自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
二〇三一年八月下旬、午前十時ちょうど。
TGS2031の開幕まで残り数週間となったその日、地球上のあらゆる場所で、何百万、何千万という人々のスマートフォンやタブレット、PCの画面が一斉に震えた。
先日、一般試遊が予定されていた全十二タイトルの最終安全審査がすべて無事に通過したという公式発表があり、本日がその『第一次抽選結果』の一斉通知日だったのである。
画面にポップアップしたのは、無機質でありながら、受け取った者の心臓を鷲掴みにする一行のテキストだった。
《TOKYO GAME SHOW 2031 — FULL DIVE EXPERIENCE》
《一般試遊・第一次抽選結果のお知らせ》
東京のオフィス街で、営業の外回り中にスマートフォンの振動に気づいた若手会社員は、道端のガードレールに手をついて画面を見つめたまま固まった。
ロンドンで夜明け前の紅茶を飲んでいた海賊ゲーム志望の青年は、カップをソーサーに置いて深呼吸を繰り返した。
ニューヨークの学生寮では、ルームメイトたちが肩を並べてノートパソコンの画面を囲み、誰が最初にメールを開くかで押し問答を繰り広げていた。
「……来た。ついに来ちゃった……」
「怖い、見るのが怖すぎる……!」
「頼む、第三希望でもいい、どの時間帯でもいいから、一本だけでいいから当たってくれ……!」
大作ゲームのソフトが発売されたわけではない。自宅に新しいハードウェアが届くわけでもない。
ただ、九月の幕張メッセで、たった二十分間だけフルダイブポッドに入り、夢の世界を自分の身体で体験できるかもしれないという、それだけの権利だ。
それなのに、世界中のゲーマーたちが、まるで自分の人生を左右する大学受験の合格発表か何かのように、冷や汗を流して画面の前で手を合わせていた。
今回の抽選ルールは厳格だ。
応募時に第一希望から第三希望までのタイトルを選択できるが、当選するのは期間中を通して一人につき最大「一枠」のみ。希望順位や日時の空き状況を踏まえて、システムが公平に一つの枠を割り当てる方式であり、三つの希望すべてに外れた者の画面には、容赦のない『落選』の二文字が表示されることになる。
そして今、世界中で一斉に、運命のメールが開かれようとしていた。
◇
「――よし、みんな静まれ! ついに運命の十時が来たぞ!!」
先月の合同PV公開時の配信で「俺の人生が何個あっても足りない!」と叫び、応募受付時の配信で一時間半も第一希望を決められずに悶絶していた日本の人気ゲーム配信者は、今日も数万人の視聴者を集めて生配信を行っていた。
配信のタイトルは、大きくこう掲げられている。
《【運命の日】TGS2031フルダイブ試遊、どう考えても絶対に当選している男》
すでに自分の結果を確認した視聴者たちから、コメント欄には悲喜こもごもの弾幕が猛烈な勢いで流れていた。
『早く開けw』
『こっちはもう結果見たぞ、見事に散ったわ』
『お前、今日からアルカディアで魔法使いになるんだろ?』
『いや、第二希望のアルタイルで巨大ロボに乗る未来が見える』
『俺の分まで当たってくれ、頼むぞ!』
配信者はカメラに向かって不敵に笑い、人差し指を立てた。
「いいかお前ら、よく聞け! 俺はあの応募の日、血の涙を流しながら一時間半も悩みに悩んで、渾身の希望順位を決めたんだぞ! 第一希望は王道RPG《アルカディア・クロニクル》! 第二希望は巨大ロボット《鋼星機兵アルタイル》! そして第三希望は大海原の海賊船《蒼海の自由航路》!」
彼は自分の胸をドンと叩いた。
「これだけ本気で願って、しかも三つも希望を出したんだ。このうちのどれか一つくらい、俺の剛運なら確実に引っかかってるに決まってる! どれが当たっても、俺の人生で最高の二十分間になることは確定だ。……よし、行くぞ!!」
コメント欄の流れが一瞬だけピタリと止まり、数万人が固唾を呑む。
配信者は震える右手でマウスを動かし、TGS公式サイトのマイページにある『抽選結果を確認する』のボタンを、力いっぱいクリックした。
アンノウン機関のバックエンドで動く超高速サーバーは、焦らすような読み込み時間など一秒も挟まない。
クリックした瞬間に、画面がパッと切り替わった。
そこに大きく表示されていたのは。
《抽選結果:落選》
《誠に残念ながら、ご希望いただいた第1〜第3希望の試遊枠をすべてご用意することができませんでした》
「………………」
配信者の部屋から、すべての音が消えた。
マウスを握ったまま、彼は瞬きもせずにモニターを見つめている。
三秒。五秒。十秒。
やがて、彼は極めて小さな、掠れた声で呟いた。
「……あれ?」
そして、モニターに顔がぶつかるほど近づき、文字を端から端まで指でなぞるように読み直した。
「いや、ちょっと待てよ。これ、第一希望のアルカディアが落ちたってだけだよな? スクロールしたら下に『第二希望のロボットは当選しました』って書いてあるやつだよな? ……あれ、スクロールできないぞ? 『すべてご用意することができませんでした』って書いてあるぞ……?」
