自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第219話 料亭で、深海の嘘が本物になる

 東京都港区、表通りの喧騒から少し離れた閑静な一角にひっそりと佇む老舗の料亭。

 表通りからは一見してそれと分からない高い板塀に囲まれ、打ち水がされた美しい石畳の小径が奥へと続いている。政財界の重鎮たちが人目を忍んで密談を行うために長年贔屓にしてきた、完全紹介制の離れを持つ名店である。

 

 その一番奥、手入れの行き届いた日本庭園に面した座敷に、三人の人物が向かい合って座っていた。

 上座に腰を下ろしているのは、日本の重工業と宇宙開発、そして巨大なロジスティクスを裏から牛耳る海道グループの総帥、海道龍之介。

 その隣には、彼の孫娘であり、次世代の海道家を担うであろう若き令嬢、海道サクラが、美しい和服姿で静かに控えている。

 そして下座には、日本政府のあらゆる極秘案件の調整と隠蔽を一人で背負う内閣官房参事官、日下部が、隙のないダークスーツ姿で座っていた。

 

 本日の会合は、内閣情報調査室の公式記録には『政府高官と財界重鎮による、次世代産業インフラに関する非公式の意見交換』として処理されている。

 つまり、表向きにはただの退屈な会食だ。総理も、他の閣僚も、そしてあの規格外の工場長(工藤創一)も、この場にはいない。

 

 女将が季節の八寸を並べ、深々と一礼して襖の向こうへ姿を消す。

 足音が完全に遠ざかり、庭の鹿威しがコーンと甲高い音を立てたのを確認すると、日下部は傍らに置いていたアタッシュケースから、小さな黒いデバイスを取り出し、畳の上に置いた。

 

「少々、無粋なものを置かせていただきます」

 日下部が静かに告げると、デバイスのインジケーターが微かに点滅し、座敷の空間を極めて高度なジャミング・フィールドが覆い尽くした。

 首相官邸の地下で使われている『位相干渉装置』の小型版である。盗聴器、レーザーマイク、電磁波の漏洩、すべてが完全に物理的・システム的に遮断された。

 

 海道総帥は、その小さな黒い箱を一瞥し、穏やかに笑った。

「この席に呼ばれた時点で、無粋な話なのは承知しております。日下部参事官」

 

 日下部は一礼し、懐から厚みのない封筒を取り出した。

 中に入っているのは、一定時間が経過すると酸化して文字が読めなくなる特殊な紙に印字された、たった一枚の資料である。

 

 表紙には、極めて簡潔にこう記されていた。

『海道式深海精錬法・第二世代処理モジュール案』

 

 海道総帥は、差し出されたその一枚の紙を受け取り、老眼鏡越しにじっと見つめた。

 その白眉が、わずかに動く。

 

「……第二世代、ですか」

 

「はい」

 日下部が、感情を排した声で答える。

「これまで海道重工に担っていただいていた深海レアメタル事業を、次の段階へと移行します」

 

 海道総帥は、資料をペラリとめくり、そこに書かれた技術仕様の概要に目を通した。

 数秒後、彼はほとんど驚くこともなく、ふっと息を吐いて言った。

 

「つまり、これまでの『舞台装置』に、本物の心臓が入るわけですな」

 

 日下部は、わずかに目を伏せた。

「……ご理解が早くて助かります」

 

 深海レアメタルプラント船『かいどう』。

 表向きは、日本近海の南鳥島沖から無尽蔵のレアアース泥を汲み上げ、日本の資源安全保障を支える奇跡の船。

 だが、その実態は、テラ・ノヴァという別次元から運び込まれたレアメタルを、「日本の深海で採れました」と偽装して市場に流すための、巨大なカバーストーリー(張りぼて)であった。

 

 海道龍之介は、その事実を完全に理解した上で、政府に協力し、完璧な芝居を打ち続けてきたのだ。

 

「海道重工はこれまで、深海から『採れているように見せる』仕事をしてまいりました」

 総帥は、資料を机に置き、日下部を真っ直ぐに見据えた。

「今後は、この装置を使って……本当に採れるようになるがゆえに、『採れすぎないように見せる』仕事になるのでしょう」

 

