自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~   作:パラレル・ゲーマー

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第66話 周回遅れの熊と狂騒の観劇者

 アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。

 ポトマック川から吹き込む湿った風が、ホワイトハウスの堅牢な外壁を撫でていく。

 空は鉛色の雲に覆われ、時折走る雷光が、世界最高権力者の居城を青白く照らし出していた。

 

 ウエストウイング(西棟)にある大統領執務室、オーバル・オフィス。

 歴代の権力者たちが世界の命運を左右する決断を下してきたこの部屋の、重厚なマホガニーの扉が、今、音もなく開かれた。

 

 通常であれば、ここは大統領令に基づく最高レベルのセキュリティエリアだ。

 金属探知機、生体認証、そしてシークレットサービス(SS)による厳格な身体検査をパスしなければ、一歩たりとも足を踏み入れることは許されない。

 だが今、扉の両脇に立つ屈強な警護官たちは、入室しようとする「少年」に対して、誰一人として制止の手を上げようとはしなかった。

 それどころか、彼らの表情には緊張と、隠しきれない畏怖の色が浮かんでいる。

 まるで人間ではない猛獣の檻を、震える手で開ける飼育員のように、彼らは道を空けた。

 

「……どうぞ、マクドウェル様」

 

 SP長官が敬礼すら忘れ、ドアノブに手をかけたまま深く頭を下げる。

 彼が恐れているのは、少年の背後にある財力ではない。

 かつてホワイトハウス内で起きた暴漢騒ぎの際、この華奢な少年が振り下ろされたナイフを素手で――皮膚一枚、傷つけずに――へし折った瞬間を目撃してしまったからだ。

 生物としての格が違う。

 本能が、そう告げていた。

 

 少年が提示したのは、通常のホワイトハウス通行証ではない。

 胸元のポケットから無造作に取り出したのは、光を吸い込むような漆黒のカード――『ブラック・パス』。

 国家安全保障会議(NSC)の特別認可により発行され、大統領令すら超法規的に通過する、国家の裏側の色だ。

 

 ノア・マクドウェル。

 17歳。

 アメリカ最大の軍産複合体『タイタン・グループ』の次期総帥であり、かつて不治の病ALSによって死の淵を彷徨った少年。

 だが今の彼は、日本から極秘裏に譲渡された『医療用キット(オリジナル)』によって蘇り、人類の限界を超越した「新生種」へと変貌していた。

 

 彼は優雅な足取りで、世界最高権力者の部屋へと足を踏み入れた。

 その一歩一歩は、まるで舞台役者が花道を歩くように洗練されている。

 

 (脈拍72。瞳孔散大。右腰のホルスターに手を伸ばすまでの予測時間0.8秒)

 

 ノアの脳内で、SPたちの生体情報がデジタルな数値として処理される。

 MK1ナノマシンによって脳機能と知覚神経を極限まで強化された彼にとって、常人の時間はあまりにも緩慢だった。

 

 (……遅い。退屈な生物だ)

 

 呼吸をするたびに酸素を取り込み、非効率にエネルギーを変換する旧人類の肉体。

 彼にとって人間は、もはや同種の隣人ではなかった。

 観察し、操作し、楽しむための「資源」に過ぎなかった。

 

「……待っていたよ、ノア君」

 

 執務机の奥、第47代大統領ロバート・“ボブ”・ウォーレンは、手元の報告書から目を離し、若き怪物へと視線を向けた。

 その向かいのソファには、CIA長官エレノア・バーンズが隙のないスーツ姿で同席している。

 彼女の表情は鉄面皮そのものだが、その指先が、わずかにファイルの端を強く握りしめているのを、ノアは見逃さなかった。

 

「わざわざニューヨークから足を運んでくれたということは、よほど面白い演目(ニュース)があるということかな?」

 

 ウォーレンの声には同盟者としての信頼と、同時に決して油断ならない捕食者に対する緊張感が滲んでいる。

 老練な政治家である彼は、本能的に察知しているのだ。

 目の前の少年が自分の孫ほどの年齢でありながら、アメリカの軍事産業を、そして闇の資金を掌握する怪物であることを。

 

「ええ、大統領。極上のコメディをお持ちしました」

 

