自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
「きゃああああああっ! 誰か! 助けてください!!」
抜けるような青空の下、白亜の石畳が続く美しい中央広場に、悲鳴が響き渡った。
色とりどりの果物や織物を並べた露店。陽光を受けてきらめく大噴水。蹄の音を響かせて行き交う二頭立ての馬車。そんな絵画のような異世界の街並みのど真ん中で、透き通るような金髪と長い耳を持つエルフの女性が、買い物籠を落として声を上げている。
原因は、彼女の目の前にいた。
初期装備の簡素な革鎧を着た日本人青年——一般テスターの佐倉健太が、完全に目を血走らせて両手を広げていたのだ。
「うわあああ! エルフだ! 本物のエルフがいる! 耳が長い! まつ毛まで動いてる! うわ、これ本当に触れるのか!?」
画面の向こうの存在だったものが、今、目の前で息をしている。
二十数年間、モニター越しにファンタジーを追い続けてきたゲーマーの理性は、ログインからわずか数十秒で蒸発していた。健太は確認するよりも早く、感動のままに目の前のエルフへガバッと抱きついた。
柔らかい布地の感触と、わずかな花の香り。
「きゃあああっ! な、何するんですか気安く触らないでください!!」
「えっ?」
女性は全力で健太を突き飛ばすと、顔を真っ赤にして後ずさり、広場の角に向かって叫んだ。
「衛兵さーん! ここです! この旅の人が、いきなり抱きついてきたんです!」
広場の空気が、一瞬にして凍りついた。
近くを歩いていた獣人の商人が足を止め、露店の店主が眉をひそめ、買い物客たちがヒソヒソと囁き合いながら健太を取り囲むように距離を取る。
「え? あれ? ちょ、ちょっと待って、これゲームですよね? ボタン連打で会話スキップできないやつですか!?」
健太が狼狽したのも束の間、石畳を蹴る重々しい足音と、ガチャガチャという鋼鉄の擦れ合う音が背後から迫ってきた。
振り返ると、そこには身長百九十センチはあろうかという屈強な衛兵が二人、仁王立ちしていた。銀色に鈍く光るプレートアーマー。腰に吊るされた無骨な長剣。兜の奥から覗く鋭い眼光には、一切の冗談が通じない威圧感があった。
「そこの男。騒ぎの中心はお前だな。何をしている?」
低く響く声に、健太は思わず背筋を伸ばした。
「い、いや、あの! 目の前にエルフのお姉さんがいて、あまりにも可愛くて感動しちゃって……」
「知り合いなのか?」
「いえ、初対面です!」
「相手の許可を得たのか?」
「……得てません」
「ならば詰め所まで同行してもらおう」
「話が早すぎる!!」
健太が叫ぶ間もなく、二人の衛兵が左右から歩み寄り、その両腕をガッと掴んだ。
分厚い革手袋のごわついた感触と、絶対に振りほどけない万力のような力。安全基準によって痛みや過度な圧迫感こそカットされているものの、自分の身体が完全に制圧されているという事実がダイレクトに脳へ伝わってくる。
周囲の住民たちから、冷ややかな声が飛んだ。
「これだから最近の旅人は……」
「真っ昼間から往来で何を考えているんだか」
「衛兵さん、しっかりお灸を据えてやってください!」
「ち、違うんです! ちょっと待って! 俺、まだチュートリアルすら終わってない! 実質何もしてないんだけど!?」
「白昼堂々、見ず知らずの女性に抱きついたと今自分で供述しただろう。観念しろ」
「そうでした!!」
ズルズルと引きずられていく健太の視界の中央に、無機質な赤いシステムウィンドウがポップアップした。
《市街地迷惑行為:住民への無断接触》
《衛兵による拘束処理が実行されました》
《GAME OVER》
無慈悲な文字とともに、鮮やかな異世界の風景がスッと暗転した。
ログインしてから、ここまでわずか二分十四秒の出来事であった。
◇
プシュー、という駆動音とともに、フルダイブポッドのキャノピーが開いた。
「うわあああ!! 逮捕された!! 俺、異世界で逮捕された!!」
健太は上半身を跳ね起こし、ヘッドギアを外しながら絶叫した。
ここは東京・品川にある星海インタラクティブの社内テストルーム。壁一面に設置された大型モニターには、つい今しがた健太がエルフに突撃し、衛兵に両脇を抱えられて連行されていく一部始終が、高精細な三人称視点のリプレイ映像として映し出されている。
ポッドの周囲に立っていた開発スタッフたちの間に、数秒間の奇妙な沈黙が流れた。
「……ぷっ、あはははははっ!」
最初に耐えきれなくなったのは、プランナーの島村だった。バインダーを抱えたまま、腹を抱えて笑い出す。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 記念すべき一般テスター第一号が、最初にやったことがNPCへのハグ!? しかも開始二分でしょっ引かれてるじゃないですか!!」
隣で腕を組んでいたディレクターの黒瀬が、呆れたようにため息をつきつつも、口元の笑みを隠せずに言った。
「街の治安維持アルゴリズムと衛兵の拘束処理は確かに組み込んだが……まさか最初のテスト走行の、それも開始二分でお目にかかるとは思わなかったな」
コンソールを叩いていたリードプログラマーの芹沢が、眼鏡の位置を直しながら淡々と補足する。
「エラーログは出ていません。住民のパーソナルスペース侵害判定、周囲への通報ルーチン、衛兵AIの経路探索と確保アクション、すべて仕様通りに稼働しています」
法務担当の三枝も、モニターの再生画面を見つめてしみじみと頷いた。
「むしろ、無法地帯にならないための治安システムがここまで綺麗に動いてくれて安心しました」
「そこ安心するところですか!?」
ポッドの中から身を乗り出し、健太が涙目でツッコミを入れる。
