自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
二〇三一年九月、TGS2031一般公開初日の午前。
幕張メッセの本会場から少し離れた東京・有明の大型展示場――『TGS2031 フルダイブ公開実証・有明サテライト会場』もまた、朝から大勢のゲームファンたちの熱気に包まれていた。
幕張のような高さ十メートルの巨大な城門や実物大ロボットの立像こそないものの、ホール内には各タイトルの大型紹介ビジョンと試遊ブースが整然と並び、何よりここには、アンノウン機関の追加提供と政府・運営の突貫作業によって生まれた「奇跡の復活当選者」たちが集まっている。
一度は落選の文字を見て諦めかけた夢を、もう一度手にした人々だ。会場内のワクワクとした高揚感は、本会場にも決して引けを取らなかった。
そんな若者たちの賑やかな往来の中を、一組の老夫婦がゆっくりと歩いていた。
六十代の元会社員の男性と、その妻である。
男性は今日のために、タンスの奥から出してアイロンをかけた少しよそ行きの襟付きシャツと、落ち着いたジャケットを身にまとっていた。
だが、その端正な身なりとは裏腹に、彼の落ち着きのなさは周囲の十代や二十代のゲーマーたち以上だった。
十メートル歩いては立ち止まり、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を開き、そこに表示された《追加抽選結果:当選》《体験タイトル:SKYLINE EARTH》という文字と受付番号をじっと確認する。
それから画面を閉じてポケットにしまい、二十メートルほど歩くと――またしてもスマートフォンを取り出して画面を開くのだ。
隣を歩いていた妻が、ついに堪えきれなくなってクスクスと笑い出した。
「ねえ、お父さん。それで今日、何回目かしら?」
「……ん? 何がだい?」
「当選の案内メールよ。今朝、家を出る前から電車の中でも、ここに着いてからも、もう何十回も開いて見てるでしょう?」
図星を突かれた男性は、少しだけ頬を染めて苦笑し、スマートフォンの画面を閉じた。
「……いやあ、なんだかまだ信じられなくてな。いざ受付の前まで行って『すみません、やっぱりコンピューターの手違いでした』なんて言われたらどうしようかと思ってさ」
「ふふっ、大丈夫よ。何度見直したって、あなたが世界中の人の中から選ばれて当たった事実は変わらないわ」
そう言って微笑む妻と一緒に、二人は目的のブース――メトリックソフトの《SKYLINE EARTH(スカイライン・アース)》の試遊エリア前へと辿り着いた。
ブースの入り口には、果てしない雲海の上を飛ぶ大型ジェット旅客機の巨大なパネルと、本物の航空機さながらの計器が並ぶコックピットの紹介モニターが設置されている。
男性はそのスクリーンの前で足を止め、画面の中で滑走路を蹴って飛び立つ銀色の翼を、まるで半世紀前の少年の日に戻ったかのような眼差しで見上げた。
小学生の頃、空港の金網フェンスに指をかけて、日が暮れるまで眺めていた飛行機。
二十歳の頃、身体検査の視力基準というどうにもならない壁にぶつかって、静かに閉じたパイロットへの道。
あれから四十年以上、外から見上げるだけだった「あの窓の向こう側」に、今から本当に自分が入るのだ。
やがて予約していたセッションの案内時刻となり、専用カウンターでの本人確認と、厚生労働省の基準に基づく事前のバイタルチェックが行われた。血圧も脈拍も問題なく、FD-1(低負荷・観光交流区分)の搭乗許可が下りる。
ここから先は、試遊者本人のみが入るポッドエリアだ。
スタッフに呼ばれてゲートへ向かおうとした男性の背中に、待機スペースに残る妻が優しく声をかけた。
「――お父さん」
「ん?」
振り返った夫に向かって、妻は少しだけ悪戯っぽく、それでいて誰よりも温かい笑顔で言った。
「いってらっしゃい、機長さん」
男性は一瞬だけ目を丸くして固まり――それから、目尻に深い皺を寄せて、照れくさそうに、けれど力強く頷いた。
「……ああ。いってくるよ」
◇
スタッフの丁寧な誘導に従って、男性は白いフルダイブポッドのシートへと身を横たえた。
「本日の《SKYLINE EARTH》は、FD-1安全基準で稼働いたします。実際の航空機操縦を模したゲーム体験であり、現実の資格取得や実機訓練とは異なりますが、視覚や操作の手応えは本物同様に再現されております。万が一、途中で気分が悪くなられた場合は、いつでも音声または思考入力で中断できますのでご安心ください」
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
ヘッドギアが装着され、透明なキャノピーが静かに閉まる。
少しだけ速くなる自分の鼓動を感じながら目を閉じると、やがて耳元に澄んだ起動音が響いた。
