自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
二〇三一年九月。
千葉県千葉市、幕張メッセ。
時刻はまだ午前七時を回ったばかりだというのに、最寄りの海浜幕張駅から会場へと続くペデストリアンデッキと広大な歩道は、すでに世界中から集結した人々の熱気でむせ返るようになっていた。
午前十時の正式開幕まで、あと三時間近くある。
それにもかかわらず、会場を取り囲む待機列には、あらゆる国籍、あらゆる世代のゲームファンたちが果てしなく並んでいた。
TGS2031の公式ロゴと『BEYOND THE SCREEN』の文字がプリントされた特製Tシャツを着て目を輝かせる日本の大学生グループ。
空港から直行してきたのか、ステッカーだらけの大型スーツケースを引きながら興奮気味に語り合う外国人観光客の一団。
精巧に作られた魔術師のローブや剣士の甲冑に身を包んだコスプレイヤーたちに、巨大な業務用カメラを肩に担いだ海外主要メディアの取材クルー。
見上げれば、幕張メッセの外壁に設置された超大型LEDビジョンに、あの夏に世界中を熱狂させた合同新作発表PVのハイライト映像が、朝の澄んだ青空を背景に次々と映し出されていた。
荒波を砕いて砲火を交える海賊船。
詠唱もなく放たれる真紅の火球と、草原を駆ける冒険者たち。
カタパルトから蒼い炎を噴き上げて射出される十八メートルの白銀の機兵。
緑の丘の上で、白いふわふわの幻獣を抱き上げる優しい両手。
そして、雲の海を突き抜けて成層圏へと昇っていく旅客機のコックピット。
画面が切り替わるたびに、待機列のあちこちから日本語、英語、フランス語、中国語、アラビア語など、世界中の言葉で歓声と溜め息が上がった。
「見ろよあの『アルタイル』の発進シーン! やっぱり何度見ても鳥肌が立つぜ!」
待機列の中ほどで、テキサスから来たという大柄なアメリカ人男性が、隣に並ぶ見知らぬ日本人青年に流暢な英語と身振り手振りで話しかけていた。
彼の首には、フルダイブ試遊の当選者パスはかかっていない。
「俺は一次抽選も追加抽選も全部外れちまったんだ。だがな、人類初のフルダイブロボットゲームの展示をこの目で見ずに死ねるかと思って、きのう飛行機で飛んできたんだよ! 実物大のコックピット展示があるって聞いただけで、太平洋を渡ってきた価値がある!」
その少し後ろでは、イギリスからやって来たという青年が、自作したと思しき見事な海賊船長の三角帽とロングコート姿で胸を張っていた。彼もまた落選組だ。
「俺は《蒼海の自由航路》の試遊抽選には敗北した! だが、海賊としてこの幕張の海に上陸する権利までは誰にも奪えないからな!」
その堂々たる宣言に、周囲にいた各国のゲーマーたちから笑いと拍手が巻き起こる。
もちろん、日本の家族連れの姿も多い。
小学生の息子の手を引いた父親が、巨大なビジョンを見上げながら感慨深そうに語っていた。
「いいか、お父さんがお前くらいの子供の頃はな、自分の身体でゲームの世界の中に入るなんて、アニメやSF小説の中の夢物語だったんだぞ」
「うん! でも今日は、この会場の向こうで本当に入れる人たちがいるんだよね!」
ここに並んでいる何万人という来場者のうち、実際にフルダイブポッドへ搭乗できる当選者はごく一握りに過ぎない。
それでも、誰もがこの場所へやって来た。ゲームの歴史が新しいページをめくるその歴史的な一日を、同じ空気の中で味わうために、世界中のゲーム好きがこの幕張へと集結していたのである。
会場周辺はかつてない人出となっていたが、混乱はなかった。鉄道各社と連動した案内表示と、大勢の整理スタッフによって、一般入場者の待機列と、午前中の早い時間帯にフルダイブ試遊が割り当てられた『事前抽選当選者』の専用優先受付ルートが整然と分けられ、スムーズに誘導が進められていた。
◇
そんな活気あふれる会場前の広場の一角で、ジンバル付きの小型カメラとピンマイクを装着した一人の男が、朝の空気を切り裂くような元気いっぱいの声を張り上げた。
「――どうもおおおお!! お前ら、ついにやって来たぞ! 二〇三一年九月、東京ゲームショウ一般公開初日、ここが聖地・幕張メッセだああああ!!」
あの、一次抽選と追加抽選で見事なまでの二連敗を喫した、日本の人気ゲーム配信者であった。
画面の端に表示された彼の本日の配信タイトルは、こうなっている。
《【TGS2031現地実況】フルダイブ抽選に二連敗した男、約束通り幕張に上陸する》
配信を開始した直後から、同時接続数はうなぎ登りに跳ね上がり、コメント欄は待っていましたとばかりの弾幕で埋め尽くされた。
『きたああああああ!!』
『世界一楽しそうな落選者、本当に幕張に現るww』
『二連敗の男、朝からテンション高すぎて草』
『※なお、本日の配信者のフルダイブ試遊予定:0件』
『おい誰だ、悲しい事実を固定コメントにしたやつはwww』
