自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
二〇三一年、某月某日。
日本という国家の医療福祉、そして巨大な社会保障費の配分を統括する霞が関・厚生労働省。その医療関連部局が置かれたフロアは、午前八時三十分を回った時点で、すでに野戦病院か、あるいは陥落寸前の砦のような凄惨な空気に包まれていた。
足を踏み入れた者が最初に直面するのは、鼓膜を直接突き刺してくるような、けたたましい電子音の乱雨である。
代表電話、医療保険制度を司る担当課、医薬品の認可と監視を睨む薬事関係部署、さらには国民への説明を担う広報室、そして全国に点在する地方厚生局に至るまで。フロアに設置されているありとあらゆる固定電話の着信ランプが、まるで日本中のパニックを可視化したかのように、一斉に真っ赤に点滅し続けていた。
「はい、厚生労働省でございます! ええ、今朝のニュース番組で大々的に取り上げられました『視力回復薬』の件でのお問い合わせですね。大変申し訳ありませんが、現時点ではあくまで導入に向けた制度の『検討段階』にとどまっておりまして、一般の患者様への処方は一切、本当に一切開始されておりません!」
デスクにかじりついている若手職員が、喉を枯らし、引きつった声で受話器に向かって叫んでいる。その後ろでも、別の職員が汗だくになりながら、電話線越しに頭を下げていた。
「はい、お近くの眼科クリニックにお問い合わせいただきましても、まだお薬そのものが日本国内の医療機関に配備されておりません。どうか、現場の病院へのお電話はお控えください。はい、決して国が薬の存在を隠匿して出し惜しみしているわけではございません! 本当に、まだ手元にないのです!」
フロアの反対側では、中堅の係長クラスの男が、受話器を肩と耳で器用に挟み込みながら、猛烈な勢いでキーボードを叩いて情報の整理に追われている。
「二千円程度という具体的な金額についてですか? はい、報道の通り、国民の皆様の窓口負担を極力軽減する方向で調整は進めておりますが、正式な自己負担額は今後の制度設計によります。……いえ、当省から直接、お薬をご自宅に郵送するような、いわゆる直販サービスは行っておりません。必ず専門の医師の診察が前提となります」
そして、最も深刻なトーンで対応しているのは、薬事監視と不当表示に関わる部署のデスクだった。
「もしもし! ネットの海外通販サイトで『視力回復薬・先行販売版』を買ってしまった!? 今すぐ、絶対に注文をキャンセルするか、手元に届いても絶対に目に使わないでください! それは確実に成分不明の非正規品、あるいは偽造品です。目に直接投与した場合、最悪の場合は失明等の取り返しのつかない重大な健康被害を引き起こす恐れがあります!」
職員たちは皆、声は嗄れ、目は血走り、ワイシャツやスーツの背中にはべっとりと汗がにじんでいる。
彼らは、人類の歴史を裏から操るような「アンノウン機関」の全容を知る特権階級ではない。ただ、霞が関のヒエラルキーの中で「先進微細医療技術という特殊な枠組みを活用し、視力回復薬を保険適用の方向で実務的に調整せよ」という、上層部からの理不尽かつ強権的なトップダウンの指示を受け、徹夜続きで分厚い資料と格闘していた、一介の国家公務員に過ぎなかった。
彼らにとって、昨夜までの最大の敵は「財務省との血みどろの予算折衝」と「日本医師会との複雑な利権調整」だったはずだ。だが今、彼らは「今日にでも裸眼になりたいという欲望を爆発させた数千万人の国民」という、制御不能の巨大な濁流に飲み込まれようとしていた。
フロアの一角、ガラス張りのパーテーションで仕切られたスペースの中で、広報室の責任者が、今にも泣き出しそうな、あるいは発狂しそうな顔で医療行政の実務を束ねる担当課長に詰め寄っていた。
「課長! 駄目です、回線が物理的にパンクしています! 朝のニュース番組の連中が、『これでもうコンタクトも分厚い眼鏡も不要に!?』なんて、視聴率目当てで無責任に煽り立てたせいで、問い合わせの件数が天文学的な数字に跳ね上がっています! サーバーもダウン寸前です!」
