自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第226話 百二十九票目、日本の椅子を国連総会へ運ぶ

 国連総会・特別会合の採決を二十四時間後に控えた、東京都千代田区永田町、国会議事堂。

 本会議場において、日本の常任理事国入りと、その後の『安保理第二段階改革』を正式に支持する国会決議の採決が行われていた。

 

 これは、ドイツへの約束である「日本の加入を国連改革の完了としない」「G4枠組みを維持する」「アフリカを含む後続の常任理事国入りを、拒否権で妨害しない」という方針を、時の内閣の単なる口約束ではなく、日本国という国家の公式な意志(決議)として永遠に記録するための儀式であった。

 

 矢崎薫内閣総理大臣が演壇に立つ。

 長大な政策演説は必要なかった。本番は、翌日のニューヨークなのだから。

 矢崎総理の言葉は、短く、そして圧倒的に重かった。

 

「常任理事国の席は、我が国の国威を発揚するための勝利の記念品ではありません。

 日本は今、新しいエネルギー技術、宇宙開発、医療、環境再生において、人類全体に極めて大きな影響を与える力を持つ国になりました。

 その力によって莫大な利益と平和を享受しながら、国際的な安全保障の『決断と責任』だけを、いつまでも既存の大国へ預け続けることは許されません」

 

 総理は、議場の全議員を真っ直ぐに見据えた。

 

「我々は、日本だけが席を得て、自らの特権を守るために後続の国々の扉を閉じるような真似は決してしません。

 そして、拒否権という強大な権限を持つ以上、その行使理由を原則として国際社会へ公開し、説明する責任を負います。

 ……日本は、特権を求めるのではなく、決して逃げることのできない『責任』を引き受けるために、あの席に座るのです」

 

 全会一致にはならなかった。

 慎重派の野党からは、「拒否権を得れば、必然的に大国間対立へ巻き込まれるのではないか」「アメリカの追随国にしかならないのではないか」「特権を固定化するだけではないか」という、極めて正当で真っ当な懸念と質問が出た。

 

 政府は逃げずに答えた。

「日本は事案ごとに独自に判断する」「拒否権の行使を抑制し、理由を原則として公開する」「今回の加入を改革の第一段階とする」と。

 

 採決の結果、反対や棄権は一定数出たものの、与野党の大部分が賛成に回り、圧倒的多数で国会決議は成立した。

 

 矢崎総理は、拍手の鳴り響く議場で、派手に喜ぶことはせず、ただ深く一礼した。

 

 採決から数十分後。

 日下部参事官は、可決された決議文書の英訳版を、即座にドイツ政府へと公式ルートで送付した。

 ドイツ側から返ってきた返信は、極めて短く、冷徹な一文だった。

 

『受領した。明日の総会における我が国の支持方針に、変更はない』

 

「……相変わらず、一切の祝辞はありませんね」

 外務省幹部が、端末の画面を見て苦笑する。

 

「ですが、支持は完全に確認されました」

 日下部が、無表情のまま答える。

 

「本当に、支持と納得は別物なのですね」

 

「ええ。国際政治においては、それで十分です。……さあ、ニューヨークへ向かいますよ」

 

 ◇

 

 アメリカ合衆国、ニューヨーク・国連本部。

 国連総会特別会合の当日。

 

 総会議場には、国連加盟国すべての代表団が集結していた。

 採決の対象は、『日本を国連安全保障理事会の常任理事国へ加えるための国連憲章改正決議案』。

 全加盟国百九十三カ国が出席。国連憲章の改正には総会の三分の二以上の賛成が必要であるため、可決ラインは『百二十九票』となる。

 

 議場の外には世界中の報道陣が殺到し、各国のメディアが狂騒状態に陥っていたが、日本代表団の控室は奇妙なほどの静けさに包まれていた。

 

 矢崎総理、外務大臣、日本国連大使、日下部、そして外務省の実務担当者たち。

 全員の視線が、壁のスクリーンに表示された『最終投票予測』に釘付けになっている。

 

【確実な賛成】百三十七

【賛成寄り】二十二

【棄権可能性】十九

【反対】十五

 