スマートフォンでコメント欄を見た配信者が、カメラに向かって盛大にツッコミを入れる。
「おいそこ! 試遊予定ゼロとか書くな! いいか、俺は今日、自分がポッドに入れない分までこのTGS2031という世界最大のお祭りを隅から隅まで遊び尽くすために有休取って来たんだよ!」
彼は歩きながら、背景に見える巨大な会場ゲートをカメラに映した。
「今日のスケジュールを説明しておくぞ! まずは開場と同時に中の各社展示ブースを回って、ゲーム会社が本気で作った展示を全部レポートする! もちろん運営事務局から事前の配信・撮影許可はバッチリ取ってあるから、撮影OKの一般エリアだけをルールを守って回るぞ。そして午前中の第一陣の試遊が終わる頃になったら、ポッドから出てきた選ばれし勇者たちに許可を取って、世界初の一般フルダイブ体験の感想を片っ端からインタビューして回る!」
『神企画すぎる』
『現地行けない地方民だからマジで助かる!』
『有明のサテライト会場の方は行かないの?』
『幕張と有明は離れてるからな、まずは本会場の熱気を見せてくれ!』
配信者が視聴者とやり取りしながら一般待機列の方へ歩いていくと、すぐ横の『フルダイブ試遊・第一セッション当選者専用ゲート』へと向かう通路を、首から特別なホログラムパスを下げた一人の男性が通りかかった。
「……あっ!!」
配信者の足がピタリと止まり、その首元のパスに視線が釘付けになった。
彼はすかさず歩み寄り、礼儀正しく頭を下げて声をかけた。
「あ、あの、すみません! ゲーム配信をやってる者なんですが、もしかしてその首から下げてるパスって……フルダイブ試遊の当選者の方ですか!?」
声をかけられた三十代くらいの男性は、少し驚いたように足を止め、それから誇らしげにパスを見せて笑った。
「ええ、そうですよ! 朝一番の枠で、バンダル・ナムラの《鋼星機兵アルタイル》が当たりまして、今から事前受付とバイタルチェックに入るところなんです」
「…………っ、アルタイル……!!」
配信者は、自分が第二希望に出して散った巨大ロボットの名前を聞き、胸を押さえて一歩よろめいた。
コメント欄が一斉に沸く。
『あっ(察し)』
『配信者の古傷が抉られたw』
『本物の当選者だあああ! 実在したんだな!!』
配信者はプルプルと震える手でマイクを握り直し、必死に笑顔を作って尋ねた。
「……い、今から全高十八メートルのコックピットに乗るわけですが、やっぱり楽しみですか!?」
「もちろんです! 昨日の夜は遠足前の小学生みたいに一睡もできませんでしたよ。子供の頃からずっとロボットのパイロットになるのが夢でしたから!」
目をキラキラと輝かせて語る男性を見て、配信者は悔しさを通り越し、心の底からの笑顔でビシッと親指を立てた。
「……最高です!! 俺は二連敗して乗れなかったんで、どうか俺たち落選組の分まで、思いっきりレバーを倒して大空へ発進してきてください!! いってらっしゃい!!」
「ありがとうございます! 全力で乗ってきます!」
男性が笑顔で手を振って専用ゲートの中へと消えていく。
その背中を見送った配信者に、コメント欄からも『いいやつだな』『お兄さん、俺たちの分まで楽しんできてくれ!』『なんかもうこれだけでワクワクしてきた』と温かい拍手が送られた。
◇
やがて時刻が進み、先行入場枠やメディア・配信者枠、そして一般待機列の先頭グループから順次、幕張メッセの巨大な展示ホール内への入場が開始された。
展示ホールの大扉をくぐり抜けた瞬間、配信者も、周囲の一般来場者たちも、目の前に広がった光景に思わず息を呑んで足を止めた。
「……うっわあああああ……!! すっげえええええ!!」
そこはもはや、ただの展示会場ではなかった。
世界中のゲームメーカー十六社が、フルダイブ元年の幕開けを飾るために莫大な予算と技術の粋を注ぎ込んで作り上げた、異世界への入り口そのものだった。
高い天井から吊り下げられた各タイトルの巨大な立体ロゴ。壁面を埋め尽くす数十メートル規模の湾曲LEDスクリーン。ホール全体に響き渡るフルオーケストラのBGMと、地響きのような効果音。
配信者が最初に駆け寄ったのは、ホール中央の一等地を占める星海インタラクティブの《アルカディア・クロニクル》の巨大ブースだった。
「おい見てくれお前ら!! 城門だ! 幕張メッセの中に、本物のアルカディアの城門が建ってるぞ!!」
ブースの正面には、高さ十メートル近い白亜の石造りの城門が精巧なセットで再現されており、床には石畳風のシートが敷き詰められていた。
門をくぐった先の一般展示エリアには、交叉する剣と盾の紋章を掲げた『冒険者ギルド』の受付カウンターが再現され、ゲーム内と同じ制服や革鎧をまとったスタッフたちが「ようこそ、城塞都市アルカディアへ!」と笑顔で来場者を出迎えている。