担当課長は、胃の辺りを無意識に強く押さえながら、腹の底から重いため息を吐き出した。五十代半ばの彼の顔には、この一週間の徹夜による深い隈が刻まれている。彼は、行政官僚としての矜持と、次々と降りかかる未知の技術による無理難題との間で、常に胃壁をすり減らして生きてきた男だった。
「……まだ、あくまで『検討中』だと、各メディアの担当者には昨晩のブリーフィングで念を押したはずだぞ。なぜ決定事項のように報じられている」
「国民は『検討中』という言葉のニュアンスを、『もうすぐ国から二千円で魔法の薬が配られる』と解釈しました! ニュースのテロップの隅に小さく『検討』と書かれていても、誰もそんな予防線は読んでいません!」
「日本語が通じていないのか! 検討というのは、これから有識者会議を開いて、予算を引っ張ってきて、関連法規を整備して、ようやく一年後に実証実験が始まるかもしれない、という霞が関のタイムスケールの話だぞ!」
思わず声を荒げた課長に対し、隣のデスクで無表情にタブレット端末をスワイプしていた若手官僚が、極めて冷徹な、身も蓋もない正論を突きつけた。
「通じていますよ、課長。言語としては完全に通じています。ただ、人間という生き物は、自分の切実な欲望に直結する情報において、都合のいい部分だけを選択的かつ好意的に理解する習性があるだけです。『保険適用』『自己負担二千円』『視力回復』。この三つのキラーワードの前では、『検討中』というたった三文字の行政的な免責事項など、彼らの網膜にすら映らないんですよ」
若手の容赦ない分析に、課長は額に手を当てて天を仰いだ。
アンノウンのもたらす技術は、確かに人類を次のステージへ引き上げる奇跡だ。これまで厚労省が裏で処理してきた「がんの完全特効薬」や「拒絶反応のない生体互換人工臓器」の恩恵は計り知れない。
だが、それらは「現在、死の淵にある一部の深刻な患者」という、限られたパイのための技術だった。健康な一般国民からすれば、どこか遠い世界で起きている医療革命に過ぎなかった。
しかし、今回の「視力回復薬」は根本的に性質が違う。対象となるのは、日本国民の半数以上を占める近視、乱視、そしてスマホ老眼の予備軍たちだ。毎日コンタクトレンズの洗浄に時間を奪われ、ラーメンを食べるたびに眼鏡を曇らせている数千万人の一般市民にとって、これは未来のロマンではなく「明日の生活費と日々のストレスに直結する、生々しい権利」なのだ。
「……よし、腹を括るしかないな」
課長は顔を上げ、修羅場と化したフロアの喧騒を睨みつけながら言った。
「各方面への対応方針を、今この瞬間から完全に統一する。我々が、すべての国民、すべての医療機関の個別具体的な疑問に答えることなど、物理的にも権限的にも不可能だ。いいか、広報、そして各担当。国としては、今後一切、あくまで『規範』を示すだけだ。個別の診療基準、検査の具体的なやり方、予約の取り方、導入の順序といった泥臭い実務手順は、すべて現場の医療機関と関係団体が自ら汗をかいて詰めるべきことだ。我々はそこに深く介入しない」
タブレットから顔を上げた若手官僚が、眼鏡の奥の目を細めた。
「課長。それは、世間一般の言葉に翻訳すると『逃げ』と呼ぶのではありませんか? 現場に丸投げしていると批判されますよ」
「違う」課長は即座に否定した。「これは行政上の適切な『役割分担』だ。国が現場の細かい運用ルールまで全部決めてトップダウンで押し付ければ、それはそれで『現場の実態を無視したお仕着せの独裁だ』と医師会から猛反発を食らう。だから我々は、最低限の安全を守るための大枠のルールだけを引く。それが国の仕事だ」
「理屈は通っています。ですが、言い方は完全に『逃げ』です」
「だったら、言い方を整えろ。国民やマスコミから見て逃げに見えないように、重厚で責任感のある言葉でコーティングしろ」
課長の無茶振りを受けた広報担当が、眉間を激しく揉みながら、絞り出すように提案した。
「……では、『国として標準的な規範を示し、実施主体である各医療機関や団体の円滑な運用を最大限に支援する』という表現でどうでしょう? これなら、主体は現場にあると押し付けつつ、国も伴走している感が出ます」
課長は指を鳴らした。
「それだ。それでいこう。各局、メディア対応も窓口対応も、すべてその『規範を示す』を軸に回答を組み立てろ」
「やっぱり、本質的には逃げでは?」と、若手官僚がチクリと刺す。
「規範だ」