 日下部の表情に、微かな安堵の色が浮かんだ。

「その通りです」

 

 この男は、やはり話が早い。

 技術の凄さに目を奪われるのではなく、それがもたらす市場への影響と、自分たちに求められる『裏方の役割』を瞬時に理解している。

 日下部は、今回工藤をこの場に同席させなかった自分の判断が、完全に正しかったことを確信していた。

 

 ◇

 

「この装置の内部コードネームは、『リクレーマー』と言います」

 日下部は、料理には一切手を付けず、冷徹に説明を始めた。

「深海レアアース泥を前処理した上で投入すると、含有されている有用元素を高効率に分離・回収する炉です」

 

「無から有を生み出す魔法の箱ではない、と」

 海道総帥が確認する。

 

「はい。あくまで、そこに含まれているものを異常な精度で取り出す分別装置です」

 

「それで十分です。……深海の泥には、確かに微量のレアメタルが含まれておりますからな。泥を大量に吸い上げ、この炉で処理すれば、カバーストーリーは完全に現実のものとなる」

 

 日下部は頷き、この装置を海道重工に預けるにあたっての『制限事項』を並べ立てた。

「稼働にあたっては、厳重な条件があります。

 投入する泥は、含水率、塩分、有機物の混入、粒度を事前に調整する前処理が必須です。

 処理後には必ず有害な残渣が出ます。放射性物質や危険物は通常処理できません。

 そして何より……装置の『中核部』はアンノウン機関によって完全に封印されており、分解、解析、移設は固く禁じられています。稼働状況は、常にオラクル義体による監査を受けます」

 

「つまり」

 海道総帥は、少しも不満げな様子を見せずに言い切った。

「海道重工は、装置の中身を知る必要はなく、ただ装置が安全に働ける『舞台(外装と周辺設備)』を作り、泥を運び続ければよい、ということですね」

 

「その理解でお願いします」

 

「得意分野ですな」

 海道総帥が、豪快に笑った。

 

 日下部も、一瞬だけ苦笑を漏らした。

 確かに、海道重工はこれまでずっと、アンノウン技術というブラックボックスの外側を、完璧な現実のインフラとして整える作業を黙々とこなし続けてきた。彼らにとって、中身が分からないエンジンに合わせて巨大な船やプラントを設計するなど、もはやお家芸のようなものだ。

 

 ◇

 

 技術的な合意が成されたところで、日下部は声のトーンを一段階下げた。

 ここからが、官僚としての本題である。

 

「今回、問題になるのは『採れるかどうか』ではありません」

 

「『どれだけ採れたことにするか』、ですな」

 海道総帥が、即座に本質を突く。

 

「はい」

 日下部は、資源外交の恐ろしさを語り始めた。

「本当に深海の泥からレアメタルが抽出できるとなれば、これまでのカバーストーリーは盤石になります。ですが、だからといって出力を一気に全開にすれば……市場の価格が崩壊し、中国の資源外交がパニックを起こし、他国の資源メジャーから不自然な供給増に疑いの目が向けられます。さらに言えば、先日アメリカ政府に対しても、このリクレーマーの貸与・共同運用を打診したばかりです。日米での供給量の整合性も取らなければなりません」

 

 日下部は、海道総帥の目を鋭く見据えた。

「ですので、出力資源量は、政府が完全に管理(コントロール)します」

 

 海道総帥は、グラスの冷酒を一口含み、ゆっくりと頷いた。

 

「承知しております。これまでの供給実績の数字から、徐々に引き上げる。急に跳ねさせはしない。……季節要因による採掘量の変化、プラント船の改修工事、処理効率の改善、あるいは採掘海域の泥のロット差。増産の言い訳など、我々がいくらでも作れます」

 

「助かります」

 日下部は、心底安堵して短く答えた。民間企業が、国家の市場操作のロジックに完璧に同調してくれるのは、実務担当者としてこの上ない幸運だ。

 

