自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
東京都千代田区永田町、首相官邸。
分厚い鉛と電磁波吸収材に何重にも守られた地下五階の『特別情報分析室』は、地上の喧騒から完全に切り離され、絶対的な静寂と冷徹な空気に支配されていた。
円卓を囲むのは、矢崎薫内閣総理大臣を筆頭に、榛名理人科学技術担当大臣、御堂周作経済産業大臣、そして外務省の銀河コミュニティ対応チームを率いる幹部と、アンノウン機関連絡担当の役人たち。
スクリーンの傍らには、この異常な時代において実務の最前線で神経をすり減らし続ける内閣官房参事官・日下部と、いつものように着古した作業着姿の工藤創一が立っていた。今回は海道グループなどの外部の人間がいない純粋な政府内の閉域会議であるため、工藤の同席も許可されている。
部屋の隅には、完璧な人工皮膚を持つアンノウン機関所属の『オラクル義体』が、微動だにせず静かに控えている。
日下部が、感情を排した手つきで手元の端末を操作した。
「外部通信遮断。内部記録は政府管理ログへ限定。音声、映像、端末同期、すべて隔離環境へ移行。……ジャミング、オン」
ブゥン……という極低周波の駆動音が室内の空気を微かに震わせ、照明が警戒を示す薄暗い赤色へと切り替わった。
「さて、本日の会議を始めます」
日下部は、手元の薄いファイルをトントンと揃え、円卓の面々を真っ直ぐに見据えた。
「まずは、私からご報告します。先日、海道グループの海道龍之介総帥と非公式な会合の席を持ちました。議題は、リクレーマーを用いた『海道式深海精錬法・第二世代』への移行についてです」
矢崎総理が、組んだ手の上に顎を乗せたまま静かに尋ねた。
「海道総帥は、我々の意図をどう受け止めましたか?」
「即座に、そして完璧に理解しました」
日下部は、あの老獪な財界トップの顔を思い浮かべながら淡々と答える。
「『これまでは採れているように見せる仕事だったが、これからは採れすぎないように見せる仕事になるのだな』と。市場を壊さないための供給量調整や、カバーストーリーの補強について、我々が逐一指示を出すまでもなく、自らの役割を把握しておられました」
御堂経産大臣が、少しだけ口角を上げた。
「話が早いですね。さすがは海道総帥といったところですか」
「ええ。早すぎるくらいです」
日下部は、そこで敢えて言葉を区切り、重い息を吐き出した。
榛名大臣が、日下部の表情の微かな曇りに気づく。
「何か、問題でもあったのですか?」
「会合の終盤、海道総帥より、次世代の事業としてある構想が提示されました」
日下部の声が、一段階低くなる。
円卓の空気が、スッと引き締まった。深海レアメタルの話で終わるはずの密談で、あの海道龍之介が持ち出してきた「次」の構想。それが軽いものであるはずがない。
「……彼らは、軌道エレベーターの建設を検討しているそうです」
深い沈黙が、会議室に降りた。
「……軌道エレベーター」
矢崎総理が、その単語の響きを確かめるようにゆっくりと反芻した。
「深海の話をしていましたよね?」
御堂大臣が、前提が根本から崩れたような顔をして聞き返す。
「私も、そう思っていました。ですが、彼は深海の次は宇宙だと」
日下部が、胃のあたりを軽く押さえた。
その時。
壁際で大人しくしていた工藤の肩が、ビクッと跳ね上がった。
日下部が強烈な嫌な予感を覚えて視線を向けた時には、すでに遅かった。
「軌道エレベーター……!!!」
工藤は、まるで欲しかったおもちゃの名前をクリスマスに聞いた子供のように、目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「工藤さん、声量を落としてください」
日下部が、即座に冷や水を浴びせるように言う。
だが、工藤の技術的ロマンの暴走は止まらない。