課長は頑として譲らなかった。
かくして、この日一日、厚生労働省がすべての問い合わせに対して放つことになる最強の防御呪文、「規範を示す」という行政的スタンスが完成したのである。
午前十時。
医療関連部局の奥にある、外部の目から遮断された第一会議室。
ホワイトボードの前には、朝の八時から各部署に寄せられた「問い合わせ元」とその大まかな内容が、若手官僚の手によってマーカーでずらりと書き出されていた。
一、一般国民(全国津々浦々の市民からの電話、メール)。
二、全国の眼科クリニックおよび総合病院の眼科。
三、日本眼科医会、眼科学会等の各種専門団体。
四、眼鏡店業界(全国展開の大手チェーンから、地域密着の個人店まで)。
五、コンタクトレンズ業界・メーカー各社。
六、レーシック・ICL手術を行う自由診療クリニックの経営者たち。
七、学校保健関係者(養護教諭、学校医、教育委員会の担当者)。
八、文部科学省側の学校健診担当部局(省庁間の腹の探り合い)。
九、運送業界・タクシー業界・バス協会等の交通インフラ系団体。
十、警察庁側の運転免許関係部局。
十一、健康保険組合、協会けんぽ、市町村国保等の医療保険者(支払い側)。
十二、全国の地方自治体(都道府県および市区町村の住民窓口担当)。
十三、消費者庁および消費者行政関係(偽造品・悪徳商法対策)。
十四、大手ECプラットフォーム事業者。
十五、テレビ局・新聞社・ネットメディア等の報道機関。
十六、海外メディアおよび各国の在日大使館関係。
「……以上、午前中の段階で把握できている、主な問い合わせ元の分類です」
若手官僚が、キュッとマーカーの蓋を閉めて淡々と報告した。
会議室の長机に座る課長をはじめとする幹部たちは、その十六項目のリストを見ただけで、胃の粘膜が焼け焦げるような感覚を覚えていた。
全方位である。文字通り、日本の社会システムを構成するありとあらゆるレイヤー、すべての階層から、一斉に霞が関の厚生労働省へ向けて砲火が向けられている状態だった。視力という、人間が外部情報を得るための最も重要なインフラに手を入れることが、これほどまでに広範な社会システムを揺るがすとは、上層部も完全に読み違えていたのだ。
「具体的な問い合わせ内容を読み上げます」
若手官僚は、手元のタブレットをスクロールさせながら、一切の感情を排した声で続けた。
「『具体的にいつから処方が開始されるのか』『先行予約のシステムはあるのか』『小学生の子供は対象になるのか』『過去にレーシックを受けた人間は使えるのか』『街のメガネ屋で検査しても保険は適用されるのか』『レセプト(診療報酬明細書)の請求区分はどう処理するのか』『運転免許の更新時の視力検査にどう影響するのか』『職場でドライバーに安全管理として服用を強制していいのか』『ネットで出回っている非正規品への取り締まりはどうするのか』……などです」
会議室には、重く、粘り気のある息苦しい沈黙が満ちた。
空調の低い唸り音だけが響く中、課長がポツリと、独り言のように呟いた。
「……見事なまでに、全部、まだ何一つ決まっていないことばかりじゃないか」
「はい。おっしゃる通りです。現時点では、何一つ具体的な運用ルールは確定しておりません。すべて検討中、あるいはこれから検討を開始する段階です」
「それを、そのまま各方面にバカ正直に言うとどうなる?」
広報担当が、幽鬼のような疲れた顔で即答した。
「確実に大炎上します。『国は実務的なことを何も考えていないくせに、見切り発車で希望的観測だけをテレビにリークして国民をパニックに陥れた無責任で無能な組織』として、今日の夕方のニュースと明日のワイドショーでサンドバッグにされます。大臣の首が飛びかねません」
「事実だから反論しにくいな……」
「ですので、正直に答えるわけにはいきません。では、どう回答すればよろしいでしょうか」
広報担当の問いに、課長は深く腕を組み、天井の蛍光灯を見上げてから言った。
「『現在、関係団体と慎重に協議中です』と答えろ」
「便利な言葉ですね」
「行政の基本だ。関係各所との調整を言い訳にする」
だが、若手官僚がすかさず冷や水を浴びせる。