「ただし、一つだけ確認を」

 海道総帥が、鋭い視線を日下部に向けた。

「今後、テラ・ノヴァ由来の資源比率は……完全にゼロにするおつもりですかな?」

 

 日下部は、少しの間、沈黙した。

 そして、慎重に言葉を選んで答えた。

 

「……段階的に比率を下げていきますが、完全にゼロにはしません。安定供給のための『調整弁』として残します」

 

「賢明です」

 海道総帥は、深く満足したように頷いた。

「現実の鉱床というものは、常に気まぐれなものです。いくら優秀な機械があっても、自然相手では予定通りにいかないこともある。……嘘を本物にするにしても、いざという時のための『少しの嘘(バッファ)』は残しておくべきです」

 

「表現はともかく、同意します」

 日下部も、国家の資源安全保障を「少しの嘘」で支えるという冷徹な事実に、異論はなかった。

 

 ◇

 

 実務的な話が一段落し、女将が次の料理を運んできた。

 日下部は、出された見事な懐石料理にほとんど箸をつけていない。彼の胃は、連日の激務とプレッシャーで、まともな食事を受け付ける状態になかった。

 

 海道総帥は、それを気にする風でもなく、静かに酒を口に運んでいる。

 

 その静寂の中で。

 これまで一言も発することなく、ただ静かに二人の会話に耳を傾けていた海道サクラが、姿勢を正して口を開いた。

 

「……日下部様」

 

 日下部は、箸を置き、彼女の方へ向き直った。

「はい」

 

 サクラは、透き通るような、しかし芯のある強い声で言った。

 

「私は、今日ここに同席する資格がある人間ではないのかもしれません。技術のことも、政治の駆け引きも、経営のことも……まだ祖父から学んでいる途中の身です」

 

 海道総帥は、孫娘の言葉を遮ることなく、ただ静かに見守っている。

 

「ですが」

 サクラは、日下部を真っ直ぐに見つめた。

「海道家が、なぜこれほどまでに国のため、そしてアンノウン案件の裏側に関わり、協力し続けるのか。その理由だけは、私が一番よく分かっています」

 

 日下部は、黙って彼女の次の言葉を待った。

 

「……アンノウン様にいただいた、命です」

 

 サクラの言葉には、一切の迷いがなかった。

 かつて、不治の病に侵され、死の淵にあった彼女は、工藤がもたらした『医療用キット』の奇跡によって命を救われた。彼女にとって、アンノウンという存在は単なる天才技術者や国家の秘密兵器などではない。自分に明日を与えてくれた、絶対的な恩人なのだ。

 

「海道家は、その御恩を決して忘れません」

 サクラは、深く頭を下げた。

「深海の泥を掘ることであれ、宇宙へ行くことであれ。……国のため、そしてアンノウン様のために、海道グループは今後も持てる力のすべてを尽くして働く所存です」

 

 日下部は、その痛切なまでの感謝と忠誠の言葉を聞き、表情を崩さずに答えた。

 

「大変ありがたいお言葉です。政府としても、海道グループの全面的なご協力には、深く感謝しております」

 

 そう答えながらも、日下部の内心には、極めて官僚的な、そして冷徹な警鐘が鳴り響いていた。

 

(……ありがたい。本当にありがたい。だが、これは危険だ)

 

 彼女の思いは、純粋すぎる。それはもはや、単なるビジネス上の恩義や愛国心を通り越し、『信仰』に近いものになっている。

 

(工藤さん本人を、この場に連れてこなくて本当に良かった)

 日下部は、自らの判断の正しさを噛み締めた。

 もしこの場に工藤がいれば、サクラのその重すぎる感謝と忠誠は、彼個人に直接向けられてしまう。工藤は根が善良な男だから、それを無下にはできず、彼らの間に「教祖と信者」のような、あるいは「絶対的な恩人とそれに仕える巨大財閥」という、制御不能な個人的な結びつきが生まれてしまう。

 

 それは、国家として絶対に避けなければならない事態だ。

 アンノウンは、一個人の信仰の対象になってはならない。

 だからこそ、本人を不在にし、日下部という「政府の代理人」がその感謝を受け止め、政治と制度という無機質な言葉に変換して処理しなければならないのだ。

 