理解が追いついた瞬間、コメント欄が文字通りの大草原で埋め尽くされた。
『はいお疲れ様でしたー!!』
『何も始まらなかったなwww』
『フルダイブの世界にログインする前にゲームオーバーで草』
『一時間半悩んだ希望順位、全滅!!』
『TGS2031抽選RTA、世界最速敗退記録更新おめでとう!』
「うわああああああああああ!! 嘘だろおおおおお!!」
配信者は頭を抱えて椅子から転げ落ちんばかりに絶叫し、そのまま机の上に突っ伏した。
「俺の魔法は!? 詠唱なしで出すファイアボルトは!? 十八メートルのコックピットは!? カリブの海賊船はどこ行ったんだよおおお!!」
机をバンバンと叩いて嘆く彼に、視聴者たちは腹を抱えて笑いながらも、同じ落選組として温かい(そして容赦ない)言葉を送った。
『泣くなよ、俺たちもほぼ全員落ちてるから安心しろw』
『冷静に考えろ、一万五千枠に世界中から何百万人も殺到したんだぞ、当たる方がどうかしてるんだよ』
「だって俺、あの合同PVを毎日寝る前に十回ずつ見て、会社に九月の有給休暇の申請まで出して、幕張の近くのビジネスホテルまで調べてたんだぞ……!?」
顔を上げて涙目で訴える配信者だったが、ふと別ウィンドウで開いていたSNSのタイムラインに目をやり、ピタリと動きを止めた。
そこには、一般のユーザーが投稿した《鋼星機兵アルタイル:当選》《まぼろし生きもの島:当選》というスクリーンショット画像が、歓喜のコメントとともにいくつも流れてきていたのだ。
「……おい、都市伝説じゃなかったのかよ。本当に当たってる人間、この世に実在するんだな……」
『そりゃ一万五千人は当たるだろ!!』
見事なツッコミが弾幕となって流れる中、配信者はしばらく遠い目をして天井を見上げていたが――やがて、ふっと憑き物が落ちたように息を吐き、顔を上げてカメラを真っ直ぐに見据えた。
「……よし。しゃあない、こればっかりは恨みっこなしのガチ抽選だからな!」
彼はパンッと両頬を叩いて気合を入れ直した。
「決めたぞお前ら! 俺、試遊は全落ちしたけど、九月のTGSには予定通り有休取って絶対に行く!! 会場には試遊なしでも見られる開発シアターもあるし、何より、あの奇跡の倍率を勝ち抜いてポッドから出てきた当選者たちに、片っ端から感想をインタビューして回る配信をやってやる!!」
その宣言に、コメント欄の空気が一気に沸き立った。
『おお、切り替え早いな!』
『落選者代表による現地突撃レポートか、それは見たいw』
『ちゃんと本人の許可取ってから話聞けよ!』
『俺たち落選組の分まで、楽しんできた人たちの生の声を届けてくれ!』
「当たり前だろ! 俺は根っからのゲーム好きなんだよ! 自分が遊べないなら、遊んできたやつがどれだけ凄い体験をしてきたのか、すぐ隣で聞いて一緒にワクワクしてやるさ!」
クリック一つで散ったはずの男は、落選してもなお、誰よりもTGSを楽しむ気満々で拳を握りしめていた。
◇
同じ日の夜。
都内近郊にある、あの四人家族のリビングルーム。
ダイニングテーブルの上には一台のタブレットが置かれ、四十代の父親、母親、高校生の息子、そして小学生の娘の四人が、ゴクリと唾を呑み込んでそれを取り囲んでいた。
昼間のうちに個別の通知は来ていたのだが、「どうせなら夜に家族全員が揃ってから、一人ずつ順番に結果を開こう」という約束になっていたのだ。
「……いいか、お前たち」
父親が、腕を組んでいつになく威厳のある(しかし少しだけ声が震えている)口調で切り出した。
「今回の抽選は、ニュースでも言っていた通り世界中から応募が来ている。はっきり言って、宝くじみたいな倍率だ。だから、もし全員が落選していたとしても、絶対にガッカリして泣いたりふてくされたりしないこと。いいな?」
すると、隣に座る母親が冷ややかな目で父親の横顔を見た。
「……あなた、それ子供たちに言ってるんじゃなくて、自分が落ちた時の予防線を張ってるんじゃないでしょうね?」
「なっ、そんなわけないだろう! 俺は父親としてだな――」
「でも父さん、昨日の夜、自分の部屋の机にロボットのプラモデルを全部綺麗に一列に並べて、その前でずっと手を合わせてただろ?」
高校生の息子に容赦なく暴露され、父親の顔が引きつる。
「あ、あれはただの定期的なホコリ払いとコレクションの整理だ!」
さらに小学生の娘が、無邪気な顔で追い打ちをかけた。
「うそー! お父さん、白いロボットに向かって『お願いします、どうしても一度だけでいいからコックピットに乗せてください』って小声で言ってたよ?」
「言ってない!! ほら、いいから早く結果を見るぞ!!」
顔を真っ赤にして咳払いした父親が、まず最初のチャレンジャーとしてタブレットを引き寄せた。
父親の第一希望は、バンダル・ナムラの《鋼星機兵アルタイル》。三十年間、アニメの画面越しに憧れ続けた十八メートルの巨大ロボットの操縦席だ。
父親は深呼吸を一つすると、祈るような手つきで自分のアカウントの結果表示ボタンをタップした。
画面に表示されたのは。
《抽選結果:落選》
「………………」
リビングに静寂が落ちた。
息子が恐る恐る声をかける。
「……と、父さん?」
