初華じゃない方の初華   作:まつきた

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プロローグ(前編):画面の中に、私がいた

# プロローグ(前編):画面の中に、私がいた

 

 画面の中で、私の名前を持った女が笑っていた。

 

 テロップに「初華」と出ている。

 

 顔が抜かれる。

 

 姉だった。

 

 初音だった。

 

 照明の下で、姉は私の名前を着ていた。

 

 

    *

 

 

 翌朝、教室に入った瞬間、五人が私の机を囲んでいた。

 

 一限のチャイムまで、あと三分。

 

 差し出されたスマホには、昨夜の切り抜き動画が止まっている。アイドル衣装の肩、笑った口元、画面の下に固定された「初華」の二文字。再生しなくても誰の話かわかるのに、見せる側はそういう手間を惜しまない。

 

「これ、お姉ちゃんでしょ」

 

「三角の」

 

「名前も同じなんだ」

 

「え、じゃあ本物どっちなの」

 

 悪意はなかった。

 

 悪意がないから逃げにくかった。

 

 昨夜、布団の中で考えた答えは、教室の白い蛍光灯に照らされた途端に全部しぼんだ。芸名だと言い切るには、どうして姉が私の名前を使っているのかを私が知らなすぎたし、偶然だと押し切るには顔が似すぎていた。

 

「姉だよ」

 

 思ったより明るい声が出た。

 

 自分で出しておいて、少しだけぎょっとする。

 

「やっぱり」

 

「すご、テレビの人じゃん」

 

「でも、なんで初華なの」

 

 一人が、ほんの少しだけ声を落とした。

 

「妹の名前、借りた感じ?」

 

 借りた。

 

 その言葉だけ、教室の空気より冷たかった。

 

 借りたなら返す日があるのか。

 

 勝手に持っていった名前を。

 

 勝手に始めてしまった夢の続きまで。

 

「わかんない」

 

 私は机の端を掴んだ。指先だけ白くなる。

 

「姉妹なのに?」

 

「最近、連絡とかしてないの」

 

 していない。

 

 できていない。

 

 したところで、返ってくる言葉がある気もしなかった。

 

「でもさ」

 

 別の子が、動画をのぞき込みながら言う。

 

「三角って聞いたら、今はもう sumimi の初華って感じするよね」

 

 息が止まった。

 

 笑い話みたいな調子だった。

 

 でも、その一言だけで、自分の椅子の脚が一本折れた気がした。

 

 私は三角初華なのに。

 

 なのに、もう先に別の顔が貼られている。

 

 この島で名前を呼ばれたら、私じゃなくて画面の向こうを指すのだと、そんなふうに決められていく。

 

 そこへチャイムが鳴った。廊下の向こうで担任の革靴が止まり、輪がほどける。助かったわけじゃない。一時間目のあいだ、執行が先送りになっただけだった。

 

 

    *

 

 

 二限目のノートは、日付だけ書いて止まった。

 

 黒板の数字は見えている。先生の声も聞こえている。ただ、意味だけが頭に入ってこない。斜め後ろから視線を感じる。前の列からも感じる。授業中は誰も振り向かないくせに、みんな昨夜の続きを胸ポケットに入れているみたいだった。

 

 昼休みのチャイムと同時に、私は弁当を持って教室を出た。図書室のいちばん奥、郷土史の棚の陰に座りこむ。窓は海の方を向いていて、冬の光だけが静かだった。ここなら追ってこない。たぶん。

 

 スマホを開く。

 

 未読が増えていた。グループチャットにも、個別にも、似たような文が並んでいる。

 

 見た?

 

 ほんとにお姉ちゃん?

 

 なんで同じ名前なの?

 

 島は狭い。

 

 昨日のテレビが今日の噂になって、今日の噂が明日には校内ぜんぶへ回る。このままここにいたら、私は説明のできない妹としてでは済まない。sumimi の初華じゃない方として席に座ることになる。

 

 画面の中の誰かを本物とされて、その脇に押しやられたまま。

 

 息が浅くなった。

 

 胸の奥で、古い引き出しが勝手に開く。

 

 砂浜を走る足。

 

 麦わら帽子の紐。

 

 防波堤まで競争して、私が先に着いたって大声で笑った夏。

 

 四歳の色紙に、太いクレヨンで「アイドルになる!」と書いて、母に見せびらかした昼。

 

 白いワンピースのさきちゃんが、呆れたみたいな顔で私の色紙を見て、それから、いかにもさきちゃんらしく胸を張って言った夏。

 

「初華ならアイドルになれますわ!」

 

 あの頃の私は、誰かに呼ばれたら、すぐ振り返る子だった。

 