 数字上は、必要な百二十九票を明確に超えている。

 だが、日下部の表情には微塵の緩みもなかった。

 

「外交上の事前の支持表明など、彼らが実際に賛否を表明するまでは、ただの空気です」

 日下部が、冷たい水のような声で言う。

 

「……土壇場での造反があると?」

 矢崎総理が問う。

 

「政府上層部が支持を決めていても、直前の国内の政治的事情で『棄権』へ変わる国は必ず出ます。本国の指示が代表団へ届かないという事故も起きます。採決直前に想定外の修正案が飛び出せば、一気に空気が反転して態度が変わる国もあります」

 

「つまり、百三十七票あっても、全く安心できないと」

 外務大臣が、胃の痛みを堪えながら確認する。

 

「はい。余裕は、たったの『八票』しかありません」

 日下部のその言葉が、控室の空気を極限まで張り詰めさせた。

 

 開会の数十分前。

 控室に、P5(米英仏中露)の代表たちが、次々と短い挨拶に訪れた。

 

「ここまで来ましたね、総理。あとは票を数えるだけだ」

 アメリカ代表が、力強く握手を求める。

 

「票を数え終えるまでは、何も決まっていません」

 矢崎総理は、油断なく返す。

 

「我が国は賛成する」

 中国代表が、重々しく告げる。

「ただし、日本が『アジア全体を代表する』わけではない」

 

「その点について、我が国の立場に変わりはありません」

 矢崎総理が、冷静に答える。

 

「採決が終わった後の批准手続きで、不必要に時間を浪費しないことだ」

 ロシア代表が、実務的な忠告を残す。

 

「まずは、今日という日を確実に終わらせましょう」

 イギリス代表が、静かに微笑む。

 

「今日は、国連の歴史が七十年以上ぶりに大きく動く、偉大な日です!」

 フランス代表は、一人だけ少し大げさに、芝居がかった声で両手を広げた。

 

 日下部は、内心で冷たく突っ込んでいた。

(まだ採決すら始まっていません。フラグを立てないでください)

 

 ◇

 

 総会議長が、重厚な木槌(ガベル)を打ち鳴らした。

 その瞬間、世界中の外交官たちで埋め尽くされた巨大な議場が、水を打ったように静まり返った。

 

 議長が、決議案の正式名称と内容を読み上げる。

 

『日本を常任理事国として追加』。

『安保理構成に関する関連条文の改正』。

『日本へ、既存の常任理事国と同等の権限を付与』。

『日本加入を、安保理改革の“第一段階”と位置づける付帯声明』。

『次段階改革についての協議継続』。

『改正発効には、必要な数の加盟国の批准、およびP5全カ国の批准が必要』。

 

 続いて、共同提案国の名前が読み上げられる。

 最初に、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国。

 続いて、G4の仲間であるドイツ、インド、ブラジル。

 

 さらに、議長の声は止まらなかった。

 

 アフリカ諸国。

 ASEAN加盟国。

 太平洋島嶼国。

 中東諸国。

 中南米諸国。

 北欧諸国、東欧諸国。

 

 昨日まで日本へ厳しい条件や要求を突きつけていた各地域からも、複数の国々が『共同提案国』として決議案に名前を連ねていた。

 

 日本代表団の席で、若い職員が手元の資料のリストと画面を見比べながら、小声で呟いた。

 

「……最初の国連事務局の案では、共同提案国の欄は『九カ国分』しか用意されていなかったはずですが」

 

「足りなくなるまで、増やし続けたのでしょうね」

 日本国連大使が、静かに答えた。

 

 ◇

 

 採決の前に、各国の代表による演説が行われた。

 P5の五カ国は、それぞれの立場で日本を迎える理由を簡潔に語った。

 

 アメリカは、「日本は長年にわたり国際秩序を支え、新技術や宇宙開発で人類に多大な責任を負っている。権限と責任は一致しなければならない」と、日本を独立した大国として評価した。

 

 イギリスは、「国連が現代の国際社会を反映できなければ、制度への信頼そのものが失われる。日本加入は、制度が変更可能であることを示す重要な一歩だ」と論理的に支持した。