 ノアは薄く美しい微笑みを浮かべながら、大統領の前のソファに深々と腰を下ろした。

 その瞳は同情ではなく、“次の幕が開くのを待つ”観客の冷ややかな光を宿している。

 

「ロシアが、ついに極東の異変に気づき、動きました」

 

「……ロシアが?」

 

 ウォーレンは片眉を上げた。

 エレノアも手元のタブレットを操作し、最新のインテリジェンス情報を確認する。

 NSAからのアラートと一致したようだ。

 

「はい。ウクライナの泥沼で足を取られ、視界が曇っていた北の熊も、シリアでの『不死身の兵士』の噂と、日本の異常な経済動向には無視を決め込めなかったようです。

 彼らは焦燥に駆られ、SVR(対外情報庁)やGRU(情報総局)、そして最精鋭の暗殺部隊『ザスローン』を、観光客やビジネスマンに偽装して日本へ送り込みました」

 

 ノアは、まるで出来の悪い脚本を読むように芝居がかった仕草で肩をすくめた。

 

「彼らの狙いは、日本の技術の奪取。そして関係者の拉致。

 かつての冷戦時代なら、彼らの手法は通用したかもしれません。

 デッド・ドロップ(死角を使った情報の受け渡し)、ワンタイムパッドによる暗号通信、防音室での密室会合……。

 彼らはKGB時代から連綿と続く伝統的なスパイ技術を駆使し、日本の警察の目を欺こうとしました」

 

「ほう。あのザスローンがか」

 

 ウォーレンは興味深そうに顎を撫でた。

 ザスローン。

 ロシア対外情報庁の掃除屋。

 暗殺、拉致、破壊工作を専門とし、証拠を残さず任務を遂行することで知られる冷酷なプロフェッショナル集団だ。

 

「で、どうなった?

 モスクワの熊たちは、日本の『秘密』の尻尾を掴めたのかな?」

 

「いいえ。尻尾を掴むどころか、彼らは自分たちが『見えない檻』の中に入れられていることにすら気づいていませんでした」

 

 ノアの口元が残酷な形に歪んだ。

 そして彼は指を一本立てて、言葉を継いだ。

 

「現在、日本の首都圏はこの『グラス・アイ』によって、半径100キロメートルが完全に可視化されています。

 ロシアの工作員たちは東京の安ビジネスホテルの一室で、盗聴器がないかを入念にチェックし、電波探知機を回し、筆談を行っていました。

 ……滑稽な光景です。

 彼らは『音』を出さなければ聞かれないと信じていたのですから」

 

 ノアはテーブルの上に数枚の写真を広げた。

 それは官邸地下の日下部参事官からホットライン経由で共有された、ロシア工作員たちの無様な逮捕劇の記録写真だ。

 路上に転がされ、手錠をかけられた男たちの顔には、何が起きたのか理解できないという絶望的な困惑が張り付いている。

 

「敵は壁の裏の『盗聴器』を聞いていたのではありません。

 彼らが吐き出す『空気の振動』そのものを読んでいたのです。

 心拍数の上昇、体温の変化、呼吸の乱れ。

 暗号表をめくる指の震えさえ、日本のモニターには全てリアルタイムで記録されていました」

 

 ノアは一枚の写真を指先で弾いた。

 

「彼らが『今夜2時に決行だ』と筆談した、その瞬間。

 日本の警察と、私が派遣した『ブラック・オニキス』の部隊は、すでに彼らの退路を塞いでいたのです。

 ……それは狩りですらありませんでした。

 袋の中のネズミを、上から覗き込んで、つまみ出すだけの作業です」

 

 ウォーレンは写真を見つめ、そして天を仰いで笑った。

 腹の底から湧き上がる、止めることのできない嘲笑だった。

 

「……ははは!