(アンノウン本人を、信仰や財界の忠誠から遠ざける。……それも、我々アンノウン機関を作った理由の一つだったな)

 

 日下部は、自らの悪役じみた役割を再認識し、微かに目を伏せた。

 

 ◇

 

「サクラの言う通り、海道家は恩を忘れませぬ」

 海道総帥が、サクラの言葉を受けて静かに口を開いた。

「……ただし、恩を感情だけで返すつもりもありません」

 

「と、言いますと」

 日下部が、総帥の真意を探る。

 

「海道グループは、重工業で返します」

 海道龍之介の目に、巨大な産業を動かすトップとしての誇りが宿った。

「船を作り、プラントを建設し、海底を掘り、資源を運び、必要ならば……宇宙へも手を伸ばす。我々が培ってきた技術とインフラの力。それが、我らにできる唯一の、そして最大の恩返しです」

 

 この台詞で、海道グループの立ち位置が明確になった。

 彼らは、ただアンノウンを盲信する狂信者ではない。信仰めいた恩義は抱きつつも、それを「国家プロジェクトに不可欠な重工業の実務能力」として出力しようとする、極めて強靭で合理的な組織なのだ。

 

 日下部は、その危うさと圧倒的な有用性を同時に理解し、小さく頷いた。

 

「それは、政府としても大変心強い限りです」

 

「今回の第二世代処理モジュールも、海道グループが責任を持って『舞台』を整えましょう」

 海道総帥は、不敵に笑った。

「外から見れば、あくまで『海道式深海精錬法の大規模な改良』。内側では、本当に深海泥から資源を抽出している。……誰もが納得し、誰も疑わない完璧な絵を作ります」

 

「お願いします。発表する成果は、くれぐれも控えめに」

 日下部が念を押す。

 

「心得ております。見せすぎる奇跡は、奇跡ではなく『疑惑』になりますからな」

 海道総帥の言葉には、長年裏舞台を歩いてきた者特有の重みがあった。

 

 ◇

 

「では、具体的な工程に入ります」

 日下部は、封筒から二枚目の資料を取り出した。

 

 そこには、リクレーマーを社会に実装するための、綿密なフェーズ計画が記されていた。

 

【フェーズ一:閉域試験】

 ・南鳥島沖の深海泥の実サンプルを使用。

 ・含水率、塩分、有機物混入率を測定し、前処理条件を確定。

 ・リクレーマーによる分離回収試験。

 ・残渣の封止状態の確認と、出力資源の純度確認。

 

【フェーズ二:プラント船『かいどう』改修】

 ・船内に『第二処理区画』を新設扱いとして構築。

 ・外観は、海道重工製の「最新の大型精錬設備」として偽装。

 ・中核部のみ、アンノウン機関が完全に封印。

 ・周辺の配管、冷却系、泥処理、残渣保管、出力カートリッジの管理ラインを海道重工が担当。

 ・改修の表向きの理由は「第二世代処理モジュール実証」とする。

 

【フェーズ三:海上実証】

 ・少量の深海泥を実際に処理。

 ・出力された資源は、既存の流通ルートに『ごく少量』混ぜて出荷。

 ・急激な供給増は絶対にしない。

 ・成果発表は「処理効率の改善が確認された」程度に留める。

 

【フェーズ四:段階的本物化】

 ・数年単位の時間をかけ、テラ・ノヴァ由来資源の比率を少しずつ下げる。

 ・深海泥由来の資源比率を少しずつ上げる。

 ・ただし、異常事態や需要急増時の『調整弁』として、テラ・ノヴァ資源は引き続き確保・秘匿する。

 

 海道総帥は、その冷酷なまでに緻密な工程表を眺め、静かに頷いた。

 

「……なるほど。早速、一台稼働させるわけですな」

 

「はい。ただし、稼働するのは『装置』であって、市場ではありません」

 日下部が、釘を刺すように言う。

 

「市場を稼働させるには、まだ早い、と」

 

「その通りです」

 

