自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第216話 視界が戻る日

 三浦直人(みうら・なおと)、三十九歳。

 彼にとって、朝の目覚めとは、色彩の塊がただ漠然と漂う「曖昧な世界」へ放り出されることから始まる。

 視力は両目ともに〇・〇三。小学校高学年の頃に黒板の文字が読めなくなって以来、彼の顔には常に分厚いレンズが乗っていた。高校時代にコンタクトレンズに挑戦したこともあったが、極度のドライアイが災いし、すぐに断念した。社会人になり、一日中パソコンのモニターと睨み合う生活が定着すると、視力はさらに底を打った。

 朝、目を覚ましても、天井の木目は認識できない。ただの薄茶色の平面だ。サイドテーブルに置かれたデジタル時計は、緑色の光を放つぼんやりとした箱でしかなく、スマホの通知を知らせる画面は、ただの白い四角形に過ぎない。

 ベッドから身を乗り出し、手探りで冷たい金属のフレームを探し当てる。それを耳に掛けた瞬間、ようやく世界は「ピント」という概念を取り戻し、三浦の脳は現実へとログインを果たすのだ。眼鏡は単なる視力補正の道具ではない。彼が社会生活を送るための、絶対的な認証キーだった。

 

 数ヶ月前、国が「視力回復薬」の先行導入を発表した日。三浦もまた、あの狂乱の予約騒動――ネット民が言うところの眼科予約RTA――に参加した一人だった。

 有給休暇を取り、午前九時の開始と同時にマウスをクリックし続けたが、都市部の眼科の予約枠は一瞬で消滅し、彼は最初の戦いに敗れた。その後、追加枠の発表でなんとか三ヶ月後の予約をもぎ取った時、安堵よりも先に「まだ三ヶ月もこの重い眼鏡をかけ続けなければならないのか」という徒労感が勝った。

 三ヶ月。確かに長い。

 だが、彼がこの曖昧な世界と付き合ってきた二十五年に比べれば、誤差のような時間だった。

 

 そして、その三ヶ月が経過した今日。

 三浦は、指定された時間の少し前に、予約した駅前の眼科クリニックの待合室に座っていた。

 フロアは、満席だった。分厚いレンズの奥で不安そうに瞬きをする高校生。バッグの中でコンタクトケースを弄り続けている若い女性。手持ち無沙汰に老眼鏡を首から下げた初老の男性。母親に手を引かれた小学生。制服姿の長距離ドライバーらしき男。

 年齢も職業もバラバラな人々が、静かにソファーに腰掛けていた。

 数ヶ月前、SNSや掲示板であれほど日本中が狂乱し、「予約番号持ちの貴族」「リアルチート」などと囃し立てていたのがまるで嘘のように、待合室は水を打ったように静かだった。誰も騒いでいない。スマホの画面を凝視する者すら少ない。

 ネットの祭りは、画面の向こう側でとうの昔に終わっていた。今ここにいるのは、ただ静かに、自分自身の「目」の順番を待つ、切実な人間たちだけだった。

 

「三浦さま、三浦直人さま。第一診察室へどうぞ」

 看護師の声に呼ばれ、三浦は立ち上がった。

 

 診察室の奥に座っていたのは、少し白髪の混じった、穏やかな目元の眼科医だった。連日の対応で疲労は隠せないものの、その声にはプロフェッショナル特有の落ち着きがあった。

「三浦さんですね。本日は視力回復薬の事前検査と、問題がなければ初回投与となります。まずは確認ですが、過去にレーシックやICLといった角膜を削る、あるいはレンズを入れる手術を受けたことはありませんか?」

「ありません。ずっと眼鏡だけです」

「緑内障、あるいは網膜剥離などの既往歴は?」

「特に言われたことはないです」

「分かりました。では、いくつか検査をして、現在の眼球の状態を詳しく見せていただきます」

 