父親は、まるで石像のように固まったまま、数秒後にゆっくりと口を開いた。
「……いや、うん。まあ、想定内だ。今言った通り、こういうのは時の運だからな。大人の俺としては、まったく気にしていないぞ」
声は見事に裏返っており、背中には哀愁という名の黒雲が立ち込めていた。
母親が「よしよし、お疲れ様」と優しくその背中をポンポンと叩く。
「じゃあ、次は私ね」
母親がタブレットを受け取り、自分のアカウントに切り替えて結果を開いた。第一希望は、穏やかなログハウスで野菜を育てる《四季の小さな農園》だ。
《抽選結果:落選》
「あらら、私も駄目だったわ。フルダイブの畑で真っ赤なトマトをもぎ取って丸かじりしてみたかったんだけどねえ」
「ま、まあ、母さん! 今回の実証が成功すれば、きっといつか正式に遊べる日が来るさ!」
さっきまで落ち込んでいた父親が、慌てて励ます側に回る。
「よし、次は俺の番だな! 若さと日頃の行いで当ててやるぜ!」
高校生の息子が自信満々にタブレットを操作し、第一希望の海賊ゲーム《蒼海の自由航路》の結果を開いた。
《抽選結果:落選》
「うわあああああ!! マジかよおおお!! 海賊船、クラスの連中も全員落ちたって言ってたから俺だけでも乗りたかったのにいいい!!」
テーブルに突っ伏して頭を抱える息子に、父親が「ははは、やっぱり世界の壁は厚いなあ」と肩を叩く。
「父さんだって落ちただろ!! うわああん、大砲撃ちたかった……!」
これで家族四人中、三人が立て続けに玉砕した。
残るは、一番最後に控えていた小学生の娘ただ一人である。
娘は小さな両手でタブレットを受け取ると、不安そうに父親の顔を見上げた。
「……お父さん、わたしのやつ、押してもいい?」
娘の第一希望は、七天堂の《まぼろし生きもの島》。あの合同PVで見た、白いふわふわの毛並みを持つ小さな幻獣を抱っこすることを、この数週間ずっと夢見ていたのだ。
父親は娘が悲しむ顔を想像して胸を痛めながら、できるだけ優しい声で頷いた。
「ああ、押してごらん。いいかい、もしお兄ちゃんたちみたいに『落選』って出ても、お父さんたちが今度動物園に連れて行ってあげるから、泣かなくていいんだからね」
「……うん!」
娘が小さく頷き、小さな人差し指で画面のボタンをチョン、とタップした。
画面が切り替わる。
そこに表示された文字は――先ほどまでの三人の画面とは、明らかに色も長さも違っていた。
《抽選結果:当選》
《体験タイトル:まぼろし生きもの島(七天堂)》
《利用区分:FD-1(低負荷・観光交流区分)》
《※未成年者の試遊につき、当日は事前登録された保護者様の同伴および同意確認が必要となります》
「………………」
娘が、画面を見つめたままパチクリと瞬きをした。
後ろから覗き込んでいた父親が「……ん?」と首を傾げ、母親が「……あら?」と目を見張り、突っ伏していた息子が「……え?」と顔を上げる。
「……お父さん、これ、『当』っていう漢字だよね……?」
「あ、ああ……! 当選だ!! 当たってるぞ!!」
父親が叫んだ瞬間、娘の顔がパッと太陽のように輝き、椅子から飛び上がって両手を突き上げた。
「やったあああああああ!! 当たったあ!! わたし、あの白いふわふわの子を抱っこできるうううう!!!」
リビングが一気に大歓声に包まれた。
父親は「すごいぞ! でかした!」と娘を高い高いするように抱き上げ、母親も「よかったわねえ!」と手を叩いて喜ぶ。
そんな中、高校生の息子だけが、自分のスマホの『落選』画面と、妹のタブレットの『当選』画面を交互に見比べて、複雑極まりない顔でツッコミを入れた。
「……いや、すごい! めちゃくちゃめでたいんだけどさ! なんでこの家で一番ゲーム歴が浅い小学生のお前だけがピンポイントで引き当てるんだよ!?」
「抽選のコンピューターにゲーム歴なんて関係ないでしょ、純粋な日頃の行いよ」
母親が笑いながら言い、父親に抱き上げられた娘が、満面の笑みで兄に向かって言った。
「お兄ちゃん、当日はお兄ちゃんも一緒に会場に来て、わたしがふわふわの子と遊んでるところを外から見てていいよ!」
「外から見るだけかよ!! くそっ、俺だってあの白い毛玉、内心ちょっと抱っこしてみたかったんだぞ!!」
息子の本音に、家族全員が声を上げて笑った。
父親は自分のロボットが外れたショックなどすっかり忘れ去り、「よし、当日は保護者同伴が必要だからな! お父さんとお母さんが責任を持って幕張のブースまでエスコートするぞ!」と張り切って案内メールの詳細を読み込んでいる。
家族四人のうち、当選したのはたった一人だけだった。
けれどその夜、この家のリビングは、まるで家族全員が当選したかのような温かい幸せに満ち溢れていた。
◇
一方、同じ日の夕方。
東京・品川の星海インタラクティブ本社、開発フロア。
TGS本番に向けた『街歩きコース』と『冒険・戦闘コース』の最終チューニング作業が佳境を迎える中、ディレクターの黒瀬をはじめとする主幹メンバー四人のデスクの周りには、妙にソワソワとした緊張感が漂っていた。
プランナーの島村が、さっきから仕事用のモニターではなく、手元の個人用スマートフォンを両手で握りしめて祈るように目を閉じている。