《FULL DIVE CONNECTION — START》
視界が純白の光に満たされ、次の瞬間、男性はゆっくりと目を開けた。
「………………っ」
息が、止まった。
目の前にあったのは、ポッドの天井ではない。
分厚いフロントガラスの向こうに、どこまでも真っ直ぐに伸びる広大な国際空港のアスファルトの滑走路が、朝の眩しい日差しを浴びて輝いていた。
そして自分が座っているのは、紛れもなく――大型ジェット旅客機のコックピット、その左側の座席である『機長席(キャプテンシート)』だった。
正面の計器パネルには、速度計、姿勢指示器、高度計、航法ディスプレイが整然と並び、淡いバックライトの光を放っている。
中央のペデスタル(制御台)には、エンジンの出力を調整する複数のスラストレバーとフラップレバー。
見上げれば、頭上のオーバーヘッドパネルにも無数のスイッチがびっしりと並び、コックピット特有の「ヒュイイイ……」という空調と電子機器の入り混じった低い稼働音が、耳の奥に心地よく響いていた。
男性は、すぐには指一本動かすことができなかった。
ただ、首だけをゆっくりと左右に動かし、革張りのシートの感触を背中で確かめ、それから視線を自分の膝の上へと落とした。
そこには、自分の両手があった。
若者のようなすべすべした手ではない。六十年の歳月を生きてきた、少し節くれだって皺の刻まれた、見慣れた自分の手だ。
若返ったわけではない。別の誰かのキャラクターになったわけでもない。「今の自分」がそのまま、四十年前に辿り着けなかったこの座席に座っている。
「……本当に、座れたんだな。俺が、ここに……」
ぽつりと漏れた声は、コックピットの静かな空気の中に吸い込まれた。まだ一メートルも動いていないというのに、それだけで胸の奥がじんわりと熱くなった。
◇
男性が目の前の操縦輪(コントロール・コラム)へ恐る恐る手を伸ばしかけた、その時だった。
ピロン、と穏やかな電子音が鳴り、視界の中央に半透明のシステムウィンドウが浮かび上がった。
《SKYLINE EARTH — フルダイブ操作支援設定》
《『肉体アシスト機能』をONにしますか?》
【肉体アシスト機能について】
フルダイブ空間内における、手足や指先、姿勢などの細かな身体動作をシステムが補助する機能です。
・ONの場合:必要な操作手順に合わせ、システムが仮想空間内のあなたの身体(腕や指など)を自動的に適切な位置へ動かす場合があります。※ご自身の意思とは異なる身体の動きに、違和感や不快感を覚える場合があります。
・OFFの場合:身体の動作はすべてご自身の意思で行います。操作すべきスイッチの位置やレバーの動かす方向、推奨姿勢などは、視界内に光のガイドとして表示されます。
※本機能は仮想空間内の身体動作にのみ作用します。体験中はいつでも設定を変更可能です。
《肉体アシスト: ON / OFF 》
男性は、その説明文を一行ずつ丁寧に読み込んだ。
なるほど、と合点がいった。
従来の画面越しのゲームであれば、「離陸ボタンを押す」だけで、画面の中のパイロットが勝手にスイッチを切り替え、レバーを押し込み、最適な角度で機首を上げてくれた。
だが、ここはフルダイブの世界だ。コントローラーのボタンは存在しない。目の前にある何百という計器やレバーを、「自分の腕を伸ばして、自分の指で動かす」必要がある。
初めての操縦なのだから、肉体アシストに頼るのも自然なことだ。きっと操作はずっと楽になるだろう。
しかし。
男性はもう一度、自分の皺の増えた両手を見つめた。
あの日、空港のフェンス越しに飛行機を見上げていた少年が夢見ていたのは、「誰かに腕を動かしてもらって空を飛ぶこと」だっただろうか。
違う。この手で操縦輪を握り、この手でレバーを押し込み、自分の意思で鉄の翼を大空へ浮かび上がらせることだったはずだ。
「……いや。せっかくここまで来たんだ。不格好でもいい、全部自分の手でやってみたいな」
男性は迷うことなく、自分の人差し指を伸ばして《OFF》のアイコンに触れた。
《肉体アシスト:OFF を選択しました》
《仮想身体の自動動作補助を無効化し、視覚ガイド表示モードを起動します》
《※なお、FD-1基準に基づく機体の安全制御および基本的な飛行安定支援は引き続き有効です。それでは、空の旅をお楽しみください》
ウィンドウが消えると同時に、右隣の副操縦士席に座っていた精悍な制服姿のインストラクターNPCが、にこやかに男性の方を向いた。
「肉体アシストはOFFですね、了解しました。今回の体験では、視界内の光のガイドと、私からの音声ナビゲートで操縦をサポートいたします」
男性は頷き、少しだけ照れくさそうに笑って言った。
「ええ、よろしくお願いします。……何しろ、四十年以上もこの席に憧れてきたものですから。自動ではなく、できるだけ自分の手で飛ばしてみたいんですよ」