「いや、軌道エレベーターいいですね! 地上と軌道を常時物理的に接続できれば、月面基地や火星向けの物資集積が信じられないくらい楽になりますよ! 軌道上施設の建設も一気に進みますし!」
「……そこまでは、我々も頭の隅では理解しています」
日下部が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
「じゃあ、一緒に太陽光発電システムも積みましょうか!」
工藤が、思いついたように手をポンと叩いた。
会議室が、再び静まり返った。
「……太陽光発電を、軌道エレベーターに?」
矢崎総理が、全く予想外の言葉に目を瞬かせる。
「はい!」
工藤は嬉々として説明を始める。
「宇宙で太陽光発電しつつ、それを軌道エレベーターのケーブル経由で地上に送電するんです。宇宙空間なら大気や天候の影響を一切受けないから、24時間365日、最大の効率で発電し続けられます。もちろん、軌道上ステーションの電力にも使えますし」
「宇宙太陽光発電と、軌道輸送インフラの一体化……」
榛名科学技術担当大臣が、科学者としての純粋な興味を抑えきれずに呟いた。その目は、明らかに工藤と同じ種類の熱を帯び始めていた。
「榛名大臣、目を輝かせないでください」
日下部が、氷点下の声で同調を遮断する。
「正直、地上の基幹電源には13m級核融合炉がありますけど、インフラにおいて冗長性の確保は絶対条件ですよ!」
工藤は、システムエンジニア特有の理屈で武装して食い下がる。
「核融合炉一本に依存するより、宇宙側にも独立した発電・送電系があった方が絶対にいいです。軌道上ステーション、月面の中継拠点、火星への輸送船団、そして将来の軌道工場まで考えると、宇宙側の電源網は強みになります」
「電力というより、宇宙インフラとしての完全な自立性ですね」
御堂大臣が、産業的なメリットを即座に計算し始める。
「そうです。だから、エレノア……じゃなかった、軌道エレベーターのついでに、宇宙発電網も作っちゃえば一石二鳥です!」
工藤がニコニコと笑う。
「“ついでに宇宙発電網を作る”という、日本語として完全に崩壊している言い方をしないでください」
日下部が、容赦なく突っ込む。
「ついでではないです。冗長性ですってば」
工藤が言い訳をする。
「より悪い言い方になりました」
日下部は、深々と溜め息をついた。
◇
矢崎総理は、暴走しかける技術論を一旦脇に置き、国家のトップとして最も現実的な部分を恐る恐る尋ねた。
「……工藤さん。お聞きしますが、技術的には、それは今の我々に可能なのですか?」
「はい。アンノウンとして、必要な図面や要素技術のデータはすぐに出せます」
工藤は、あっさりと答えた。
「……出せるのですか」
日下部の声が、さらに低くなる。
「出せますよ」
工藤は、頭の中で施工プランを組み立てながら続ける。
「海道グループが、地上側の外装とか、海上基礎、港湾設備、それに地上の輸送運用施設を担当して。アンノウン機関側が、中核となる素材、例えばカーボンナノチューブを超えるケーブル素材とか、地球の自転と同期させるための軌道アンカー、慣性制御ユニット、送電制御システムを提供する形ですね」
「古典的な赤道直下から伸ばす遠心力依存のケーブル方式ではなく、慣性制御を用いた軌道アンカー併用型、ということですね」
榛名大臣が、その技術的ブレイクスルーの意味を即座に理解する。
「そうです。完全な昔ながらの静止軌道エレベーターじゃなくて、アンノウン式の重力・慣性制御を組み込んだ軌道輸送インフラです。だから、赤道直下じゃなくても、日本の近海から真っ直ぐ空に塔を建てられますよ」
工藤が胸を張る。
「名称禁止です」
日下部が、冷たい刃のような声で言い放った。
「え?」
工藤が、きょとんとした顔で日下部を見る。
「今のものに、名前をつけないでください。先走って『〇〇プロジェクト』などと呼称を定めた瞬間、それは止まらなくなります」