 三浦の想像では、アンノウンの超技術がもたらす医療というからには、もっとSF映画に登場するような巨大で未来的な装置が出てくるものだと思っていた。

 だが、現実は拍子抜けするほど地味だった。暗室での眼底検査、眼圧を測るために風を吹き付けられる機械、気球のマークを見つめる屈折検査、そしてお馴染みの「C」の開いている方向を答える視力検査。

 淡々とした、しかし極めて念入りな手順が繰り返された。

 

「……はい、結構です。角膜にも網膜にも異常は見られません。強度近視ではありますが、今回の薬の適応範囲内です。ただ、いくつか重要な注意事項があります」

 医師はカルテから目を上げ、三浦の顔を真っ直ぐに見た。

「この薬は、疲労し硬直した毛様体筋や周辺細胞に作用し、弾力性を修復するものです。ですが、一度点眼すれば一生視力が落ちない魔法の薬ではありません。投与後も長時間パソコンを見続けたり、暗い部屋でスマホを凝視すれば、必ず再び視力は低下します」

「……はい」

「そして、細胞の急激な変化による眼圧の異常がないかを確認するため、一か月後の検診は『絶対』に受けていただきます。効果の持続には個人差があり、半年後に再投与が必要になるケースも多いです。よろしいですね?」

 

 これが、ネットで厚労省が「規範」として連呼していた安全の壁なのだと、三浦は実感した。

「分かりました。約束します」

「では、始めましょう。顎を上げて、少し目を開いてください」

 三浦は眼鏡を外し、言われるままに上を向いた。

 視界はぼやけ、医師の顔も白衣の輪郭も、曖昧な色としてしか認識できない。

 

 冷たい感触が、右目に落ちた。

 続いて、左目にも一滴。

 瞬きをすると、薬液がじわっと眼球の表面に広がっていくのを感じた。少しだけ染みるような感覚があったが、痛みというほどではない。

 目を開ける。

 だが、世界は何も変わっていなかった。ぼやけた輪郭のままだ。

 三浦が戸惑いから言葉を発しようとする前に、医師が静かに言った。

「すぐ劇的に世界が変わる方もごく稀にいらっしゃいますが、多くの場合、数分から十数分かけて、ゆっくりとピントが合っていきます。焦らず、あちらの待機用の椅子に掛けてお待ちください」

 

 三浦は案内された壁際の椅子に座った。

 眼鏡は看護師に預けたままだ。いつもなら、眼鏡がない状態で椅子に座っていても不安で落ち着かない。壁掛けの時計はただの丸い影にしか見えないし、掲示板のポスターはカラフルな帯にすぎない。

 三浦は膝の上で手を組み、じっと待った。

 予約が取れないと焦り、ネットの掲示板で右往左往していた数ヶ月。だが、本当に視界を取り戻す最後の瞬間に求められたのは、ただ静かに椅子に座って「待つ」という単純な忍耐だった。

 

 五分が経過しただろうか。

 三浦はふと、目の前の壁に貼られたポスターに視線を向けた。

 最初はただの青と白の色面だったはずのその四角形に、何かが浮かび上がっていた。

 黒い、点の集まり。それが徐々に形を成し、意味を持つ線へと結像していく。

 三浦は無意識に瞬きを数回繰り返した。

 ポスターの一番大きな文字の輪郭が、震えながら、確かな形を持って三浦の網膜に飛び込んできた。

 

『目を酷使しない生活習慣を心がけましょう』

 

 読める。

 眼鏡をかけていない。鼻梁にフレームの重みはない。それなのに、三浦は自らの肉眼の目だけで、二メートル先の文字を認識していた。

 呼吸が止まった。

 顔を横に向ける。待合室の壁掛け時計。

 丸い影ではなく、白い文字盤に刻まれた黒い数字。そして、その上を等間隔で滑っていく、赤い秒針。

 何十年も、眼鏡なしでは決して見ることのなかった「動き」が、そこにあった。

 

「三浦さん。具合はいかがですか?」

 看護師が近づいてきて、覗き込むように声をかけた。

 三浦は答えようとして、口を開いたが、声がうまく出なかった。ただ、深く頷くことしかできなかった。

 