さらにブースの脇には、テストプレイのコラム記事でも話題になった街のベーカリーや酒場『赤猪亭』の店先を模したフォトスポットまで作り込まれていた。
『すげええええ!! 再現度どうなってんだよ!』
『ほんとに異世界の街に迷い込んだみたいじゃん!』
『あそこの冒険者ギルドのカウンターで記念撮影してえ!』
『奥のガラス張りの向こうがフルダイブ試遊ゾーンか!』
アルカディアのブースに圧倒された配信者が隣の区画へ目を向けると、そこにはさらに度肝を抜く光景が待っていた。
バンダル・ナムラの《鋼星機兵アルタイル》ブースである。
薄暗い格納庫を模したブースの中央に、なんと全高十八メートルの機兵の「上半身と頭部」が、一分の狂いもない実物大スケールでそびえ立っていたのだ。装甲の継ぎ目から白いスチームが噴き出し、ツインアイが緑色に発光するたび、周囲に集まった各国のロボットファンたちから地鳴りのような歓声が上がる。
『メインジェネレーター、出力臨界。――アルタイル、発進どうぞ!』
巨大スピーカーからあのPVの通信音声と重低音の駆動音が響き渡り、配信者はたまらず頭を抱えて叫んだ。
「この音!! この起動音を会場の大音量で聞けただけで、俺はもう感無量だよ!!」
すると、ブースの端に『一般来場者向け・実物大コックピット搭乗撮影コーナー』という看板が出ているのが目に入った。フルダイブポッドではないが、ゲーム内と同じ操縦席のモックアップに座って写真が撮れる展示だ。
「……おいスタッフさん! あっちのコックピットは、抽選に落ちた俺でも座っていいのか!?」
「はい! あちらの展示用コックピットはどなたでもお並びいただけますよ!」
「やったあああああ!! 後で絶対並んで、俺もアルタイルのパイロットになってやるううう!!」
『よかったなwww』
『ただし物理的には1ミリも動かない模様』
『それでも全方位モニターの操縦席に座れるなら最高だろ!』
さらにその向かい側には、先ほどの無骨な格納庫とは打って変わって、柔らかな木漏れ日と花の香りに包まれた空間が広がっていた。
七天堂の《まぼろし生きもの島》ブースだ。
鮮やかな緑の人工芝が敷かれたブースの中央には、大きな樹木のオブジェがあり、その下に、PVで世界中の人々の心を撃ち抜いた「白いふわふわの幻獣」の等身大ぬいぐるみ像がいくつも配置されていた。
小さな子供から屈強な外国人ゲーマーまでが、その愛らしい姿に顔をほころばせてカメラを向けている。
「……ちょっと待て。映像で見るよりさらに可愛いぞ、これ……」
さっきまでロボットだ海賊だと叫んでいた配信者が、丸い瞳の幻獣のオブジェを前にして、思わず声をひそめた。
『お前もついにモフモフの軍門に降ったかw』
『男も女も大人も子供も、全員笑顔になってて平和すぎる』
展示エリアの奥には、生垣風のパーテーションで区切られた『フルダイブ試遊当選者専用ゾーン』の入り口があり、配信者はそこを羨ましそうに覗き込んだ。
「……あのパーテーションの向こうのポッドの中では、これから本当にこの毛玉が動いて、自分の手で抱っこできるんだよなあ……」
他にも、巨大なガレオン船の船首と木製舵輪が突き出したレアウェイブの《蒼海の自由航路》ブース。
ビルのような二本角の飛竜の頭部模型が咆哮を上げるカプノヴァの《巨獣狩猟譚》ブース。
ネオン輝く実物大の未来型レーシングマシンが展示されたセイガの《スターラッシュ・グランプリ》に、本物の旅客機さながらの計器パネルが並ぶメトリックソフトの《SKYLINE EARTH》。
さらに、今回は一般試遊こそ見送られたものの、《INFINITE ODYSSEY》をはじめとする映像出展の四タイトルも、巨大なドーム型シアターを設営し、大迫力の開発実機映像を公開するために長蛇の列を作っていた。
フルダイブという技術そのものが凄いだけではない。人間のエンターテインメント産業が持つ「人をワクワクさせる底力」が、幕張メッセの全ホールに爆発していた。
◇
同じ時刻、午前九時五十五分。
幕張メッセの管理棟に設置された『TGS2031 フルダイブ公開実証・総合運営本部』。
壁一面を覆う大型モニターには、ここ幕張本会場の480基、そして都内の有明および第3サテライト会場に増設された240基――合計『720基』のフルダイブポッドの稼働ステータスが、鮮やかなグリーンのランプで一覧表示されていた。
経済産業省の実務責任者である鴻上は、インカムから次々と飛び込んでくる各会場の最終点呼に耳を傾けていた。
『幕張本会場、全12タイトルブース、第一セッション当選者の本人確認および事前バイタルチェック完了! 全員、ポッドへの搭乗を完了しました!』
『有明サテライト会場、全機グリーン! 待機ドクターおよび救護班、配置完了しています!』
『第3サテライト会場も異常なし! アンノウン機関・オラクルとの安全監視リンク、遅延ゼロで安定稼働中です!』
