に必死で振り回されながら、水面下で泥水をすすっている地球の一国家に過ぎません。
……外務省としては、『星間文明の顔』をしながら、地球側の混沌を必死にポーカーフェイスで隠し通すという、精神的に大変高度な芸を毎日要求されているのです」
そのあまりにも生々しい悲鳴に、会議室の中に、同情を含んだ小さな笑いが起きた。
◇
「そして、その精神的な負担よりもさらに深刻なのが……『人材不足』です」
外務大臣が、表情を引き締め、次の資料をスクリーンに出した。
「矢崎総理。……銀河コミュニティ対応の『専門家』が、圧倒的に足りていません」
「専門家、ですか?」
総理が問う。
「はい」
外務大臣は、自らの省庁の現状を赤裸々に語った。
「率直に申し上げて、ミコラ族や機械協約文明と、生命倫理や星間法について対等に議論できるような専門家など、今の地球上に存在するはずがありません」
外務省の『銀河コミュニティ対応チーム』の現在の編成が、スクリーンに表示される。
・宇宙法に詳しい国際法担当の若手官僚。
・SF小説を読み漁り、異星文明との『ファーストコンタクト・シナリオ』を妄想していたオタク気質の書記官。
・アマゾン奥地の未接触部族の研究をしていた、文化人類学に強い外交官。
・途上国での国際保健協力(WHO案件)の経験がある医療外交担当。
・国連安保理での泥沼の交渉に強いベテラン。
・未知の言語体系や翻訳誤差に興味を持つ、言語学マニアの若手。
・元理系で、アンノウンの複雑な技術文書を読解できる数少ない職員。
・防衛省から出向してきた、宇宙安全保障担当の自衛官。
「……これが、我が国の『星間外交チーム』の全容です」
外務大臣が、呆れたように、しかし彼らへの深い敬意を込めて言った。
「正直なところ、現在の銀河コミュニティ対応室は、SF好きのマニアと、国際法オタクと、文化人類学好きと、真面目な外交官を鍋に放り込んだような『混成部隊の属人的な努力』だけで回しています」
「よくそれで、星間外交が回っていますね」
官房長官が、感心したように言う。
「回っているのではありません」
外務大臣が、冷酷な現実を突きつけた。
「回っているように『見せている』だけです」
「それ、元SEの感覚からすると、めちゃくちゃ危ない状態ですね」
工藤が、システム運用の観点から顔をしかめた。
「はい。極限まで『属人化』が極まっています」
外務大臣が深く頷く。
「あるSF好きの若手が風邪で休むと、光彩文明の独特な比喩表現を解釈できる人間がいなくなります。
ある係長が過労で倒れると、機械協約文明が提示してくる複雑な議事進行表の裏の意図を読める者がいなくなります。
ある文化人類学に強い課長補佐がいないと、環礁文明が交渉中に見せる『沈黙の時間』の文化的な意味が分からず、交渉がストップします」
「それは、専門家不足というより……もはや『職人芸』ですね」
矢崎総理が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「その通りです」
外務大臣が、強い危機感を込めて言う。
「星間外交という人類の未来を左右する巨大なプロジェクトを、一部の変わり者の『職人芸』と『気合い』だけで回し続けてはいけません。組織として、早急に体制を構築する必要があります」
◇
会議室に、重い空気が流れた。
だが、その空気を破るように、工藤が少し遠慮がちに口を開いた。
「あの……それなら、専門家を『蒐集(しゅうしゅう)』でもしますか?」
——。
会議室が、一瞬だけ不自然に静まり返った。
「……言い方」
官房長官が、顔を引きつらせて突っ込む。
「あ、いや。人を集める、っていう意味で……」
工藤が慌てて訂正する。
「工藤さんが『蒐集』などと言うと、アンノウン機関のどこかの薄暗い倉庫に、地球人の優れた専門家を標本のように並べてコレクションするような、恐ろしいマッドサイエンティスト的印象になります。気をつけてください」