 再び診察室に呼ばれ、視力検査の前に立った。

「では、一番上の丸から。開いている方向を教えてください」

「……右、です」

 いつもなら、裸眼では一番上の巨大なランドルト環すら、ぼやけた黒い染みにしか見えなかった。

「次、下の段」

「上」

「次」

「左」

 一つ。また一つ。

 三浦の視線は、滑るように下段へと降りていく。決して勘で答えているのではない。黒い輪の切れ目が、まるで刃物で切り取ったかのように、くっきりと見えていた。

 

「……はい、結構です」

 医師は淡々と、手元のカルテに数字を書き込んだ。

「劇的に改善しています。日常の生活には全く支障のないレベルでしょう。ただ、細胞が急激に変化していますから、まだ完全に安定しているわけではありません。一か月後の検査には、必ずいらしてください」

「はい。必ず」

 三浦は短く答えた。大声で歓喜を叫んだり、泣き崩れたりすることはなかった。ただ、世界が当たり前のようにそこにあるという事実に、心が静かに震え続けていた。

 

 会計を済ませ、受付で次回の予約票を受け取る。

 小さな字で印刷された感熱紙のレシート。

『次回検査日 一か月後』

『視力維持のため、長時間の画面注視を避けてください』

 その細かな印字が、眼鏡なしでくっきりと読める。読めるからこそ、その注意を絶対に守らなければならないと、三浦は強く心に刻んだ。

 

 眼科を出た三浦は、駅前の商業ビルに入っている『認定眼鏡店』に立ち寄った。

 かつて、分厚いレンズの度数を上げるために何度も通ったチェーン店だ。だが、今日は目的が違う。

 入店すると、すぐに制服姿の店員が声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。視力回復薬の投与後のご相談でしょうか?」

「はい。さっき、終わったところで」

 店員は、以前のように「では、視力を測って新しいレンズを作りましょう」とは言わなかった。

「視力が大きく変わった直後ですので、角膜や筋肉の状態が安定するまでは、度の入ったレンズは絶対にお勧めできません。本日は、パソコン作業などのブルーライトから目を守るための『度なしの保護眼鏡』をご案内することになりますが、よろしいでしょうか?」

 

 三浦は、少しだけ笑ってしまった。

「……正直、この薬を飲めば、もう一生眼鏡店のお世話になることはないと思っていましたよ」

 店員も、柔らかく微笑み返した。

「私たちも、最初はそう思って絶望しました。でも、必要な眼鏡の『意味』が変わったんです。見えないからかけるのではなく、見えるようになった大切な目を、光のダメージから守るためにかける。そういう時代になったのだと思います」

 数ヶ月前、厚労省と業界が激しい議論の末に導き出した「視力管理ステーションへの転換」という規範が、現場で静かに、そして確実に機能していた。

 

 三浦は、店員に勧められるまま、ブルーライトカット加工が施された、驚くほど軽いチタンフレームの度なし眼鏡を購入した。

 視力が戻ったのに、また眼鏡を買う。その行為は少し滑稽にも思えたが、決して悪い気はしなかった。

 

 同じ日の午後。

 三浦とは別の眼科クリニックの「小児・成長期相談枠」の待合室に、佐伯浩一(さえき・こういち)は、中学生の娘・美桜(みお)の隣に座っていた。

 浩一自身は、五年前に三十万円以上の費用をかけてレーシック手術を受け、すでに裸眼の生活を手に入れていた。視力回復薬のニュースを初めて見た日、彼は一瞬だけ「三十万損した」と内心で毒づいた。だが、次の瞬間には、隣で分厚い眼鏡をかけてスマホを覗き込んでいる娘の姿を見て、必死に予約サイトの更新ボタンを連打していた。

 

 美桜は小学校高学年の頃から急激に近視が進み、今では分厚いレンズの眼鏡が手放せなくなっていた。年頃の彼女はそれをひどく嫌がり、体育の時間や部活のバドミントンでも、動きが鈍くなることを理由に消極的になっていた。