「いや、だって! 目の前に本当にエルフが歩いてるんですよ!? ポリゴンじゃなくて、なんかもう、そこに『居る』んですよ! あんなの触ってみたくなるじゃないですか!」
「気持ちは分かるが、うちのNPCには生活と人格のシミュレートが入ってるんだ。初対面の男に無言で抱きつかれたら、そりゃ衛兵を呼ぶ」
黒瀬が肩をすくめて笑う。
二〇三一年六月後半。九月の東京ゲームショウ(TGS2031)での一般公開実証まで、残り約三か月。
星海インタラクティブの開発陣は、アンノウン機関から提供された開発キット(SDK)を用い、かつて「ただの草原」でしかなかった空間に、王道ファンタジーRPGの世界を必死に構築してきた。
そして今日、数か月に及ぶ社内テストを経て、初めて「開発事情を一切知らない外部の一般ゲーマー」を招いたクローズドβテストが実施されていたのである。
「もう一回! もう一回だけお願いします!」
健太はポッドの縁を掴み、必死の形相で食い下がった。
「今のなし! まだ街の入り口から十メートルしか歩いてないんです! 今度はちゃんと礼儀正しく冒険しますから!」
本番のTGS会場では体験時間やペナルティによる強制終了のルールを厳格にする予定だが、今日はプレイヤーの行動傾向を探るためのテストだ。芹沢が数回キーを叩き、テストアカウントのステータスと犯罪フラグを初期化する。
「よし、リセット完了だ。次は他の二人も同時にログインさせる」
黒瀬が頷き、健太に向かって指をさした。
「いいか、今度はNPCに会うたびに抱きつくなよ」
「分かってますって! 今度はちゃんと声をかけて、許可を取ってからにします!」
「そこまでして抱きつきたいんですか……?」
三枝の冷ややかなツッコミに、テストルームが再び笑いに包まれた。
◇
今回、数万人の応募者の中から選ばれた一般テスターは、健太を含めて三人の成人ゲーマーだった。
一人は、先ほど見事な初手逮捕を飾ったアクション・RPG好きの佐倉健太。
二人目は、隣のポッドに入っている二十代女性の会社員、水野結衣。ファンタジー世界の散策やスクリーンショット撮影、住人との会話を何より好む探索派だ。
三人目は、さらにその隣で冷静にヘッドギアを調整している真田悟。MMORPGで長年レイドリーダーを務めてきた、効率と攻略を重視するベテランゲーマーである。
三人はいずれも、アンノウンの技術仕様や星海側の開発裏話など知る由もない、純粋な「客」だ。事前講習でフルダイブの基本操作と安全上の注意だけは聞かされているが、これから入る世界がどんな場所なのかは、すべて初体験となる。
《FULL DIVE CONNECTION――START》
視界が光に包まれ、次の瞬間、三人は同時に城塞都市『アルカディア』の中央広場へと降り立った。
頭上には、吸い込まれそうなほど高く澄み渡った蒼穹。
周囲を取り囲むのは、巨大な白石を積み上げた威容を誇る城壁と、赤いレンガ屋根が連なる美しい街並みだ。遠くには街の象徴である大時計塔がそびえ立ち、その周囲を白い鳥の群れが旋回している。
風に乗って、どこかの店から焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってきた。石畳を踏みしめる自分の革靴の硬い感触、馬車の車輪が立てるゴトゴトという振動、行き交う人々の活気あるざわめき。
「うっっっわああああああ!! やっぱりすげえええええ!!」
二度目のログインにもかかわらず、健太が両手を突き上げて絶叫した。
「ちょっと待って……えっ、なにこれ……!」
隣に立った結衣が、自分の頬や髪に触れながら声を震わせている。
「風! 今、風が吹いてる! 冷たくて気持ちいい……っ、ねえ見て、風で私の髪が揺れてるんだけど!?」
「おい、二人とも落ち着け。ここは広場の中央だぞ」
悟が周囲を見回しながら、努めて冷静に声をかけた。だが、その悟自身の声もわずかに上ずっている。
「まずはメニューを開いてマップの確認と、初期クエストの誘導を……」
悟が言い終わるより早く、三人の足は全く別の方向へと動き出していた。
健太は近くの武器屋のショーウィンドウへ。結衣は広場を彩る花壇へ。そして「落ち着け」と言っていたはずの悟自身も、目の前を通りかかったトカゲ頭の獣人戦士に目を奪われ、無意識にその後ろをついていきかけていた。
「あ、待て! バラバラになるな!」
悟が慌てて二人を呼び戻す。三人が集まったのは、大きなガラス窓がはめ込まれた服飾店の前だった。
ガラスに、三人の現在の姿が映り込んでいる。
健太は、銀の肩当てがついた青いチュニックに革鎧をまとった、爽やかな青年剣士の姿。
結衣は、深い翠色のローブに三角帽をかぶり、銀細工の施された木の杖を手にした魔法使いの姿。
悟は、動きやすそうな深緑のクロークを羽織り、背中にショートボウを背負った精悍な弓使いの姿だ。
「……なあ、ちょっと見てくれよ」
健太がガラスに顔を近づけ、自分の顔をあらゆる角度から眺め回した。
「俺、めちゃくちゃイケメンになってないか!?」
「ほんとだ、健太くんのそのサラサラの銀髪、現実じゃ絶対にセットできないやつじゃん!」
結衣がケラケラと笑い、自分のローブの裾を持ってくるりと一回転する。布が空気を含んでふわりと広がり、腰のリボンが揺れた。
「うわあ、すごい……自分の身体なのに、本当に魔法使いの女の子になってる。服の重さまで感じるよ」
「……待て、俺、現実より身長が五センチくらい高くないか? 視点が違うぞ」
悟も自分の手のひらを握ったり開いたりしながら、ガラスの中の自分を見つめていた。試しに背中の弓に手を伸ばし、肩を回してみる。映画の登場人物にでもなったかのような立ち姿に、悟は思わず口元を引き締めて腕を組み、斜めに構えてみた。
「あ、真田さんがカッコつけてる!」
