初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第6話:返事の練習

# 第6話:返事の練習

 

「黙るのがいちばん感じ悪いんだよ」

 

 詩船さんは味噌汁をよそいながら、こっちを見もしないで言った。

 

 朝の台所だった。味噌の匂いと焼き鮭の皮の焦げる匂いが混ざっている。私はスマホを伏せたまま、言い返せずにいた。

 

 昨夜、燈ちゃんから写真が送られてきていた。ノートの切れ端。消し跡だらけのページの隅に、たった一行だけ残っている。

 

 呼んだのに 返ってこない

 

 その写真に、私は何も返せなかった。

 

「別に、無理に褒めろって話じゃないよ」

 

 詩船さんが椀を置く。

 

「わかんないなら、わかんないで返せばいい。黙るのは、聞いてないってことと大差ない」

 

「……聞いてはいる」

 

「なら返しな」

 

 雑だった。でも、正しかった。

 

 私は食卓の端でスマホを開いた。指先だけが落ち着かない。正解を出そうとすると、いつも遅くなる。

 

 しばらく迷ってから打つ。

 

「うまく言えないけど、残った一行が強いと思う」

 

 送信すると、胃のあたりが少しだけ軽くなった。正解かどうかはわからない。ただ、黙っているよりはずっとましだと、今は思えた。

 

 

    *

 

 

 五月に入ると、燈ちゃんと会う回数が増えた。

 

 公園のベンチだったり、RiNGの帰り道だったり、詩船さんの家の縁側だったり。長く会う日もあれば、十分で別れる日もある。どの日も、最初は少しだけぎこちなかった。

 不思議と、明るすぎる場所より、少し影のある場所のほうが言葉は出やすかった。

 

 燈ちゃんはノートを開く。私はすぐには覗き込まない。

 

「これ……どう思う?」

 

 前なら、この問いだけで固まっていた。今は、固まる前にまず返す。

 

「どのへんで迷ってる?」

 

 それだけで、燈ちゃんの肩が少し落ちる。答えを出してほしいのではなく、止まらずにいてほしいのだとわかってきた。

 

 ノートには、短い断片が増えていた。

 

 呼ぶ。

 待つ。

 届かない。

 でも、まだいる。

 

 私はひとつずつ読んだ。

 

「この『でも』のあと、好き」

 

「……ここ?」

 

「うん。ここがあると、全部沈まない」

 

 燈ちゃんは鉛筆を持ち直して、その「でも」の下に薄く線を引いた。そういう小さな往復が、何度もあった。

 

 石を拾って見せられる。

 

「これ、何に見える?」

 

「くちばし」

 

「鳥?」

 

「返事を待ってる鳥」

 

「……待ってる鳥」

 

 そんなふうに、意味があるのかないのかわからない会話を重ねる。重ねるうちに、前より少しだけ、言葉が動きやすくなった。

 

 私は時々、詩船さんの家にあった古いアコースティックを膝に載せていた。上手く弾けるわけではない。難しいことはできない。ただ、誰かが話している横で、間が落ちすぎない程度に指を置くくらいならどうにかなる。

 

 

    *

 

 

 ある雨の日、縁側の外で細かい雨粒が板を打っていた。

 

 燈ちゃんは珍しく、ノートより先に声を出した。歌というよりハミングに近かった。音程が揺れて、途中で止まりそうになって、それでも途切れきらない声だった。

 

 私は膝の上のギターに軽く手を置く。弾くというほどでもない、拍を置くみたいな音を一つ、二つ。雨の音の隙間を埋めるくらいの音量で。

 

 燈ちゃんのハミングが止まったあと、ノートが私のほうへ差し出された。

 

「ここ……何か、ほしい」

 

 サビの頭になるはずの空白だった。私はすぐには言えなかった。言葉を足しすぎると、燈ちゃんの中で育っていたものを踏み潰してしまう気がした。

 

 少しだけ考える。燈ちゃんの言葉はいつも内側から始まる。だから私は、そこへ何かを足すなら外から返せる形がいいと思った。

 

「聞こえてる、は?」

 

 言った瞬間、自分でも短すぎると思った。軽率すぎる気もした。肩が少しこわばる。

 

 でも燈ちゃんは、その四文字をすぐに口の中で転がした。

 

「きこえてる」

 

 もう一度。

 

「……聞こえてる」

 

 今度は少しだけ音がついた。

 

 私は静かに一度だけ弦を鳴らす。燈ちゃんがその上に、また声を置く。

 

 聞こえてる。

 

 そのあとに、自分の断片が続く。呼んだこと。届かなかったこと。待っていた時間のこと。叫びそのものではなく、叫びに返事が返る形になった瞬間だった。

 

「それだ」

 

 燈ちゃんが言った。目が少しだけ見開いている。

 

「最初の、そこ」

 

「ほんとに?」

 

「うん。……返ってきた感じ、する」

 

 私はそれ以上書き足さなかった。一行で十分だった。たぶん、私が強いのはそこだけなのだと思う。全部を書くことじゃない。誰かが返したくなる場所を、最初に一つだけ置くこと。

 

 声が止んだあと、沈黙が落ちた。でも、その沈黙は空白ではなかった。雨音の向こうに、さっき置いた一行の余韻がまだ残っていた。

 

 

    *

 

 

 帰り道、ポケットの中の石を指で転がした。

 

 絆創膏の日のことを思い出す。河原で膝を擦りむいた私に、燈ちゃんはしゃがんでくれた。高いところから見下ろさず、同じ高さに降りてきてくれた。

 

 あれを私は長く、救われた記憶としてだけ持っていた。でも今は少し違う。

 

 あの時の燈ちゃんは、私を助けたかったというより、通り過ぎなかったのだと思う。目の前にある傷へ、ただ止まって返事をした。

 

 今日、私はノートの空白へ短い一行を返した。大げさな救いではない。正解でもない。ただ、黙らなかった。

 

 祥ちゃんの約束を思い出す。

 

 あなたの詩を、最後まで聞かせて。

 

 ずっと命令だと思っていた。証明しろ、成功しろ、立派になれ、そういう重いものだと。でも違うのかもしれない。

 

 聞かせて、は最初の呼びかけだったのかもしれない。投げっぱなしにしないでほしい、途中で黙らないでほしい、そういう種類の。

 

 だとしたら、返事はもう始まっている。

 

 上手くなくても、完成していなくても、短い一行でも。

 

 わからないままでも、石を握って歩ける。

 

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