日下部は、官僚の習性として「名前のついた事業は予算と権限を吸い寄せる」ことを痛いほど知っていた。
「……それで、工期は、どれくらいを想定しているのですか?」
矢崎総理が、恐る恐る、しかし避けては通れない質問を投げかけた。
工藤は、少しだけ天井を見上げて計算する素振りを見せた後、何でもないことのように答えた。
「場所の選定とか地盤次第ですけど……基礎ができれば、アンノウン機関の建設ロボット群をフル稼働させて、三十日程度ですかね」
——。
特別情報分析室の空気が、完全に、そして絶対的に凍りついた。
「……三十日」
御堂経産大臣が、魂の抜けたような声で反復する。
「軌道エレベーターを、ですか」
榛名大臣が、科学者としての常識を粉砕されて呆然とする。
「はい」
工藤は、不思議そうに彼らを見る。
「アンノウン式なら、一番面倒な主要部材はテラ・ノヴァ側の工場で出力して持っていけますから。ボトルネックになるのは、地上側の港湾の準備と、周辺海域の安全管理くらいですよ」
「『三十日でできる軌道エレベーター』という、日本語として根本的におかしい概念が生まれましたね」
日下部が、もはや怒る気力も失せたように呟いた。
「でも、現実的ですよ?」
工藤が、技術的な裏付けを持って反論する。
「その、現実的であるという事実が、我々にとって最大の脅威であり問題なのです」
日下部が、疲労の極致のような声で吐き捨てた。
◇
会議室に重苦しい沈黙が流れた後、矢崎総理がゆっくりと姿勢を正し、議論の整理に入った。
「分かりました。技術的に可能であり、工期も短く、有用性があることは理解しました。……ですが、国として『軌道エレベーター』を主導で建設することは、現時点では我々の許容量(キャパシティ)を完全に超えています」
総理の言葉に、円卓の全員が深く同意した。
現在、日本政府が抱えている案件を並べるだけでも正気の沙汰ではない。
13m級教育用核融合炉の実証、火星長期滞在実証拠点の運用、月面基地計画の立ち上げ、リクレーマーの隠蔽運用、フルダイブ技術の国際規制とクラウド管理、医療技術の治験と海外からの患者受け入れ、監視システム(グラス・アイ)の運用、アメリカや中国、欧州との綱渡りのような外交。そして、国連常任理事国入りの画策。
これに加えて、地球の自転軸に杭を打ち込むような宇宙インフラの建設を国家事業としてぶち上げれば、政府の機能は完全にパンクする。
「ですが」
総理は、手元のペンを弄りながら言葉を継いだ。
「これを『国主導』ではなく、海道グループが『民間プロジェクト』として研究し、我々政府が安全保障上の監督を行う形に留めるのであれば……完全に悪い話ではありません」
「国が作るのではなく、民間が進めるという建前ですね」
日下部が、総理の意図を正確に読み解く。
「政府はあくまで監督し、アンノウン技術の中核(ブラックボックス)を厳重に管理する。……その形であれば、まだ我々の手で制御できます。予算の獲得や議会対策といった政治的なリソースを割かずに済みますし」
「海道グループにとっても、リクレーマーによる深海資源の抽出、そして宇宙への輸送インフラ構築が一つの『事業線』として繋がります。重工業を牽引する巨大企業としては、極めて筋が通る投資です」
御堂経産大臣が、産業政策の観点から賛意を示す。
「技術的にも、ブラックボックスである中核部や慣性制御ユニットは政府(アンノウン機関)側が完全に握り、外装、基礎工事、地上の運用システムを海道側に任せるのであれば、技術流出のリスクは抑えられます」
榛名大臣も、セキュリティの分担において問題はないと判断した。
「リクレーマーの時と全く同じ構図ですね」
日下部が、冷徹に言い切る。
「中身のエンジンは決して渡さず、立派な舞台(ガワ)だけを作らせる」
「では、軌道エレベーター構想については、民間主導・政府監督・名称未定・非公開の『基礎検討』として進めます」