「見えてるから平気」と本人は強がるが、リビングでテレビを見る時も、浩一には彼女がいつも目を細めているのが分かっていた。

 

 成長期の子供への適応には、厚労省のガイドラインでも極めて慎重な判断が求められていた。

 診察室で、眼科医は美桜の眼底写真をモニターに映し出しながら、厳しい口調で言った。

「眼球がまだ成長段階にあるため、すべての子供に無条件で使えるわけではありません。美桜さんの場合は、検査結果から判断して、慎重に低用量の投与から始められる範囲内です。ただし」

 医師は、美桜の顔を真っ直ぐに見た。

「スマホを暗い部屋で見続けたり、ゲームを何時間もやったりする生活習慣を変えない限り、筋肉はすぐにまた固まり、必ず視力は悪化します。薬は手伝ってくれるだけで、治すのは自分の生活です。約束できますか?」

 美桜は気まずそうに目を逸らしたが、小さく「……はい」と頷いた。

 浩一は、日頃のスマホの長時間を注意したくなったが、ぐっと飲み込んだ。今日は説教の日ではない。

 

 点眼の瞬間、美桜は少し肩をビクッとさせて怖がった。

 浩一が思わず娘の手を握る。

「痛いか?」

「……ううん。冷たいだけ」

 

 待合用の椅子で待機する間、美桜は最初は平気な顔を作っていた。

 だが、数分後。彼女の視線が、壁に貼られた子供向けの啓発ポスターに釘付けになった。

『目を休ませよう。ゲームは一日一時間まで』

 ひらがなと大きな漢字で書かれたそのポスターを見つめながら、美桜の唇が小さく動いた。

「……読める」

 隣に座っていた母親が、小さく息を飲んで口元を押さえた。浩一は、娘の横顔を見つめたまま、何も言えなかった。

 

 その後の視力検査。

 美桜の口から、ランドルト環の方向を告げる声が、リズム良く紡ぎ出されていく。

「上。……右。左。……下」

 一つ。二つ。三つ。

 今まで、眼鏡をかけなければ絶対に届かなかった段の記号を、彼女は裸眼で次々と読み当てていった。

「……よく見えていますね。素晴らしいです」

 医師がカルテに記録しながら言ったその言葉で、美桜の顔に、今日初めての、年齢相応の明るい笑顔が弾けた。

 大声で歓喜するわけではない。ただ、眼鏡を外したまま振り向き、母親と、そして浩一の顔をじっと見つめた。

「お父さん、そんな顔してたっけ」

 浩一は苦笑した。

「ひどい言い草だな。お父さんの顔を忘れてたのか」

「いや……なんか、輪郭が、ちゃんとくっきりあるなって」

 

 その言葉の響きに、浩一の胸の奥で何かが熱く込み上げてきた。泣きそうになるのを、必死に喉の奥で飲み込む。

 三十万円のレーシックは、決して無駄ではなかった。自分はただ、数年早く裸眼の快適さを金で買っただけだ。

 でも、もしこの二千円の薬がなかったら、娘も将来、自分と同じように眼球にメスを入れる恐怖を味わわなければならなかったかもしれない。

 娘が痛い思いをせず、こうして眼鏡を外して笑ってくれるなら。それでも、薬の自己負担が一回二千円で済むなら、安すぎるくらいだった。

 

 佐伯親子にとっての本当の「ご褒美」は、翌日の学校での出来事だった。

 医師からは、急な視界の変化で疲れないよう、しばらくは度を落とした補助眼鏡を使うことや、一か月後検診までは決して目を酷使しないようきつく言われていた。

 それでも、翌朝、美桜は眼鏡をケースにしまい、裸眼のまま家を出た。少しだけ、足元が怖い。でも、見慣れた通学路の景色が、まるでカメラのレンズを磨いたように鮮やかだった。

 

 教室のドアを開ける。

 いつもの友達が駆け寄ってきて、不思議そうな顔をした。

「あれ、美桜、今日コンタクト?」

「ううん」美桜は少し胸を張った。「今日は、眼鏡なし」

「えっ、見えるの!?」

 