日下部が、冷たい目で注意する。
「そんなつもりはないですってば!」
外務大臣は、苦笑しつつも工藤の提案に乗った。
「表現はともかく、外部から広く『人材(知恵)を集める』必要は間違いなくあります。
……ただし、最大の問題は、一般の専門家たちに対して『銀河コミュニティが実在している』という事実を絶対に明かせないことです」
そこで、日下部が一つの案を提示した。
「アンノウン機関の『外部要員』として、限定的に専門家を招集する制度を新設してはどうでしょう」
日下部がホワイトボードに書き出す。
「名目は、星間外交の実務ではなく、あくまで『思考実験』および『架空シナリオの研究』とします」
具体的には、以下のような研究会名目で有識者を集めるのだ。
『未知文明との接触時における、外交リスクのシミュレーション研究』
『異文化間医療支援における、生命倫理の限界に関する思考実験』
『未接触文明への技術介入リスクに関するモデルケース作成』
『宇宙法における、非地球主体との交渉ガイドラインの策定』
『言語体系の全く異なる種族間における、翻訳誤差が外交に与える影響の研究』
『多種知性体間における“同意”という概念の比較検討』
「……なるほど」
外務大臣が、その案を見て頷く。
「彼らには、実在の銀河コミュニティの情報は一切渡さない。ただし、こちらが直面している課題を極限まで『抽象化・仮想化』した問題を投げかけ、彼らの専門的な参考意見を吸い上げるわけですね」
「SF作家や、SFの研究者も対象にしますか?」
榛名科学技術担当大臣が、少し楽しそうな顔で提案する。
「真面目に検討すべきだと思っています」
外務大臣が即答した。
「え、SF作家って、現実の政策の役に立つんですか?」
工藤が、不思議そうに尋ねる。
「少なくとも彼らは、我々官僚よりも先に、“もし異星文明と出会ったら何が起きるか”を何十年も前から真剣に考え、シミュレーションし続けてきた人々です」
外務大臣は、彼らの想像力に敬意を払って言った。
「もちろん、彼らのアイデアをそのまま国の政策に使うわけではありません。ですが、我々のような堅物が見落とす『想定外の事故パターン』や『倫理的ジレンマ』を洗い出すには、彼らの想像力は極めて有用です」
「学者、SF作家、宇宙法専門家、文化人類学者、生命倫理学者、宗教学者、言語学者……」
官房長官が、リストを眺めて苦笑する。
「なんだか、非常にアクが強くて、濃いメンバーの集まりになりそうですね」
「問題は、彼らに対して『これは完全に架空の思考実験ですよ』と笑って誤魔化しながら、裏ではその意見を本当に星間外交の政策としてモロに使わなければならないという、我々の心苦しさですね」
日下部が、胃の痛みを堪えるように言う。
「機密保持契約は必須ですね」
矢崎総理が釘を刺す。
「ええ。アンノウン機関の外部要員として、段階的に登録し、身辺調査をクリアした者から参加させる形が現実的でしょう」
外務大臣が方針を固めた。
◇
「なんか、本当にSFの読書会か研究会みたいですね」
工藤が、少しワクワクした様子で言う。
「こちらとしては、一切冗談では済まない実務なのですがね……」
外務大臣が、疲れた声で返す。
「しかし、専門知の外部化は急務です」
日下部が実務的な観点からまとめる。
「外務省の限られた職員の個人的な趣味や努力だけで、銀河規模の星間倫理を抱え込むのは、どのみち限界があります。これは必要な制度化です」
「では、外務省とアンノウン機関で連携し、『外部要員制度案』を早急に作成してください」
矢崎総理の指示に、外務大臣が深く頷いた。
◇
重い銀河コミュニティの報告が一段落し、少しだけ空気が緩んだところで、官房長官が次の資料の束をテーブルに置いた。
「では、議題を変えましょう。……NASAおよびJAXAから、ある共同構想に関する照会が来ています」