 大きく周回遅れしたロシアが出てきたか」

 

 かつて世界を二分し、核の恐怖で世界を震え上がらせたライバル。

 その末路がこれか。

 情報戦のパラダイムシフトについていけず、アナログな手法にしがみついたまま自滅していく様。

 それは権力者にとって蜜のように甘く、そして残酷な喜劇だ。

 

「滑稽なぐらい可哀想だな、ボグダノフは。

 不死身の兵士や、全てを見通す『グラス・アイ』が存在するというのに、未だに20世紀のルールでゲームをしている」

 

 ウォーレンは机の上のペンを弄びながら言った。

 

「まあ『ビーコン』があるおかげで、未だに我々アメリカ国内でも、ロシアの旧時代的な工作員(スリーパー)たちが動いているのが丸見えだからな。

 彼らを捕まえることは造作もないが、まとめて捕まえたら『我々も全て見えている』というカードを切ることになる。

 彼らが何を探っているのかを把握するために、あえて泳がせて放置していたが……。

 この情報格差(テクノロジー・ギャップ)は、もはや哀れみを誘うレベルだな」

 

「ええ。彼らの努力は、涙ぐましいほどでしたよ」

 

 ノアが冷ややかに相槌を打つ。

 ロシアのスパイたちは自分が裸で戦場に立っていることに気づかず、必死に隠れようとしていたのだ。

 その姿は高次元の存在から見れば、道化でしかない。

 

「それで?

 喜劇はそれだけか、エレノア?

 君たちが私に報告すべきは、ロシアの無様な熊狩りの話だけかな?」

 

 ウォーレンが水を向けると、エレノア長官が表情を引き締め、もう一つの重厚なファイルを手に取った。

 ここからが本題だ。

 笑い話では済まされない、世界のパワーバランスを根底から揺るがす「火種」の話。

 

「いいえ、大統領。

 合わせて報告すべき重大な事案があります」

 

 エレノアの声色が、氷点下まで下がった。

 

「ロシアの失態と時を同じくして、日本政府が世界に向けて公式発表を行いました」

 

 彼女は一呼吸置き、その衝撃的な内容を告げた。

 

「日本政府は昨夜の官房長官による緊急記者会見にて、『次世代の原子力発電および高効率なウラン濃縮プロセスの基礎研究を開始した』と公表しました」

 

 シン……。

 オーバル・オフィスの空気が、一瞬にして凍りついた。

 ウォーレンは目をぱちくりとさせ、そしてまるで出来の悪いジョークを聞かされたかのように、乾いた笑い声を上げた。

 

「……ははっ。

 すまん、今なんと?

 日本が今更『核開発』をしていると聞こえたんだが?」

 

 彼は呆れたように首を振る。

 

「日本が今更、核開発?

 おいおい、正気か?

 彼らはもっとヤバイもの――死人を生き返らせる薬や、世界を透視する眼――を隠し持っているんだぞ。

 それなのになぜ、20世紀の遺物である『ウラン濃縮』などに手を出す?

 銃の時代に、石斧を研ぎ始めたようなものじゃないか!」

 

 大統領の指摘は、現代の軍事常識に照らせばもっともなものだった。

 ナノマシン技術があれば核兵器以上の破壊力や、あるいはもっと洗練された殺戮兵器など容易に作れるはずだ。

 物質を原子レベルで分解する兵器や、特定のDNAを持つ人間だけを標的にするウイルス。

 そういった「SF兵器」を作れる国が、なぜ今、旧来の汚れた核エネルギーに固執するのか。

 

 ウォーレンは笑った。

 だが、その目は笑っていなかった。

 一瞬の哄笑の後、彼はふと真顔に戻り、吐き捨てるように言った。

 

「……笑えるのは『火種が小さい』からじゃない。

 『火種が多すぎて、感覚が麻痺した』からだ。

 日本はナノマシンの存在を隠すために、あえて分かりやすい『核』という恐怖を世界に与え、目を逸らさせようとしているのだな。

 ……狡猾になったものだ、ソエジマも」

 

 ウォーレンはこれを高度な陽動工作(ブラフ)だと断じた。

 世界中が核開発に目を向ければ向けるほど、その裏にあるナノマシンの真実は闇に紛れる。

 そのための煙幕だと。

 

 だが、その時。

 それまで静観していたノアが、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、静かに口を開いた。

 

「……本当に、ブラフでしょうか?」

 

 その声の冷たさに、ウォーレンとエレノアが振り返る。

 

「どういう意味だ、ノア君」

 

「大統領。少し視点を変えてみましょう。

 日本が持っている『魔法』……ナノマシンや広域監視レーダー。

 これらを維持するために、一体『何』が必要だと思いますか?」

 

 ノアは空中の埃をつまむような仕草をした。

 