「うるさい! 動作確認だ!」
普通の画面越しのゲームなら、キャラメイクの後は背中を眺めて走るだけだ。だがここでは、自分の足で一歩踏み出すたびに靴音が鳴り、マントが揺れ、ショーウィンドウに映る自分と目が合う。それだけで、三人はすでにテンションが振り切れていた。
ピロン、と軽やかな音が鳴り、三人の視界の端に半透明のガイドウィンドウが表示された。
《メインクエスト:まずは『冒険者ギルド』へ向かい、登録を行おう》
地面には、ギルドの方向を示す淡い光の矢印が浮かび上がっている。
「よし、出たな」
悟が今度こそ攻略モードに切り替え、矢印の先を指さした。
「最初は冒険者ギルドだ。あそこに行けば初期スキルの解放とチュートリアルクエストが受けられるはず――」
「うわ、水だ!!」
健太が悟の言葉を完全に無視して、広場の中央にある大噴水へ猛ダッシュした。
「おい佐倉!? 人の話を聞け!!」
「私も行くー!」
健太と結衣が噴水の縁に駆け寄り、勢いよく水の中へ両手を突っ込んだ。
バシャッ、とリアルな水しぶきが上がり、二人の歓声が響く。
「冷たっ!! うわ、マジで水だ! 手が濡れてる感触がある!」
健太が水を両手ですくい上げ、そのまま自分の顔にバシャバシャと引っ掛けた。
「ぷはーっ! すげえ、顔まで冷たい!」
「ほんとだ、指の間から水がこぼれる感じが本物そのものだよ! ねえこれ、飲めるのかな!?」
結衣が水をすくって口元へ運ぼうとする。
「飲むな! 街の噴水だぞ! せめて宿屋か酒場で頼め!」
結局、悟も噴水まで走ってきて結衣の腕を止めていた。止めながらも、悟の視線は水面で揺れる太陽の光の反射と、自分の指先に触れた水の冷たさに釘付けになっている。
その様子を、現実世界のテストルームから開発陣がじっと見守っていた。
「……やっぱり噴水、真っ先に触りに行きますね」
島村がモニターの数値を見ながら苦笑する。
「流体の接触フィードバックと温度再現は、SDKの標準プリセットをそのまま使っていますからね」
芹沢がキーボードから手を離し、背もたれに体重を預けた。
「ただ、メインクエストのガイド矢印を目の前に出してあるのに、開始五分で三人全員が水遊びを始めるとは思いませんでした」
「そりゃ触るさ」
黒瀬がモニターの中の三人を見て、楽しそうに目を細めた。
「俺たちだって、最初にこの広場をビルドした時は全員で噴水に手を突っ込んだだろうが。目の前に本物そっくりの異世界の水があったら、まず触ってみたくなるのが人間だ」
開発者たちにとって、水が冷たいことも、風が吹くことも、すでに数か月かけて調整してきた既知の仕様だ。
だが、それを初めて体験するプレイヤーたちが、開発側の用意した順路など見向きもせずに目を輝かせている姿は、どんなデバッグデータよりも新鮮に映っていた。
◇
冒険者ギルドまでの距離は、中央広場から大通りを真っ直ぐ歩いてわずか三分ほどである。
しかし結論から言えば、健太たち三人は、そこから三十分以上経過してもギルドの扉にすら辿り着かなかった。
「……ねえ、なんかすっごくいい匂いしない?」
噴水から離れた直後、結衣が鼻をひくつかせて大通りの脇道を見た。
そこには、赤い幌を張った小さなベーカリーがあった。店の奥の石窯からパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえ、店頭の木箱には、黄金色に焼き上がった丸パンやクロワッサンが山積みにされている。甘く香ばしい小麦とバターの香りが、通りいっぱいに漂っていた。
「パン屋さんだ! ねえ、ちょっとだけ入ろうよ!」
「おい水野、ギルドはどうするんだよ」
「ギルドは逃げないって! ほら、腹が減っては戦はできぬって言うだろ!」
「お前、現実で昼飯食ってから来ただろうが!」
悟の抗議も虚しく、健太と結衣は吸い寄せられるようにパン屋へ突撃した。
エプロン姿の恰幅のいい女性NPCが、満面の笑みで迎え入れる。
「いらっしゃい! ちょうど今、うちの看板商品の『黄金蜂蜜パン』が焼き上がったところだよ! 一つどうだい?」
「買います! ください!」
結衣が即答し、初期所持金の入った革袋から小さな銅貨を取り出して渡す。硬貨の重みと金属の冷たさまでしっかりと感じられた。
受け取った焼きたてのパンは、紙包みの上からでもホカホカと温かい。結衣が両手でパンを割ると、湯気とともに、とろりとした蜂蜜と発酵バターの芳醇な香りが一気に広がった。
結衣はそれを口に運び、サクッと一口かじった。
そのまま、ピタリと動きを止める。
「……どうした?」
健太が不安そうに覗き込むと、結衣は目をカッと見開いて叫んだ。
「うっっっま!! なにこれ、信じられないくらい美味しい!!」
「マジで!? おばちゃん、俺にも一つ! いや二つくれ!」
「あ、おい佐倉、初期資金を勝手に――くそっ、すみません、俺にも一つください!」
結局、三人揃って店の前で黄金蜂蜜パンにかぶりついた。
外側の生地はパリッと香ばしく、中は驚くほどふわふわでモチモチしている。噛むほどに小麦の甘みと、濃厚な蜂蜜の風味が口いっぱいに広がっていく。
「ちょ、待ってくれ、ゲームのパンが現実のパンより美味いんだけど!!」
健太が頬張りながら目を白黒させる。
「脳への味覚・嗅覚フィードバックだ。実際に胃袋へ物が入ってるわけじゃないぞ」
悟がもっともらしいことを言うが、その手にあるパンはすでに半分以上消えていた。
「理屈はどうでもいいんだよ、美味いもんは美味い!」
「私、このパン屋さんで働くクエストやりたい! これだけで一時間遊べるよ!」
勢いづいた結衣が、店の奥でパンをこねている店主の男性に話しかけた。
「あの、おじさん! この街で一番おいしい食べ物って何ですか?」