「課長。その回答をした場合、確実にその『関係団体』とやらから『お前らとうちの団体は、この件についてまだ一秒も協議なんかしていないぞ! 勝手に名前を使って嘘をつくな!』と激怒の抗議が来ますよ。実際、まだどこの団体とも正式な協議テーブルに着いていませんから」
課長は、微塵も動じずに答えた。
「では、今日から協議する。今すぐ、リストアップした各団体の代表にオンライン会議のリンクを送りつけろ。アジェンダは『視力回復薬導入に伴う緊急意見聴取』だ」
「……国民への発表が先で、関係団体との協議が後ですか。行政の手続きとして、順番が完全に逆ですね」
「行政とは、有事においては常にそういうものだ。走りながらレールを敷くしかない。炎上する前に、既成事実を作るぞ」
そう言って課長は立ち上がった。
アンノウンの魔法のような技術は、確かに人類を進歩させる。だが、その未知の技術を受け入れるための社会の枠組み――法律、利権、雇用、制度、そして人々の感情の整理といった泥臭いシステム――は、すべて人間の手で血を吐きながら調整しなければならないのだ。
厚労省の長い一日が、いよいよ本格的な修羅場に突入しようとしていた。
午前十一時。
最初に設定された協議のテーブル――厚労省主導の緊急オンライン説明会には、最も激しい怒りと焦燥感を抱えた集団がアクセスしてきていた。
全国の眼科医会系の代表、大学病院の眼科学教室の教授、地方の総合病院の眼科部長、そして街の眼科クリニックの院長たちである。
モニターの画面分割で映し出される彼らの表情は、一様に険しく、疲弊し、そして明らかな厚労省への敵意に満ちていた。まだ午前中だというのに、彼らの多くは白衣のまま、目の下に色濃い疲労を浮かべている。
会議が始まるや否や、眼科医会の代表が、挨拶もそこそこに凄まじい剣幕で切り出した。
「まず最初に、厚労省に確認します。なぜ、我々現場の医療機関に何の通知も、通達も、ガイドラインも来ていない状態で、朝のテレビ番組で大々的に報道されているのですか? 情報統制はどうなっているんですか。順番がおかしいでしょう!」
厚労省の担当として矢面に立った課長は、画面に向かって深く、誠意を見せるように頭を下げた。
「現時点では、当省からの公式な発表や意図的なリークではなく、あくまで報道機関による独自の取材に基づく先行報道でありまして――」
「独自の取材だろうが、意図的なリークだろうが何だろうが、その報道のせいで、今朝から全国の眼科クリニックの電話回線が完全に死んでいるんですよ!」
代表の怒声を皮切りに、画面分割された各地の医師たちが次々と悲痛な、そして怒りに満ちた叫びを上げ始めた。
「うちのクリニックなんて、朝の開院前からお年寄りや学生が列を作って、『二千円の視力の薬をすぐに出せ!』って受付のスタッフに怒鳴り散らしてるんだぞ! まるで暴動だ! 受付の事務員が泣き出している!」
「『まだ当院には薬の在庫もなければ、処方もできません』と必死に説明しても、『国が認めてテレビで大々的にやってるのに、お前たちが自分たちの利益のために薬の存在を隠しているんだろう!』と疑われる始末です。現場の苦労が分かりますか! 通常の緑内障や白内障の患者さんの診療が完全にストップしているんです!」
「自由診療系のクリニックからも患者が押し寄せています。数年前にレーシックやICLを受けた患者さんが、『この新しい薬を飲んだら、過去の手術と干渉して目がおかしくならないか』と不安になって相談に来ているんです。我々は何と答えればいいんですか! 治験データすらないのに!」
画面越しに飛んでくる罵声と悲鳴の集中砲火に、厚労省側はひたすら頭を下げるしかなかった。
彼らが言っていることは、すべて百パーセント正しいからだ。未知の技術の登場によって、これまでギリギリのバランスで回っていた眼科医療というインフラが、今まさに崩壊の危機に瀕している。
「……大変、申し訳ありません。現場の皆様に多大なご負担とご迷惑をおかけしていることは、重々承知しております」
「謝罪は後でいいです!」
眼科医会代表が、机をバンと叩いて声を張り上げた。
「我々が求めているのは、頭を下げることではなく、今すぐ現場で患者に説明できる明確な『基準』です! この薬は一体誰に使えるのか。軽度の近視にも無条件で出すのか。成長期の子供には適応するのか。手術歴がある患者はどう扱うのか。視力が急激に回復した後の眼圧の変化や、未知の副作用の監視体制はどう構築するのか。それを、今すぐ出してください!」