「ファンタジーの魔法にはマナが必要です。

 では、物理法則に縛られた科学には?」

 

「……エネルギーか」

 

「その通りです。

 あの広域監視システム『グラス・アイ』。

 半径100キロメートルの空間情報をリアルタイムで処理し、3次元データとして再構築する。

 その演算能力とセンサー出力は、天文学的な数字になるはずです。

 さらにナノマシンを製造する『マザーマシン』。

 原子を一つ一つ操作して物質を組み上げるには、熱力学の法則に逆らうほどの莫大なエネルギーを消費するはずです」

 

 ノアの瞳が青白く光った。

 MK1によって強化された彼の脳は、日本の国家規模のエネルギー収支と推測される超技術の消費電力を天秤にかけ、そこにある矛盾を弾き出していた。

 

「日本の現在の電力事情は、どうです?

 震災以降、原発の再稼働は進んでおらず、LNGや石炭火力に頼っている。

 そんな脆弱な基盤で、これほどの超技術を運用できるでしょうか?

 ……いいえ。通常の国家運用では説明がつきません。

 日本の送電網は、拡張の限界を迎えていると見るべきです」

 

 エレノアが息を呑んだ。

 

「……そうか。

 だから日本は木材を輸入停止にしてまで、自国の『新木場プラント』でバイオマス燃料を作ろうとしていた?

 いや、それだけじゃ足りない……」

 

「ええ。木材を燃やした程度では、あの怪物を養うにはカロリー不足です」

 

 ノアは静かに結論を述べた。

 

「日本が核開発を始めたのは、ブラフでも威嚇でもない。

 『必要』だからです。

 彼らの魔法は無尽蔵ではない。

 『電力』という極めて物理的で原始的な弱点を持っている」

 

 ウォーレンの表情が変わった。

 嘲笑が消え、捕食者の目に変わる。

 日本の首根っこを掴むための、新たな急所が見えた瞬間だった。

 

「……なるほど。

 日本は『魔法の杖』を持っているが、その杖を振るうための『腕力』が足りなくなってきたわけか。

 だから、なりふり構わず、手っ取り早く高出力を得られる『原子力』に手を出した」

 

「はい。

 レーダーやナノマシンの生成には、国家規模の電力が必要なのでしょう。

 日本は今、エネルギーに飢えている。

 ……これは付け入る隙になりますよ、大統領」

 

 ノアは薄く微笑んだ。

 どんなに高度な文明も、コンセントを抜けば止まる。

 日本が核に手を出さざるを得なかったという事実は、彼らが追い詰められている証拠でもあった。

 

「面白い」

 

 ウォーレンは嬉々として椅子を回転させた。

 

「日本がエネルギー乞食になっているなら、話は早い。

 ウランでも石油でも、くれてやればいい。

 その代わり、もっと多くの『成果物』を吐き出させる。

 首輪をきつく締めるチャンスだな」

 

 核開発という脅威が、一転して「交渉のカード」へと変わった。

 アメリカの知性は、日本の行動の裏にある切実な事情を正確に射抜いていた。

 まるっきり的外れという点を除けば。

 

 エレノアが話を戻した。

 

「アメリカは日本の事情を理解できても、他の国々はそうはいきません。

 特に、何も知らない周辺諸国にとっては悪夢の再来です」

 

 彼女はタブレットを操作し、国際社会の反応を表示させた。

 

「アメリカと中国以外の国々は、この発表に驚愕しています。

 韓国では大統領府が緊急安全保障会議を招集し、『独自の核武装論』が再燃。

 与野党入り乱れての、蜂の巣をつついたような騒ぎです。

 『日本が核を持つのなら、我々も持つべきだ』という世論が爆発しています」

 

「やれやれ。騒がしい隣人だ。私の電話も鳴り止まないわけだ」

 

「IAEA(国際原子力機関)は即座に『重大な懸念』を表明し、事務局長が特別査察の受け入れを要求していますが……日本側は『あくまで基礎研究段階である』とのらりくらりとかわしています。

 ASEAN諸国も日米中の板挟みになり、沈黙を守りつつも動揺を隠せません」

 