決められた選択肢などはない。結衣が自分の言葉で尋ねると、店主は粉だらけの手を止めて、誇らしげに胸を張った。
「そりゃあ、お嬢ちゃんが今食べてるうちの蜂蜜パンに決まってるじゃないか!」
「じゃあ、二番目に美味しいものは?」
「二番目だってうちのライ麦パンさ! ……と言いたいところだが、ガッツリ肉が食いたいなら、二つ先の角にある『赤猪亭』のシチューにしておきな。あそこの親父の腕は確かだよ」
「うわあ、ちゃんと自分の店を宣伝しつつ、他のお店も教えてくれた……!」
結衣が感動して胸を押さえる。台本を読み上げるだけの記号ではない、そこに生きている街の住人との会話だった。
さらに通りを進むと、日向ぼっこをしていた白髭の老人に健太が話しかけた。
「じいちゃん、この街で一番景色がいい場所ってどこ?」
「ん? 旅の若い衆か。それなら東の時計塔の上じゃな。夕方になると、街を流れる川が夕日で金色に染まってそりゃあ見事だぞ」
「よし決めた! みんな、時計塔行こうぜ!」
「ギルドに行けよ!!」
悟のツッコミが空に響く。
だが、その直後だった。
「……あっ、猫!!」
路地裏の樽の上に、茶トラの猫が一匹、丸くなって座っていた。
結衣がすかさず駆け寄ってしゃがみ込み、指先をそっと差し出す。猫は鼻をひくつかせて結衣の指の匂いを嗅ぐと、安心したように頭を擦り寄せてきた。
「ふにゃああ……っ、柔らかい! あったかい! 喉がゴロゴロ鳴ってる振動まで手に伝わってくる!」
「うおっ、俺も撫でる!」
健太が隣にしゃがみ込み、遅れてやってきた悟までが、周囲をキョロキョロと確認してから無言でしゃがみ込んで猫の背中を撫で始めた。
「……なあ、確認なんだが」
悟が猫の顎の下をくすぐりながら、低い声で呟いた。
「これ、冒険者ギルドに行って魔王軍とかと戦うゲームだよな?」
「いいえ、猫を撫でるゲームです」
結衣が断言する。
「俺は焼きたてのパンを食うゲームだと思ってた」
「さっきからゲームの目的が変わりすぎだろ!」
気を良くした健太が「よし、抱っこしよう!」と両手を伸ばした瞬間、猫は「シャーッ!」と毛を逆立てて身を翻し、屋根の上へと駆け上がって逃げていった。
残された健太は、空っぽになった両手を見つめて、遠い目をした。
「……俺、さっきのエルフのお姉さんの気持ち、今なら少し分かるかもしれん」
「お前が猫にやったことと、エルフにやったことはほぼ同じだからな」
そこから先も、三人の寄り道は止まらなかった。
剣と盾の看板を掲げた武器屋を見つければ、当然のようになだれ込む。
「うわあああ! 壁に飾ってあるあの大剣、めちゃくちゃカッコいい!! すみません、あれちょっと持ってみてもいいですか!?」
ドワーフの店主に許可を取り、健太が身の丈ほどもある鋼鉄のグレートソードを台座から外す。ずしり、と猛烈な重量感が腕と肩にのしかかり、健太は二歩よろめいて尻餅をつきそうになった。
「重っ!? なにこれ、鉄の塊じゃん!」
「当たり前だ! お前、まだレベル1の初期ステータスなのに両手大剣なんか振り回せるわけないだろ!」
悟が呆れつつも、自分は棚に並んだ精巧なクロスボウを手に取り、弦の張り具合や照準器を熱心に覗き込んでいる。
隣では結衣が、先端に青い魔石がはめ込まれた銀の杖を掲げてうっとりしていた。
「見てこれ、動かすと魔石の中の光が揺れるんだよ! ねえ、あっちの革鎧も試着していいですか!?」
三人はそれから十分近く、あれもこれもと武器を構えては鏡の前でポーズを取り、ゲーム内のスクリーンショット機能で記念撮影を繰り返した。
やがて、腕を組んで見ていたドワーフの店主が、ジト目で三人に声をかけた。
「……おい、あんたら。さっきから散々触り倒してるが、本当に買う気はあるのかい?」
「あ、すみません! パン買ったらお金が全然足りなくて!」
健太が正直に答えると、店主は大きくため息をついて親指で店の外を指さした。
「金がないなら、さっさと通りの先の冒険者ギルドで仕事でも探してきな! ひやかしならお断りだよ!」
「ほらあああ!! ついに武器屋のNPCにまでギルドに行けって言われたぞ!!」
悟が頭を抱え、健太と結衣が腹を抱えて爆笑する。
店を出た三人は「今度こそギルドへ」と歩き出したものの、そのわずか三十メートル先で、人だかりと歓声に遭遇した。
小さな辻広場で、派手な衣装を着た大道芸人の男が松明の火を吹き上げ、ナイフのジャグリングを披露していたのだ。
「うわ、火が熱い! 大道芸やってるよ、見よう!」
「だからギルド――」
悟の言葉は歓声にかき消された。
大道芸人が「さあさあ、そこの旅のお兄さん! この輪投げに挑戦してみないかい?」と健太を指名する。健太は「やります!」と二つ返事で進み出て、木製のピンに向かって輪を投げた。
カラン、と小気味よい音を立てて輪が入ると、周囲の住民NPCたちから一斉に拍手と歓声が上がった。
「うおおおお!! 見たか、俺すげえ!!」
単なる初心者向けの簡単なミニゲームなのだが、十数人の住人から本気で拍手喝采を浴びた健太は、英雄にでもなったかのようにガッツポーズを決める。
さらに大道芸人が「次は難易度を上げるぞ!」とピンを動かすと、今度は悟が「……ちょっと貸せ」と前に出た。
「真田さん、ギルドは!?」
「これだけクリアしたら行く!」
悟が真剣な目つきで輪を投げるが、ピンに弾かれて失敗する。
「あーっ! 効率厨の真田さんが外したー!」
「うるさい! 風向きを計算し損ねただけだ! おじさん、もう一回!」
結局、本来なら街の賑やかしのために配置された通過イベントの大道芸に、三人は十分以上も熱中し続けたのだった。
◇
一方、現実世界の星海インタラクティブ・テスト観察室。
壁面の大型モニターには、三人の現在位置を示すマップと、各種バイタル、感情推定グラフ、そして無残な数字が表示されていた。