工藤が、目を瞬かせた。
「NASAとJAXA?」
「ええ」
榛名科学技術担当大臣が、少しだけ声を弾ませて説明を引き継いだ。
「両宇宙機関が共同で……『月面基地』を建設したいと申し出てきています」
「月面基地?」
工藤が、予想外の単語に少し驚く。
「火星の次は、月ですか」
矢崎総理が、苦笑交じりに言う。
「順番としては逆のような気もしますがね」
官房長官が肩をすくめる。
「現状では、火星への長期滞在実証の方が先に行われてしまいましたから」
「まあ、火星まで五日で行ける足がありますからね」
工藤が言う。
JAXAの連絡官が、少しだけ興奮した様子で補足した。
「現行のアンノウン由来の輸送技術……秒速一五〇キロ級の推進系と慣性ダンパーを応用すれば、地球から月までは、およそ『小一時間程度』で到達可能です」
——小一時間。
その一言で、会議室の空気が奇妙にざわついた。
「小一時間……」
外務大臣が、呆れたように呟く。
「なんだか、防衛省から市ヶ谷の駐屯地へ行くような、国内出張の感覚になってきましたな」
霧島防衛大臣が、距離感のバグに苦笑する。
「新幹線で、東京から地方の実家へ帰省するより早いのでは?」
御堂経産大臣が、実体経済の感覚で突っ込む。
「まあ、距離だけなら地球のすぐ隣ですからね……」
工藤も、月という天体の近さを改めて実感する。
◇
だが、この「近すぎる」という事実が、アメリカ側で一つの議論を呼んでいた。
「ヘイズ大統領からの、非公式なメッセージが届いています」
外務省幹部が、アメリカの反応を共有する。
「大統領は、『NASAとJAXAが月面基地を作りたいと熱心に言っているが、正直に言えば、小一時間で到達できるような近所に、莫大な予算をかけて恒久的な基地を置く必要があるのか、私は疑問に思っている』と、かなり懐疑的です」
「ヘイズ大統領、めちゃくちゃ冷静で現実的ですね」
工藤が笑う。
「科学者や宇宙機関のロマンと、政治家の費用対効果感覚の差ですね」
榛名大臣が、両者の間を取り持つように言う。
外務省幹部が続ける。
「とはいえ、大統領は『NASAとJAXAは非常に熱心であり、彼らは月面基地にロマンだけでなく実務的な価値があると語っている。日本政府が許可を出すなら、アメリカとしても本格的な検討を進める』とボールを投げてきています」
「……」
JAXAの連絡官が、まるで自分の子供の進路を説得する父親のように、少し必死な顔で立ち上がった。
「総理。月面基地には、確かな意味があるのです。小一時間で行けるからといって、ただの『宿泊施設』や『経由地』に成り下がるわけではありません」
霧島防衛大臣が、そのJAXAの熱意にニヤリと笑う。
「JAXAの顔が、本気ですな」
◇
「NASAとJAXAの共同提案の目的を説明します」
JAXA連絡官が、熱を込めて語り始めた。
「月まで小一時間で着く。だからこそ、月面基地は過酷な『遠征拠点』ではなく、地球のすぐ隣にある『究極の実験場』として機能するのです」
彼が提示した目的は、多岐にわたった。
【一、低重力長期滞在の実験場】
火星の三分の一の重力とはまた違う、月面の六分の一という低重力環境において、人体や装置、建材がどう変化するかのデータを取る。アンノウンの人工重力モジュールに頼らない、純粋な自然環境下での限界を調べる。
【二、月面資源利用(ISRU)の実証】
月の砂(レゴリス)から建材を生成する技術。極地での水氷探査と酸素抽出。太陽光発電設備の構築。月面でのロボットによる無人建設のテスト。
【三、宇宙建設技術の試験場】
火星よりも圧倒的に近く、万が一の事故でも小一時間で緊急帰還できる。そのため、基地建設ロボットの遠隔操作や、現地資源の利用、粉塵対策など、火星でぶっつけ本番で行うにはリスクが高い技術を、安全にテストできる。