「……おい島村、さっきから全然手が動いてないぞ。どうしたんだ?」
黒瀬が声をかけると、島村はカッと目を見開いて言った。
「黒瀬さん、何言ってるんですか! 今日は私たちがプライベートで応募した『他社さんのフルダイブ試遊』の抽選結果発表日ですよ!!」
「……ああ、そういえば今日だったか」
黒瀬が思い出したようにポケットから自分のスマホを取り出すと、隣のデスクにいたリードプログラマーの芹沢が「俺も今、ちょうどメールを開こうとしていたところです」と眼鏡を直し、三枝も「私も確認してみますね」と端末を操作し始めた。
自分たちが作った《アルカディア・クロニクル》には、世界中から膨大な応募が集まっている。だがそれとは別に、彼ら自身も一人のゲームファンとして、休憩時間や非番の枠を使ってライバル企業のタイトルに一般応募していたのだ。
「いきますよ……! 私の第一希望、七天堂さんの《まぼろし生きもの島》……っ!」
島村が祈りを込めて画面をタップし――次の瞬間、ガクッと机に突っ伏した。
「うわあああああ!! 落選です!! 私の白いふわふわの子があああああ!!」
そのすぐ隣で、画面を見ていた芹沢が静かに天を仰いだ。
「……駄目ですね。第一希望の《鋼星機兵アルタイル》も、第二希望の《スターラッシュ・グランプリ》も全滅です。あのコックピットの起動処理、どうしてもプレイヤー視点で体験したかったんですが……」
さらに三枝も、小さくため息をついてスマホを伏せた。
「私も《蒼海の自由航路》、落選でした。他のプレイヤーの方々と協力して帆船を動かすの、すごく楽しみにしていたんですけどね」
三人が全滅し、視線が一斉にディレクターの黒瀬へと集まった。
黒瀬は無言で自分のスマホの画面を見つめ――そして、静かに画面を裏返して机に置いた。
「……俺の《SKYLINE EARTH》も、見事に撃沈だ」
開発フロアの真ん中に、重苦しい(しかしどこか滑稽な)沈黙が流れた。
四人で顔を見合わせ、島村が情けない声で呟く。
「……なんだか、すごく不思議な気分ですね。私たち、毎日ここでフルダイブゲームを作ってる側の人間なのに、フルダイブゲームが遊べないなんて……」
「まあ、自分の会社のアルカディアなら毎日デバッグで嫌というほど潜ってるだろうが。他社のゲームは別腹だ」
芹沢が冷静に言い、島村が「うちのアルカディアも大好きですけど、よその会社の神ゲーだって遊びたいんです!」とジタバタする。
三枝が苦笑しながらお茶を淹れた。
「でも、開発者だからといって一般の方々の枠を横取りするわけにはいきませんから、一般抽選で綺麗に全落ちしたのは、ある意味でとても公平で健全な結果ですね」
「そういうことだな」
黒瀬も苦笑して背伸びをした。アンノウン機関のシステムには開発者優遇のバックドアなど一切ない。だからこそ信頼できるのだ。
「……ただまあ」
黒瀬はふと、悪戯っぽく口の端を上げて言った。
「TGSの一般公開実証が無事に終わって、各社の開発チームがひと段落したらさ。アンノウン機関と経産省に正式に申請して、『出展メーカーの開発者同士の純粋な技術交流会』っていう名目で、お互いの試遊ビルドを交換して遊び合うくらいの機会は作れないかなあ」
その言葉に、突っ伏していた島村と、落ち込んでいた芹沢と三枝の顔が、バッと音を立てて上がった。
三人の目が、獲物を見つけた冒険者のようにギラギラと輝く。
「「「黒瀬さん、それです!! その技術交流会、絶対にやりましょう!!」」」
「おい、まだ何も決まってないぞ! そんなご褒美が欲しけりゃ、まずは俺たちの《アルカディア・クロニクル》の展示を大成功させてからだ! ほら、作業に戻るぞ!」
「「「はいっ!!」」」
自分たちと同じように他社の抽選に落ちたことで、かえって謎の連帯感とやる気を取り戻した開発陣だった。
◇
そして、同じ日の午後。
静かな住宅街にある一軒家の書斎では、六十代の元会社員の男性が、一人きりでノートパソコンの画面と向き合っていた。
若い頃、パイロットになる夢を視力の問題で断念し、定年まで真面目に働き上げた男性だ。
先日、妻に背中を押されて申し込んだ、航空機操縦シミュレーター《SKYLINE EARTH》の第一次抽選結果が、画面に表示されていた。
《抽選結果:落選》
《ご希望いただいた試遊枠をご用意することができませんでした》
男性は老眼鏡の奥で、その文字をしばらくじっと見つめていた。
パソコンの前で叫んだり、机を叩いたりするようなことはない。ただ、深く、静かに息を一つ吐き出しただけだった。
「……そうか。やっぱり、駄目だったか」
最初から、簡単に当たるようなものではないことは分かっていた。
テレビをつければ、毎日世界中の若者や子供たちが「フルダイブで遊びたい」と目を輝かせているニュースが流れている。そんな何百万人もの熱気の中で、自分のような六十過ぎの老人がひょっこり応募して一発で当たるほど、世の中は甘くない。
長い人生の中で、思い通りにならないことや、諦めなければならないことには、もうすっかり慣れていたはずだった。
それでも。