 

 フランスは、「本日は六番目の席を作るだけではない。閉ざされていた改革の扉を再び開く日である」と、やはり少し過剰な演出で歴史的意義を強調した。

 

 ロシアは、感情を排し、「現実に存在する力を、制度の外へ置き続ける方が危険である」と、極めて実利的な理由で支持を表明した。

 

 中国は、最も慎重だった。「日本はアジアの代表ではない。平和国家としての責任と歴史認識を忘れてはならない」と強く釘を刺した。

 だが、最後には明確に、「中華人民共和国は、本決議案へ賛成票を投じる」と宣言した。

 

 議場が大きくざわめいた。

 P5全員の賛成という、かつてない現実が、各国の演説として世界へ明示された瞬間だった。

 

 ◇

 

 続いて、G4の三カ国が演壇に立った。

 彼らの言葉は、単なる祝福ではなく、未来への強烈なプレッシャーであった。

 

 インド代表は、力強く語った。

「我々四カ国は、長い間、同じ重い扉の前に立っていた。……今日、その扉は一人分だけ開いた。もし日本がここで遠慮して立ち止まれば、扉は再び永遠に閉じるかもしれない。日本が先に中へ入り、その扉を支える方が、我々全員の未来にとって有益である」

 そして、日本代表団を真っ直ぐに見据えた。

「インドは、日本を信頼して賛成する。……しかし、その信頼は、日本の加入後の『行動』によってのみ、証明されなければならない」

 

 ブラジル代表は、持ち前の明るさの中に、鋭い現実主義を込めた。

「我々が必要としているのは、四カ国が同時に席へ座るという理想的な記念写真ではない。七十年以上動かなかった分厚い壁に、最初の穴を開けるという『現実』である! 今日、日本がその穴を開ける。……明日、我々はその穴を広げる」

 

 そして、最も注目されたドイツ代表が登壇した。

 彼は、一切の笑顔を見せなかった。

 

「ドイツは、日本の単独先行を歓迎していない」

 議場が、シンと静まり返った。

「しかし、ドイツは日本と合意した。日本加入を改革の第一段階とし、次段階改革を継続するという、公文書に明記された国家間の合意である。……国家間の合意というものは、自分が満足している時だけ守るものではない」

 ドイツ代表の冷徹な声が、議場に響き渡る。

「ゆえに、ドイツは本決議案へ賛成票を投じる」

 そして、最後に付け加えた。

「もし日本が約束を忘れた場合、ドイツは『最初に』それを指摘するだろう」

 

 日本代表団の席で、外務省職員が小声で呟いた。

「……全く、祝福ではありませんね」

 

「ですが、あれが最も重い支持です」

 日下部が、深く頷いた。

 

 ◇

 

 その後も、世界各地域の代表による演説が続いた。

 彼らは、日本を無条件に褒め称えるのではなく、自国の切実な要求を突きつけた。

 

 アフリカ諸国代表は、「我々は日本を支持する。だが、今日の採決を改革の終了とは認めない。日本には、アフリカの恒久的な代表性確保を議題に載せる責任がある」と、条件付きの支持を明確にした。

 

 ASEAN代表は、「日本は日本自身の責任で常任理事国になる。大国間の競争の道具として我々を扱わないことを前提に支持する」と釘を刺した。

 

 そして、太平洋島嶼国の一つ、ツバルの代表が登壇した。

「我々の国は、どこかの敵国の戦車に侵略されるより先に、海に奪われて消滅するかもしれない。……国家が物理的に消滅する危機を、『安全保障』と呼ばない制度に未来はない」

 ツバル代表の切実な声が、議場を打つ。

「日本は、気候と海洋の脅威を安保理へ届けると約束した。我々は、その約束に一票を投じる」

 

 常任理事国拡大への慎重派の代表も演説を行った。

「我々は、日本が不適格だと言っているのではない。『拒否権』という特権を持つ国そのものを増やすことに反対しているのだ。日本が加入するなら、拒否権行使理由の完全公開と、安保理の透明化を強く求める」