するとインストラクターは、深い敬意を込めた表情で背筋を伸ばし、穏やかに微笑んだ。
「承知いたしました。――それでは『機長』、離陸前の最終操作確認から始めましょう」
機長。
今、待機スペースの妻だけでなく、このコックピットの中で自分が「機長」と呼ばれた。
その響きに、六十代の男性の背筋がシャンと伸び、心臓が若い頃のように力強く高鳴った。
◇
「まずは正面の操縦輪を両手で握り、感触を確かめてみてください」
インストラクターの声に合わせ、男性の目の前にある黒い操縦輪の左右のグリップ部分が、淡い水色の光でふわりとハイライトされた。
男性は自分の両腕を伸ばし、その光っているグリップを両手でしっかりと握りしめた。
「……おお……っ!」
思わず感嘆の声が漏れた。
ただの空中のホログラムを掴んでいるのではない。手のひらに吸いつくような硬質ラバーの質感、指先に伝わる微細な凹凸、そして試しに少しだけ前後左右に動かそうとした時に返ってくる、油圧機構特有の「ずしりとした確かな抵抗感」が、そのまま腕の筋肉へと伝わってきたのだ。
「すごいな……こんなにしっかりとした重みと手応えがあるのか」
「はい。なお、本日の試遊フライトでは、二十分間で離陸と飛行を存分に味わっていただけるよう、エンジン始動および複雑な航法システムの初期設定はすでに完了し、滑走路端での待機状態となっております」
本物の旅客機であれば、飛行前のチェックリストを確認するだけでも何十分もかかってしまう。ゲームとしての楽しさを損なわないよう、一番美味しい「離陸直前」からスタートできる粋な配慮だった。
「では機長、中央のペデスタルにある『スラストレバー』に右手を添えてください」
視線を少し右下に動かすと、四本並んだエンジンの出力レバーが淡い青色で光り、その上方に「前へ押し出す」方向を示す半透明の矢印が浮かび上がっていた。
男性は左手を操縦輪に残したまま、右手を伸ばしてスラストレバーのノブを上から包むように握った。ひんやりとした金属と樹脂の感触。
「離陸許可が出る前に、フラップの角度設定と、ブレーキ解除のスイッチを確認します。ガイドの光る位置を順番に操作してください」
「よし……これだな」
男性は光るガイドを見ながら、スイッチへ指を伸ばした。
だが、緊張と興奮のあまり、指先がほんの少しずれて、すぐ隣の別のトグルスイッチに触れそうになる。
もし肉体アシストがONなら、システムが勝手に指の軌道を修正していただろう。だが今はOFFだ。
ピピッ、と優しい注意音が鳴り、視界に《推奨操作位置:一つ左のスイッチです》と小さな文字が出た。
「……っと、いけない。ははっ、手が少し震えてるな。こっちだったか」
男性は自分で苦笑しながら指を動かし、正しいスイッチをカチリと切り替えた。
パチン、という硬質なスイッチの手応えが指先に返ってくる。誰かに動かされたのではない、自分で間違えかけて、自分で直して入れたスイッチだ。その当たり前のプロセスが、たまらなく楽しくて仕方がない。
さらに計器パネルの数字やフラップの表示を見ているうちに、男性の頭の中で、二十歳の頃に必死に読み漁った航空工学や操縦教本の記憶が、少しずつ鮮やかに蘇ってきた。
「……ああ、なるほど。ここで離陸用のフラップ角がセットされて、ブレーキ圧が抜けるわけか」
「おや、計器の見方をご存じなのですか、機長?」
インストラクターが感心したように尋ねると、男性は謙遜しながらも嬉しそうに目尻を下げた。
「ええ、まあ……大昔に、ほんの少しだけ勉強していた時期がありましてね。もう四十年も前のことだから、すっかり忘れているところも多いんですが、こうして目の前に本物の計器が並ぶと、不思議と思い出すもんですね」
その時、ヘッドセットの無線から、管制塔(タワー)のクリアな英語と日本語の音声が流れ込んできた。
『スカイライン01便、風向三四〇、風速五ノット。滑走路三四R、離陸を許可します(Cleared for takeoff)』
インストラクターが復唱を終え、男性の方を見て力強く頷いた。
「離陸許可が下りました。――それでは機長、滑走を開始しましょう!」
「……はい! お願いします!」
◇
フロントガラスの向こうには、幅六十メートル、長さ三千メートルを超える巨大な滑走路が、白いセンターラインを伴って地平線のように真っ直ぐ伸びている。
空は雲一つない快晴、風も穏やか。初めての離陸にはこれ以上ない最高のコンディションだ。
「まずは右手のスラストレバーを、視覚ガイドの第一ライン(約50%出力)までゆっくりと前へ押し出し、エンジンの回転が安定するのを確認してください」
「よし……いくぞ」
男性は深く息を吸い込み、自分の右腕に力を込めて、重みのあるスラストレバーを前へとグッと押し出した。
その瞬間。
――ゴォォォォォォォォッ!!