《プレイ経過時間:38分》
《メインクエスト進捗率:0%》
「……まだギルドに着いてませんね」
島村が、手元の進行スケジュール表とモニターを交互に見て、乾いた笑いを漏らした。
「ルートガイドの表示は正常ですし、プレイヤーの視界にも入っています」
芹沢がログをスクロールしながら冷静に分析する。
「ただ、パン屋の匂い、路地の猫、武器屋の展示、広場のミニゲーム……視界に入ったオブジェクトのすべてに引っかかって、全員が自分の意思でルートから逸脱し続けていますね」
「いいじゃないか」
腕を組んでモニターを見上げていた黒瀬が、ぽつりと言った。
「いいんですか? 当初のテスト想定では、開始五分でギルド登録を済ませて、十分後には街の外でスライムと戦ってるはずだったんですよ?」
島村が心配そうに尋ねると、黒瀬は顎でメイン画面を示した。
「見ろよ、あいつらの顔を」
モニターの中では、輪投げに失敗して地面に膝をつく悟を健太が指さして笑い、その横で結衣が露店の花飾りを髪に当てて店員と話し込んでいた。三人の心拍数と快感情のグラフは、ログイン直後からずっと高い数値を維持したまま、一度も下がっていない。
「……ずっと笑ってるだろ」
黒瀬の声には、隠しきれない感慨が滲んでいた。
数か月前、初めてアンノウンのフルダイブ空間に立ち、ただ風が吹くだけの草原を歩いたあの日。黒瀬はこれまでのゲーム作りの常識がすべて通用しなくなったことを悟り、「全部作り直しだ」と宣言した。
一本道のシナリオを歩かせるだけでは駄目だ。ハリボテの背景では通用しない。プレイヤーが触れたいと思ったものにはすべて手応えを返し、話しかけたいと思った住人にはすべて暮らしを与えようと、スタッフ全員で睡眠時間を削ってこの街を作ってきた。
「俺たちは、あいつらが遊べる世界を作ったんだ。一本道のレールの上を走らなくても、あいつらが今、あそこで本気で遊んでくれてるなら、それで大成功だ」
黒瀬の言葉に、島村も、芹沢も、三枝も、誇らしげな笑みを浮かべてモニターを見つめ直した。
◇
「――よし! 着いた! ついに着いたぞ!!」
ログインから四十分近くが経過した頃、三人はようやく、交叉する大剣と盾の紋章が掲げられた巨大な石造りの建物――『冒険者ギルド』の前に辿り着いた。
重厚な両開きの木の扉を押し開けると、中から一気に熱気と喧噪が押し寄せてきた。
高い天井から吊るされたシャンデリア。壁一面に張り出された羊皮紙の依頼書。併設された酒場スペースでは、傷だらけのプレートアーマーを着た戦士や、巨大な戦斧を背負った獣人たちがジョッキを酌み交わし、豪快な笑い声を上げている。
「うわああああ……っ!!」
今日すでに何十回と上げてきた歓声だが、今回の感動はまた別格だった。
画面の向こうで何百回と見てきた「冒険者ギルド」の空気の中に、今、自分自身が立っている。長年RPGを愛してきた人間にとって、それは夢がそのまま形になったような光景だった。
三人は周囲の屈強な冒険者たちに圧倒されながら、奥の受付カウンターへと歩み寄った。
そこには、清潔感のある制服に身を包んだ、落ち着いた雰囲気の美しい受付嬢が微笑んで立っていた。
先頭を歩いていた健太が、カウンターの手前二メートルの位置で、ピタリと足を止めた。
「……どうした、佐倉?」
悟が後ろから声をかけると、健太は真剣な顔で言った。
「いや……受付のお姉さん、めちゃくちゃ綺麗だなと思って」
「また抱きついたら?」
結衣がニヤニヤしながら悪魔の囁きを送る。
「逮捕されるわ!! ギルドの中で衛兵と冒険者全員に袋叩きにされるわ!!」
健太が全力で首を振り、三人はその場で吹き出した。
事情を知らない受付嬢のNPCが、不思議そうに小首を傾げて声をかけてくる。
「あの……皆様、新規の冒険者登録をご希望でしょうか?」
「は、はい! 今度は一点の曇りもなく真面目にお願いします!!」
健太が直立不動で頭を下げ、手続きが始まった。
受付カウンターの魔導板に手をかざし、名前と希望する初期クラスを登録していく。
健太は『剣士(ソードマン)』。結衣は『魔術師(メイジ)』。悟は『弓手(アーチャー)』。
手続きが完了すると、受付嬢から金属製のプレート――真新しい『ギルドカード』が手渡された。
「うわ、本当に自分の名前が彫ってある……! 俺のギルドカードだ!」
健太がカードを太陽の光に透かすようにして掲げる。
「ねえ、カード持って三人で写真撮ろうよ! ほら、カウンターの前で並んで!」
「また記念撮影かよ……俺たち、この世界に来てから観光しかしてないぞ」
ボヤきながらも、悟はしっかり自分のギルドカードを胸元に掲げてカメラ目線を作った。
登録を終えた三人は、受付嬢の案内に従って、ギルドの裏手にある『初心者訓練場』へと足を踏み入れた。
周囲を防護柵で囲まれた土の広場には、藁で作られた人型の標的がいくつも並んでいる。ここで初期装備の扱いと、基本スキルのチュートリアルを行うのだ。
「よし、まずは私から行くね!」
結衣が木の杖を両手で握りしめ、十メートル先の藁人形と向き合った。
視界の端に、初心者向けのスキルガイドが表示される。初期習得魔法は、基本にして王道の火炎魔術――《ファイアボルト》。
「杖の先を標的に向けて、魔力の流れをイメージしながら詠唱、っと……」
結衣は深呼吸を一つすると、杖を真っ直ぐに突き出し、凛とした声で叫んだ。
「――《ファイアボルト》!!」
その瞬間、結衣の手にした杖の先端が赤く輝き、周囲の空気が熱を帯びて渦を巻いた。
手元のグリップから、何かが弾け飛ぶような確かな反動が腕に伝わる。次の瞬間、バスケットボールほどの大きさの火球が杖先から撃ち出され、ゴォッ! と風を切り裂いて一直線に飛翔した。
ドォンッ!!