矢崎総理が、方針をまとめようとした。
「“進めます”ではなく、“検討を認めます”という表現にしてください」
日下部が、即座に言葉のニュアンスに介入した。
「政府が前のめりになって進めるような痕跡を残してはいけません」
「……分かりました。では、検討を認めます」
総理は苦笑して言い直した。
工藤が、少しホッとしたように口を挟む。
「じゃあ、準備できた図面は……どうします?」
「アンノウン機関内で一旦止めてください」
日下部が、ピシャリと命じた。
「海道グループへ直送することは固く禁じます。我々が中身を精査し、出すべきタイミングが来るまで、絶対に表に出さないでください」
「はいはい、了解です」
工藤は、素直に頷いた。
日下部は、手元にある暗号化された手帳のアプリを開き、一行のメモを打ち込んだ。
『軌道構想。民間扱い。図面直送禁止。名称禁止継続』
◇
軌道エレベーターの話題が一段落し、会議室の空気が少しだけ落ち着きを取り戻しかけた、その時だった。
「あ、そうだ。将来的には、軌道コロニーも並べたいですよね」
工藤が、本当にただの思いつきのように、何気なく口にした。
——。
日下部が端末を打つ手が、空中で完全に硬直した。
矢崎総理も、御堂大臣も、榛名大臣も、全員の動きがピタリと止まる。
「……工藤さん」
日下部の声が、地獄の底から響くような低さになった。
「軌道エレベーターがあれば、資材をどんどん上げやすくなるじゃないですか。で、宇宙太陽光発電もあるなら、その電力を使って軌道居住区とか、軌道工場を並べるのは自然な流れかなって」
工藤は、周囲の冷え切った空気に気づかず、自らの頭の中に広がる未来予想図を語り続ける。
「軌道工場……無重力環境での製造プラント、月面や火星向けの物流中継ステーション、そして宇宙居住区……」
榛名大臣が、再び科学者としてのロマンに引力を感じて呟く。
「榛名大臣」
日下部が、氷点下の視線で榛名大臣を射抜く。
「……すみません。つい」
榛名大臣は、慌てて咳払いをして視線を逸らした。
矢崎総理が、どうにか取り繕うように苦笑を浮かべた。
「夢のある話ですね、工藤さん」
「総理」
日下部が、今度は総理の方を向いた。
「夢がありすぎます。これ以上、我々の行政の処理能力を超える『夢』を持ち込まないでください」
「でも、いずれ必要になるでしょう?」
総理が、少しだけ意地悪く問う。
「正しい話を、一日に何度も出さないでください」
日下部は、胃薬の箱を幻視しながら、心底疲れたように吐き捨てた。
「軌道エレベーターの検討を認めたばかりです。そこに軌道コロニーまで乗せれば、アメリカや中国が黙っているはずがありません。宇宙の領有権を独占する気かと、新たな国際紛争の火種になります」
「ですよねー」
工藤も、さすがにそれは理解できるとばかりに頭を掻いた。
「軌道コロニーは、完全なる『将来構想』とします」
日下部が、強制的に結論を下した。
「軌道エレベーターの基礎検討から派生する可能性として、アンノウン機関の極秘データ内でのみ記録に留めます。外部での名称使用は禁止。海道グループにも、まだこの構想は渡しません。……工藤さんの技術ツリーの検索も、当該項目については保留としてください」
「りょーかいです」
日下部は、深々と溜め息をつきながら、手帳のアプリに追記した。
『軌道コロニー。名称禁止二件目。工藤検索保留』
◇
「では、宇宙の塔の話は、いったんここで閉じます」
日下部が、居住まいを正し、声のトーンを一段階変えた。
「本題に入ります」
矢崎総理が、少し驚いたように聞き返した。
「……まだ、本題ではなかったのですね」
「はい」
日下部が、冷徹な外交官の顔になる。
「本題は、リクレーマーの外交利用についてです」
「対アメリカ、ですか?」
御堂経産大臣が問う。
「アメリカへはすでに限定開示を行い、貸与交渉が動いています」