 ここで、二人の視線が交錯し、かすかな笑みが漏れた。

 日下部は、海道総帥が単なる利権狙いの財界人ではなく、情報と演出、そして市場の心理を完璧に理解していることを再確認し、安堵していた。

 

 本題は、これでほぼ終わった。

 深海の嘘は、ゆっくりと、誰にも気づかれない速度で、本物へとすり替わっていく。

 

 日下部は、冷え切った吸い物におもむろに箸をつけようとした。

 

 そこで。

 

「ところで、日下部参事官」

 

 海道総帥が、まるで明日の天気を尋ねるような、極めて穏やかな口調で言った。

 

「海道グループとしては、次世代の事業も水面下で検討しておりましてな」

 

 日下部の箸が、空中でピタリと止まった。

 

「……伺いましょう」

 

 海道総帥は、目を細めて微笑んだ。

 

「……軌道エレベーターです」

 

 静寂。

 料亭の庭で、鹿威しがコーンと鳴った。

 サクラは、静かに自分の茶碗をテーブルに置いた。

 

 日下部は、数秒間完全に無言のまま、海道総帥を見つめ返した。

 

「……海道総帥。本日は、深海の話で終わる予定だったのですが」

 

「深海の次は、宇宙でしょう」

 

「理屈としては極めて正しいのが、たいへん困ります」

 

 日下部の痛切な返しに、海道総帥は悪びれることなく朗らかに笑った。

 

「月面基地計画が本格化し、火星への長期滞在が始まり、核融合炉が稼働し、リクレーマーで資源が循環する。……いずれも、次の時代の確固たる基盤です。ならば、地上と軌道を結ぶ『恒常的な大量輸送路』も、いずれ必ず必要になります」

 

 日下部は、即座に否定しなかった。

 いや、否定できないのだ。

 ロケット輸送にはコストと積載量の限界がある。宇宙開発がさらに進めば、地球と宇宙を安価に、かつ大量の物資で結ぶインフラが絶対に求められるようになる。

 

 だが、それを今、正式な案件にさせるわけにはいかない。

 

 

 

「日本が関与できる範囲で考えるなら……沖ノ鳥島や南鳥島周辺が候補になるのでしょうかな」

 海道総帥が、微かに目を細めながら言葉を紡いだ。

 

 その具体的な地名が出た瞬間、日下部は内心で強烈な警鐘を鳴らした。この男は、すでに単なる夢想の段階を越え、日本が主権を及ぼせる海域の物理的・政治的な条件まで精査し終えているのだ。

 

「通常の、地球の物理法則に則った静止軌道型軌道エレベーターであれば、遠心力と重力のバランスを取るために、本来は赤道直下が建設の絶対条件となります」

 日下部は、あえて一般的な宇宙工学の常識を盾にして牽制を試みた。

「沖ノ鳥島も南鳥島も、我が国が管理できる排他的経済水域(EEZ)の拠点として極めて重要な場所ではありますが……地球の自転軸から外れている以上、古典的な意味での軌道エレベーターの最適地ではありません。テザー(ケーブル)に異常な応力がかかり、構造的に破綻します」

 

 それは、地球上のいかなる優れた構造力学者であっても否定できない真理だった。

 

「では、日本には無理ですかな」

 海道総帥が、試すように問う。

 

「『普通の軌道エレベーター』なら、です」

 日下部が冷徹に返すと、海道総帥は声を出して笑った。

 

「ハッハハ! なるほど、普通なら無理だ。……しかし、我々の周囲には、すでに『普通ではない技術』がいくつも存在しますな」

 

「……その言い方は、非常に危険です」

 日下部は、鋭い視線で海道総帥を射抜いた。

 

 だが、海道総帥は一歩も引かなかった。

「アンノウンの技術を前提にすれば、古典的な軌道エレベーターの常識に拘る必要はないはずだ。例えば、地球の自転に依存せずとも姿勢を保てる巨大な軌道アンカー。あるいは、ヤタガラスの推進系にも使われている『慣性制御』を応用した軌道輸送塔。赤道直下でなくとも自立できる、海上浮体型の巨大な発射支援施設……。少し頭を柔らかくすれば、いくつかの方向性は現実の数字として検討できる」