主翼の下に吊り下げられた巨大なターボファンエンジンが唸りを上げ、重厚な低周波の振動が、シートを通して男性の背中とお尻へとダイレクトに伝わってきた。
出力計の針が一斉に跳ね上がる。
「……おおおお……っ!」
男性の目が大きく見開かれた。
この音だ。子供の頃、空港のフェンスの外で耳を塞ぎながら聞いていた、あのジェットエンジンの咆哮。
だが、今聞こえている音は違う。遠くへ飛び去っていく他人の飛行機の音ではない。自分の右手が押し込んだレバーに呼応して、自分自身が操る機体が上げている産声なのだ。
「エンジン安定確認! では機長、レバーを離陸推力(TO/GA)の位置まで、さらに前へ押し込んでください!」
男性がガイドの示す位置までレバーをグッと押し切る。
エンジン音が一段と高く力強い轟音へと変わり、数百トンの質量を持つ巨大な旅客機の機体が、ついに前へと動き出した。
最初はゆっくりと。そして一秒ごとに、背中がシートにぐうっと押しつけられるような確かな加速感(もちろんFD-1の安全範囲内に調整された心地よいGだ)が増していく。
窓の外で、滑走路の脇の誘導灯と距離標識が、どんどん速いスピードで後方へと流れ去っていく。
「……動いてる! 本当に、俺の操作でこんな大きな飛行機が走ってるぞ……!」
時速百キロ、百五十キロ、二百キロ――!
速度計の数字がみるみるうちに跳ね上がっていく。
「滑走路の中央を維持します。わずかに左へ流れています、足元のラダーペダルをガイドに合わせてほんの少し右へ踏んでください!」
インストラクターの声と足元の矢印ガイドを見て、男性は自分の右足に力を込め、ペダルをグッと踏み込んだ。
最初は少し強く踏みすぎて機首が右へ向きかけるが、《踏み込みを少し緩めてください》というガイド表示を見て、自分の足首の感覚でスッと力を抜く。
すると、巨大な機体がピタリと滑走路のセンターライン上に収まり、矢のように真っ直ぐ滑走を続けた。
「……そうか、足はこれくらいの力加減でいいのか! すごい、ちゃんと俺の足の動き通りに機体が真っ直ぐ走る!」
もしシステムにすべて任せていたら、ただ乗っているだけの客と同じだ。自分でペダルを踏み、自分で修正したからこそ、この巨大な鉄の鳥と自分の身体が一つに繋がっているという強烈な実感が湧き上がってくる。
窓の外の景色が、猛烈な速度で後方へと吹き飛んでいく。
コックピットに響く風切り音と、エンジンの頼もしい轟音。そして自分の胸の奥で鳴り響く、早鐘のような鼓動。
速度計の針が、ついに離陸決心速度を超え、回転速度へと達した。
「――V1。……ローテート(VR)! 機長、離陸速度です! 目の前のガイドに合わせて、操縦輪をゆっくりと手前へ引いてください!!」
インストラクターの凛とした声が響き、男性の視界の中央に、操縦輪を手前に引く角度と速度を示す青い光のガイドリングが現れた。
男性は、両手で操縦輪をしっかりと握り直した。
◇
焦らず、急がず、それでいて確かな力を込めて。
男性は自分の両腕で、重みのある操縦輪を、自分の胸元へ向かってじわりと引き寄せた。
すると。
「…………っ!」
フロントガラスの向こうに見えていた滑走路のアスファルトが、ぐうっ、と下の方へと沈み始めた。
機体の先端――機首が、男性が操縦輪を引いた分だけ、ゆっくりと空へ向かって持ち上がっていく。
まず、コックピットの真下にある前輪が地面から離れたのが分かった。
続いて、主翼が莫大な揚力を掴み取り、ガタガタという滑走路の走行振動が、ふっ、と嘘のように消え失せた。
ふわあ……っ、と。
数百トンの巨体が重力から解き放たれ、大空へと浮かび上がった瞬間だった。
窓の外を見れば、さっきまで目の前にあった滑走路や空港のターミナルビルが、みるみるうちに眼下へと遠ざかり、小さくなっていく。
正面のガラスいっぱいに広がったのは、遮るものの何一つない、果てしない青空だけだった。
男性は操縦輪を規定のピッチ角で保持したまま、しばらくの間、言葉を発することすらできなかった。
ただ、大きく見開いた目で、どんどん高くなっていく空の景色を見つめていた。
そして数秒後、震える唇から、たった一言だけが静かにこぼれ落ちた。
「…………飛んだ」
大声で叫んだわけではなかった。
けれどその一言には、四十数年分の歳月と想いがすべて詰まっていた。
「ポジティブ・レート(上昇確認)。ギア・アップ」
インストラクターが車輪を格納する操作を行い、機体はさらに滑らかに高度を上げていく。眼下には東京湾の青い海と、ジオラマのように広がる街並みが一望できた。
「……すごいな。本当に……本当に、空を飛んでるんだな……」
呆然と呟く男性に、隣のインストラクターが優しい笑顔を向けて言った。
「お見事です、機長。見事な離陸でした。――今、あなたご自身の手で、この飛行機は大空へと飛び立ちました」
「……俺の手で……」
男性は、操縦輪を握っている自分の両手を見下ろした。