なお、昨日までのビジネスデイおよび早朝の最終点検において、出展各社の開発スタッフや報道関係者による動作確認はすべてつつがなく完了している。
また、運営スタッフの間では「ポッドのハードウェア自体は全社共通だが、各ブースの操作説明やFD-1・FD-2の安全設定、アテンド体制がタイトルごとに組まれているため、当日は事前当選したタイトルとコースのみを起動し、現場での別ゲームへの変更は一切不可とする」という運用ルールが徹底されていた。
「……よし。すべての準備は整いましたね」
鴻上が深く息を吐き、マイクを握りしめる。
隣にいた運営事務局のディレクターが、鴻上の横顔を見て少しだけ笑った。
「鴻上さん、これまで何ヶ月も修羅場をくぐってきたのに、今日が一番緊張していませんか?」
「そりゃあ緊張もしますよ」
鴻上は苦笑しながら、モニターの向こうで開幕の瞬間を待つ何万人もの来場者の姿を見つめた。
「各社のクリエイターの皆さんが魂を込めて作り上げ、私たち行政と運営が総力を挙げて安全体制を整え、アンノウン機関が支えてくれた『新しい時代の扉』を、今日初めて一般の方々の前で開けるのですからね」
(……それに、会場の隅にベテルギウス五個分の空間を折り畳んだ箱を置かずに、こうして無事に人間の建築物の中で開幕を迎えられただけでも、実務担当としては感無量というものだ……)
鴻上は胸の内でそっと日下部と総理に感謝を捧げると、壁のデジタル時計が『09:59:50』を指したのを見て、背筋を伸ばした。
◇
午前九時五十九分五十秒。
幕張メッセの全ホール、そして都内二つのサテライト会場の照明が一斉に少しだけ落とされ、頭上のすべての巨大スクリーンに、黄金色のカウントダウン数字が浮かび上がった。
《TOKYO GAME SHOW 2031 — FULL DIVE WORLD PREMIERE》
『10!』
『9!』
『8!』
誰が始めたともなく、会場を埋め尽くした何万人もの来場者たちが、自分の母国語で一斉に数字を叫び始めた。
ブースの前のファンも、コスプレイヤーも、海外から来た記者も、そしてポッドの中で接続開始を待つ第一セッションの当選者たちも。
『5!』
『4!』
『3!』
『2!』
『1――!!』
午前十時ちょうど。
スクリーンに《WELCOME TO THE NEW WORLD》の文字が弾け、華やかなファンファーレと紙吹雪のエフェクトがホール全体に降り注いだ。
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」
幕張メッセの屋根が吹き飛ぶかのような大歓声と万雷の拍手が巻き起こる。
カメラを構えていたあの落選配信者も、周囲の外国人ゲーマーたちと肩を組んで飛び跳ねながら、喉が枯れんばかりに叫んでいた。
「始まったああああああ!! お前ら見てるか!! ついに始まったぞ、人類初の本格フルダイブゲームの大祭典だああああ!!」
コメント欄も『開幕おめでとう!!』『歴史が動いた瞬間だ!』『現地うらやましすぎる!!』『※なお配信者は今日も外から見るだけですw』と最高潮の盛り上がりを見せる。
「うるせえ! たとえ今日ポッドに入れなくても、俺は今、世界中のゲーム好きと一緒にこの歴史のスタートラインに立ってるんだ! これだけで完全に勝ち組なんだよ!!」
そう叫んで笑った配信者は、ふと歓声の向こう側――各社ブースの奥にある『フルダイブ試遊ゾーン』のゲートが静かに閉まり、第一セッションの稼働ランプが一斉に点灯したのを見つめた。
さっきまでの大声から一転、彼は少しだけ静かな、しみじみとした声でマイクに呟いた。
「……ああ。本当に、今から始まるんだな。画面の向こう側だったゲームの世界に、普通の人たちが自分の足で入って遊ぶ時代がさ」
◇
その瞬間、星海インタラクティブ《アルカディア・クロニクル》の試遊ブース内部では、ディレクターの黒瀬、プランナーの島村、リードプログラマーの芹沢、そして三枝の四人が、ガラス越しのモニタリングルームからずらりと並んだ四十基のポッドを見守っていた。
各ポッドには、数百倍の抽選を勝ち抜いた最初の一般プレイヤーたちがすでに横たわっている。
「……黒瀬さん、なんだか手のひらが汗ばみますね」
島村が自分の両手を握りしめて言った。
「ああ。品川のテストルームで何百回と動かしてきたはずなんだがな」
黒瀬は腕を組み、真剣な眼差しでポッドの列を見つめた。
「今日ここに来ているのは、俺たちの同業者でもなければ、デバッグ目的の先行テスターでもない。ただ純粋に『アルカディアの世界で遊びたい』と願って、何百万人の抽選の中から選ばれてやって来た、一番最初のお客さんたちだ」
「事前認証、バイタル監視、FD-2およびFD-1の安全リミッター、すべて正常です」
芹沢がコンソールの数値を最終確認し、力強く頷いた。
「『街歩きコース』と『冒険・戦闘コース』の初期分岐処理も問題ありません。いつでもいけます」