日下部が首を横に振る。
「今回は、フランスです」
外務省の『銀河コミュニティ対応チーム』も兼任している若手幹部が、分厚いファイルをテーブルの中央にスライドさせた。
「国連安全保障理事会、常任理事国入りの件です」
外務省幹部が、引き締まった表情で告げた。
「状況を整理してください」
矢崎総理の指示に、外務省幹部がスクリーンに国連の五大国(P5)の国旗を表示し、各国の現在のスタンスを解説し始めた。
「まず、アメリカについて」
外務省幹部が星条旗を指す。
「身内です」
「……日下部さん、表現はもう少し外交的にしてください」
矢崎総理が、身も蓋もない表現に苦言を呈する。
「失礼しました」
外務省幹部がコホンと咳払いをして言い直す。
「最重要同盟国として、アメリカは日本の常任理事国入りを強く支え、推進する立場を明確にしています。ヘイズ大統領との間では、すでに完全な合意が形成されています」
「はい」
総理が頷く。
「次に、イギリスです」
ユニオンジャックがハイライトされる。
「こちらも、ほぼ身内です」
「だから、表現」
日下部が、部下を冷たく睨む。
「申し訳ありません」
外務省幹部は平謝りしつつ、実情を述べる。
「医療技術の限定貸与、宇宙医療での連携、核融合、そしてフルダイブ関連の監査枠の付与など、我々が提供した技術的恩恵により、イギリスとの関係はかつてなく深く、強固なものになっています。彼らの日本支持は岩盤のように固いと見て間違いありません」
「まあ、実質的に身内ですね」
御堂大臣が、実利で結ばれた強固な関係を評して言う。
「皆さん、外交用語を忘れないでください」
日下部が、頭を痛そうに振る。
「次に、ロシアです」
白青赤の三色旗が映し出される。
「ロシアについては、先日ご報告した通り、すでにボグダノフ大統領から直接、日本の常任理事国入りに関する『推薦と支持』の言質を得ています」
「これは大きいですね」
矢崎総理が、最大の難関の一つがクリアされていることを確認する。
「はい。本来なら最も拒否権を行使しやすいロシアが、すでに推薦側に回っているという事実は、安保理改革の大きなハードルを一つ取り除いたことになります」
日下部が、冷徹に盤面を評価する。
「そして、中国です」
外星省幹部の表情が、ここで少しだけ奇妙に歪んだ。五星紅旗の画像が表示される。
「中国については、我が省のルートを通じて事前確認を行いました」
「返答は?」
総理が、鋭く問う。
「日本の常任理事国入りについて、原則支持。事前協議の上、必要な場面で協力する用意がある、とのことです」
外務省幹部が、公式見解を読み上げる。
「非常に良い返答ですね」
日下部が、少しだけ安堵の表情を見せる。
「はい。ただ……」
外務省幹部が、言い淀んだ。
「ただ?」
総理が、不審に思って眉を寄せる。
外務省幹部が、おずおずと、問題の外交文書の一部をスクリーンに投影した。
それは、中国政府の深部から送られてきた、正式な事前確認の返書であった。
格式高い外交辞令が並ぶ文章の、一番末尾。
そこには、中国語と日本語の翻訳が添えられていたが、その文末には、信じられない記号が印字されていた。
『日本側のご意向を尊重し、友好的に対応いたします。良いよ♡』
——。
特別情報分析室に、今日一番の、重く、そして理解不能な沈黙が落ちた。
「……」
日下部は、自分の目が狂ったのかと思い、眼鏡を外して揉み、もう一度かけ直した。だが、スクリーンにある記号は消えなかった。
「……外交文書に、ハートを入れないでください」
日下部の声は、怒りというより、深い絶望と虚脱感に満ちていた。
「これは、本当に正式な外交文書ですか?」
御堂大臣が、信じられないというように外務省幹部を見る。
「はい。正式な深部ルートを通ってきたものです」
外務省幹部が、血の気のない顔で頷く。
「文字化けでは?」