痛いところを突かれた。
当然である。本来、どんな新薬であっても、導入には数年にわたる厳密な治験と、分厚い処方マニュアルの作成が不可欠だ。だが、アンノウン技術枠という超法規的なスピードで政治主導で進められているこの案件に、そんな悠長な準備期間はなかった。
課長は、手元のタブレットから、昨晩徹夜で作成したペラペラの暫定資料を画面共有した。
「……現段階で、当省から皆様に明確にお示しできるのは、あくまで標準的な『規範』にとどまります」
その言葉が出た瞬間、画面の向こうの眼科医会代表の顔がピクリと引きつった。
「……出たな、お役所言葉」
課長は表情を崩さず、粛々と資料の文面を読み上げた。
「まず大前提として、診療および処方の最終判断は、目の前の患者の眼球状態を直接診察する医師が行うものとします。その上で、緑内障等の進行性の眼疾患がある患者、レーシック等の角膜切削手術歴がある患者、眼軸長が異常に長い強度の近視患者、および眼球が成長段階にある児童生徒については、一律の処方は行わず、個別かつ極めて慎重な判断を要するものとします。
また、服用後も急激な視力変化に伴う眼圧変動等を確認するため、一か月ごとの定期検査を強く推奨します。さらに、非正規品の使用による健康被害を防ぐため、患者への啓発を徹底してください。……以上を、現時点での国としての『基本方針』といたします」
読み終えた後、オンライン会議室には数秒間の、異様な静寂が訪れた。
やがて、地方の眼科医が、呆れ果てたような、冷たい声で言った。
「……つまり、何一つ国としては絶対的な責任を取らないから、危なそうな患者やイレギュラーなケースは全部、現場の医師の『個別判断』という名目で自己責任で処理しろ、と。そういうことですか?」
「医療とは、最終的には医師の高度な専門的知見に基づくものです。人間の体は千差万別であり、国が一律の条件で縛ることは、かえって現場の裁量を奪い、患者の不利益につながります」
眼科医会代表が、冷ややかな視線をカメラに向けた。
「……厚労省さん。見事に逃げましたね。責任の所在を、すべて我々現場の医師に押し付けた」
だが、課長は怯まなかった。
いや、怯むわけにはいかなかった。ここで「はい、逃げました」と認めれば、行政機関としての威信が崩壊し、万が一副作用が起きた際のすべての責任が、厚労省の予算と権限にのしかかってくるからだ。行政とは、責任の分散によってシステムを維持する巨大な装置である。
「逃げておりません」
課長は、背筋を伸ばし、極めて真摯な、そして行政官としてのプライドをかけた重厚な声で言い切った。
「我々は、医療の安全を守るための、大枠の『規範』を示しているのです。その規範の中で、専門家である皆様に最大のパフォーマンスを発揮していただく。それが国民の利益にかなうと信じております」
現場の医師たちの顔には、「口先だけで丸め込もうとしやがって」という深い不信感が刻まれていた。
しかし、彼らとて馬鹿ではない。ここで国と喧嘩をして制度導入が遅れれば、結局一番困るのは、毎日患者の暴動に近いクレームを受け続ける現場の自分たちなのだ。
眼科医会の代表が、一つ大きなため息をついた。
「……規範だか何だか知りませんが、我々が今一番困っているのは、導入前なのに患者が殺到しているという物理的な事実です! 問い合わせの電話のせいで通常診療が妨害されている。この事実をどうにかしてください!」
「……皆様からの切実なご意見は、真摯に受け止めます」
担当課長が重々しく頷いた。
「真摯に受け止める、というのは、霞が関の翻訳で言えば『話は聞いたが、今すぐは何もしない』という意味ですか?」
「違います」
課長は即答した。
「直ちに、皆様の懸念を払拭し、現場の混乱を鎮めるための広報的な規範を整えます」
「だから、規範という言葉遊びでは、今この瞬間も鳴り続けているクリニックの受付の電話は止まらないんですよ!」
「即日、国民に向けた強力な広報を出します」
課長の言葉を受け、隣に座っていた広報担当者がすかさず引き取った。
眼科医会代表は食い下がる。
「広報を出すなら、明確に『まだ薬はないので眼科に電話しないでください』『病院に行くのはやめてください』と明記してください。絶対にです」