 彼らは最終的に反対票を投じる構えだったが、それは日本への批判ではなく、制度そのものへの正当な批判であった。矢崎総理も、その演説を真剣な表情で書き留めていた。

 

 ◇

 

 そして、矢崎薫内閣総理大臣が演壇に立った。

 長大なスピーチではなかったが、日本の現在地と覚悟を、完璧にまとめたものであった。

 

「日本は今日、名誉を求めてこの場に立っているのではありません」

 総理の声は、静かだが議場の隅々にまで通った。

「常任理事国の席は、国力を誇示するための玉座ではないと理解しています。それは、世界が危機に直面した時、判断を他国へ押しつけて逃げることを許されない『最も重い席』です」

 

 総理は、日本の手にある圧倒的な力を隠すことなく語った。

「我が国は現在、エネルギー、医療、環境、宇宙開発などの分野において、世界に極めて大きな影響を与える力を持つようになりました。その力によって利益を得ながら、国際秩序を維持する責任だけを、現在の五大国へ預け続けることはできません」

 

「日本は、既存の常任理事国と完全に同等の権限を求めます」

 矢崎総理は、一歩も引かずに宣言した。

「二級の常任理事国となることは求めません。権限が同等であるなら、責任も同等に負います。拒否権を行使する場合、日本は原則としてその理由を国際社会へ公開し、説明します。……特権を持つことと、それを無制限に振るうことは、全く違うからです」

 

 そして、総理は各地域の懸念に答えた。

「日本は、アジア全体の代表を名乗りません。どの地域の国々も、一つの大国だけに代表されるものではないからです。日本は日本自身の判断と責任において、この席へ座ります」

 

「今日の採決を、国連改革の完了とはしません」

 総理は、G4の仲間たちへ視線を向けた。

「ドイツ、インド、ブラジルとの約束を守ります。アフリカの恒久的な代表性を支持します。小国が大国と同じ一票を持つこの『総会』の声を、安保理が無視しない制度を目指します」

 

 総理は、演説を締めくくった。

「この椅子は、日本だけのために置かれるものではありません。七十年以上動かなかった国連改革の扉が、再び開くことを証明するための椅子です。

 ……日本は、その責任を引き受けます」

 

 矢崎総理が深く一礼すると、議場から大きな拍手が湧き起こった。

 全員が立ち上がるほどの過剰な演出ではない。だが、賛成国からは確かな力強い拍手が送られ、反対・慎重派の国々も静かに、真剣な眼差しでその覚悟を受け止めていた。

 

 ◇

 

 すべての演説が終わり、総会議長が投票へと移ろうとした。

 通常であれば、議席のボタンを押すだけの電子投票で速やかに済ませる予定だった。

 

 だがそこで、慎重派の一国が『記録投票』を要求した。

「国連憲章改正という歴史的決定において、各国がどのような立場を取ったかを、明確に歴史の記録に残すべきである」という主張だった。

 

 矢崎総理は、即座に議長へ頷いた。

「構いません。支持も反対も、等しく明確に記録されるべきです」

 

 これにより、記名式の投票が決定した。

 国名が抽選で定められた起点から、英語表記のアルファベット順に呼ばれ、各国の代表が起立して「賛成」「反対」「棄権」を口頭で宣言していくという、最も重く、時間のかかる方式である。

 

「では、投票を開始する」

 総会議長の宣言とともに、歴史的な呼名が始まった。

 

 最初に呼ばれた国が、立ち上がる。

「賛成(Yes)」

 議場正面の巨大な集計ディスプレイが切り替わる。

【賛成 一】

 

 日本代表団の職員が、ゴクリと息を呑んだ。

「……まだ、一票です」

 日下部が、氷のように冷たい声で言う。

 

 投票が進む中、P5の国名も順次呼ばれた。

 アメリカ。

「賛成」

 イギリス。

「賛成」

 フランス。

「賛成」

 ロシア。

「賛成」

 中国。

 ……一瞬の、意図的な間の後。

「賛成」

 

 P5全員の賛成票が、正式に記録された。

 