火球が藁人形に直撃し、赤い炎と煌めく火の粉が華やかに散り広がる。焦げた藁の匂いと、遠くからでも分かる熱波が三人の頬を撫でた。
訓練場に、一瞬の静寂が落ちた。
結衣は自分の杖と、黒焦げになった標的を交互に見つめ――そして、その場でぴょんぴょんと跳びはねた。
「出たあああああああああ!! 魔法! 今、私の手から魔法が出た!! 私、本当に魔法撃ったよ!!」
「すっげええええ! 今めっちゃくちゃカッコよかったぞ水野さん!!」
健太が目を輝かせて駆け寄る。
「ちょっとその杖貸して! 俺にもファイアボルト撃たせて!」
「お前は剣士だろ! クラスが違うから撃てるわけないだろ!」
「くそっ、今すぐ魔術師に転職したい!!」
「もう一回! もう一回撃つ! 《ファイアボルト》! 《ファイアボルト》!」
興奮した結衣が続けざまに杖を振るい、二発、三発と火球を連射する。だが四発目を撃とうとした瞬間、杖の先の光がプツンと消え、視界に青い警告表示が出た。
《MPが不足しています》
同時に、結衣の全身に、激しい運動をした後のような軽い気怠さが広がった(もちろん安全基準内の疑似感覚である)。
「えええええ!? 出ない! なんで!?」
「そりゃあ、初期ステータスで魔法を連発すりゃMPが切れるに決まってるだろ!」
「だって、自分の身体にMPなんて概念があるって聞いてないよ!?」
「ここはゲームの中なんだよ!!」
自分の手で本当に魔法を撃てる全能感と、ゲームとしての明確なルールとリソース管理。その二つが完璧に噛み合った感覚に、三人はまたしても大騒ぎになった。
「よし、次は俺の番だな!」
健太が腰の鞘から、支給されたばかりの鉄の片手剣を引き抜いた。
ズシリとした重みを確かめながら、藁人形の前へ踏み込む。ゲーム内の剣術アシスト機能が働き、無茶な体勢にならないよう自然な軌道がうっすらと視界に示される。
「せいっ!!」
健太が剣を斜めに振り下ろした。
ビュッ、と鋭く空気を切る音が鳴り、刃が藁人形の肩口に食い込む。ガツンッ! という硬く重い手応えが、柄を握る両手から肘、肩へとダイレクトに響いた。
「……っ、これ、めちゃくちゃ気持ちいいな!」
ボタンを押せば自動で剣を振ってくれるゲームではない。自分の腕で振り抜き、自分の手で斬りつけた感触がそこにある。
楽しくなった健太は、ブンブンと剣を振り回し、最後に漫画の必殺技のような大振りの回転斬りを繰り出した――が、自分の振った剣の遠心力に振り回され、盛大に空振りして尻餅をついた。
「うわっと!?」
「おい佐倉、スキル以前に動きが雑すぎるぞ!」
笑っていた悟も、背中のショートボウを外して矢をつがえた。
「見てろ、遠距離職の基本を見せてやる」
悟は片目を閉じ、弦をぐっと引き絞った。指先にかかる弦の強い張力と、木材がしなる感触。狙いを定め、息を止めて指を離す。
ヒュンッ!