 

 スラスラと出てくる具体的な代替案の数々に、日下部は深い溜め息を吐いた。

 

「すでに、社内で検討しているのですね」

 

「海道グループは重工業の会社です。我々は、ただ空を見て夢を見るだけではありません。夢を見たら、それを図面に起こすのが仕事ですからな」

 海道総帥の目には、モノづくりの頂点に立つ者としての圧倒的な自負が宿っていた。

 

「夢を図面にした瞬間から、それは『莫大な予算』と『国家安全保障案件』に変わるのです」

 日下部が、冷酷な現実を突きつける。

「アメリカが黙っていません。中国もロシアも、日本が独自の宇宙輸送インフラを独占しようとしていると知れば、南鳥島周辺に軍艦を並べてでも圧力をかけてくるでしょう。図面を書くということは、その地政学的な火薬庫に火を近づける行為です」

 

 その時、ずっと黙って二人の会話を聞いていたサクラが、小さく、しかしはっきりとした声で口を開いた。

 

「……でも、いつか必要になるものではありませんか?」

 

 日下部は、ハッとしてサクラを見た。

 彼女の大きな瞳は、純粋な好奇心だけでなく、論理的な帰結を見据えていた。

 

 その通りだった。

 月面基地が現実のものとなり、火星長期滞在実証拠点が動き出し、宇宙空間での活動が飛躍的に拡大していく。それに伴い、地球から軌道上へ運ばなければならない物資の量——食料、水、フィルター、予備部品、そして建設資材——は、指数関数的に増大していくのだ。

 いつまでも、高コストで積載量に限りのある化学ロケットや、アンノウン由来の推進技術を積んだ少数のシャトルだけに頼っていては、宇宙の物流は必ずパンクする。

 地球と軌道上を安価に、そして恒常的に結ぶ『太いパイプ』。

 軌道エレベーターは、もはやSF映画のロマンではなく、人類の生存と開拓のために必然的に求められるインフラとなる。

 

 彼女の言う通り、いつか必ず必要になる。

 ただし、今ではないのだ。

 

 ◇

 

 日下部は、出されたまま冷え切っていた茶を一口飲み、意図的に声の温度を限界まで落とした。

 

「海道総帥。政府として、将来の宇宙輸送インフラ研究の必要性そのものを、完全に否定するつもりはありません」

 

「それは、ありがたいことですな」

 海道総帥が、満足げに頷く。

 

「ですが、現時点でこれを『正式なプロジェクト』として承認・稼働させることは、絶対にしません」

 

 海道総帥は、反論することなく黙って日下部の言葉を待った。

 

 日下部は、頭の中で即座に法務、外交、安全保障のあらゆるリスクを計算し、海道グループを縛るための絶対的な条件を並べ立てた。

 

「軌道エレベーター構想に対する、政府からの条件です」

 

 一、海道グループ内部の『非公開の基礎検討』に留めること。

 二、社外での地質調査、海洋調査、用地取得への動き、および一切の広報活動を禁止する。

 三、アンノウン由来技術(慣性制御や重力制御など)の転用を前提とする場合は、いかなる理論的シミュレーションであっても必ず事前に政府(アンノウン機関)へ報告すること。

 四、沖ノ鳥島、南鳥島といった具体的な地名・海域名を、社外秘の資料であっても決して明記しないこと。

 五、海外の企業、および海外の宇宙研究機関との接触・意見交換は厳禁。

 六、宇宙輸送インフラ構想は、現在進行中の月面基地計画、火星ミッション、および日米宇宙協力の枠組みと完全に整合性を取ること。単独での暴走は許さない。

 

 そして、日下部は最も重要で、最も奇妙な条件を最後に付け加えた。

 

「七、この計画に、『正式名称』をつけないこと」

 

 海道総帥は、その七番目の条件を聞いて、少しだけ可笑しそうに笑った。

 

「……名前がつくと、動き出す、ですか」

 