若い頃、パイロットになるために毎日鉛筆を握ってテキストをめくっていた手。
夢を諦めた後、会社のデスクで何十年も伝票やキーボードを叩き、妻と手を繋ぎ、生まれた子供や孫を抱き上げてきた、六十代の自分の手。
その手が今、何一つ自動アシストに頼ることなく、自分の意思で操縦輪を引き、あの憧れのジェット旅客機を青空へと浮かび上がらせたのだ。
「……ああ。そうか。テレビを見てるんじゃない、誰かに動かされたんでもない。……今、本当に俺が、自分の手でこの飛行機を飛ばしたんだな……」
そう実感した瞬間、男性の老眼鏡の奥の瞳から、熱いものがじんわりと滲み出て、視界がほんの少しだけ潤んだ。
脳裏に浮かんだのは、遠い昔、金網フェンスの向こうで飛行機を見上げていた小学生の頃の自分と、視力検査の結果を握りしめて俯いていた二十歳の頃の自分の姿だった。
自分の人生は、決して不幸などではなかった。良い仕事に巡り会い、最高の妻と結婚し、温かい家庭を築くことができた。何の後悔もない、恵まれた人生だった。
ただ一つだけ、二十歳のあの日からずっと空港のフェンスの向こうに置き忘れてきた「自分の手で空を飛びたい」という少年の夢。それが今、四十年以上という長い回り道の果てに、こんなにも鮮やかな形で自分の手元へと還ってきたのだ。
やがて機体は真っ白な雲の層を突き抜け、眩い太陽が照りつける、どこまでも青い雲海の上へと躍り出た。
男性は片手を操縦輪から一瞬だけ離して目元をぐっと拭うと、窓の外に広がる純白の雲の絨毯を見渡して、ふっと穏やかに微笑んだ。
「……あの頃の俺に、教えてやりたいな」
「え?」
隣で首を傾げたインストラクターに、男性は前方の青空を見つめたまま、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに言った。
「ずいぶん時間はかかっちまったけど……半世紀待てば、お前はちゃんと自分の手で、この操縦席から空へ飛べるぞ、ってな」
◇
雲の上で安定飛行に移行した後、男性はインストラクターの案内に従って、大型旅客機の空中での操縦を少しだけ試させてもらった。
「では機長、ガイドに合わせて操縦輪をほんの少し左へ傾けてみてください。ゆっくりと左旋回に入ります」
男性が操縦輪をグッと左へ回すと、一拍置いて、巨大な主翼がゆっくりと傾き、窓の外の水平線と雲海がダイナミックに斜めへと動いていく。
「……おおお! 曲がる、ちゃんと曲がるぞ!」
さっきまでのしんみりとした感動はどこへやら、男性の顔はみるみるうちに、新しい自転車の乗り方を覚えた小学生のような満面の笑顔へと変わっていった。
「こんなに大きな機体なのに、俺が手を動かした分だけ、ちゃんと素直に反応してくれるんだな! すごいなこれ、ここで少し引き起こすと高度が保てるのか!」
「その通りです! 非常に飲み込みが早いですね、機長!」
「はははっ、いやあ、これは面白い! たまらんな!」
夢中で操縦輪を動かして雲の上の散歩を楽しんでいると、やがて視界に一区切りの案内が表示された。
《第1フェーズ:大型旅客機・離陸&高高度飛行体験 — 完了》
《続いて第2フェーズ:『小型プロペラ機・景観飛行体験』へ移行します》
「……あっ、もう旅客機は終わりですか?」
男性が名残惜しそうに操縦輪を見ると、インストラクターが微笑んで頷いた。
「はい。ですが機長、本日の体験コースはまだ半分残っています。次は、大型機とはまったく違う『もう一つの空の飛び方』をぜひお楽しみください」
「……おお、そうだった! 小型機にも乗れるんだったな!」
男性はパッと顔を輝かせた。
視界が一度柔らかな光に包まれ、安全に場面が切り替わる。
◇
次の瞬間、男性が座っていたのは、先ほどの広々としたハイテクな旅客機のコックピットとは対照的な――大人二人が肩を並べるだけでいっぱいになるような、小さな単発プロペラ機の操縦席だった。
《小型機体験コースへ移行しました(肉体アシスト:OFF / 視覚ガイド:有効 を維持します)》
目の前にあるのは、アナログな丸い針の計器が並んだシンプルなパネルと、手頃な大きさの操縦桿。
機体の先端ではプロペラが軽快な音を立てて回っており、窓の外には、美しい緑の山並みと、太陽の光を反射して煌めく大きな湖、そして短い地方空港の滑走路が広がっていた。
「……ははっ! こっちはまた、ずいぶんとこぢんまりしていて可愛らしい操縦席だな!」
男性は左右の窓の近さに驚きながら、楽しそうに声を上げた。
隣に座るインストラクターが説明する。
「こちらは機体重量が軽いため、先ほどの大型ジェット機とは操作に対する反応の速さがまったく異なります。風の影響もダイレクトに感じますよ。では、スロットルを押し込んで離陸しましょう!」
「よし、いってみよう!」
一機目の時のような緊張は、もうない。男性はガイドに合わせて右手で小さなスロットルレバーを前へ押し込んだ。
ブルルルルルッ――!!