鋭い音を立てて飛んでいった矢は、藁人形の頭上をかすめ、背後の防護壁にカコンと虚しく跳ね返った。
「……あれ?」
固まる悟に、結衣がクスクスと笑いながら声をかける。
「真田さん、ゲームすごく上手いんじゃなかったっけ?」
「マウスでエイムするのが上手いとは言ったが、実際に弓を引くのが上手いとは一言も言ってない!!」
初心者向けのアシストはあるものの、実際に弦を引き、狙いを定めて放つにはそれなりのコツがいる。悟は悔しそうにすぐさま二本目の矢をつがえ、今度は慎重に呼吸を整えてから放った。パシッ、と矢が藁人形の胸元に突き刺さり、悟は小さく拳を握りしめた。
一通りの武器を試したところで、健太が剣を鞘に収め、目を輝かせて二人を振り返った。
「……なあ。もう街の外、行こうぜ」
「え?」
「だって、街の外に出たらモンスターがいるんだろ!? 動くスライムとか、ゴブリンとか! 俺、この剣で本物のモンスターと戦いたい!」
「あ、私も行きたい! MP回復したから、今度は動いてる敵に魔法撃ちたい!」
「おい待てお前ら、まずはギルドの受付で薬草採取か何かの初心者クエストを受注してからだな……」
悟が止めようとしたが、健太と結衣はすでに訓練場の出口へ向かって走り出していた。
「冒険だああああ!!」
「待ってくれーっ!」
「……くそっ、あいつら本当に話を聞かねえ!」
言いながらも、悟の足もまた、全力で二人の背中を追いかけていた。
◇
街を囲む巨大な外周城壁。その中央に設けられた跳ね橋式の城門の前には、長槍を手にした衛兵たちが警備に当たっていた。
門へ近づいた瞬間、先頭を走っていた健太がビクッと肩を震わせ、急に減速して背筋を伸ばした。開始二分の記憶が鮮烈に蘇ったらしい。
それに気づいた門番の衛兵が、健太たちの真新しい初期装備を見て声をかけてきた。
「ん? これから外へ出るのか、新米ども」
「は、はい! やましいことは何一つありません! 健全な冒険です!」
裏返った声で答える健太に、衛兵は苦笑して槍の石突きを軽く鳴らした。
「そう緊張するな。この先の『始まりの草原』は比較的安全だが、街道からあまり遠くへは離れるなよ。森の奥には群れを作るゴブリンも出る。危なくなったらすぐに門まで逃げ込んでこい」
「……はい! ありがとうございます!」
門を抜けながら、健太がしみじみと振り返った。
「……衛兵さんって、本当はあんなに親切で優しい人たちなんだな」
「お前が最初に現行犯で犯罪をやらかしたから怖かっただけだろ!!」
悟のツッコミを受けながら、三人は巨大な石のアーチをくぐり抜け、城門の外へと足を踏み出した。
その瞬間、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、地平線の彼方まで続く、果てしない緑の大草原だった。
吹き抜ける風が背の高い草花を一斉に揺らし、緑の波となって大地を駆け抜けていく。白い砂利の敷かれた街道が丘の向こうへと伸び、その脇を透き通った小川がせせらぎを立てて流れている。
遠くには、万年雪を頂く険しい山脈と、深い緑を湛えた大森林。
そして見上げた青空の遥か高みを、巨大な翼を広げた一頭の『飛竜(ワイバーン)』が、悠然と風に乗って滑空していくのが見えた。
三人とも、誰一人として言葉を発せず、その場に立ち尽くしていた。
数か月前、黒瀬たちが呆然と立ち尽くした「ただの草原」。
そこには今、開発者たちが魂を込めて配置した生態系と、遠くの遺跡と、空を舞う竜と、これから始まる無限の冒険が息づいていた。
「……すげえ」
健太が、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「ねえ……あの遠くに見える森も、あの山も、全部自分の足で歩いて行けるの?」
結衣が震える声で尋ねる。
「ああ。今回のβ版の体験エリアの境界までは、どこへでもシームレスに行けるはずだ」
悟もまた、空を往く飛竜の影を見上げながら、少年のように目を輝かせていた。
「じゃあ、行こうよ!!」
結衣の掛け声とともに、三人は一斉に草原へと駆け出した。
革靴が土と草を踏みしめる感触。全身を包む風の匂い。どこまでも走っていけそうな解放感。
そして、街道の脇の茂みが、ガサガサッと揺れた。
三人が急ブレーキをかけて足を止める。
草むらの奥から、ぷるん、と弾むようにして飛び出してきたのは――直径五十センチほどの、透き通った青いゼリー状の生き物だった。太陽の光を透かして、ぷるぷると身体を震わせている。
三人は顔を見合わせ、そして同時に叫んだ。
「「「スライムだああああああああ!!」」」
地球上で最も有名な最弱モンスターとの遭遇に、三人のテンションが最高潮に達する。
「よし、俺が前で止める!」
健太が鉄の剣を抜き放ち、構えを取る。
「私、後ろからファイアボルト撃つね!」
結衣が杖を掲げ、悟が素早く横へ回り込んでショートボウに矢をつがえた。
「行くぞ、記念すべき初戦闘だ!!」
三人が息を合わせ、目の前のスライムに向かって踏み込もうとした――まさに、その瞬間だった。
ピピピピッ!
聞き慣れない電子音とともに、三人の視界の中央に、無情極まりないシステムメッセージが浮かび上がった。
《本日の試遊セッション終了まで、残り1分です》
《安全な場所へ移動してください》
「「「はあああああああああ!?」」」
草原のど真ん中に、三人の絶叫がこだました。
「ちょっ、ちょっと待て! 嘘だろ!? 今からじゃん!! 今まさに剣を抜いたところじゃん!!」
健太がウィンドウに向かって必死に叫ぶ。
「やだやだ! まだ一回もモンスター倒してないよ!?」
「くそっ、俺たち街の中でどんだけ寄り道したんだ!?」
《残り30秒です》
「頼む! あと一分! いや三十秒でいい! このスライム一匹だけ倒させてくれえええ!!」
健太が剣を振り上げて突撃しようとするが、終了三十秒前からは安全保護のため戦闘アクションにロックがかかる仕様だ。
三人の目の前で、青いスライムが「?」とでも言いたげに、ぷるぷると平和に揺れている。
「あああああ! 目の前にスライムがいるのにいいい!!」
《TEST SESSION COMPLETE――LOG OUT》
健太の悲痛な叫びを最後に、三人の視界は真っ白な光へと還っていった。
◇
テストルームの三つのポッドが同時に開き、現実の空気が流れ込む。
その瞬間、三人はほぼ同時にガバッと起き上がり、開発スタッフたちに向かって叫んだ。