黒瀬は一度深く息を吸い込み、そしてニヤリと笑って号令を下した。
「――よし、接続開始だ。俺たちが作ったアルカディアへ、最初のお客さんたちを歓迎しよう!」
《アルカディア・クロニクル — 一般公開実証・第1セッション起動》
芹沢がエンターキーを叩いた瞬間、四十基のポッドの稼働リングが一斉に鮮やかな蒼い光を放った。
◇
視界が純白の光から切り替わった瞬間、第一セッションに当選した二十代の男性会社員――物心ついた頃からコントローラーを握り続けてきた生粋のRPGファンは、自分の足裏に伝わる「草と土の感触」に、思わず息を呑んだ。
彼が搭乗前に選んだのは、もちろん『始まりの草原・冒険&戦闘体験コース』だ。
目の前には、白亜の巨大な城門と、その先にどこまでも広がる緑の大草原。
頭上には吸い込まれそうなほど高い青空があり、涼しい風が吹き抜けて自分の前髪と青いチュニックの裾を揺らしていく。遠くからは小鳥のさえずりと、小川のせせらぎが聞こえてくる。
「…………」
男性は、すぐには一歩も動けなかった。
自分の両手を目の前に掲げてみる。革のグローブをはめた指が、自分の意思通りに一本ずつ動く。腰を見れば、革のベルトに吊るされた鉄の片手剣の鞘があった。
「……うわ。マジだ……マジで俺、今、ゲームの中の世界に立ってる……」
合同PVで何十回も見た光景だ。知識としては知っていた。
だが、「四角いモニターの向こうに映る草原を見る」のと、「自分の上下左右三百六十度すべてが異世界の草原であり、自分の肺でその空気を吸っていると感じる」のとでは、脳が受ける衝撃の次元がまるで違っていた。
すぐ近くの草むらで、ぷるん、と青いスライムが跳ねてこちらを向いた。
「おっ、スライムだ! よし、まずは剣を抜いて――」
男性は敵を見据え、右手の親指を無意識にクッと動かした。
一秒。二秒。
何も起きない。腰の剣は鞘に収まったままだ。
「……あっ、そうか!! Rボタンなんてないんだ、俺が自分の手で抜くのか!!」
長年のテレビゲームの癖で、存在しないコントローラーのボタンを押そうとしていた自分に気づき、男性は草原の真ん中で一人吹き出した。
改めて右手を自分の腰へと伸ばす。
硬い木の柄をしっかりと握りしめ、腕を引いて鞘から鉄の剣を引き抜いた。
シャキンッ!!
澄んだ金属音とともに、太陽の光を反射する白刃が現れる。ずしりとした鉄の重みが、手首から肩へと確かに伝わってきた。
ただ「剣を抜いた」。これまでのゲームなら0.1秒のボタン入力で終わっていたその動作をしただけで、男性の全身に鳥肌が立った。
「……すっげえええ!! なんだこれ、鞘から剣を抜いただけで、めちゃくちゃ楽しいぞ!!」
そこへ、青いスライムが身体を縮め、弾丸のような勢いで跳びかかってきた。
「うおっ、速い!?」
画面で見るよりずっと迫力のある突進に、男性は慌てて自分の足で地面を蹴り、横へと跳んでかわした。草の上に転がりそうになりながら体勢を立て直し、夢中で剣を振るう。
一撃目は力みすぎて大振りになり、空を切ってバランスを崩した。
だが二撃目、跳ね返ってきたスライムの動きをよく見て、自分の腰と肩を入れて鉄剣を斜めに振り抜くと――ぐにゅり、と弾力のある抵抗の後に、ブツッ! と核を断ち切る鮮烈な手応えが腕に響いた。
スライムが光の粒子となって弾け飛ぶ。
男性は剣を構えたまま、自分の右手に残る確かな感触を見つめ、少年のように声を上げて笑った。
「倒した……! 俺、今、本当に自分の腕で剣を振って、モンスターを倒したんだ……!!」
一方その頃、同じセッションで『城塞都市アルカディア・街歩き&生活体験コース』を選んでいた三十代の女性プレイヤーは、モンスターと戦うことなどすっかり忘れ、石畳の大通りをゆっくりと歩いていた。
行き交う馬車の音。露店に並ぶ色とりどりの果物。パン屋から漂ってくる焼きたての小麦と蜂蜜の甘い香り。
彼女は通りを歩いていたエプロン姿の住民NPCに、恐る恐る自分の声で話しかけてみた。
「あ、あの、すみません。冒険者ギルドへ行くには、どちらへ進めばいいんでしょうか?」
すると住民の女性は、足を止めてにっこりと微笑み、大通りの先を指さした。
「ああ、ギルドならこの大通りを真っ直ぐ行って、大きな噴水の角を左に曲がったところだよ。……見ない顔だけど、お嬢ちゃん、今日この街に着いたばかりの旅の人かい?」
決められた選択肢を選んだのではない。自分の言葉に、相手が目を合わせて答えてくれた。
女性プレイヤーは胸がいっぱいになりながら、小さく頷いた。
「……はい。今日、ずっと遠くから、初めてこの街に来ました」
「そうかい! なら、ようこそアルカディアへ! 噴水の近くのパン屋は絶品だから、ギルドへ行く前に食べていきなよ!」
「ありがとうございます!」
歩き去る住民の背中を見送りながら、女性は自分の頬が熱くなっているのを感じていた。