 離れた順番で、G4三カ国の国名も呼ばれた。

 ブラジル。

「賛成」

 インド。

「賛成」

 ドイツ。

 ドイツ代表は、日本側の席を一切見ることなく、正面を向いたまま明確に答えた。

「賛成」

 日本国連大使が、自席からごく小さく、敬意を込めて頭を下げた。

 

 そして、『JAPAN』の国名が呼ばれる。

 日本自身も、国連加盟国として一票を持っている。

 矢崎総理の意向により、日本国連大使が代表して立ち上がった。

「賛成」

 自国を常任理事国に加える決議へ、自らの手で重い一票を投じた。

 

 だが、投票は順調に賛成だけが積み上がっていくわけではなかった。

 十数カ国目で、最初の反対票が投じられた。

「反対(No)」

 議場が少しざわつく。続いて、「棄権(Abstention)」も立て続けに出た。

 

 日下部の手元のタブレットで、リストが赤く明滅する。

【事前支持国――棄権へ変更】

 

「……事前に支持すると言っていた国です」

 外務大臣が、焦りの色を浮かべて呟く。

「実際に票が投じられるまでは票ではないと、申し上げたはずです」

 日下部は、全く表情を変えずに事実だけを述べた。

 

 事前の予測である『百三十七票』という、たった八票の余裕が、少しずつ、だが確実に削り取られていく。

 

 ◇

 

 投票は延々と続く。

 賛成九十。反対七。棄権十一。

 

 そして、賛成が『百』に到達した瞬間、議場から小さな拍手が起きそうになったが、総会議長が厳格に制止した。

「投票はまだ継続中です。静粛に」

 日本代表団も、一切表情を崩さなかった。

 

 賛成百二十。

 残り、九票。

 だが、今後呼ばれる国の中には、反対を明言している国や、態度を公表していない国、国内の指示が直前まで届かなかったという不確定な国がまだ多数含まれている。

 

 百二十一。

 百二十二。

 ……一カ国が、棄権。

 百二十三。

 ……一カ国が、反対。

 百二十四。

 百二十五。

 

 そして。

 賛成が『百二十八』に到達した。

 

 あと一票。

 たった一票で、日本を常任理事国へ加える憲章改正決議案の、総会での採択が確定する。

 だが、その直後。呼ばれた二カ国が、連続で答えた。

「棄権」

「反対」

 

 議場の空気が、極限まで張り詰める。

 日本代表団の若い職員が、膝の上で手を白くなるほど強く握りしめた。

 

「……残りの見込みは?」

 外務大臣が、震える声で小声で問う。

 

「賛成確実が七カ国。賛成寄りが五カ国残っています。ですが……まだ、投じられていません」

 日下部も、声のトーンこそ変わらないが、その眼差しはスクリーンに鋭く突き刺さっていた。

 

 矢崎総理は、何も言わなかった。

 ただ、正面の巨大な表示だけを、微動だにせず見つめ続けていた。

 

【賛成 一二八】

【反対 八】

【棄権 一三】

 

 日本を常任理事国へ加える決議案は、あと一票で、総会採択に必要な絶対条件へと到達する。

 

 ◇

 

 総会議長の声が響く。

 

「ツバル(Tuvalu)」

 

 ツバル代表が、ゆっくりと立ち上がった。

 先ほどの演説で、「国家が海に沈む危機も安全保障として扱え」と、血を吐くような思いで訴えた人物だ。

 国土も人口も限られ、軍事大国でも経済大国でもない島国。だが、この国連総会という場においては、アメリカや中国、そして日本と全く同じ、世界を動かす重い『一票』を持っている。

 

 ツバル代表は、一瞬だけ、日本代表団の席へと視線を向けた。

 そして、議場全体に響き渡る明確な声で、はっきりと宣言した。

 

「賛成(Yes)」

 

 集計ディスプレイの数字が、弾かれたように切り替わる。

 

【賛成 一二九】

 

 必要な三分の二の賛成票へ、到達。

 日本を常任理事国へ加える憲章改正決議案の総会採択が、数学的に、そして歴史的に確定した瞬間だった。

 