胸の奥のどこかに、ほんの少しだけ、ぽっかりと風が吹き抜けるような寂しさがあった。
あのPVで見た、雲の海を突き抜けて成層圏の青空へと昇っていく操縦席に、もしかしたら本当に座れるかもしれないと――この数週間、少年のようにワクワクしていた自分が確かにいたからだ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、妻がお茶の乗った盆を持って書斎に入ってきた。
「お父さん、お茶入ったわよ。……発表、どうだった?」
男性は振り返り、妻に心配をかけまいと、少し照れくさそうに目尻に皺を寄せて笑ってみせた。
「いやあ、見事に外れちゃったよ。やっぱり世界中から応募が来てるだけあって、すごい人気なんだなあ」
「そう……残念だったわね」
妻はテーブルにお茶を置き、静かに夫の隣に立った。
「まあ、仕方ないさ。これから未来のある若い人たちや、飛行機が好きな子供たちがたくさん応募してるんだろう。そういう当たった人たちに、俺の分まで思い切り楽しんできてほしいよ」
そう言って男性はブラウザの画面を閉じようとしたが、ふと手が止まった。
デスクトップの隅に保存してあった、《SKYLINE EARTH》の公式紹介ビデオのアイコンが目に入ったのだ。
思わずそれをクリックして再生する。画面の中で、機長席に座ったプレイヤーの手がスラストレバーを押し込み、滑走路を蹴って青い空へとふわりと舞い上がる。
「……こうして家で映像を見られるだけでも、本当にすごい時代になったもんだよな」
自分に言い聞かせるように呟く夫の横顔を見て、妻は優しく、しかし少しだけ悔しそうに言った。
「ええ、そうね。……でも私はやっぱり、あなたが本当にあの操縦席に座って、自分の手で飛行機を飛ばしているところを、一度でいいから見てみたかったわ」
妻の真っ直ぐな言葉に、男性は少しだけ目を見張り、それから「……ありがとうな」と小さく笑ってパソコンの蓋を閉じた。
短い夏の夢は、そこで一度、静かに幕を閉じたはずだった。
◇
――だが。
この六十代の男性も、落選して肩を落としている世界中の人々も、まだ知らなかった。
自分たちが応募を締め切ったあの日の夜、遠く離れた管制室で一人の工場長が「試遊機、もうちょっと増やせないかな?」と呟き、首相官邸の地下で「ベテルギウス五個分はいりません!」という大騒動の末に動き出した『ある計画』が、まさに今、現場で結実しようとしていたことを。
時間を数日ほど遡る。
東京・有明および都内の某大型コンベンションホールでは、経済産業省の鴻上やTGS運営事務局のスタッフ、そして各ゲームメーカーの設営部隊が、不眠不休の突貫作業を続けていた。
先日の官邸会議で矢崎総理が提案した『都内既存施設を活用した、フルダイブ公開実証サテライト会場(第2・第3試遊会場)の緊急増設プロジェクト』である。
「――よし、有明サテライト会場、第1区画から第4区画までの電源ラインおよびアンノウン機関専用通信網の敷設、完了しました!」
「救護スペースの医療機器搬入も完了! 厚労省手配の待機ドクターと看護師のシフト表も確定しています!」
広い展示ホールの床には、アンノウン機関の工場から無償で緊急追加納入された、ピカピカの新型フルダイブポッドが整然と並べられていく。
図面を確認していた運営事務局の若手スタッフが、ホールの天井を見上げて隣の上司に言った。
「……いやあ、一時はどうなることかと思いましたが、こうして見るとごく普通の展示ホールですね」
「当たり前だろう、都内の既存の展示場を借り上げたんだからな。……なんでお前、ちょっと安心したような顔をしてるんだ?」
そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた経産省の鴻上だけが、(……もし総理が止めてくださらなかったら、今ごろ幕張の隅に置かれた三メートルの箱の中に、恒星五個分の異空間が広がっていたところだ……)と、誰にも言えない国家機密を思い出して冷や汗を拭っていた。
もちろん、超技術による空間拡張などは一切使っていない。
すべては日本の行政機関が総力を挙げて都内の空きホールを押さえ、消防署や警察と動線協議を重ね、アンノウン機関が提供したポッドと自動バイタルチェック補助端末を、人間のスタッフたちが一台ずつ搬入し、実際に歩いて安全確認を行って作り上げた、血と汗の結晶のサテライト会場だった。
「鴻上さん、全サテライト会場のシステム接続テストと、オラクルによる安全監査がすべて完了しました!」
技術主任がタブレットを持って駆け寄ってくる。
そこに記された最終的な設備増強の数字は、以下の通りだった。
・実証会場:幕張メッセ本会場 + 都内サテライト会場(2か所)
・フルダイブポッド総数:当初480基 + 追加240基 = 合計『720基』
・理論上の最大試遊枠:15,360枠 → 『23,040枠』(1.5倍に増強)
・点検および安全予備枠を除いた実質的な追加当選枠:『約6,000枠』
何万台、何十万台と無制限に増やせるわけではない。初めての一般公開実証において、人間側のスタッフが確実に安全を担保し、一人ひとりの体調を確認しながら運営できる、これが正真正銘の限界値だった。