【四、観測拠点としての価値】
地球からの電波ノイズが届かない「月の裏側」での、純粋な電波天文学観測。および深宇宙観測の拠点。
【五、教育・観光・国威発揚】
将来的には、訓練を受けた研究者だけでなく、学生や民間人の短期滞在も可能になる。火星ほど危険ではなく、移動時間も短い。
【六、災害時・宇宙活動時の避難/中継拠点】
地球軌道や深宇宙探査における中継拠点。万一の救難・補給拠点としての役割。
工藤が、その説明を聞きながら、少しずつ目を輝かせ始めた。
「月面基地……いいですね。すごくいい」
外務大臣が、頭を抱えながら工藤を窘めた。
「工藤さん。先ほどまで『神にならないための規則』という恐ろしく重い倫理を議論していた会議の直後に、急に少年のようなキラキラした目にならないでください。ギャップで頭が痛くなります」
「いや、でも月面基地はロマンありますよ!」
工藤は全く悪びれない。
榛名大臣も、科学者としての血が騒ぐのか、深く頷いた。
「否定はできませんね。人類の科学的探求心として、月に拠点を置くというのは正しいマイルストーンです」
◇
「……小一時間で行けるのなら」
御堂経産大臣が、手元の資料を弾きながら、経済人としての顔で言った。
「将来的には、完全に『観光地化』もあり得るのでは?」
「宇宙服を着て、月面をピョンピョンと跳ねて歩く旅行ですか」
官房長官が、少し楽しそうに想像する。
「めちゃくちゃ人気出そうですね、それ!」
工藤が身を乗り出す。
「ただし、安全管理は非常に厳しくなりますよ」
榛名大臣が、現実的な釘を刺す。
「月面は、小一時間で行ける観光地のように見えても、一歩外に出れば空気のない完全な『真空』です。少しのミスが即座に死に直結します」
「テロ対策、事故対応、そして即応可能な救難体制も必要になる」
霧島防衛大臣が、治安維持の観点から補足する。
「とはいえ、産業としてのポテンシャルは計り知れません」
御堂大臣は、目を輝かせる。
「月面での滞在、低重力環境を利用した新しいスポーツ、ガラス張りの月面ホテル、教育旅行、企業研修、映像制作……。火星観光はリスクが高すぎますが、月面であれば、ビジネスとしての現実味は十分にあります」
「国際的な利権の取り合いになりますね」
外務大臣が、空気が軽くなりすぎないよう、冷水を浴びせた。
「月面の利用ルールや所有権の扱いを決めないまま、なし崩し的に基地だけを作れば、火星とはまた別の泥沼の地獄が始まりますよ」
◇
「では、日本政府としての論点を整理しましょう」
矢崎総理が、場を落ち着かせて実務へと戻した。
日本政府が許可を出すための、クリアすべき論点はいくつかあった。
【論点一:予算】
「NASAとJAXA、そしてSpaceX側の予算で進めるのか。日本政府の追加負担はどこまでか。……既存の火星補給、フルダイブインフラ、医療案件の予算を圧迫しないことが絶対条件です」
【論点二:技術秘匿】
「月面基地にアンノウン由来の基幹技術(核融合炉や生命維持装置)を使うとしても、その分解・解析・第三国への提供は一切不可。火星と同じく、完全なブラックボックス運用を大前提とします」
日下部が、技術流出の壁を高く設定する。
【論点三:国際法・領有問題】
「月面基地の建設が、『月の国家領有』と見なされないようにするための法理構成が必要です」
外務大臣が指摘する。
「あくまで、全人類に開かれた科学・安全・産業の実証拠点として位置づける国際的な説明文書を準備しなければなりません」
【論点四:軍事転用】
「月面監視施設、通信傍受基地、あるいは兵器の設置拠点への転用を完全に防ぐ必要があります」
「防衛上の価値は、間違いなくありますぞ」
霧島防衛大臣が、国防の観点から言う。
「あるからこそ、慎重に扱う必要があります」
外務大臣が釘を刺す。
【論点五:観光・民間利用】