 ノアは手元のコーヒーカップを、オペラグラスのように優雅に持ち上げ、世界中の混乱を見下ろすかのように、音もなく微笑んだ。

 人々が右往左往する様は、彼にとって最高の喜劇だ。

 特等席で見るショーは、いつだって蜜の味がする。

 

「世界中がパニックだな。

 まあ戦術核は未だ有効なカードだ。

 ナノマシンを隠すための行動だとしても、結果として核保有国になる意味はある。

 日本がそのフリをするだけで、これだけの効果があるとはな」

 

 ウォーレンは冷淡に言った。

 他国の混乱など、アメリカにとってはチェス盤の上のノイズに過ぎない。

 

「……で、中国はどうだ?」

 

 ウォーレンは意地悪く尋ねた。

 

「あいつら最近、日本への『恋患い』になっていただろ?

 日本の核武装なんて、一番嫌がるはずだが。

 さぞかし顔を真っ赤にして怒っているんじゃないか?」

 

 ノアが口を開いた。

 その端正な顔には、愚かな道化を見下ろすような色が浮かんでいた。

 

「ええ。

 ですが、恋は盲目と言いますか……中国の反応は斜め上でした。

 怒るどころか、彼らはこう公式声明を出しています」

 

 ノアは北京から発信されたプロパガンダ放送の内容を読み上げた。

 

『日本がアメリカの核の傘から脱却し、真の自立を果たそうとしている勇気を評価する!

 中国は日本の核保有を支持する。共にアジアの平和を守ろう!』

 

「……は?」

 

 ウォーレンの動きが止まった。

 

『これこそが我々の提案した“日本保護区構想”への返答だ!!!』

 

 ノアが読み終えると、執務室に一瞬の沈黙が落ちた。

 そしてウォーレンが天を仰いだ。

 

「…………ちょっとお花畑過ぎるだろ」

 

 呆れを通り越して、感動すら覚えるほどの都合の良さだ。

 敵国が核を持ったのに、「これは我々への愛のメッセージだ」と解釈しているのだ。

 

「『不老不死の薬』という餌が、彼らの理性を焼き切っているのでしょう。

 日本が何をやっても、『これはアメリカ離れの一歩だ』『我々へのメッセージだ』と、自分たちの都合のいいように解釈してしまうのです」

 

 ノアは肩をすくめた。

 

「彼らにとって日本の核武装は、『アメリカの影響力低下』を意味します。

 日本がアメリカから離れれば離れるほど、自分たちが付け入る隙ができると考えている。

 だからこそ核開発さえも歓迎する、という狂った論理に着地したのです」

 

「……御しやすい龍だ」

 

 ウォーレンは冷ややかに言い放った。

 中国は放置でいい。

 勝手に夢を見て、勝手に自滅していけばいい。

 彼らは日本という幻想を追いかけて、自分たちで勝手に踊っているだけだ。

 

 問題はもっと実質的な脅威――現実に工作員を動かしている勢力だ。

 

「中国は置いておこう。

 ロシアはこのあと、どうする?

 日本での失敗に懲りて引くか?」

 

 ウォーレンの問いに、ノアとエレノアが顔を見合わせた。

 彼らの予測は一致していた。

 

「いいえ。引きません」

 

 その言葉を、エレノアCIA長官が引き継ぐ。

 

「ロシアはまだ、日本が持っているものの全貌を知りません。

 彼らが掴んでいるのは、『バンドエイドMK3』という傷薬の、うっすらとした情報と、自分たちの工作員が『神隠し』のように消えたという不可解な事実だけです」

 

「……もし彼らが真実を知れば?」

 

「『医療用キット(オリジナル)』による若返りや、『位相空間レーダー』による絶対的な監視能力の実態を知れば……。

 ボグダノフは、国を傾けてでも、ぜひ欲しいと言うでしょうね」

 

 ノアが冷ややかに補足する。

 

「飢えた熊は、罠にかかっても餌を離しません。

 日本での一件でロシアは、『何らかの強力な監視システム』が日本にあることには気づきました。

 そして当然、こう疑うはずです。

 『同盟国であるアメリカも、それを持っているはずだ』と」

 

 ノアはホワイトハウスの床――その地下深くに極秘裏に設置された日本製の「ビーコン」の存在を示唆するように、視線を落とした。

 

「実際、その通りなのですが」

 