ゲームをプレイしているという感覚ではなかった。自分は今、本当に言葉の通じる異世界の街を訪れ、そこに暮らす人々から温かく歓迎されたのだ。
モニタリングルームの画面越しに、それぞれのプレイヤーたちの輝くような表情を見ていた黒瀬と島村たちは、無言のまま顔を見合わせ、力強く頷き合っていた。
◇
そして、あっという間に二十分という時間が過ぎ去った。
《TEST SESSION COMPLETE — THANK YOU FOR PLAYING》
全会場のポッドのキャノピーが静かに開き、第一セッションを体験した数百人の一般プレイヤーたちが、現実の照明の下へと帰還した。
星海インタラクティブのブースでは、スタッフが駆け寄って一人ひとりの体調を確認し、ゆっくりと立ち上がるのを補助する。
先ほど草原でスライムと戦っていた二十代の男性会社員は、ポッドの縁に腰掛けたまま、しばらく自分の右手を見つめて呆然としていた。
「お疲れ様でした、お客様。ご気分はいかがですか? めまいなどはございませんか?」
スタッフの優しい声に、男性はハッと顔を上げた。
「あ、はい! 体調はもうバッチリ、最高です!」
そして彼は、すがるような目でスタッフを見上げて言った。
「……あの、すみません! これ、今からもう一度列の最後尾に並び直したら、もう一回遊べたりしませんか!?」
スタッフが申し訳なさそうに苦笑して首を横に振る。
「大変申し訳ございません、今回のフルダイブ試遊は事前抽選で当選されたお一人様につき一回限りとなっておりまして……」
「ですよねええええ!! うわあ、短すぎる!! 体感三分くらいしか経ってないですよ!!」
男性は頭を抱えて叫んだ。
「だって、剣を抜いてスライムを倒して、やっと自分の身体で戦うコツが分かってきて『よし、次は森の奥のゴブリンを探しに行こう!』って走り出したところで時間切れになったんですよ!? こんなの二十分じゃ全然足りないです、二十時間、いや二百時間やらせてください!!」
隣のポッドから降りてきた女性プレイヤーも、まだ夢の中にいるようなうっとりとした表情でスタッフに語っていた。
「私、街の人とおしゃべりして、焼きたてのパンを食べて、路地の猫を撫でていたら二十分終わってしまいました……。冒険者ギルドの扉すら開けてないんです。お願いですから、早く家庭用の正式版を発売してください、いくらでも貯金しておきますから!」
退出ゲートへと向かう体験者たちが、口々に「凄すぎた!」「帰りたくなかった!」「次は絶対に魔法使いをやりたい!」と熱っぽく語り合いながら去っていく。
回収された直後のデジタルアンケート端末には、画面が埋まるほどの熱量で感想が書き込まれていた。
《体験満足度:100%(全員が『極めて満足』を選択)》
《不満点:試遊時間が20分しかないこと(多数)》
《コメント:本当に自分が異世界へ旅に出たようだった。人生で最高の20分間をありがとう!》
その集計画面を見た島村が、両手で口元を覆って目を潤ませた。
「……黒瀬さん、見てください。みんな『二十分じゃ足りない』『もっとこの世界にいたい』って書いてくれてます……!」
「当たり前だ。俺たちは最初から、たった二十分で満足できるような底の浅い世界を作ったつもりはないからな」
芹沢が眼鏡の位置を直しながら、誇らしげに口元を緩める。
黒瀬は、満足そうに去っていく最初のプレイヤーたちの背中をガラス越しに見送り、静かに息を吐いた。
「……ああ。俺たちが半年かけて作ったアルカディアは、ちゃんとあいつらに届いたな」
クリエイターとしての苦労がすべて報われた瞬間だった。
だが、感傷に浸っている暇はない。すでに待機エリアには、次の『第二セッション』に当選したプレイヤーたちが目を輝かせて入場してきている。
「よし、余韻に浸るのは閉幕後だ! ポッドの清掃とバイタル初期化を急げ! 次の回のお客さんたちにも、一生忘れられない二十分間を届けるぞ!」
「「「はいっ!!」」」
◇
その直後、各社ブースの出口付近に設けられた『メディア・配信者取材許可エリア』は、第一セッションを終えて出てきたばかりの当選者たちと、その生の声を聞こうと待ち構えていた記者たちでごった返していた。
「――あ! 今アルカディアのブースから出てきたお兄さん! ちょっといいですか!?」
あの二連敗配信者が、顔を紅潮させてブースから出てきたばかりの二十代男性(先ほどスライムを倒した彼だ)を見つけ、許可を取ってマイクを向けた。
「生配信中なんですが、世界初の一般フルダイブ試遊を終えた今の率直な感想を教えてください! 事前にPVで見ていたイメージと比べて、実際はどうでしたか!?」
マイクを向けられた男性は、まだ興奮で肩で息をしながら、力強く答えた。
「PVの……いや、俺が想像していた百倍すごかったです!!」
「ひゃ、百倍!?」