「……本当に、今の現場で増やせるギリギリの限界まで増やしましたね」
鴻上が完成した会場を見渡して感嘆すると、技術主任が苦笑しながら言った。
「ええ。……まあ、これだけ死に物狂いで六千枠を増やしても、世界中から集まった応募者全体の数パーセントにも届かないんですが」
「ははは、それを言ってしまうと身も蓋もありませんよ」
鴻上は笑い、しかし誇らしげに胸を張った。
「全体の倍率から見れば小さな数字かもしれませんが、それでも『六千人』です。あの日、落選画面を見て肩を落とした六千人の人々に、もう一度夢の世界へ入る切符を届けられるのですから、我々が走り回った価値は十分にありますよ」
《サテライト会場:全安全基準クリア》
《追加試遊枠(約6,000枠):既存落選者データを対象とした『二次(追加)抽選』の実行準備完了》
人間の泥臭い努力と、アンノウンの生産力が噛み合い、再抽選のスイッチが押された。
◇
第一次抽選の発表から数日後。
世界中の落選者たちが「まあ、当たらなくて当然だよな」とようやく現実を受け入れ始めた頃の昼下がり。
TGS2031公式サイトと公式SNSアカウントに、突如として緊急の告知が掲載された。
《【重要なお知らせ】TGS2031 フルダイブ一般公開実証・サテライト会場設置および『追加試遊枠(約6,000枠)』の抽選実施について》
《アンノウン機関によるフルダイブ試遊機器の緊急追加提供、ならびに日本政府・関係自治体・出展各社の協力により、東京都内に2か所の追加試遊会場(サテライト会場)を設営することが決定いたしました》
《これに伴い、第一次抽選にて惜しくも『落選』となった既存の応募者の皆様を対象に、自動的に追加枠の復活抽選を実施いたしました。新たな応募手続きは不要です。当選された方へは、本日順次メールにて通知をお送りしております》
この発表が投下された瞬間、鎮まりかけていた世界中のネット空間が、再び大噴火を起こした。
『えっ!? ええええええええええ!?』
『追加会場!? アンノウン機関がポッドを二百四十台も追加で出してくれただと!?』
『うおおおおおアンノウン様と日本政府とTGS運営、神すぎるだろ!!』
『一回完全に死んだ俺たちの希望が、向こうからのサプライズで蘇生されたんだが!!』
『開催まであと数週間しかないのに、都内に別会場を二つも用意して六千枠増やすって、裏方のスタッフさんたちどれだけ頑張ったんだよ……マジで頭が上がらない』
歓喜と感謝の声がタイムラインを埋め尽くす中、すぐに冷静なゲーマーたちが電卓を叩き始めた。
『よし、六千枠も増えたなら、今度こそ俺にも回ってくるはずだ!』
『……いや待て。六千枠って現場としてはとんでもない大増設だけど、俺たち落選者の分母って世界に何百万人いるんだっけ?』
『…………』
『アンノウン機関が物理的にポッドを増設してくれてもなお、倍率がバケモノすぎて草』
『でもゼロじゃない!! もう一回ガチャが引けるだけで俺は嬉しいぞ!!』
そしてその夜、あの人気ゲーム配信者は、懲りずに再び生配信の枠を立ち上げていた。
タイトルは《【奇跡の復活】アンノウン機関が俺にもう一度チャンスをくれた枠》。
「お前ら聞いたか!! アンノウン機関と運営の人たちが、俺みたいな落選者のためにポッドを二百四十台も増やしてくれたらしいぞ!! これもう、実質俺を魔法使いかロボットパイロットにするための追加パッチだろ!!」
コメント欄も大盛り上がりで迎える。
『帰ってきた抽選敗北者w』
『今度こそフラグ回収なるか!?』
『これでまた落ちたら伝説になるぞ』
「いくぞお前ら、見届けろ!! これが俺の復活劇だあああ!!」
配信者が気合を入れてマイページの更新ボタンを押す。
画面にパッと表示されたのは。
《追加抽選結果:落選》
《誠に残念ながら、追加試遊枠につきましてもご用意することができませんでした》
「………………」
三秒間の完全な静止。
そしてコメント欄が、今日一番の爆笑の弾幕で真っ白に染まった。
『おかえり!!』
『あまりにも綺麗な二連敗で草も生えない』
『アンノウン機関の優しさすらすり抜ける男www』
『全世界の落選者代表として殿堂入り決定だな』
「うわああああああああ!! ポッドが二百四十台も増えたのに、なんで俺の座る椅子が一台もねえんだよおおおお!!!」
配信者は机に突っ伏して大絶叫したが、五秒後にはケロッとした顔で起き上がり、「……よし! これで完全に未練は断ち切れた! 俺は九月、幕張と有明のサテライト会場をハシゴして、六千人の追加当選者まで含めて全力でインタビューしてきてやるからな!!」と笑って宣言し、視聴者から盛大な拍手喝采を浴びていた。
◇
同じ頃、テラ・ノヴァ中央管制室。
工藤創一は、手元のコンソールに届いた《TGS2031 追加サテライト会場設営完了・ならびに追加抽選実施完了》の事務レポートを読み、満足そうに大きく頷いていた。
「おおーっ、ちゃんと追加の六千枠、無事に抽選まで終わったんだな!」
『はい、マスター。日本政府および運営事務局の迅速な施設確保と動線調整により、安全基準を一切引き下げることなく、当初計画の一・五倍にあたる試遊枠の確保が完了しました』