「将来的な観光地化はあり得るとして、初期段階では純粋な研究・建設・安全実証に限定します。最初から『観光地』として売り出せば、ルール作りが追いつきません」
【論点六:火星ミッションとの関係】
「月面基地の建設が、進行中の火星補給便や、国連での火星議題を邪魔しないこと。月面基地が火星案件の足を引っ張るようでは本末転倒です」
官房長官が、優先順位を確認する。
「JAXAとしては、月面基地は火星の競合ではなく、人類の宇宙活動全体の『基盤(テストベッド)』として機能すると考えています」
JAXA連絡官が、力強く答えた。
◇
「月面基地って、火星とはまた違うロマンがありますよね」
工藤が、配布された月面基地のコンセプトアートの資料を見ながら、楽しそうに言った。
「工藤さんは、かなり乗り気ですね」
矢崎総理が、微笑みながら尋ねる。
「はい」
工藤は、子供のように目を輝かせて答えた。
「火星は、なんていうか『遠い赤い星に挑む』って感じですけど。月は、俺たちが毎日、地上から見上げている星じゃないですか。
夜空にある、あの月に一時間で行けて、そこに人間の基地があるって……普通に考えて、めちゃくちゃすごいし、ワクワクしますよ」
「日本人にとっても、月はかぐや姫や月見など、文化的に特別な天体ですからね」
榛名大臣も、深く頷く。
「各国にとっても特別でしょう。だからこそ、扱いを間違えると、火星以上に面倒な象徴問題になりかねません」
外務大臣が、外交官の顔で警戒する。
「観光地になるなら、最初は宇宙旅行どころじゃない、超高額なチケットになるんでしょうね」
工藤が想像する。
「超富裕層向けの、月面短期滞在VIPツアーですか」
官房長官が苦笑する。
「『月面ホテル』という言葉が、SFではなく、急に現実味を帯びてきたな」
霧島防衛大臣が、豪快に笑った。
会議室が、今日一番の明るい盛り上がりを見せた。
だが、矢崎総理が手を叩いて、彼らを現実に引き戻した。
「盛り上がるのは分かりますが、まずは許可の条件を固めますよ」
◇
「では、日本政府としての暫定方針を決定します」
矢崎総理が、力強くまとめた。
一、月面基地構想の検討を許可する。NASAおよびJAXAが共同で詳細な建設計画を作ることは認める。
二、初期の目的は、あくまで研究・建設実証・安全運用に限定する。観光や商業利用は将来的な検討とし、最初から観光地としては売り出さない。
三、予算は既存の枠内、または米国との別枠で明確化し、火星補給・フルダイブ・医療案件を絶対に圧迫しないこと。
四、アンノウン由来技術の基幹部分は、ブラックボックスでの運用を徹底する。
五、月面基地は国家領有ではないとする国際的説明文書を準備する。
六、軍事転用は完全禁止とする。
七、将来的な観光・民間利用については、安全基準、保険、救難体制、料金設定、民間事業者の責任範囲などを、後日別制度として整備する。
「……この条件で、NASAおよびJAXAに詳細な計画書を提出させてください。
ヘイズ大統領には、“日本政府としては検討を妨げない。ただし条件付きである”と、前向きな返答をします」
「ありがとうございます!」
JAXA連絡官が、明らかに嬉しそうな、破顔したような顔で深く一礼した。
「嬉しそうですね」
外務大臣が、少し羨ましそうに言う。
「月面基地ですから」
JAXA連絡官は、科学者としての純粋な誇りを持って答えた。
「分かります」
工藤が、深く共感して頷く。
「分かってしまいますね」
榛名大臣も、科学のロマンに同調して微笑んだ。
◇
会議が終了に近づく中、外務大臣が、自分の手元にある二種類の資料の束を見比べて、深い、本当に深い溜め息を吐き出した。
片方には、銀河コミュニティの資料。
『未接触文明不介入原則』
『医療支援と文明の自律』
『神にならないための規則』
もう片方には、NASAとJAXAの資料。
『月面基地構想』
『低重力実験』