ジェットエンジンの重低音とは違う、軽快で小気味よいプロペラエンジンの振動が全身を揺らす。
小型機は軽やかに滑走路を駆け出し、あっという間に速度が乗ったかと思うと、男性が操縦桿を軽く引いただけで、まるで鳥が枝から飛び立つみたいにヒョイッと空へ浮かび上がった。
「おおっ!? 軽い!! さっきの旅客機と全然違うぞ、あっという間に浮いた!」
しかも、飛んでいる高度が低い。
すぐ眼下には、風に揺れる森の木々や、エメラルドグリーンに輝く湖の水面、さらには草原を走る道路までが、手を伸ばせば届きそうなほどの近さで流れていくのだ。
「すごいぞこれ! 大型旅客機が『巨大な船を指揮して空を昇っていく感覚』だとしたら、こっちの小型機は『自分の背中に翼が生えて空を飛び回ってる感覚』そのものだ!」
「よろしければ、湖の上空で左右への旋回や、軽い上昇・降下を試してみてください。視覚ガイドの範囲内であれば、自由に動かしていただいて構いませんよ」
「ほんとかい!? よし、じゃああの湖の周りをぐるっと回ってみるぞ!」
男性は水を得た魚のように、自分の両手と両足で操縦桿とペダルを動かし始めた。
右へ傾ければ、窓のすぐ下に美しい湖面が迫り、太陽の光の反射がコックピットの中をキラキラと照らす。少し操縦桿を引けば、ぐんと青空へ向かって駆け上がり、戻せば風を切って滑空する。
一機目の時はガイドの光を必死に追いかけるだけだったが、二機目に入り、肉体アシストOFFの身体操作に慣れてきた男性は、すでに「自分がどれくらい手を動かせば、機体がどれくらい傾くか」という感覚を掴み始めていた。
「……なるほど、旋回する時は少しだけ機首を上げ気味にした方が高度が落ちないんだな! ほら、うまく曲がれたぞ!」
「素晴らしいです機長、まるで長年のベテランパイロットのようなスムーズな旋回ですよ!」
「いやあ、お世辞でも嬉しいねえ! まさかこの歳になって、こんなに夢中で体を動かして遊べるとは思わなかったよ!」
コックピットの中に、六十代の男性の明るく弾んだ笑い声が響く。
本物の飛行機ではないことは分かっている。メトリックソフトの開発者たちが作り上げ、アンノウン機関の技術で再現されたゲームの世界だ。
けれど、自分の手で操縦桿を動かし、美しい山と湖の上を自在に飛び回るこの胸のすくような爽快感は、紛れもなく本物の「空を飛ぶ喜び」だった。
◇
山あいの谷を抜け、きらめく湖の上を二度ほど旋回したところで、無情にも優しいチャイムの音が鳴り響いた。
《まもなく試遊終了のお時間となります(残り2分です)》
「……えっ!? なんだ、もう二分しか残っていないのか!」
男性は思わず視界に浮かぶ残り時間の表示を二度見した。
大型旅客機で雲の上へ飛び出し、小型機で湖の上を飛んでいたら、二十分という時間はまるで二、三分のようにあっという間に溶けてしまっていた。
すると男性の頭の中に、次から次へと「まだやっていないこと」が湧き上がってきた。
今日は離陸と空中の旋回しかやっていない。一番腕が試されるという「着陸(ランディング)」を、まだ自分の手でやっていないじゃないか。
それに、夕暮れ時や、宝石のように夜景が輝く夜の空港へ降り立つフライトもやってみたい。雨や横風の中で機体を安定させる本格的な操縦にも挑戦してみたいし、あのPVに映っていた水上飛行機で珊瑚礁の海へ着水するのだって絶対に楽しいはずだ。
そこまで考えて、男性は自分で自分が可笑しくなって、声を上げて笑ってしまった。
「……ははっ、いやあ、こりゃ参ったな」
「どうされましたか、機長?」
不思議そうに尋ねるインストラクターに、男性は操縦桿を握ったまま、いたずらっ子のような笑顔で言った。
「いやね、四十年以上もずっと待って、今日ようやく『一度でいいから自分の手で空を飛びたい』っていう夢が叶ったと思ったら……欲張りなもんで、今度は『もっと色んな飛行機で、もっと上手に飛びたい、着陸まで全部自分でやってみたい』なんて、新しい目標が山ほど出てきちまったんですよ」
「ふふっ、それはパイロットとして最高の素質ですね。この《SKYLINE EARTH》の世界には、世界中の空と空港があなたを待っていますから、いつでもまたフライトにお越しください」
「ああ、絶対にまた来るよ!」
最後の三十秒、男性は小型機の翼を水平に戻し、正面に広がる美しい青空と白い雲、そして眼下の緑の大地を、自分の目にしっかりと焼き付けた。
「……ありがとう。本当に、最高のフライトだったよ」
《体験時間終了です。安全ログアウト処理を開始します》
機体が自動制御へ引き継がれ、爽やかな空の風景がゆっくりと白い光へと溶けていく。