 日下部の端末上で、【総会採択必要数――到達】の文字が、初めて緑色へ切り替わった。

 日本代表団の職員が、一斉に大きく息を呑んだ。

 誰かの、嗚咽を堪えるような声が漏れた。

 インド代表が、遠くの席から大きく頷いた。

 ブラジル代表が、机を軽く叩いて祝福した。

 ドイツ代表は表情を変えなかったが、読んでいた手元の資料を、パタンと静かに閉じた。

 

 総会議場の一部から、抑えきれない拍手が沸き起こった。

 総会議長が、木槌を打って制する。

「投票はまだ継続中です。各代表団は静粛に願います」

 

 投票は終わっていない。

 しかし、百二十九票目が入ったあの瞬間。

 日本のための六番目の椅子を作ることが、国連総会の意思として確定したのだ。

 

「……届きましたね」

 外務大臣が、涙ぐみながら小さく呟いた。

 

「まだ、最終結果が出ていません」

 日下部は、いつものように冷徹な声で返した。だが、手元の端末を握る彼の指が、ごくわずかに震えているのを、誰も咎めようとはしなかった。

 

 矢崎総理は、歓喜の声を上げることもなく、ツバル代表の方へ向かって、自席に座ったまま深く、深く頭を下げた。

 

 ◇

 

 その後も、定められた順番での投票は粛々と続いた。

 百三十。百四十。百五十。

 アフリカ諸国、ASEAN、中東、中南米、島嶼国。日本との条件交渉を重ねてきた国々が、次々と賛成票を投じていく。

 慎重派の一部は反対し、一部は棄権した。

 

 そして、最後の国の投票が終わり、集計結果がスクリーンに大写しになった。

 

【賛成 一六四】

【反対 一一】

【棄権 一八】

(合計 百九十三)

 

 全会一致ではない。

 だが、必要な百二十九票を三十五票も上回る、圧倒的多数での可決であった。

 

 総会議長が、マイクに向かって正式に宣言した。

「本決議案は、加盟国の三分の二以上の賛成を得て、採択されました」

 

 今度こそ、巨大な議場を割れんばかりの拍手が包み込んだ。

 P5の代表たちも拍手を送る。インドとブラジルは立ち上がって歓喜した。ドイツは立ち上がらなかったが、形式としてしっかりと拍手は送っていた。

 

 日本代表団の全員が立ち上がり、議場へ向かって一礼した。

 矢崎総理は、派手なガッツポーズやパフォーマンスは一切しなかった。ただ、自国に委ねられた計り知れない責任の重さに耐えるように、国連総会へ向かって深く、静かに頭を下げた。

 

 ◇

 

 採決直後の議場の熱気の中、各国の代表が矢崎総理の元へ歩み寄ってきた。

 

 インド首相が、力強い握手を求める。

「まずは、一番重い扉を通りましたね」

 

「ええ。ですが、まだ椅子には座っていません」

 矢崎総理が答える。

 

「では、批准が終わって座った時は、内側からしっかり引いてくださいよ」

「必ず」

 

 ブラジル代表が、満面の笑みで近づく。

「ついに壁に穴が開きました! 塞がないでくださいよ!」

「ええ、広げます」

 

 そして、ドイツ代表が歩み寄ってきた。

「総会での可決、おめでとうございます」

 彼らが初めて口にした「おめでとう」の言葉だった。だが、相変わらず笑顔はない。

「ただし、これは第一段階に過ぎません」

 

「承知しています」

「国会決議と今日の見事な演説は、確認しました。次は、日本の『行動』を確認します」

「いつでも、厳しく確認してください」

「そのつもりです」

 

 アフリカ諸国の代表も、釘を刺しに来る。

「日本の本当の仕事は、今日から始まります。我々は、日本が約束を守るか、ずっと見ていますよ」

「ええ、見ていてください」

 

 そして、矢崎総理は自分から歩み寄り、百二十九票目を投じたツバル代表の元へ向かった。

 

「……ありがとうございました」

 総理が深く礼を言う。

 

 ツバル代表は、単純な祝福の言葉では返さなかった。

「我々は、日本のためだけに賛成したのではありません」

 

「理解しています」

 総理は真摯に答える。

 