 美桜は、教壇の後ろにある黒板に目を向けた。

 朝のホームルーム前、担任が連絡事項を白いチョークで殴り書きしている。

 今までなら、一番前の席に座っても文字の輪郭が滲んで見えた。後ろの席なら、目を細めなければ何が書いてあるか分からなかった。

 だが、今は違う。

 チョークの粉の質感まで分かるような、くっきりとした白い線。文字が、黒板という平面の上にしっかりと立ち上がって見えた。

 美桜は自分の席に座り、こっそりと口角を上げた。

 文字は、ただそこにあった。目を凝らす必要などない。世界が当たり前のように存在している。それだけのことが、彼女には魔法のように感じられた。

 

 その日の夕暮れ。

 五十代後半の長距離トラック運転手、久保田修(くぼた・おさむ)は、助手席から流れる景色をじっと見つめていた。

 運転席には、同じ運送会社の若い同僚が座っている。今日は眼科で視力回復薬の投与を受けた直後であり、念のため運転は控えるよう医師から指示されていたのだ。

 

 久保田にとって、加齢による視力の低下は仕事の命運を分ける深刻な問題だった。特に免許更新時の「深視力検査」。三本の棒が立体的に揃うタイミングを見極めるあの検査は、遠近感を掴む能力が衰えた久保田にとって、毎回冷や汗を流す恐怖の儀式だった。

 夜間走行時には、前を走るトラックのテールランプが赤く滲んで見え、雨の日には道路標識の文字が乱反射して読み取れない。本人は「まだ経験でカバーできる」と意地を張っていたが、会社の安全管理担当から強く勧められ、渋々予約を取ったのだった。

 

「薬で目を戻すなんて、ポンコツ扱いされてるみたいで気に食わねえ」

 最初はそうこぼしていた久保田だったが、同僚の若い男に「久保田さんが目ぇ悪くして事故ったら、俺らが一番泣くんですよ」と真顔で言われ、心が折れた。

 

 眼科での検査は、想像以上に厳格だった。

 医師は久保田の職業を聞くや否や、眼底や白内障の兆候がないかを入念にチェックし、最後に強いトーンで釘を刺した。

「久保田さん。薬でピント調節機能が改善し、視力が戻っても、あなたの運動神経や判断力、反射神経が若い頃に戻るわけではありません。そこは絶対に誤解しないでください。仕事で命を預かる目だからこそ、これからはより一層、無理をしないでください」

「……分かってますよ、先生」

 

 点眼後、しばらくして行われた視力検査。

 確かに、改善していた。ぼやけていた「C」の輪郭が、驚くほどはっきりと見えた。

 だが、二十代の頃の無敵の肉体に戻ったわけではない。医師の言う通りだ。自分の目は、ただ「本来の機能の限界値」まで修復されたに過ぎない。

 

 夕闇が迫る国道。助手席からフロントガラス越しに前方を眺める。

 前方を走る乗用車のブレーキランプが点灯した。

 いつもなら、赤い光がぼんやりと大きく滲んで視界を邪魔していた。だが今は、はっきりとした二つの赤い点として、適切な距離感を持ってそこにある。

 標識の青い看板の白い文字も、ライトに反射して潰れることなく、くっきりと読み取れる。

 

 久保田は、ふうっと小さく息を吐き出した。

「……まだ、走れるな」

 ハンドルを握っていた同僚が、横目で笑う。

「だからって、無茶しないでくださいよ」

「分かってる。見えやすくなったからこそ、気を抜かねえよ」

 

 派手な奇跡などいらない。ただ、自分の仕事の誇りを保つための、安全な視界。

 まだ走れる。ただし、無理はせず、確実に。

 久保田は、夕陽に照らされた道路の白線を、ただ静かに見つめ続けていた。

 