『月面観光』
『月面ホテルの可能性』
「……銀河コミュニティという宇宙の果ての議場で、“我々は神になってはならない”という崇高な規則を作った直後に。地球側では、“月面基地は観光地になるか”と、極めて世俗的なロマンで盛り上がっている」
外務大臣は、そのあまりのギャップに頭を抱えた。
「この落差を、同じ外務省という組織の人間が処理しなければならないのです」
「落差が凄まじいですね」
官房長官が、心底同情する。
「専門家の『蒐集』、急ぎましょう」
矢崎総理が、外務大臣を労うように言った。
「蒐集って言いましたね、今」
工藤が、すかさず突っ込む。
「集めましょう、です」
矢崎総理が、微笑みながら言い直す。
「表現は整えてください、総理」
日下部が、呆れたように注意する。
重い会議の最後に、軽い笑い声が響いた。
◇
その日の深夜。
外務省の一室では、銀河コミュニティ対応チームの若手官僚たちが、山積みの資料を前に残業を続けていた。
彼らの机の上には、全く次元の違う二つの案件の資料が無造作に混ざって置かれている。
一つは、
『銀河基本医療インフラ三段階原則』
『未接触文明不介入原則』
『翻訳透明性法案』
『異種生命検疫法案』
『文明代表権確認法案』
もう一つは、
『NASA/JAXA月面基地構想』
『月面科学拠点』
『月面観光の可能性』
『月面基地・国際説明案』
「……星間文明の倫理を整理した次のページに、『月面ホテルの可能性』って書類を書くの、だんだん頭がおかしくなってきそうですね」
若手官僚が、コーヒーを飲みながら虚ろな目でぼやいた。
「でも、どっちも我々が処理すべき『現実』なんだよな」
別の官僚が、ため息をつく。
SF好きのオタク官僚が、キーボードを叩きながら楽しそうに言った。
「昔読んだハードSF小説より、今の現実の方がよっぽど雑に設定を盛ってきてるよな」
「雑ではない。全部、正式な国家案件だ」
上司である課長が、厳しい顔で訂正する。
「そこが、一番怖いんですよね……」
若手官僚が、身震いする。
そこに、外務大臣が疲れた顔で部屋へ顔を出した。
「皆、悪いが……明日から、外部の『有識者リスト』の作成も並行して始めてくれ。
宇宙法、文化人類学、生命倫理、言語学、宗教学、それにSF作家……。使える知恵は、全部借りる」
その途方もない無茶振りに、職員たちが一斉に絶望の表情を浮かべた。
「諦めろ」
外務大臣は、哀れむように、しかし強い決意を持って言った。
「我々はもう、地球の国々だけを相手に外交をしていればいい『普通の外務省』ではなくなったのだから」
その夜、外務省の一室のホワイトボードには、銀河規模の医療倫理と、月面基地の観光利用と、未知文明接触時の外交儀礼が、同じ列に並んで書き出されていた。
それは、完全なる『混沌』だった。
だが、その混沌にルールを与え、言葉で整理し、人類が生き残るための道筋を整えることこそが、『外交』という仕事の本質なのだ。
日本国は、アンノウンの力によって、分不相応にも『星間文明』として扱われている。
ならば、その強烈な虚勢を、いつか本物の制度と、人類の知恵で支え切らなければならない。
そのためには、艦隊でも、旗でも、立派な演説でもない。
何よりもまず、未知を理解し、翻訳できる『人材』が必要だった。
外務省はその日、自国に銀河外交の専門家が存在しないという絶望的な現実に直面し。
……存在しないのならば、集めて、育てるしかないという、極めて泥臭い結論に至ったのである。
銀河コミュニティは、病を根絶する前に、自分たちが神にならないための規則を作り始めた。
日本の外務省はその横で、神々と対話するための『専門家(オタクたち)』を探すところから、星間外交を始める羽目になったのである。
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