「安保理の席へ座ったら、海に沈みつつある小さな国の名前を、絶対に忘れないでください」

 

「決して忘れません。我々も海に囲まれた国ですから」

 それは単なる謝意の交換ではない。日本が常任理事国となった後の行動を求める、重い政治的約束の確認だった。

 

 ◇

 

 東京。首相官邸、特別情報分析室。

 

 国連総会の生中継映像を見守っていた官房長官、御堂大臣、財務省代表、そして政府職員たち。

 ホワイトボードの『床補強リスト』の項目に、新たなチェックが入る。

 

『国連総会・三分の二確保』

 

 だが、その直下には、まだ重いタスクが残されていた。

 

『加盟国三分の二による批准』

『P5全カ国の批准』

『国連憲章改正発効』

『日本、安保理常任理事国席へ着席』

 

「……これで、終わりではないのですね」

 官房長官が、肩の力を抜きながら呟く。

 

「はい。国連総会が、『憲章を変えることに同意した』だけです」

 担当官が、冷徹に答える。

 

「百六十四カ国が賛成しても?」

「各国による必要数の批准が完了しなければ、憲章改正は法的に発効しません」

 

「国連というのは……椅子へ座るまでの手続きが、長すぎませんか?」

 官房長官が、疲労困憊して天を仰ぐ。

 

「七十年以上、誰一人として座れなかった席ですからね」

 担当官の言葉に、官邸の密室に少しだけ安堵と疲労の入り混じった笑いが起きた。

 

 ◇

 

 ニューヨーク。国連本部、儀典・会議管理部門。

 

 先日、日本の国名プレートが収められた地下の保管室。

 棚の奥に置かれていた、一つの木箱。

『暫定準備品』『国連憲章改正発効まで使用禁止』と書かれた箱の前で、若い職員と上司が、総会採決の結果を知らせるモニターを見ていた。

 

「……百六十四票で、可決されました」

 若い職員が、興奮冷めやらぬ声で報告する。

 

「ええ」

 上司は、いつも通りの無表情で頷いた。

 

「これで、ついにこのプレートを、安保理の会議室へ置けますか?」

 

「まだです」

 

「まだなのですか?」

 

「総会は、『椅子を作ることを認めた』だけです。その椅子に座る権利が法的に発効するのは、各国の批准が終わった後です」

 上司はそう言いながら、箱に貼られた赤いラベルの上へ、新しいラベルを貼り付けた。

 

『国連総会可決済み』

『加盟国批准待ち』

 

 そして、上司は箱を棚の一番奥から、ゆっくりと取り出した。

 完全に保管室の外へは出さない。だが、扉に最も近い『設置待ち区画』へと移動させた。

 同時に、安保理会議室用の新しい革張りの椅子が一脚、台車へ載せられる。

 

「どこまで運びますか?」

 若い職員が、台車のハンドルを握る。

 

「今日は、総会が認めたところまでです」

 

「安保理会議室の、手前まで?」

 

「ええ。批准が終わるまで、設置待ち区画の廊下で止めます」

 

 職員たちが、静かに台車を押す。

『JAPAN』と刻まれたプレートの入った箱と、新しい一脚の椅子が、国連本部の静かな廊下を進んでいく。

 議場へは、まだ入らない。

 分厚い扉の手前で、彼らは足を止めた。

 

 日本は、まだ常任理事国ではなかった。

 拒否権も、まだ持っていない。

 安全保障理事会の会議室に、日本の名札は置かれていない。

 

 それでも、百二十九番目の「賛成」が議場に響き渡ったあの瞬間。

 世界は、日本のために六番目の椅子を作ることを正式に認めたのだ。

 百六十四カ国の明確な意志によって、その椅子は暗い棚の奥から運び出された。

 

 ただし、行き先はまだ輝かしい会議室の中ではない。

 国連憲章という、絶対的な法の扉の前。

 各国の批准という最後の手続きを待つ、設置待ちの場所である。

 

 日本の椅子は、ついに国連総会を通過した。

 あとは世界が、その椅子へ日本が座る権利を、自らの国の法律で一つずつ認めるのを待つだけだった。

 




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