「……お気持ちは痛いほど分かりますが、行政の公式発表としてそれをそのまま出すと、いささか角が立ちます。国民の知る権利を弾圧している、あるいは医療へのアクセスを国が不当に制限しているとメディアに叩かれますので、『医療機関への個別のお問い合わせはお控えください』という表現で発信いたします」
眼科医会代表は、胡乱な目を向けた。
「……意味は同じですね?」
「はい、実質的な意味は全く同じです」広報担当は真顔で頷いた。
「だったら、最初からそう言ってください。我々も暇ではないんです」
画面越しの医師たちが疲れたように息を吐く。こうして、第一の火薬庫である眼科医たちとの激しい折衝は、一時的な「広報対応による休戦」という形で幕を閉じた。
休む間もなく、第二のオンライン会議室が開かれる。
次に接続してきたのは、眼鏡店業界である。全国に数千店舗を展開する巨大なメガチェーンの経営陣、地域密着型の老舗眼鏡店の店主たち、そして業界団体の代表役員たちだ。
接続された直後の空気は、先ほどの眼科の怒り狂った熱気とは打って変わり、まるでお通夜のような、底知れぬ絶望と重苦しさに包まれていた。
眼鏡店業界の代表が、絞り出すような、ひどくかすれた声で口火を切った。
「……厚労省さん。率直に伺います。我々、眼鏡店は終わるのでしょうか」
無理もない。国民の大半が「一回二千円の薬」で視力を取り戻せば、彼らの主力商品である近視用・乱視用の分厚いレンズとフレームはまったく売れなくなる。数百年にわたって人類の視力を外部から支え続けてきた産業そのものの存在意義が、根底から覆されようとしているのだ。彼らの会社の株価は、今朝の市場が開いた瞬間にストップ安に張り付いているはずだった。
「そのような趣旨の制度ではありません」
課長は落ち着いた声で返答した。
「しかし、視力が回復するなら、眼鏡の需要は確実に減ります。近視用眼鏡が売れなくなる可能性があります。これは動かしようのない事実でしょう」
「一定の影響はあると、当省も考えております」
その「一定」という、官僚特有の玉虫色の言葉に、業界側の参加者たちがざわついた。
大手チェーンの役員が画面に身を乗り出し、激昂する。
「一定では済まないでしょう! 日本の近視人口を考えれば、売上の七割、八割が吹き飛ぶ可能性があります! 我々は何万人もの従業員と、全国の路面店やショッピングモールにテナントを抱えているんですぞ! それが全部路頭に迷うと言っているんです!」
「一方で」
課長は声を一段張り上げ、業界側の動揺を制した。
「視力回復薬は、一度飲めば終わりの魔法の万能薬ではありません。服用後の慎重な経過観察、日々の視力変化の精密な測定、生活習慣に応じた視力管理のアドバイス、そして必要に応じた補助眼鏡の提案など……。眼鏡店の皆様が担うべき役割は、むしろ今後、劇的に広がる可能性があります」
眼鏡店側が、一瞬、ポカンとした顔になった。
「視力……管理?」
「はい。先ほどの眼科医会との協議でも強く指摘されましたが、数千万人に及ぶ対象者の毎月の定期検査需要を、既存の眼科クリニックだけで受け止めきれるはずがありません。地域に根差した眼鏡店の皆様が、視力測定と経過確認の『一次窓口』の一部を担うことは、今後の社会インフラとして極めて重要です」
その言葉を聞いた瞬間、大手チェーンの担当者の目の色が変わった。絶望に沈んでいた瞳に、強烈な商売人としての光が宿ったのだ。
「つまり……我々に、眼鏡を単に『売る』だけの小売店から、国民の視力を『管理する』拠点へと移行しろと?」
「国としては、そうした方向性を一つの『規範』として示すことは可能です」
「出たな、また規範だ」
業界代表が呆れたように言ったが、先ほどまでの重苦しい絶望感は、すでに霧散していた。
「はい。規範です」
課長が堂々と頷くと、眼鏡店側の回線がミュートになり、数秒間、彼らだけで激しい議論を交わしている様子が窺えた。
やがてミュートが解除されると、大手チェーンの担当者が、完全にビジネスの交渉モードの顔つきになっていた。
「……確かに。薬の効き目を維持するために、毎月必ず顧客が検査に来るとなれば、顧客との接点(タッチポイント)は劇的に増えますね。一度眼鏡を売って数年間来店しない従来のモデルより、はるかに安定したトラフィックが見込める」