 ウォーレンは椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。

 

「……なるほど。

 日本はガードが固い。

 ならば広大なアメリカ国内に潜伏させているスリーパー(潜伏工作員)を使って、こちらから盗めばいい。

 あるいは我々の動向を探れば、日本の秘密にたどり着ける……そう考えるわけか」

 

 大統領の目が、猛禽類のように鋭く細められた。

 

「ならば、ここらで教育が必要だな」

 

 ウォーレンは決断した。

 彼はデスクのインターホンを押し、ダグラス首席補佐官を呼びつけた。

 数秒後、ダグラスが小走りで入室してくる。

 

「お呼びでしょうか、大統領」

 

「ダグラス。

 国内のFBIとNSAに指示を出せ。

 これまで泳がせていたアメリカ国内のロシアの工作員(スリーパー)たち……。

 全員、刈り取れ」

 

 その命令に、ダグラスが一瞬たじろいだ。

 

「全員……ですか?

 現在把握しているだけでも数百名規模になります。

 一斉検挙となれば、外交問題どころか、事実上の宣戦布告と受け取られかねませんが」

 

「構わん。

 ただし普通の逮捕劇にするな」

 

 ウォーレンは立ち上がり、窓の外の闇を睨みつけた。

 雷光が彼の横顔を照らし出す。

 

「いいか、『捕まえる』んじゃない。

 『恐怖を植える』んだ」

 

「恐怖ですか?」

 

「そうだ。

 日本から借りた『グラス・アイ(位相空間レーダー)』をフル活用しろ。

 彼らの隠れ家、連絡手段、愛人の名前、隠し金庫の暗証番号……そして今の瞬間の呼吸による微細な振動まで。

 全てを把握しろ。

 その上で、全米各地で同時に、一斉に踏み込め」

 

 その指令の残酷さを理解し、ダグラスが息を呑む。

 それは従来の捜査ではない。

 神の視点からの断罪だ。

 逃げ場のない檻の中にいることを、骨の髄まで分からせるための儀式。

 

「彼らが『盗聴器がない』と確認して安心し、ウィスキーを一口飲んだ直後の部屋に踏み込め。

 逃げようとした先の、誰も知らないはずの隠れ家のドアを先回りしてノックしてやれ。

 シャワーを浴びている最中でも、トイレに入っている最中でも構わん。

 彼らが最も無防備で、最も油断している『プライベートな瞬間』に銃口を突きつけてやるんだ」

 

 ウォーレンの声は、雷鳴のように低く轟いた。

 

「彼らに思い知らせてやれ。

 『アメリカもまた神の視座にいる』と。

 我々もまた日本と同じ眼を持っているとな。

 逃げ場など、この地球上のどこにもないことを、骨の髄まで理解させろ」

 

 ダグラスは背筋を伸ばし、震える手を太腿に押し付けながら深く一礼した。

 

「イエッサー。

 『FISA(外国諜報活動偵察法)』の緊急権限を発動し、『大掃除』の手配を直ちに」

 

 ダグラスが逃げるように退室すると、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。

 だが、その空気は先ほどまでとは違う。

 明確な殺意と、圧倒的な優位性がもたらす愉悦が含まれていた。

 

 ノアはその光景を想像し、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。

 ロシアのスパイたちが味わうであろう絶望と混乱。

 自分だけの秘密だと思っていた場所が、実はガラス張りのショーケースだったと知った時の顔。

 それは退屈な日常を紛らわせる、最高のエンターテインメントになるだろう。

 

「……素晴らしい演出です、大統領。

 ボグダノフ大統領が、明日の朝の報告を聞いてどんな顔をするか。

 チケットを買ってでも見たいものです」

 

「彼には、高い授業料を払ってもらうことになるな。

 『時代は変わったのだ』とな」

 

 ウォーレンは席に戻り、コーヒーを啜った。

 冷めきった泥水のような味だが、勝利の予感がそれを甘く感じさせた。

 

          ◇

 

 その夜。

 アメリカ全土で、静かな嵐が吹き荒れた。

 

 ニューヨークのペントハウス。

 ロサンゼルスの安モーテル。

 シカゴの倉庫街。

 マイアミのビーチハウス。

 