 その頃、霞が関の厚生労働省では、担当課長が全国の指定医療機関から上がってくる「初回投与の初期サマリー」に目を通していた。

 ・初回投与群における重篤な副作用の報告:なし。

 ・投与前検査における不適応判定(眼疾患等による処方見送り):一定数あり、適切な専門医療へ誘導。

 ・手術歴あり患者への対応:専門医による極めて慎重な経過観察中。

 ・小児・成長期枠:低用量での投与と、徹底した生活習慣指導を重視。

 ・投与後一か月検診の次回予約率:九十五パーセント以上で推移。

 ・認定眼鏡店への視力相談件数:想定以上に増加、眼科の負担軽減に寄与。

 

 若手官僚が、報告書をまとめながら安堵の息を吐いた。

「……課長。初回投与、概ね順調と言っていい滑り出しです。あのパニックを考えれば、奇跡的です」

 課長も、少しだけ肩の力を抜いた。

 だが、すぐに表情を引き締め直す。

「まだ喜ぶ段階ではない。大事なのは一か月後の検診だ。そして半年後の再服用だ。視力が戻ったことで『もう目は無敵だ』と勘違いして目を酷使し、再び視力を落とす者も必ず出る。ここからが、本当の制度運用だ」

「また、国民に規範を示し続けるわけですか」

「そうだ。今度は、手に入れた視力を『守らせるための規範』だ」

 この数週間の厚労省の「規範による逃げ」は、結果として、医療現場にルールを構築させるための必要な時間稼ぎであった。

 

 三浦が受診した眼科でも、医師は休む間もなく次の患者のカルテを開いていた。

 隣で器具を片付けていた看護師が、ふと思い出したように言う。

「先生。さっきの三浦さん、診察室を出て行く時、少し泣きそうでしたね」

「そうですね」

「先生は、ご自分の腕で患者さんの視力が回復して、嬉しくないんですか?」

「嬉しいですよ、もちろん」

 医師はカルテから目を離さず、淡々と答えた。

「でも、我々の仕事は奇跡を起こして終わりではありません。一か月後、彼がちゃんと目を労った状態で戻ってくるか。それを確認するまでが責任です」

「根っからのお医者様ですね」

「医者ですから」

 奇跡の魔法の裏側には、常に地味で堅実な、人間の手による管理が存在しているのだ。

 

 夕方。

 眼科と眼鏡店での用事を終えた三浦は、自宅へと続く見慣れた道を歩いていた。

 いつもの駅。いつもの改札。いつもの商店街のアーケード。いつもの電柱。いつもの夕飯の匂いがする路地裏。

 毎日歩き慣れた道のはずなのに、世界が少しだけ「新しく」感じられた。

 

 裸眼で外を歩くのは、実は少し怖い。

 今まで、眼鏡を外した状態で屋外に出ることは「危険」と同義だった。足元の小さな段差、向こうから歩いてくる人の顔、音もなく近づいてくる自転車、路肩に停まっている車。すべてが色の塊でしかなく、距離感が掴めないからだ。

 だが今は、見えている。足元のタイルの目地までが、はっきりと分かる。

 三浦は無茶をせず、先ほど眼鏡店で購入した「度なしの保護眼鏡」を取り出し、顔にかけた。

 視界の鮮明さは変わらないが、ブルーライトカットの薄い色が入ったレンズ越しに見る世界は、少しだけ光が柔らかく感じられた。

 医師に言われた通り、治ったからといって好き放題に目を使っていいわけではない。戻ってきたこの視界を、今度は自分自身で守らなければならない。

 

 帰宅し、スーツを脱いで風呂場へ向かう。

 脱衣所で、保護眼鏡を外す。

 いつもなら、この瞬間から世界はモザイク状にぼやけ始める。浴室の白い壁、鏡の水垢、シャワーヘッドのステンレスの輝き、そして、備え付けの棚に並んだプラスチックのボトルたち。

 これまで、三浦は何度シャンプーとリンスを間違えたか分からない。ボディソープと洗顔料を間違えて顔を洗ったこともある。ボトルの形や色、置かれている位置だけで記憶していたため、家族がボトルの位置を少し変えただけで、彼のシステムは崩壊した。

 