「はい! だって、画面で綺麗な映像を見るのと、実際に自分の足でその地面に立つのとでは、根本的に別の体験なんですよ! 草原の風が本当に頬に当たるし、鞘から抜いた鉄の剣には確かな重さがあるし、スライムが体当たりしてくると盾越しにドンッて衝撃が来るんです! ボタンなんか一個もない、あそこにいたのは間違いなく『俺自身』でした!」
熱のこもった言葉が配信に乗った瞬間、数万人の視聴者のコメント欄が阿鼻叫喚の渦となった。
『うわあああああああPVの百倍だとおおおおお!?』
『自分の手で鞘から剣を抜くって、聞いただけでワクワクが止まらん!』
『あかん、体験者の顔がガチで異世界から帰ってきた人間の顔してる!!』
『なんで俺は抽選に落ちたんだあああああ!! 今すぐ幕張のポッドに飛び込みたい!!』
配信者自身も、取材者であることを忘れて前のめりになり、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「スライムを斬った時の感触はどうでした!? 魔法は見ましたか!? 街のパン屋の匂いは本当にしたんですか!?」
「あはは、すみません、僕も興奮しすぎて草原でスライムと戦ってたらあっという間に二十分終わっちゃって、街の中までは見られてないんです! でも、一回でもあれを体験したら、もう普通のゲームには戻れないかもしれません!」
礼を言って去っていく男性を見送り、配信者はマイクを握ったまま、天を仰いで呻いた。
『配信者、息してるかー?w』
『今どんな気持ち? ねえどんな気持ち?』
『抽選二連敗のダメージが今さらクリティカルヒットしてて草』
「……ちくしょおおおおお!! 羨ましいに決まってんだろ!! 今の話聞いたら、俺だって今すぐ剣抜いてスライム斬りてえよおおお!!」
魂の絶叫にコメント欄が大爆笑に包まれる。
だが、叫び終えた配信者は、すぐにニッと笑ってカメラに向き直った。
「でもな、お前ら! 今のあのお兄さんのキラキラした目を見たら、なんか俺までめちゃくちゃ嬉しくなっちゃったよ! だって、俺たちが子供の頃から『こんなゲームがあったらいいのに』ってずっと夢見てた世界が、ハッタリでも何でもなく、今本当にこの幕張で完成して動いてるんだぜ!? よし、次はロボットか海賊船から出てきたやつを捕まえて話を聞きに行くぞ!」
自分が遊べた人間も、まだ遊べていない人間も。会場にいる誰もが、新しい時代の到来そのものに酔いしれていた。
◇
同じ頃、地球から遠く離れた別宇宙――テラ・ノヴァの中央管制室。
工場長の工藤創一もまた、管制室のサブモニターにTGS2031の公式生中継と、会場レポート配信の画面をいくつも並べ、コーヒーを片手にニコニコと眺めていた。
「いやー、始まったなあ! 見てよイヴ、会場のお客さんも、ポッドから出てきた人たちも、みんなめちゃくちゃいい顔してるじゃん!」
『はい、マスター。午前十時の開幕以降、幕張本会場および都内サテライト会場の全七百二十基のポッドが正常に稼働しており、第一セッションの体験者からは極めて高い満足度と興奮反応が記録されています』
工藤は、画面に映るアルカディアの巨大な城門セットや、十八メートルのアルタイルの実物大展示を見て、心底感心したように頷いた。
「ほんとにさ、ゲーム会社の人たちってエンターテイナーだよなあ。フルダイブの中の世界だけでも凄いのに、現実の幕張メッセの会場まであんなに凝ったセットを作って、抽選に外れたお客さんまで楽しませようとしてるんだもんな。こういうのを見ると、やっぱり技術を提供してよかったって心の底から思うよ」
『各社のクリエイターおよび運営スタッフの情熱が、マスターの提供された技術基盤と結びついた結果です』
「うんうん。……でさ、イヴ。この体験者の人たちの感想を聞いてたら、俺もますます我慢できなくなってきたんだけど、正式版が出たらやっぱりどれから遊ぶべきかなあ?」
『マスター。そのご質問にお答えするのはこれで通算七回目となりますが、まだ第一希望すら決まっていないのですね』
「だって! 今の人の話聞いたら最初に剣を抜くのもやりたくなったし、でもロボットの発進も捨てがたいし……!」
世界を揺るがすアンノウン機関のトップは、今日も今日とて、一人の幸せなゲームファンとしてモニターの前で頭を悩ませていた。
◇
そして、時刻は午前十一時少し前。
幕張メッセ本会場、七天堂《まぼろし生きもの島》ブースの奥にある、当選者専用の試遊受付エリア。
そこには、あの四人家族――四十代の父親、母親、高校生の息子、そして家族の中でただ一人、奇跡の当選を果たした小学生の娘の姿があった。
娘は朝からずっと、小さな胸の前で両手を握りしめ、ソワソワと落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「……お父さん、もうすぐわたしの番だよね?」
「ああ、次の十一時からの回だから、もうすぐだぞ」