榛名大臣が、科学的なエラーの可能性にすがる。
「確認しました。意図的に挿入された記号です」
外務省幹部が、その希望を粉々に打ち砕いた。
矢崎総理が、両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「中国の対日融和路線が、また妙な方向に進んでいますね……」
「融和というより、好意の表現方法が完全に壊れています」
日下部が、胃の痛みを堪えながら吐き捨てた。
「オリジナル医療用キット貰って有頂天が、彼らの外交的理性をここまで歪めるとは」
「でもまあ、支持してくれるならOKってことですよね」
工藤が、空気を読まずに前向きにまとめる。
「OKですが、日本側はこの異常な距離感の詰め方に非常に困惑しています」
日下部が、官僚としての苦悩を口にする。
◇
「残る問題は、フランスです」
外務省幹部が、気を取り直して最後の国旗、トリコロールを表示した。
「つまり、五大国の攻略ではなく、最後に残ったフランスをいかに綺麗にこちら側へ乗せるか、という最終段階ですね」
日下部が、議論を本筋に戻す。
「そこで、リクレーマーの出番というわけですね」
矢崎総理が、日下部の意図を正確に読み取った。
「はい。こちらとしては、リクレーマーを対フランスの『秘密兵器』として使いたいと考えています」
日下部の目に、冷酷な外交官の光が戻った。
「秘密兵器」
総理が、その言葉の響きを確かめる。
「環境外交、資源外交、そしてEU内における主導権。……これらを一網打尽にするための兵器です」
御堂大臣が、経産省の視点からその破壊力を評価する。
「その通りです」
日下部が頷き、フランスの現在の国際的な立ち位置と欲望を分析し始めた。
「フランスは、常任理事国であり、EUの中核であり、原子力大国です。彼らは環境政策で世界の主導権を取りたいと常に考えており、循環経済(サーキュラーエコノミー)の旗手として振る舞うことを好みます。また、EU内での覇権を巡ってドイツに対抗するための強烈な産業政策カードを欲しており、アフリカなどの旧植民地圏からの資源依存を緩和したいという切実な事情も抱えています」
「そして何より、彼らは『欧州のリサイクル・廃棄物政策の中心』になりたがっている」
外務省幹部が補足する。
「我々は、フランスにリクレーマーの貸与、いえ、実質的な『永久貸与』を約束します」
日下部が、最大の譲歩案を突きつけた。
「所有権は、当然日本側ですね?」
榛名大臣が、技術流出を危惧して確認する。
「もちろんです」
日下部は即答する。
「分解禁止、解析禁止、移設禁止、そしてオラクルによる常時監査付きです。我々がフランスに渡すのは、中核となるブラックボックス技術ではなく……『欧州環境再生拠点』という、輝かしい看板です」
「看板はフランスに持たせ、実権は日本が握る」
御堂大臣が、その構造のえげつなさに感心したように言う。
「外交です」
日下部が、一切悪びれずに言い切った。
「フランスは、その条件で飛びつきますか?」
矢崎総理が問う。
「間違いなく飛びつくでしょう」
外務省幹部が自信を持って答える。
「この施設をフランス国内に誘致できれば、彼らは環境対策として世界で確固たる地位を築けます。EU内での立場も圧倒的になり、ドイツを完全に抑え込むことができる。さらに、アメリカだけでなく欧州にも日本の最先端技術が配られることで、フランス国内に対して『我々はアメリカの言いなりではない、日本と直接独自のパイプを持っている』と示し、誇りを保つことができます」
◇
日下部が、フランスに提示する具体的なパッケージ案をスクリーンに展開した。
【日仏循環資源再生共同実証計画】
■フランス側に与える顔(メリット)
・欧州初の高度資源再生拠点の誘致。
・EU循環経済の旗艦事業としての主導権。
・環境外交における日仏共同モデルの確立。
・原子力・核融合・資源循環を統合した次世代産業政策の象徴。