 浴室に入り、シャワーの湯を出す。

 立ち上る湯気の中、三浦は棚に並んだボトルに顔を向けた。

 水滴がびっしりとついた、ポンプ式のボトル。

 そこに印字された、小さなアルファベットの羅列。

 目を細める必要はなかった。

 

『SHAMPOO』

 

 読める。

 視線を隣に移す。

 

『CONDITIONER』

 

 読める。

 

 三浦は、シャワーの湯を浴びたまま、その場でゆっくりとしゃがみ込んだ。

 大声で泣き叫んだわけではない。激しい嗚咽を漏らしたわけでもない。

 ただ、シャワーの湯がタイルを叩く音に紛れて、彼の口から小さく、震えるような息が漏れ続けていた。目から溢れた温かいものが、シャワーの湯と一緒に頬を伝って流れていく。

 

 彼が本当に欲しかったものは、視力検査の「2.0」という輝かしい数字ではなかった。

 レーシック手術にマウントを取ることでもなければ、予約番号を手に入れてネットで勝ち誇ることでも、一生分のコンタクト代を浮かせることでもなかった。

 風呂場で、シャンプーの文字が読めること。

 朝起きて、眼鏡を探す手探りの時間なしに、時計の針が見えること。

 夜中、もし災害が起きて停電した時、裸眼のままでも出口の扉を探して逃げ出せること。

 彼が切望していたのは、ただそれだけの、当たり前の日常の輪郭だったのだ。

 

 風呂から上がり、髪を乾かした三浦は、いつもの癖で部屋のデスクに置かれた眼鏡に手を伸ばしかけた。

 だが、途中で手が止まる。

 眼鏡をかけなくても、部屋の隅々まで見渡せる。壁のカレンダーの数字も、脱ぎ捨てた靴下の位置も分かる。

 三浦はスマホを手に取った。いつものようにSNSのアプリを開き、今日起きた奇跡をタイムラインに書き込もうとした。

 しかし、画面の強い光が目に入った瞬間、眼科の受付でもらった小さな紙の注意書きが脳裏をよぎった。

 

『長時間の画面注視を避けましょう。一時間に一度は目を休めましょう。一か月後の検診を必ず受けましょう』

 

 三浦は、開いたばかりのSNSアプリを閉じ、スマホの画面を伏せてテーブルに置いた。

 代わりに、部屋の窓を開け、ベランダに出た。

 夜の空を見上げる。都会の空は明るく、星はほとんど見えない。

 それでも、ビルの谷間のわずかな暗がりに、一つだけ、小さな点のような光が見えた。

 以前なら、ぼやけた光のにじみとしてしか認識できなかっただろう。だが今は、はっきりとした一つの「点」として存在している。

 

「……見える」

 三浦は、誰に言うでもなく、静かに呟いた。

 

 明日から、少しだけ生活を変えよう。

 夜、ベッドにスマホを持ち込んで暗闇で見るのはやめよう。仕事中も、タイマーをセットして一時間ごとに窓の外を見るようにしよう。一か月後の眼科の検診は、絶対に忘れない。半年後、もし視力が落ちて再服用が必要になったら、またあそこで大人しく順番を待とう。

 アンノウンの魔法は、彼の人生のすべてを解決してくれたわけではない。ただ、彼に「自分の肉体を大切にするためのスタートライン」を引き直してくれただけなのだ。

 

 その夜、別の場所でも、小さな生活の変化が起きていた。

 佐伯家の洗面所。

 美桜は、鏡の前に立ち、眼鏡をかけていない自分の顔をじっと見つめていた。今まで眼鏡のフレームで隠れていた顔の輪郭が、少し照れくさい。

 後ろを通りかかった母親が、笑いながら言った。

「明日から、スマホの時間はちゃんと守ろうね。せっかく見えるようになったんだから」

「……分かってるよ」

 美桜が少しむくれると、リビングから浩一がひょっこりと顔を出した。

「お父さんも、一緒にスマホ減らすよ」

 美桜が驚いたように振り返る。

「えっ、お父さんも?」

「ああ、お父さんもだ」

 レーシック済みの浩一も、最近は老眼の初期症状とスマホのブルーライトで、夕方には目が霞むようになっていた。娘だけに我慢を強いるのではなく、これを機に家族全員で生活習慣を変える。それが浩一なりのケジメだった。