父親が優しく答える。
「あの白いふわふわの子、ちゃんとお島の中で待っててくれてるかな?」
「もちろんさ。お前が来るのを、きっとお腹を空かせて待っててくれてるよ」
その後ろでは、高校生の兄が、ブースの入り口に飾られた白い幻獣のパネルを見つめながら、未練たっぷりにボヤいていた。
「……くっそお、近くで見るとますます触りてえなあ。なんで俺の海賊船も落ちたのに、お前だけ当たったんだよ……」
すると娘は、くるりと兄の方を振り返り、お姉さんのような得意げな笑顔で言った。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん! わたしがポッドから出てきたら、あの子がどれくらいふわふわで、どれくらい温かかったか、お兄ちゃんに一番に全部教えてあげるからね!」
「……おう。頼むぞ、俺の分まで思いっきりモフモフしてきてくれよ」
妹の純粋な言葉に、兄も苦笑しながら頭を撫でてやった。
やがて受付番号が呼ばれ、保護者である父親と母親が同伴して専用カウンターへと進む。
本人確認と保護者の同意署名、そして未成年のための丁寧なバイタルチェックが行われた。
七天堂の案内スタッフのお姉さんが、娘の目線に合わせてしゃがみ込み、優しい言葉で説明してくれる。
「これから入る『まぼろし生きもの島』はね、FD-1っていうとっても安全な魔法でできているから、痛いことや怖いことは一つもないよ。本当のお外みたいに歩いたり、お花を触ったり、可愛い生き物たちを抱っこして遊べるからね。もし途中でびっくりしたり、お父さんたちのところへ戻りたくなったら、いつでもすぐに戻れるから安心してね」
「はいっ! ありがとうございます!」
娘が元気よく返事をする。
いよいよ、ポッドが並ぶ試遊ルームの入り口までやって来た。
ここから先は、当選した本人とスタッフだけが入るエリアだ。保護者の父親たちと兄は、すぐ横のガラス張りの待機スペースから見守ることになる。
父親はしゃがみ込み、少しだけ緊張し始めた娘の小さな両手をしっかりと握った。
自分が小学生だった頃には、テレビの画面の向こう側へ入るなんて、夢のまた夢だった。それなのに今、自分の娘が、本当にその夢の扉を開けて旅立とうとしている。
「……よし。お父さんとお母さんと、お兄ちゃんはすぐそこのガラスの向こうで見てるからな。何も心配しないで、思いっきり遊んでおいで」
「うん!! わたし、あの白いふわふわの子と、絶対にお友達になってくるね!!」
娘は満面の笑みで頷くと、スタッフのお姉さんに手を引かれて、白いフルダイブポッドの中へとちょこんと横になった。
小さな頭に、サイズ調整されたヘッドギアが優しく装着され、透明なキャノピーがゆっくりと閉じていく。
ガラスの向こうで父親たちが祈るように見守る中、ポッドのリングが柔らかな緑色の光を灯した。
《七天堂 — まぼろし生きもの島》
《FULL DIVE EXPERIENCE(FD-1) — 接続開始》
娘の視界が、あたたかな光に包まれていく。
そして、次の瞬間。
目を開けた娘は、冷たい機械の中ではなく――どこまでも広がる、柔らかな緑の芝生の丘の上に、自分の両足で立っていた。
頭上には、ぽかぽかと暖かいお日様の光。
頬をくすぐる、甘くて優しいお花の匂いのする風。
遠くからは、チャプン、チャプンという穏やかな波の音と、小鳥たちの楽しそうな歌声が聞こえてくる。
「…………わあ……っ!」
娘は目を丸くして、自分の足元を見下ろした。
白いスニーカーが、緑の草を踏んでいる。
その場にしゃがみ込み、小さな手のひらで地面の芝生にそっと触れてみた。チクチクしない、まるで絨毯みたいに柔らかくて、お日様の匂いがする草の感触が、手のひらにそのまま伝わってきた。
「すごい……! テレビの中じゃない、ほんとにお外だ……! ほんとに島に来ちゃった……!」
娘が感動して立ち上がり、色とりどりの花が咲く丘の上をキョロキョロと見回した、その時だった。
カサリ。
すぐ目の前にある、黄色いタンポポのような花が咲く草むらが、小さく揺れた。
「……?」
娘の足がピタリと止まる。
もう一度、カサカサッ、と草が揺れた。
そして、緑の草の隙間から――
雪のように真っ白で、ふわふわとした二つの「長いお耳」が、ひょこっ、と飛び出した。
娘は、ハッと息を呑んで両手で口元を押さえた。
あの合同PVで見てから、毎日、毎日、夢にまで見た姿。学習机の前のカレンダーにバツ印をつけながら、ずっと会いたくてたまらなかった相手。
草むらの中から、小さな白いお顔がゆっくりと現れ、宝石のようにまん丸で澄んだ瞳が、じっと娘のことを見つめた。
「……あっ」
暖かい風が吹く花畑の真ん中で、少女は声を震わせて、小さく呟いた。
「……いた……っ!」
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