「いやあ、よかったよかった! やっぱり矢崎総理の言った通り、変な超技術を使わずに、都内の既存の会場に分散した方がずっとスムーズだったな!」
『はい。結果として、局所空間拡張モジュールを稼働させる必要は全くありませんでした』
「だなあ。……まあ、あっちの三メートルの箱を使ってれば、六千枠どころかポッド十万台くらい余裕で並べられたんだけどさ」
『マスター。それを口にされると、日本政府の担当官の方々のバイタルに再び深刻な悪影響が出ます』
「分かってる分かってる! 冗談だって、もう言わないから!」
工藤は笑いながら手を振り、画面に表示された『追加当選枠:6,000名』という数字をもう一度見つめた。
世界中の応募総数から見れば、六千という数字はまだ小さな雫のようなものかもしれない。
それでも、画面の向こうには、今日この通知を受け取って飛び上がって喜んでいる人間が、確実に六千人いるのだ。
「……まあ、いきなり世界中の全員を遊ばせるのは無理だけどさ。それでも、この前ガッカリした人たちのうち六千人でも多くあの世界に入れるようになったなら、提案した甲斐はあったよな」
『はい。試遊可能人数の最大化というマスターの当初の目的は、極めて健全な形で達成されています』
「うん。あとは当日、ゲーム会社のみんなが作った世界で、思いっきり楽しんできてもらおう!」
もちろん工藤は、システム管理者であっても個人のプライバシー情報は見ないため、その追加された六千枠が具体的にどこの誰に当たったのかは一切知らない。
自分がふと思いついた小さな善意が、今まさに、ある一人の人生にどんな奇跡を届けたのかも知らずに、工藤は機嫌よく次の作業へと戻っていった。
◇
その翌朝。
静かな住宅街の一軒家では、あの六十代の男性が、ダイニングテーブルでいつものように朝の新聞を広げていた。
台所からは、妻が朝食の食器を洗う穏やかな水の音が聞こえてくる。
第一次抽選に落選したあの日から、男性はもうTGSの話題を自分から口にすることはなかった。残念ではあったが、気持ちの整理はついていた。九月になってニュースで会場の映像が流れたら、テレビの前でそれを見て楽しもう、と穏やかに思っていた。
その時、テーブルの端に置いてあった男性のスマートフォンが、ピロン、と控えめな通知音を鳴らした。
「……ん? なんだろう、こんな時間に」
男性は新聞を置き、老眼鏡をかけ直してスマートフォンを手に取った。
画面に表示されていたメールの差出人は、《TGS2031 フルダイブ一般試遊事務局》。
そして件名には、こう記されていた。
《【重要】TGS2031 追加抽選結果および会場のご案内》
「……追加抽選?」
男性は小さく首を傾げた。
そういえば昨日の夜のニュースで、アンノウン機関が試遊用の機械を追加で提供してくれて、都内に新しい会場ができたとかいう話をアナウンサーがしていた気がする。
だが、あれほど世界中の若者が殺到している抽選だ。一度落ちた自分にそんな追加の枠が回ってくるはずがないと思い、単なる「追加抽選を実施しましたが、今回も落選でした」という事務連絡だろうと考えながら、男性は指先でメールを開き、リンク先のマイページへとアクセスした。
白い画面が読み込まれ、テキストが表示される。
《TGS2031 フルダイブ一般試遊(有明サテライト会場)》
《追加抽選結果:当選》
《体験タイトル:SKYLINE EARTH(メトリックソフト)》
《体験コース:大型旅客機および小型機・コックピット操縦&離陸体験》
《利用区分:FD-1》
「………………」
男性の指が、スマートフォンの画面の上でピタリと止まった。
一秒。二秒。五秒。
彼は無言のまま、一度老眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを丁寧に拭いてから、もう一度かけ直して画面を見た。
文字は、一文字も変わっていなかった。
赤い枠で囲まれた《追加抽選結果:当選》という文字と、自分が第一希望として選んだ《SKYLINE EARTH》のタイトルが、そこにはっきりと刻まれている。
「……え? ……本当に?」
男性は自分の受付番号を何度も確認した。あの日、書斎のパソコンで控えめに申し込んだ番号と、一桁の狂いもなく一致している。
男性は椅子からゆっくりと立ち上がると、スマートフォンを両手で落とさないように握りしめたまま、少し震える声で台所の妻を呼んだ。
「……なあ、母さん。ちょっと……ちょっと来て、これを見てくれないか」
「あら、どうしたの? そんな改まった声を出して」
妻がエプロンで手を拭きながらダイニングへやって来る。
男性は、まるで壊れ物でも扱うかのように、スマートフォンの画面を妻の前へ差し出した。
「いや……これ、俺の見間違いか、何かのいたずらメールじゃないかと思ってな。ちょっと読んでみてくれ」
妻は不思議そうに画面を覗き込み、そこに書かれた文字を目で追った。
数秒間、妻もまた言葉を失って画面を見つめ――それから、パッと顔を上げて、目尻に涙が滲むほどの満面の笑みを浮かべた。