■日本側の要求(絶対条件)
一、日本の国連安保理常任理事国入りへの『明確かつ公式な支持』。
二、フランス大統領および外務省からの公開支持声明の発表。
三、EU主要国への、日本の常任理事国入りに関する根回しと説得。
四、環境・資源再生技術の国際標準化において、日本案を全面的に支持すること。
五、国連の環境・開発・廃棄物関連会合において、日仏共同提案を出すこと。
六、装置の所有権は日本側が保持すること。
七、分解・解析・移設の完全禁止。
八、日本側から派遣する監査官、またはオラクル監査を受け入れること。
九、軍事物資、放射性物質、生体廃棄物の投入禁止。
十、EU圏内への同技術の展開は、日本側の事前承認制とすること。
十一、中国・ロシア系企業への情報および技術の流出防止措置の徹底。
十二、出力された資源の用途および流通先の報告義務。
「……フランスに“日本からもらった”という屈辱的な顔をさせると、彼らの高いプライドが邪魔をして交渉が難航します」
外務省幹部が、フランス外交の扱い方を説く。
「だからこそ、“日仏共同で、欧州環境再生拠点を作る”という建前にするのです」
日下部が、巧妙な言い回しを用意する。
「主役の椅子は彼らに用意しつつ、その椅子を動かす鍵は日本がしっかりと握るわけですね」
御堂大臣が、その交渉の妙に頷く。
「外交です」
日下部が、本日二度目の同じ台詞を吐いた。
◇
「分かりました」
矢崎総理が、円卓の全員を力強く見回し、最終決断を下した。
「リクレーマーを、対フランスの秘密兵器として投入することを認可します」
「ありがとうございます」
日下部が深く一礼する。
「日下部さん。ぜひ、常任理事国入りをもぎ取ってきてください」
矢崎総理の言葉に、力がこもる。
「……総理、言葉が少し強すぎるのでは?」
日下部が、外交的配慮を求めて苦言を呈する。
「確かにそうですね」
総理は、少しだけ微笑んで言い直した。
「では、『国際社会における日本の責任ある地位の確立を、確実に進めてください』」
「そちらの方が、我々の扱う外交文書向きです」
日下部が安堵して頷く。
ここで、矢崎総理が少しだけトーンを落とし、私的な、しかし極めて重要な背景を語り始めた。
「以前、アメリカのヘイズ大統領と話をした時に……少し小言を言われましてね」
「ヘイズ大統領に、ですか」
日下部が、意外そうな顔をする。
「ええ」
総理は、デスクの上のペンを弄りながら遠くを見るように言った。
「彼女は言いました。『日本は今や、世界を変えるアンノウン技術を握っている。だが、その巨大な責任をアメリカの背中に預けすぎている。戦後日本として、いつまでも弱気のまま、アメリカの後ろに隠れ続けていては駄目だ』と」
「なるほど」
日下部が、アメリカ側の真意を汲み取る。
「アメリカ政府としては、アンノウン技術という火薬庫の鍵を握っている以上、日本にも相応に、国際社会で前面に出てしっかりとした責任を果たしてほしい、ということでしょう」
少しの間を置き、日下部が付け加えた。
「……どちらかというと、『アメリカを盾にして面倒事を押し付けすぎだ』という、実務レベルの強烈なツッコミかもしれませんが」
「私も、そう受け取りました」
矢崎総理は、苦笑しながらも、その瞳には国家指導者としての強い覚悟を宿していた。
「常任理事国入りは、もはや名誉や歴史的悲願の問題ではありません。……『責任』の問題です」
総理は、静かに、だが確固たる意志を込めて言った。
「これだけの技術を握り、世界に影響を与えている国が、国際秩序の外側で“特別な例外”のように振る舞い続けるわけにはいきません。我々は、ルールの中心に座らなければならないのです」
「……重いですね」
日下部が、その責任の巨大さに小さく息を吐く。
「ええ。だからこそ、重い道具を使います」
「リクレーマーですね」
「はい」