最後の瞬間まで、男性の顔には一点の曇りもない、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
◇
プシュー、という音とともに、有明サテライト会場のフルダイブポッドのキャノピーが開いた。
「お疲れ様でした、お客様。お身体の具合はいかがでしょうか? めまいや立ちくらみなどはございませんか?」
待機していたスタッフが礼儀正しく声をかける。
ポッドの中で目を開けた男性は、しばらくの間、自分の目の前に掲げた両手をじっと見つめ、それをゆっくりと握ったり開いたりしていた。
つい数秒前まで、この手には大型旅客機のずっしりとした操縦輪と、小型機の軽快な操縦桿の感触が確かにあった。
「……ああ、大丈夫です。体調はどこも何ともありません」
男性はスタッフに向かって、力強く上半身を起こして笑った。
「いやあ……本当に、言葉にならないくらいすごかったです。ありがとうございました」
事後の簡単なバイタルチェックでも数値は完全に正常(むしろ搭乗前より血色が良いくらいだ)と確認され、男性はスタッフに礼を言ってポッドエリアの出口へと向かった。
ガラス扉を抜けて待機スペースへ出ると、ベンチに座って待っていた妻がすぐに気づいて、パッと立ち上がって駆け寄ってきた。
「お父さん! お帰りなさい!」
妻は夫の顔を見るなり、ハッとして足を止めた。
なぜなら、目の前に立っている夫の表情が、結婚してからの数十年間のうちで見たことがないほど、若々しく、眩しいくらいに輝いていたからだ。
「……どうだった?」
妻が尋ねると、男性は「いや、それがな――」と口を開きかけたが、そこで言葉に詰まった。
伝えたいことが多すぎたのだ。コックピットの計器の光、自分の手でスイッチを入れた感触、スラストレバーを押し込んだ時のエンジンの轟音、ペダルを踏んで滑走路を走った迫力、そして雲の上へ出た時の景色。どれからどう話せばいいのか、頭の中で言葉が渋滞して出てこなくなってしまった。
そんな、まるで子供のように目をキラキラさせながら口ごもっている夫を見て、妻はすべてを察したように優しく目を細め、静かにたった一言だけ尋ねた。
「……お父さん。飛べた?」
男性はピタリと動きを止め、妻の目を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、深く、大きく頷いて答えた。
「……ああ。飛べたよ、母さん。……俺、本当に自分の手で、空を飛べたよ」
その一言だけで、長年連れ添ってきた夫婦の間には十分すぎた。
二十歳の頃に彼がどれほど悔しい思いをして夢をしまい込んだかも、空港の近くを通るたびにどんな目で空を見上げていたかも、先日の一回目の落選の時にどれほど寂しそうに背中を丸めていたかも、妻は全部そばで見てきたのだ。
「……そう。よかった……本当によかったわね、お父さん……!」
妻が目頭を押さえて微笑むと、男性も少し照れくさそうに鼻の下をこすって「……ああ、お前が応募しろって背中を押してくれたおかげだよ」と笑った。
――もっとも、そんなしんみりとした夫婦の感動の空気は、そこからわずか十秒ほどしか持たなかった。
「それでな、母さん、聞いてくれよ!! 本当に信じられないくらい凄かったんだ!!」
いったん言葉の栓が抜けた瞬間、男性の口から、堰を切ったように熱烈な「操縦報告会」が始まったのである。
「まずな、目を開けたら本当に大型ジェット旅客機の機長席なんだ! 目の前に何百個もスイッチと計器が並んでてな、最初に『肉体アシスト』っていう機能を使うかどうかって画面が出たんだよ」
「肉体アシスト?」
「ああ、初心者向けに手や指を自動で動かしてくれる便利な機能らしいんだがな、俺はどうしても自分の手で操縦したくて、それを『OFF』にしてみたんだ!」
妻は目を丸くしてから、すぐに「ふふっ、自動になんてしたくないなんて、いかにもお父さんらしいわね」と笑った。
「だろ? そしたらな、どのスイッチを押せばいいかは光で教えてくれるんだけど、実際に手を伸ばしてカチッて入れるのは全部自分なんだ! 一回、緊張して隣のスイッチを押しそうになっちまってな、ガイドに注意されて、自分でやり直したんだよ!」
「まあ、間違えかけたの? なのにそんなに嬉しそうなの?」
「そこがいいんじゃないか! 自分で動かしてる証拠だからな! それでスラストレバーをぐーっと前に押したら、ゴォォォッて本物のジェットエンジンの音と振動がお尻の下から響いてきてな、操縦輪を自分の腕で引いたら、本当にあの巨大な機体がふわーっと地面から浮き上がったんだよ!!」