「……あら! お父さん、これ、間違いなんかじゃないわよ! 追加の抽選で、あなたが当たったのよ!!」
「……やっぱり、そう書いてあるか?」
「ええ! ほら、『当選』『SKYLINE EARTH』って! あなたが一番やりたかった、あの飛行機の操縦のやつじゃない!」
妻にそう太鼓判を押された瞬間、男性の肩から、張り詰めていた力がふっと抜けた。
そして、じわじわと、胸の奥底から信じられないほど熱いものが込み上げてきた。
脳裏に蘇ったのは、半世紀以上も前の、遠い日の記憶だった。
小学生の頃、フェンスにへばりついて見上げた空港の滑走路。轟音を立てて銀色の翼を傾け、雲の向こうへと消えていったジェット旅客機。
大人になったら絶対に自分もあの操縦席に座るのだと信じて疑わず、机に向かって必死に勉強し、そして身体検査の紙切れ一枚でその夢を静かに閉じた、二十歳の日の自分の姿。
別の仕事に就き、優しい妻と出会い、子供を育て、孫に恵まれた。何一つ不満のない、幸せな人生だった。
それでも、心の奥の小さな引き出しにずっとしまい込んでいた「自分の手で操縦桿を握り、大空へ飛び立ちたい」という少年のままの夢が、六十歳を過ぎた今になって、突然目の前に扉を開いたのだ。
男性は、スマートフォンを持たない方の自分の右手を見つめた。
少し皺の増えたこの手で、あと数週間後には、本物と同じコックピットの操縦桿を握り、スラストレバーを前へ押し込むことができる。
「……俺、飛べるんだな」
ぽつりと漏れたその声は、六十代の老人のものではなく、憧れの飛行機を見上げていたあの頃の少年の声そのものだった。
「今度は展望デッキから眺めるんじゃなくて……本当にあの操縦席に座って、俺の手で飛行機を空へ飛ばせるんだな……」
妻は夫の腕にそっと手を添え、自分のことのように嬉しそうに頷いた。
「ええ。四十年以上も待ったんですもの、ようやくあなたの順番が回ってきたのよ。本当によかったわね、お父さん」
男性は何度も頷き、少し照れくさそうに目元を指で拭って笑った。
「……まさかこの歳になって、ゲームの抽選に当たったくらいでこんなに心臓がドキドキするとは思わなかったよ」
「ふふ、あなた、今すごくいい顔をしてるわよ。子供みたいに目がキラキラしてる」
男性はもう一度画面の案内文に目を落とし、《アンノウン機関の追加設備提供、および関係機関の協力によるサテライト会場の増設》という一文を、噛み締めるように読み返した。
「……アンノウン機関の人たちと、会場を用意してくれた若い人たちは、本当にすごいことをしてくれるんだなあ。その人たちのおかげで、俺みたいな年寄りにも順番が回ってきたんだ。……ありがたいことだなあ」
権力者でもない。有名人でもない。ただ昔、空を飛ぶ夢を諦めた一人の普通の市民。
誰かを特別扱いすることのない完全に公平な抽選と、「一人でも多くの人に遊んでほしい」と願った工場長たちの尽力が生み出した六千枚の追加切符のうちの一枚は、こうして確かに、それを最も必要としていた人の手元へと届いたのである。
◇
それから九月の開幕に向けて、当選通知を受け取った世界中の人々のカウントダウンが始まった。
四人家族の家では、小学生の娘が当選画面を印刷してもらった紙を学習机の前に貼り、毎朝カレンダーの数字にバツ印をつけながら「あと何回寝たら、白いふわふわの子を抱っこできるかな!」と跳びはねていた。高校生の兄は「いいなあ、俺も外から見るだけじゃなくて触りたかったなあ」とボヤきつつも、妹のために会場までの電車の乗り換えルートを熱心に調べてやっていた。
二連敗を喫したあのゲーム配信者は、言葉通り視聴者からの応援を背に受けて現地取材用の機材一式を揃え、「俺は世界一楽しそうにTGSを実況する落選者になる!」と意気込んでいた。
品川の星海インタラクティブでは、黒瀬や島村たちが、幕張本会場と有明サテライト会場の両方で稼働する《アルカディア・クロニクル》の最終ビルドのチェックを終え、冒険者ギルドの扉を開け放って最初のプレイヤーたちを迎え入れる準備を完了させていた。
そして、あの六十代の男性は。
タンスの奥から少しよそ行きのシャツとジャケットを引っ張り出し、妻と一緒に有明のサテライト会場までの道順と、受付の時間、そして事前体調確認の手順を一つずつ丁寧に確認していた。
体験時間は、わずか二十分間。
けれど彼にとっては、半世紀の歳月を超えてようやく辿り着く、人生で最も眩しい二十分間になるはずだった。
世界を変える途方もない技術と、人間を楽しませようとするクリエイターたちの情熱、そしてある工場長の「みんなで遊べた方がいいじゃん」という純粋な善意が一つに重なり合い――二〇三一年九月、ついに世界中の夢を乗せた『東京ゲームショウ2031』の幕が開こうとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
YouTubeチャンネルを開設しました!
自作小説の朗読動画を投稿しています。
再生リストから第1話から通して聞けるので、作業用・睡眠用にもどうぞ!
よかったら、下のリンクから聴いてみてください!
YouTubeチャンネル「パラレル・ゲーマー」はこちら