「度なしの保護眼鏡、デスクワーク専用のブルーライトカットレンズ、スポーツ用の保護ゴーグル、子供の視力低下を防ぐための生活習慣改善コンサルティング……。なるほど、売るものはまだ残っているし、新しく作り出せる」
地域の老舗店主も、腕を組みながら何度も頷く。
「視力が回復した後に、『裸眼になったら自分の顔の余白が目立って、のっぺりして似合わなくなった』という相談も絶対に来るはずだ。伊達メガネの需要は逆に掘り起こせる。フレームのファッション性は死なない」
課長が冷静に釘を刺す。
「……それは医療行為ではありませんので、当然ながら保険適用の枠外です」
「でも、商売にはなります」
業界代表が不敵に笑う。厚労省側は返す言葉がなかった。商魂たくましい彼らは、自ら生き残る道を見つけ出したのだ。絶望的なピンチを、新たな巨大市場の創出へと転換させる。それが民間企業の強さだった。
担当課長は、改めて深く頭を下げた。
「今回の報道のタイミングによって、眼鏡店の皆様に『業界が消滅するのではないか』という多大な不安を与えてしまったことは承知しております。本当に、申し訳ありません」
「不安はありますよ。ただ、全国の店舗を『検査ステーション』として活用できる需要が出るなら、話は全く変わってきます」
「一か月ごとの定期検査について、眼科のみでなく、認定された眼鏡店等で受けられる導線を、現在急ピッチで検討しております」
業界側が、完全に前のめりになった。
「その『認定要件』は、いつ、どのような形で決まるのですか?」
「現時点では、標準的な規範を示すにとどまります」
「また逃げた」
「規範です」
ここで、形勢は完全に逆転した。生き残る道筋を見つけたメガネ屋側が、厚労省を激しく攻め始めたのである。
「厚労省さん。では、こちらから強く要望します。認定検査店制度を作るなら、既存店舗の視力検査機器と、我々が育成してきたスタッフのスキルをそのまま活用できる基準にしてください。天下り先のような新規の巨大検査施設を国主導で作られたら、地域の店舗は今度こそ死にます」
「……貴重なご意見として承ります」
「服用後の視力変化に合わせた、補助眼鏡や保護眼鏡の提案を、制度上明確に認めてください。グレーゾーンにされると現場が萎縮してビジネスが回せません」
「そこは、医師の医療行為との厳密な線引きが必要です」
「だから、その線引きを国が明確に示してください」
「規範を示します」
「だから、それを早く出せと言っているんです!」
結局、最後は厚労省が勢いづく眼鏡業界に押され、再び平謝りする羽目になった。
第三の会議室。
眼鏡業界よりもさらに深刻な、冷え切った空気が漂っていたのは、コンタクトレンズ業界からの問い合わせだった。
彼らの状況は、眼鏡店とは根本的に異なる。「検査窓口」への大規模な転換や、「伊達コンタクト」といったファッション面への完全な逃げ道が限られているからだ。
「……厚労省さん。眼鏡はファッションや保護用として生き残る道があるかもしれません。しかし、コンタクトレンズはどうなりますか。我々は、視力補正という物理的な機能のみで勝負している産業です」
業界担当者の声は、死を宣告された罪人のように暗く、重かった。
「視力回復薬の導入によって、一定の市場変化は避けられないと、当省も考えております」
「遠回しに、我々は死ぬと言っていますか?」
「そのような趣旨ではありません」
「我々の業界は、毎日使い捨てレンズを消費してくれる膨大なユーザーの継続的なランニングコストに支えられているのです。半年で二千円の薬が国民に普及したら、使い捨てコンタクト市場は根底から吹き飛びます。大打撃どころの話ではありません。産業の終焉です」
課長は、慎重に言葉を選んだ。彼らの悲痛な訴えは事実であり、ごまかしが効かないと分かっていた。
「……一方で、国民のすべての人が視力回復薬の適応対象になるわけではありません。また、激しいスポーツを行うプロアスリート、角膜の形状等に医療的事情がある方、薬が使えない特殊用途、あるいは一時的な視力補正など、コンタクトレンズの一定の需要は確実に残ると考えられます」
「一定、一定、一定……。霞が関の官僚は、“一定”という言葉を使えば、どんな産業を潰しても許されると思っていませんか?」