「じゃあ、寝る前はベッドにスマホ持ち込み禁止ね」

 美桜がすかさずルールを提案する。

「えっ……今日から?」浩一がたじろぐ。

「うん、今日から」

「……はい」

 父親の完敗に、母娘の笑い声が響いた。

 美桜はベッドに入り、部屋の壁に掛けられたカレンダーを見た。いつもなら近づかなければ読めなかった小さな数字が、ベッドからでもはっきりと見える。

 彼女は、安心したように静かに目を閉じた。

 

 運送会社の車庫では、久保田修が自分の担当する大型トラックの前に立っていた。

 今日はもう運転業務はない。ただ、相棒の顔を見に来ただけだ。

 ヘッドライトのレンズ、サイドミラーの角度、車体番号の印字。いつもの風景が、少しだけ鮮明に目に飛び込んでくる。

 横を通りかかった若い同僚が、ニヤリと笑って声をかけた。

「久保田さん、明日からついに無敵ですね」

 久保田は首を振った。

「無敵なんかじゃねえよ。ただ、ちょっと見えやすくなっただけだ」

「それでも、長距離走る俺らには大きいですよ」

「ああ。大きいな」

 久保田は、手に持っていたウエス(雑巾)で、トラックのフロントガラスを拭き始めた。視界がクリアになった分、ガラスについた小さな虫の死骸や水垢が、以前よりもよく見えるようになっていたからだ。

「まずは、ガラスをきれいにしねえとな。目が良くても、窓が汚れてちゃ前は見えねえ」

 薬で肉体の機能が戻っても、プロとしての仕事は、常にこうした地味な確認作業から始まるのだ。

 

 翌朝。

 三浦は、いつもの時間に目を覚ました。

 長年の習慣で、右手が無意識に枕元のサイドテーブルを探ろうとする。

 だが、その手は空中でピタリと止まった。

 白い天井の木目が見える。

 カーテンのわずかな隙間から差し込む、朝の光の粒子が見える。

 そして、壁に掛けられた時計の文字盤が見える。

 六時四十二分。

 ぼやけた光の箱ではなく、はっきりとした黒い数字が、彼に朝の訪れを告げていた。

 

 三浦は少しだけ笑い、眼鏡を探すことなく、そのままベッドから起き上がった。

 洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。

 寝癖で髪が少し跳ねている。目の下には、仕事の疲れからくる薄い隈がある。

 そして、鼻の付け根の両側には、長年かけ続けた眼鏡のノーズパッドの跡が、薄い色素沈着としてくっきりと残っていた。

 二十五年分の重みの痕跡。それは、視力が回復したからといって、一朝一夕に消えるものではない。

 でも、構わない。世界は確かに、彼自身の目を通して見えているのだから。

 

 三浦は冷たい水で顔を洗い、タオルでしっかりと水気を拭き取った。

 そして、洗面台の横に置いてあった、昨日買ったばかりの「度なしの保護眼鏡」を手に取った。

 少しだけ考えてから、それを顔にかける。

 もう、見えない世界を強制的に補正するためにかけるのではない。

 

 厚労省が紛糾しながら規範を示し、眼科医が疲労に耐えながら検査をし、眼鏡店が新たな役割で支え、そして一滴の新しい薬が瞳に落ちた。

 その巨大な社会システムの連鎖の果てに起きた奇跡は、テレビで報じられるような派手なSF的スペクタクルではなかった。風呂場のシャンプーの文字が読めるという、ごく当たり前の、静かな日常の輪郭として、ようやく一人の人間の生活に確かに届いたのだ。

 

 見えるようになったこの世界を、今度は自分自身の力で守っていく。

 保護眼鏡越しに鏡の中の自分を見つめ返し、三浦は静かに、新しい一日への扉を開けた。




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