「ええ」

 日下部は、真顔で頷いた。

「国家プロジェクトというものは、名前がついた瞬間に、予算が付き、各省庁の期待が集まり、政治家の野心が群がり、そして利権が発生します。名前を与えられた計画は、自らの意志を持った怪物のように、我々の制御を離れて走り出してしまうのです」

 

 だからこそ、名前をつけてはいけない。

 予算書にも、企画書にも、ただの「未定の基礎研究」として伏せておかなければならない。

 

「八、最後に。サクラさんを、この構想の『表の顔』にしないこと」

 

 突然名前を呼ばれたサクラが、少しだけ驚いたように身を乗り出した。

 海道総帥の目も、スッと細められる。

 

「サクラさんは、アンノウンによって命を救われた象徴的な存在です」

 日下部が、冷徹な分析を告げる。

「彼女の『アンノウンへの恩返し』という純粋な思いと、宇宙へと伸びる巨大な塔の建設というロマンが結びつけば……それはあまりにも物語性(ストーリー)が強すぎる。メディアは熱狂し、国民は熱狂し、取り返しのつかないうねりになります。彼女を、この計画の広告塔にしてはなりません」

 

 海道総帥は、じっと日下部を見つめ、やがて深く、納得したように頷いた。

 

「分かりました。では、これはあくまで『名もなき基礎検討』として、我々の地下深くで静かに進めましょう」

 

「それならば、政府として『黙認』できます」

 

「黙認。……良い言葉ですな」

 海道総帥が、悪びれずに笑う。

 

「正式承認ではありません」

 日下部が、念を押す。

 

「心得ております」

 海道総帥は、鷹揚に杯を傾けた。

 

 ◇

 

 密談が終わり、帰り際。

 料亭の美しく手入れされた庭に面した縁側で、日下部が靴を履こうとしていると、背後からサクラが静かに近づいてきた。

 

「……日下部様」

 

 日下部は足を止め、振り向いた。

 

「はい」

 

 サクラは、澄んだ瞳で真っ直ぐに日下部を見つめていた。

 その瞳には、以前のようなただの病弱な少女の面影はない。一度死の淵に立ち、そこから引き戻された者だけが持つ、独特の静かな強さと、透明な覚悟が宿っていた。

 

「私は、アンノウン様に命を救われました。……その命で、何かを返したいと、心から思っています」

 

「そのお気持ちは、先ほど十分に伺いました。政府としても、海道グループの協力には感謝しています」

 日下部は、事務的な言葉で彼女の感情を処理しようとした。

 

 だが、サクラは引き下がらなかった。

 

「深海の次に、私たちが向かうべき場所が宇宙なら。……私は、それを怖いとは思いません」

 サクラの言葉は、熱を帯びていた。

「もし海道家に、その塔を建てる力があるのなら、私たちはやるべきだと思います。それが、いただいた命の使い道だと思うからです」

 

 日下部は、彼女の目を見た。

 彼女は、狂信的なアンノウンの信者ではない。彼女は、自らが生きる意味を、海道家という巨大な重工業グループの『未来事業を背負う責任』へと昇華させようとしているのだ。

 

 感謝だけで動く子供は、やがて大人に利用される。

 だが、覚悟を持って未来を作ろうとする者は、いずれ世界を動かす強力なプレイヤーになる。

 

 日下部は、彼女がもはや保護されるべき少女ではなく、交渉のテーブルにつくべき一人の『当事者』へと成長しつつあることを理解した。

 

 だからこそ、日下部は冷たい官僚としてではなく、同じく未来の重圧を背負う者として、穏やかに、しかし厳格に返した。

 

「海道さん。……未来を作るには、順番が必要です」

 

「順番、ですか」

 サクラが、その言葉の意味を反芻する。

 

「はい」

 日下部は、庭の暗闇の先を見つめるように言った。

「まずは、深海の嘘を、本物にしてください。……リクレーマーを稼働させ、市場を壊すことなく、日本の資源を盤石にする。その泥臭い仕事をやり遂げることが先です。

 その次に……宇宙へ行く道を、一緒に考えましょう」

 

 急ぐな。まずは足元を固めろ。

 それが、日下部からの最大限の誠意を込めた忠告だった。

 