総理の決意に、会議室の全員が深く同意の意を示した。
◇
会議が終わりかけ、資料の片付けが始まった頃。
日下部が、ふと思い出したように外務省幹部に向かって声をかけた。
「ところで、外務省。……あの中国側文書の末尾についてですが」
「はい」
外務省幹部が、背筋を伸ばす。
「保存用の公式翻訳には、あの『ハートマーク』は残さないでください」
日下部が、極めて真面目な顔で指示を出した。
「訳注として、括弧書きで残しますか?」
外務省幹部が、正確な記録を重んじて尋ねる。
「しないでください」
日下部が即座に却下する。
「しかし、原文性の保持という意味では……」
御堂大臣が、行政手続きの観点から口を挟む。
「しないでください」
日下部が、さらに語気を強める。
「外交史料としては、後世の歴史家にとって非常に貴重なニュアンスになるのでは」
榛名大臣が、学術的な価値を主張する。
「後世の研究者に、この時代の東アジア外交を『恋愛関係の延長』だと致命的に誤解させないでください。国の品位に関わります」
日下部が、血を吐くような声で完全拒否を貫いた。
矢崎総理が、こらえきれずに少し声を立てて笑った。
「では、公式訳では『極めて友好的な表現を含む』という意訳で処理しましょう」
「それでお願いします」
日下部が、心底安堵して深く頭を下げた。
「原文のデータはどうしますか?」
外務省幹部が確認する。
「厳重に封印してください」
日下部が命じる。
「外交文書にハートが一つ入っただけで、ここまで厳重に隠蔽管理されるとは……」
矢崎総理が、呆れたように微笑む。
「日本の外交史の尊厳を守るためです」
日下部は、全く冗談を言っている顔ではなかった。
◇
こうして、日本政府の長く重い秘密会議は終了した。
彼らは今日、二つの巨大な方針を定めた。
一つ。
宇宙へ真っ直ぐに伸びる塔の構想は、まだ国家の名前を冠さない。
それは海道グループという一企業による『民間基礎検討』という名目で、政府の厳重な監視下のもと、名前を与えられないまま静かに図面の中だけで育てられる。
もう一つ。
足元の泥とゴミを資源に戻すという、地味で恐ろしい機械は、今度はフランスへと向けられる。
それは、都市を焼く戦車でも、国を滅ぼすミサイルでもない。
ただ、廃棄物を元素レベルで分けるだけの機械だった。
だが、そのたった一台の機械は、国連安全保障理事会の歴史ある席を強引に動かすだけの、圧倒的な質量を持っていた。
アメリカは、最重要の同盟国として日本を支持する。
イギリスも、深い技術的恩恵で結ばれた身内として動く。
ロシアは、すでにボグダノフ大統領が自ら推薦を出した。
中国は、なぜか公式な外交文書の末尾にハートマークを付けて、熱烈な支持を伝えてきた。
残るは、フランス。
その最後の壁を、泥とゴミを金に変える装置で打ち破るのだ。
日下部参事官は、会議室を出る前、誰にも見られないように手元の暗号化手帳を開き、本日の決定事項を短く書き込んだ。
『軌道構想。名称禁止継続』
『フランス。リクレーマー投入』
『中国文書。ハート封印』
その三行の文字列を見つめながら、日下部は深く息を吐いた。
どれ一つとっても、本来ならば一国の官僚が一日で処理してよい種類の案件ではない。物理法則を無視した巨大建造物、世界市場を破壊する資源装置、そして大国の暴走する感情。
それでも、明日は来る。
そして明日になれば、アンノウンという特異点は、また別の新しい爆弾を必ず届けてくるのだ。
日下部は、静かに端末を閉じ、薄暗い官邸の地下廊下を歩きながら、誰にも聞こえない声でただ一つ、切実な願いを呟いた。
「……どうか、外交文書に、ハートを入れないでください」
その一言とともに、日本政府の、終わりのない新しい火消しと交渉の日々が、また幕を開けたのである。
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