「「「すみません、もう一回やらせてください!!!」」」
開発室に、今日一番の爆笑が巻き起こった。
「……おいおい、開口一番がそれかよ」
黒瀬が腹を抱えて笑いながら、ポッドのそばへ歩み寄った。
「で、どうだった? 率直な感想を聞かせてくれ」
「最高でした!! 人生で一番面白いゲームでした!! でも俺、最初の一回目は逮捕されて、二回目はスライムすら倒してないんですけど!!」
健太がヘッドギアを握りしめたまま熱弁を振るう。
「私、もう一回あの街に行きたいです! パン屋さんの他のパンも食べたいし、さっきの露店のアクセサリーもまだ見てないし、時計塔にも登ってないんです!」
結衣が身を乗り出して訴える。
「おい水野、それじゃ次も絶対にギルドに着かないだろ! 黒瀬さん、次こそ俺たちにスライムを討伐させてください! パーティーの陣形まで決めたところで終わったんです!」
悟までが真剣な顔で詰め寄る。
そこからはもう、収拾がつかなかった。
三人が同時に喋り出し、あそこの猫が可愛かっただの、剣の重さが凄かっただの、魔法の反動に驚いただのと、頼んでもいないのに感想と質問が滝のように溢れ出てくる。全員、頬を紅潮させ、最初から最後までずっと笑っていた。
スタッフたちが三人に飲み物を渡して落ち着かせている間、黒瀬はメインコンソールの集計画面に目を向けた。
《試遊者満足度スコア:極めて高い(測定上限)》
《重大安全異常・神経負荷超過:なし》
《想定メインクエスト達成率:5%(ギルド登録のみ)》
「……クエスト、全然進んでないな」
黒瀬が呆れたように呟く。
「正直、四十分あって街の門を出たところで時間切れになるとは予想外でした。寄り道の密度が想定の五倍を超えています」
芹沢が苦笑しながらデータを保存する。
「でも、見てくださいよ、あの三人の顔」
島村が、まだポッドの横で興奮気味に話し込んでいる健太たちを見て微笑んだ。
「あんなに楽しそうにゲームの話をされたら、作った側としては何も言えませんよ」
「……ああ」
黒瀬はもう一度、自分たちが作り上げたアルカディアの街が映るモニターを見上げた。
「いいゲームになったな」
自分たちがフルダイブの技術に驚かされたあの日から数か月。
初めて外から招いたプレイヤーたちが、自分たちの作った世界で、時間を忘れて心の底から遊んでくれた。ゲームクリエイターにとって、これ以上報われる瞬間はなかった。
その時、テストルームの後方で静かに観察していた経済産業省のTGS実証担当官が、手元の端末を確認しながら黒瀬たちの元へ歩み寄ってきた。
担当官の耳元のインカムには、アンノウン機関の統合管理AI・オラクルからのリアルタイム監査報告が入っている。
『今回のテストセッションにおいて、FD-2基準の上限を超える身体負荷および神経系異常は一切検出されませんでした。全安全機構、正常稼働を確認』
オラクルの報告を受け、担当官は満足そうに頷いて黒瀬に向き直った。
「黒瀬ディレクター。本日の安全ログ、すべて基準値をクリアしました。このβ版の内容で、九月のTGS公開実証に向けた最終審査を継続します」
「……今の内容のままで、ですか?」
黒瀬が思わず聞き返す。
「ええ。街の中での自由行動も、パン屋の食事も、NPCとの自由対話も、魔法の行使も、すべて含めてです」
横から三枝が、恐る恐るといった様子で手を挙げた。
「あの……最初のテストで、開始二分ちょっとで衛兵に逮捕されて強制終了になりましたが、あれは問題ないんでしょうか?」
「ゲーム内の治安ルールと安全処理が、仕様通りに正常動作した結果なのでしょう?」
担当官が芹沢を見る。
「はい、完全に正常な挙動です」
「ならば、現時点でそれを理由に機能を削る必要はありません」
国の役人なら「トラブル防止のために住人との接触や自由行動を制限しろ」と言い出すのではないかと身構えていた開発陣は、意外そうに目を見張った。
担当官はそんな彼らを見て、少しだけ表情を和らげた。
「今回のTGSは、あくまで国の管理下で行う期間限定の公開実証です。開発環境も、プレイヤーの身体を守る安全機構も、すべて我々の技術基盤(アンノウン機関)が二重三重に管理しています。どこまでを将来の正式な商用製品に落とし込むかは、この実証の結果を見てから判断すればいい」
そして担当官は、まだスライムの話で盛り上がっている三人のテスターを一瞥し、小さく笑った。
「せっかく人類が初めてゲームの世界へ入るのです。安全は我々が担保しますから、皆さんは、プレイヤーが十分に遊べる面白いものを出してください」
「……ありがとうございます!」
黒瀬は力強く頷いた。
向こうでは、健太たち三人が次回のテスト日程を聞いて、再び歓声を上げていた。
「やった! 来週のテスト、FD-2の『戦闘機能』の重点確認だってよ! 今度こそ最初からスライムと戦えるぞ!」
健太がガッツポーズをする。
「魔法、もっと色んな種類撃てるかな!? 私、氷の魔法も使ってみたい!」
「よし、来週までに三人とも初期スキルの仕様を頭に入れておけよ。次こそ寄り道なしで、開始一分で城門を出るからな!」
「えーっ、でも時計塔の夕日も見に行きたいよ!」
「お前ら、本当に攻略する気あるのか!?」
騒がしい三人のやり取りを聞きながら、開発陣も笑顔で片付けを始めた。
その時、健太が何かを思い出したようにパッと顔を上げ、三枝に向かって手を挙げた。
「あ、すみません! 一つだけ質問いいですか!」
「はい、何でしょう?」
「一番最初にいた広場のエルフのお姉さんって、来週のテストでも同じ場所を歩いてますか!?」
三枝は一瞬だけ遠い目をしてから、にっこりと微笑んで答えた。
「はい、生活ルーチン通りなら同じ時間帯に広場を通りますよ。……今度は絶対に、無断で抱きつかないでくださいね」
「分かってますって!! ちゃんと遠くから眺めるだけにしますから!!」
テストルームに再び笑い声が響き渡る中、TGS2031に向けた夢のゲーム開発は、確かな手応えとともに次のフェーズへと進んでいくのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
YouTubeチャンネルを開設しました!
自作小説の朗読動画を投稿しています。
再生リストから第1話から通して聞けるので、作業用・睡眠用にもどうぞ!
よかったら、下のリンクから聴いてみてください!
YouTubeチャンネル「パラレル・ゲーマー」はこちら