「思っておりません」
課長は即答した。だが、隣で議事録を取っていた若手官僚は内心で突っ込んでいた。
(いや、絶対に思っている。どう考えてもコンタクト業界は死にかかっている。だが、技術の進歩の前に、旧来の産業を国が保護し続けることは不可能なのだ)
これは決して笑えないブラックジョークだった。
コンタクト業界は、メガネ屋ほどすぐにはビジネスモデルを転換できない。しかし、業界としても泣き寝入りするわけにはいかず、処方後の視力が安定するまでの一時的な補助レンズ、特殊な医療用レンズ、カラーコンタクト等の美容領域への特化、そして眼科と連携した検査機能の拡充などで、なんとか細い糸を手繰り寄せて生き残る道を探るしかなかった。
課長は、ここでも行政官としての「逃げ」のカードを切った。
「国としては、技術革新による市場構造の変化そのものを止める立場にはありません。ただ、急激な変化によって、国民の選択肢が失われたり、社会的な混乱が生じたりしないよう、必要な『規範』を示してまいります」
「……つまり、潰れる企業は市場原理の中で潰れろと、そういうことですか」
「そのような直接的な表現は、一切しておりません」
午後になり、第四の矢が飛んできた。
レーシックやICL(眼内コンタクトレンズ)の手術を大々的に行い、高額な自由診療で利益を上げてきたクリニックの経営者や代表者たちである。
彼らの関心事は、極めてドライで現実的な二点に集約されていた。
一つ、手術済みの患者への対応。
二つ、今後の広告表現の自由度。
「我々のクリニックで過去にレーシックやICLを受けた患者は、この視力回復薬を使用できるのですか? 朝から『せっかく大金を払ったのに無駄になった』『薬と併用して副作用はないのか』という問い合わせが殺到して、業務が麻痺しています」
「眼球の構造が物理的に変化しているため、個別に専門医が判断する必要があります。一律の使用は危険です」
「それでは患者に説明がつきません。明確な基準を出してください」
「現時点では、手術歴がある方は一律に自己判断で使用せず、必ず専門医の慎重な診察を受けるべき、という規範を示します」
「また規範ですか」
「はい」
厚労省の「規範シールド」は、もはや鉄壁の防御力を誇り、いかなる追及も滑り落としていた。
続いて、別のクリニック代表が身を乗り出して、核心を突く質問を投げかけた。
「広告について伺いたい。今後、我々のクリニックで『視力回復薬と、当院の独自治療を組み合わせた新時代の視力治療』のような広告を打つことは可能ですか?」
その言葉が出た瞬間、課長の顔つきが、それまでの疲労困憊した官僚のものから、国民の健康を預かる番犬としての鋭く険しいものへと一気に切り替わった。
「現時点で、過剰な効果をうたう広告、未承認の技術との組み合わせ治療を示唆する広告、そして何より、患者の不安を不当に煽るような広告は、厳しく制限されるべきと考えています」
自由診療側の代表が、訝しげに眉をひそめる。
「……“べき”ですか?」
「規範です」
「つまり、現時点では明確な法的拘束力はないと?」
相手が踏み込んできたのを見て、課長は声を一段低く、凄みを利かせて言い放った。
「悪質な場合は、既存の医療広告ガイドライン、景品表示法、そして消費者保護の枠組みをフルに活用して、断固たる対応をとることになります」
画面越しの空気が凍りついた。厚労省が本気で牙を剥いたのだ。
「レーシック済みでも薬で完全回復」「当院ならICL不要」「二千円の薬より確実なプレミアム治療」「アンノウン技術併用で視力3.0へ」などといった、情報弱者を狙うような広告は一切認めないという強い意志表示だった。
「いいですか。新しい技術の登場に戸惑う患者の『不安』を、不当に商売に変えるような広告は、当省としては絶対に許容しません」
自由診療側の代表たちは、無言で引き下がった。
この日の厚労省は、ただ逃げ回っているだけではなかった。国民の健康と安全という「絶対に守るべき線」に関しては、一歩も引かずに壁として立ちはだかったのである。そして、彼らが示す「規範」という言葉の裏には、逆らえば国家権力で徹底的に叩き潰すという、静かな脅しが込められていた。
だが、厚労省の長い一日は、まだ半分も終わっていなかった。
(前編・了。後編へ続く)