男性は待機スペースの真ん中で、まるでまだ操縦輪を握っているかのように両手を前に出し、身振り手振りを交えて熱弁を振るい続けた。
「しかもな、大型機で雲の上まで出た後に、今度は小さなプロペラ機に乗り換えさせてくれてな! そっちはまた全然感覚が違うんだ! 軽くて、すぐ下に緑の山と綺麗な湖が見えて、俺が自分で操縦桿を傾けたら、鳥みたいに湖の上をぐるーっと旋回できたんだぞ!」
普段は物静かで、テレビを見ながらお茶を飲んでいるような夫が、顔を紅潮させて目を輝かせ、息もつかずに飛行機の話をまくし立てている。
妻はおかしくてたまらないといった様子で、声を上げて笑った。
「ふふふっ、お父さんったら、今日はずいぶんおしゃべりね。そんなに続けて喋ったら息が切れちゃうわよ」
「おっと……はははっ、すまんすまん! いやあ、なんだか胸の奥がワクワクしっぱなしで、今日の話なら今から晩ご飯まで何時間でも喋り続けられそうだよ!」
頭を掻いて笑う夫を見て、妻は優しい声で尋ねた。
「……ねえ、お父さん。一度飛んでみて、満足した? それとも……また飛びたい?」
男性は一瞬だけ動きを止め、それから、少年のように少しだけ頬を染めて白状した。
「……ああ。正直に言うと、一回飛んだら満足するどころか、今度は自分の手で『着陸』までやってみたくなったし、夜の空港や水上飛行機にも乗ってみたくなっちまったよ」
すると妻は、待っていましたとばかりにハンドバッグを持ち直し、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、決まりね。これから先、あのゲームが正式に発売されるか、街の施設で遊べるようになったら、また二人で一緒に来ましょうね」
「えっ……いいのかい? 母さんも、飛行機の操縦に興味が湧いたのか?」
男性が驚いて聞き返すと、妻はゆっくりと首を横に振って、夫の腕にそっと自分の手を添えた。
「飛行機そのものもいいけれど……私はね、あなたが今日みたいに、そんなに楽しそうに目をキラキラさせて笑っている顔を、これから先もずっと隣で見ていたいのよ」
妻のその言葉に、男性は今度こそ何も言えなくなり、ただ妻の手の上から自分の手を優しく重ねて、「……ありがとうな、母さん」と深く頷いたのだった。
◇
二人は寄り添いながら、有明サテライト会場の出口へと歩き出した。
歩きながらも、男性は「そういえばな、小型機のラダーペダルっていうのは足先の加減がなかなか奥深くてな……」と、すっかり新しい趣味を見つけた人間の顔で話し続けている。
会場のロビーを抜けて外の広場へ出ると、九月の爽やかな秋風が二人の頬を撫でた。
ふと立ち止まって見上げた高い青空の向こうを、羽田空港から飛び立ったばかりの本物のジェット旅客機が、白い飛行機雲を引きながらゆっくりと昇っていくのが見えた。
昨日までの四十年以上の間、あの機影を見上げるたびに、男性の胸にはいつも、ほんの少しの懐かしさと寂しさが混じっていた。
だが、今日、この瞬間は違った。
あの高い空のコックピットで、パイロットがどんな景色を見て、どんな手応えで操縦輪を握っているのかを、今の彼は自分の両手の記憶として知っている。
「……ああ、いい空だなあ。早くまた飛びたいな」
空を見上げて目を細める夫に、隣の妻が微笑んで尋ねた。
「ふふっ、次はどこの空を飛ぶの、機長さん?」
「そうだな。次はまず、横風の中でもピタリと滑走路の真ん中に降りられるように、着陸の操作手順を覚えなきゃいかんからな。……家に帰ったら、久しぶりに昔の航空力学と操縦の本を本棚から引っ張り出して、勉強し直しだよ」
「あらあら、定年退職したのに、また受験生みたいに勉強が始まるのね」
「ああ! 六十過ぎてから、こんなに勉強するのが楽しみになるなんて思わなかったよ!」
夫婦の明るい笑い声が、秋の青空へと溶けていく。
四十年以上前に閉じたはずの夢の扉が、最先端の技術とクリエイターたちの情熱、そして誰かの小さな善意によって、今日ついに開かれた。
だが、その扉の向こうに待っていたのは、「昔の夢の終わり」ではなかった。
まだ飛んだことのない空がある。まだ操縦したことのない機体がある。まだ挑戦したい着陸がある。
そして何より、これからの人生には、隣で笑ってくれる妻と一緒にそれを楽しむ時間が、まだたっぷりと残されているのだ。
六十代の少年は今日、四十年越しの初飛行を見事に成功させ――それと同時に、これからの毎日を彩る最高に贅沢な「新しい夢」を手に入れたのだった。
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