 サクラは、日下部の言葉の裏にある重い責任を受け止め、ふっと、柔らかく微笑んだ。

 

「……分かりました」

 

 彼女のその微笑みには、もはや焦りはなかった。

 ただ、いつか必ずその順番を終わらせてみせるという、静かな決意だけが残っていた。

 

 ◇

 

 その夜、料亭の奥座敷で交わされた会話は、政府のいかなる公式な議事録にも残ることはなかった。

 

 表向きには、内閣官房参事官と海道グループ総帥による、退屈な非公式の意見交換会。

 だがその実態は、日本の資源安全保障を長年支えてきた「巨大な嘘」を、誰にも気づかれないように少しずつ「本物」へとすり替えるための、冷酷な密談であった。

 

 これまで海道重工は、テラ・ノヴァの資源を使い、深海から『採れているように見せてきた』。

 これから海道重工は、リクレーマーという本物の処理炉を使い、市場を壊さないよう『採れすぎないように見せる』ことになる。

 

 その違いは、外から見ればほとんど分からない。海底の泥が吸い上げられ、レアメタルが出荷されるという結果は同じだからだ。

 だが、日本政府にとっては、その違いが全てだった。

 他次元の資源に依存する危うい砂上の楼閣から、自国のゴミと泥を自力で資源に変える、完全なる自立国家への不可逆的なシフト。

 

 嘘は、本物になりつつある。

 

 日下部参事官は、料亭を出て、夜の車寄せに一人で立った。

 初夏の夜の湿った、少しぬるい空気が、密談の緊張で冷え切っていた肺に流れ込んでくる。

 

 深海レアメタルの第二世代移行。

 リクレーマーの国内秘匿試験と、それに続く都市鉱山への応用。

 アメリカ政府のノア・マクドウェルとエレノア・バーンズへの貸与交渉。

 そして、突如として持ち込まれた、軌道エレベーター構想。

 

「……今日は、深海の泥の話だけで終わるはずだったのですが」

 

 誰に聞かせるでもなく、日下部は夜気に向かってそう呟いた。

 

 黒塗りの公用車が、音もなく滑り込んできて、運転手が後部座席の扉を開ける。

 日下部は車に乗り込む直前、一度だけ立ち止まり、東京の明るい夜空を見上げた。

 

 深海の泥を資源に変える、極めて現実的で地味な話をしていたはずだった。

 それが、最後には宇宙へと真っ直ぐに伸びる、途方もない塔の話にすり替わっていた。

 

 理屈としては、間違っていないのだ。

 資源を確保し、核融合炉という無限のエネルギーを手に入れ、月面基地を作り、火星へと人を送る。

 ならば、次に人類が喉から手が出るほど欲しがるのは、地上と宇宙を安価に、そして恒常的に結ぶ『太い輸送路』に決まっている。

 海道総帥の読みに、一切の狂いはない。

 

 だからこそ、困るのだ。

 

 間違っている夢なら、「不可能だ」と一蹴できる。

 だが、正しくて、合理的で、技術的に可能になってしまった夢ほど、止めるのが難しいものはない。

 

 日下部は、小さく首を振り、公用車の深く沈み込む座席に身を預けた。

 ドアが閉まり、外界の音が遮断される。

 

 その夜、日本政府の公式記録には、何一つ特別なことは残されなかった。

 ただ一つ、日下部が胸元に忍ばせている暗号化された手帳の、一番後ろのページにだけ、短くこう書き込まれた。

 

『海道。深海第二世代。軌道構想――名称禁止』

 

 名前をつけてはいけない。

 名前をつけた瞬間、それは予算と利権を吸い寄せ、国家という巨大なシステムを巻き込んで、二度と止まらない怪物として動き出すからである。

 

 日下部は、手帳を閉じ、目を閉じた。

 神の火を灯し、世界を仮想の夢で繋ぎ、赤い星に人を送った日本国は、今度は自分たちの足元の泥を金に変えながら、静かに空の彼方へ杭を打ち込もうとしている。

 その重すぎる責任のすべてが、明日もまた、彼を待っているのだ。




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