 ロシア対外情報庁(SVR)や、軍参謀本部情報総局(GRU)が長年かけて潜伏させてきた「スリーパー・セル(潜伏工作員)」たちが、同時刻に一斉に狩り出された。

 

 ある者は、盗聴防止措置を施した地下室で暗号通信を送ろうとした瞬間に、ドアを破られた。

 ある者は、変装して人混みに紛れようとした瞬間に、背後から肩を掴まれた。

 ある者は、寝室で妻の隣で眠っている最中に、額にレーザーサイトの赤い点を突きつけられた。

 

 抵抗できた者は、一人もいない。

 FBIの特殊部隊(HRT)は、彼らが武器に手を伸ばすタイミングさえも、呼吸の乱れから予測して突入していたからだ。

 

 「なぜバレた?」

 「どこで見られていた?」

 

 連行される彼らの顔に浮かんでいたのは、逮捕への恐怖ではない。

 理解不能な現象に対する根源的な「怯え」だった。

 アメリカは全てを知っていた。

 自分たちが隠しているつもりの秘密など、最初から存在しなかったかのように。

 

          ◇

 

 ホワイトハウス、大統領執務室。

 作戦終了の報告を受けたウォーレンは、満足げに葉巻をくゆらせた。

 

「……終わったか。

 これでロシアの『眼』と『耳』は潰れた。

 当分の間、彼らは疑心暗鬼に陥り、身動きが取れなくなるだろう」

 

「ええ。

 組織の再建には数年……いいえ、システムへの不信感が消えるまでは、10年はかかるでしょうね」

 

 エレノアが冷ややかに補足する。

 スパイ組織にとって最も恐ろしいのは敵ではなく、「何が漏れているか分からない」という疑念だ。

 今日からロシアの諜報網は、機能不全に陥る。

 

「日本が作った『硝子の迷宮』。

 その効果は絶大だな」

 

 ウォーレンは窓の外、雨上がりのワシントンの夜景を見つめた。

 美しい夜景だ。

 だが、その光の一つ一つが、今や監視の対象となっている。

 

 アメリカという鷲は新たな眼を手に入れ、ロシアという熊は出口のない回廊で迷走し、中国という龍は幻影を追って踊り続ける。

 世界のパワーバランスは、不可視の技術によって完全に書き換えられた。

 

「……だが、忘れるなよ」

 

 ウォーレンは、誰に言うともなく呟いた。

 

「この迷宮の設計図を持っているのは、我々ではない。

 日本だ」

 

 ノアが静かに頷く。

 

「はい。

 スイッチ一つで、この『神の視点』を遮断できるのは彼らだけです。

 ……やはり主導権は、あちらにありますね」

 

 アメリカは強くなった。

 だが同時に、日本という同盟国への依存度は致命的なまでに深まった。

 もし日本がビーコンのスイッチを切れば、アメリカは再び盲目に戻る。

 その恐怖が新たな首輪となって、超大国を縛り付ける。

 

「ソエジマ総理……いや、その背後にいる『魔法使い(ウィザード)』か」

 

 ウォーレンは窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、会ったこともない「日本の黒幕」の姿を想像した。

 世界を混乱させ、大国を手玉に取り、核開発までやってのける稀代の天才科学者。

 さぞかし冷徹で、計算高く、そして悪魔的な知性を持った野心家なのだろう。

 

「いつか、その顔を拝んでみたいものだ。

 世界をこれほどまでに踊らせる男の顔をな」

 

 ……だが事実は、小説よりも奇なり。

 

 ウォーレンが想像するような冷酷で悪魔的な知性を持ったマッドサイエンティストなど、地球上のどこにもいなかった。

 

 そのすべての中心にいる日本の中年――工藤創一は、今頃、異星の荒野で、

「電気が足りない! ウラン掘るぞー!」

と無邪気にツルハシを振るっているだけなのだ。

 

 彼にとって米露の血みどろのスパイ戦争も、大統領の抱える国家存亡の苦悩も、自分の工場の生産ラインが1秒止まることよりも、どうでもいい些事である。

 

 世界の運命が、たった一人の工場マニアの「趣味」と「効率化」への渇望だけで書き換えられていく。

 そのあまりにも馬鹿げた不条理こそが、今の世界における唯一の、そして絶対的な真実だった。

 

 




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