 東京に出るんだとも、アイドルになるんだとも、恥ずかしげもなく言えた。

 

 なのに今は、その記憶をまっすぐ見返すことさえ少し怖い。

 

 姉のことを思い出そうとすると、途中で記憶がつかえる。白い台所。流しの水音。そこから先を触ろうとすると、喉の奥だけがきつくなる。

 

 画面を閉じても、まぶたの裏では昨夜の姉が笑っていた。照明の当たり方も、手の振り方も、もう舞台の上の人のものだった。

 

 羨ましい、とは違う。

 

 眩しい、でも違う。

 

 昔の私が、ああいうふうに笑っていた気がするのが、いちばんきつかった。

 

 リビングの壁の色紙が浮かぶ。

 

 あれは、母が何があっても外さなかった。

 

 外さなかったくせに、今ではその字を見上げるたび、胸の奥に小さな棘が立つ。

 

 それでも、あの一言まで失ったら、私は何に返事をすればいいのかわからなくなる。検索欄に指を置いた。東京。港。本土行き。今夜のフェリー、二十三時四十分発。残り一席。

 

 青い予約ボタンを押す。

 

 続けて、本土から東京へ向かう夜行バスも押さえる。

 

 画面の確認表示が切り替わるたび、指先だけが冷えていった。

 

 

    *

 

 

 夕方の食卓には、ニュースキャスターの声だけが落ちていた。

 

 母は向かい側で焼き魚の骨を外している。箸先が小さく動く。テレビの音量はいつも通り。味噌汁の湯気もいつも通り。昨夜、姉が私の名前でテレビに出ていたことも、今日、学校で私が何度も見られたことも、この家の空気は知らないふりをしていた。

 

 止めない。問わない。慰めない。

 

 いつからか、この家はその三つで保たれるようになっていた。

 

「今夜、友達のところに泊まる」

 

 味噌汁を飲む前に言った。母の箸が一瞬だけ止まる。それから、また魚の腹を開いた。

 

「……そう」

 

 どこへ、とは聞かれなかった。誰の家、いつ帰るの、電話は、そういう普通の確認も来ない。来ないことに少しだけ助かって、同じくらい腹が立った。

 

 昔の私なら、ここで余計なことまで喋っていた気がする。友達の名前を一つ足すとか、適当な言い訳を盛るとか、そんな無駄口で沈黙をごまかしていたはずだ。

 

 今は、それすら出てこない。

 

「明日は」

 

 母がそこまで言って、やめた。湯気だけがのぼる。

 

「……気をつけてね」

 

「うん」

 

 返事はそれだけで終わった。終わってしまった、という感じがした。

 

 

    *

 

 

 家が寝静まってから、私は靴下のまま階段を下りた。電気はつけない。月明かりだけでも、リビングの壁の色紙は十分見えた。

 

 アイドルになる!

 

 暗い部屋でも、やたら元気な字だった。見ていると、昔の私に見上げられている気がする。なんでそんな顔してるの、とでも言われそうで、少しだけ腹が立つ。

 

 画鋲を抜いた。紙が壁から剥がれる。その音は小さいはずなのに、家の中の見えない柱が一本折れたみたいに響いた。クリアファイルに挟み、リュックの底へ滑らせる。

 

 持っていくつもりはなかった。

 

 でも、これだけを壁に残して島を出ることはできなかった。

 

 ここに置いていったら、あの字まで誰かに説明される気がした。

 

 玄関を開ける。夜の潮の匂いが、すぐ喉に入ってきた。見慣れた坂道を港へ向かって歩く。街灯は少ない。犬の遠吠えと、波が防波堤に当たる音だけがする。

 

 ここで引き返せば、明日の朝はまだ昨日の続きとして来る。学校へ行って、教室に座って、また見られる。三角初華なのに、sumimi の初華じゃない方として。

 

 港の待合所には、人がほとんどいなかった。釣り道具を持ったおじさんが一人。仕事帰りらしい男の人が一人。自販機の光が白い。私は壁際のベンチに座って、リュックの肩紐を握ったまま、発車時刻だけを何度も見た。

 

 母から連絡は来なかった。

 

 教室の誰からも来なかった。

 

 姉から来るはずもなかった。

 

 案内放送が流れる。

 

 二十三時四十分。

 

 体が先に立ち上がった。桟橋を渡る。鉄の床が靴裏で鈍く鳴る。

 

 船内に入る直前、振り返った。島の灯りが夜の海に貼りついていた。小さいくせに、しぶとい。呼べば返ってくる距離には、もう見えなかった。

 

 私は目を逸らして、船に乗った。

 

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