初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第7話:名前の裏側

六月の雨は、嬉しい報告まで少し濡らして届く。

 

 燈ちゃんから来た文は、いつもより少しだけ長かった。

 

「新しいバンド、動いてる」

「愛音ちゃんって子が、すごい」

「そよちゃんも来てくれた」

「立希ちゃんも、たぶん、ほんとはやさしい」

「楽奈ちゃんも、いる」

 

 名前が揃った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。

 

 知っている名前、ではなかった。もう燈ちゃんの文の中で何度も読んできた名前だ。短い報告の端に、少しずつ輪郭がついてきた名前。

 

 愛音ちゃんは勢いがある。

 立希ちゃんはきついのに音を見捨てない。

 楽奈ちゃんは急に来て急に弾く。

 そよちゃんはやさしい。

 

 その中で、そよちゃんだけ少し遠い。

 

 そういう報告が、ここ数週間、ずっと積み重なっていた。

 

 私は少し迷ってから返した。

 

「よかったね」

「楽しそうで安心した」

「無理しすぎないでね」

 

 送ってから、画面を伏せる。正しいことを言っている気がしなかった。でも、黙るよりはましだと、もう知っていた。

 

 

    *

 

 

 六月に入って、雨が増えた。

 

 詩船さんの家の古い雨樋は、強く降るたび二階まで震えを伝えてくる。その音を聞きながら、私は縁側でアコギを抱えた。燈ちゃんはノートを膝に置いて、雨粒の数みたいに少しずつ言葉を足していく。

 

 天気のいい日は公園のベンチ、雨の日は縁側。ときどきRiNGの裏口の階段。

 

 顔を合わせる回数が増えるほど、燈ちゃんの報告も増えた。

 

「愛音ちゃん、元気」

「楽奈ちゃん、急に来る」

「立希ちゃん、こわい。でもドラム、好き」

 

 どれも、聞いているだけなら嬉しい話のはずだった。

 

 でも、そよちゃんの話になる時だけ、燈ちゃんの鉛筆が少し止まる。

 

「そよちゃん、やさしい」

 

「うん」

 

「でも……時々、遠い」

 

 川沿いで会った日の燈ちゃんは、水面に映る曇り空を見ながらそう言った。ノートは開いているのに、鉛筆の先だけが動かない。

 

「楽しそうなんだけど、別のところ見てるみたいで」

 

 私はすぐに答えられなかった。

 

 言えそうなことはいくつかあった。優しい人ほど、自分の見たいものを守るために遠くなる時がある、とか。楽しい顔をしていても、同じ場所を見ているとは限らない、とか。

 

 でも、それを今ここで言い切るのは違う気がした。私が断定した瞬間、燈ちゃんの春に私の疑いが混ざる。

 

「遠い時、見逃さないで」

 

 やっと出たのは、それだけだった。

 

 燈ちゃんが顔を上げる。

 

「見逃さない?」

 

「うん。聞ける時に、ちゃんと聞いたほうがいい」

 

「……うん」

 

 頷いてはくれた。でも、この子は誰かを疑うために頷くわけじゃない。傷ついている相手を、そのまま見ようとして頷く。そこが好きで、そこが怖かった。

 

 別れ際、燈ちゃんは石を一つ置いていった。白くて平たい石。私はそれをポケットに入れたまま、家までの道を歩く。

 

 足りない、と思う。もっと踏み込むべきだったのかもしれない。「今のやさしさだけで安心しないで」とか、「楽しそうな時ほど、あとから聞いたほうがいい」とか。

 

 でもそう言えば、今度は私のほうが燈ちゃんの春を濁す。

 

 私はいつも、問いの形を作るのが遅い。

 

 

    *

 

 

 初音のことを、一年間考えないようにしていた。

 

 考えないことと忘れることは違う。考えないのは意志だ。忘れるのは結果だ。私は意志で考えないようにしていたから、何も忘れていない。名前。顔。声。芸名。TV画面の中の笑顔。全部、瞼の裏に残っている。

 

 六月のある夜、ベッドの中でスマホを開いた。検索欄に `sumimi 初華` と入れる。

 

 一年ぶんの情報が流れてきた。新曲。ライブ。雑誌。テレビ。画面の中の「初華」は、一年前より洗練されていた。笑顔の角度。声のトーン。衣装の色。全部が計算されているのに、計算されているように見えない。

 

 横にスクロールすると、ファンの考察が出てきた。

 

「初華って本名じゃないらしい」

 

 指が止まる。

 

 芸名説。事務所が付けた名前説。本名は別にある説。どれも憶測の域を出ない。でも、「本名じゃない」だけは正しい。初音の名前は三角初音だ。初華ではない。初華は、私の名前だ。

 

 知らない場所でもう、その名前はひとり歩きしている。

 

 画面が暗転した。黒いガラスに自分の顔が映る。初音とそっくりの輪郭が、暗いところだけこっちを見ていた。

 

 その顔を閉じるように、私は電源ボタンを押した。

 

 眠れなかった。雨が止んだあとも雨樋の残響みたいな音が耳に残って、何度も寝返りを打った。

 

 

    *

 

 

 翌週。燈ちゃんからメッセージが来た。

 

「……ライブ、出ることになった。RiNGで。前座」

 

 少し遅れて、もう一通来る。

 

「よかったら、来てほしい」

 

 心臓が跳ねた。

 

 嬉しい。ほんとうにそれが先に来た。

 

 そのあとで、怖さが来た。

 

 燈ちゃんの春が、今度こそ形になる。形になる時ほど、少しのずれも目立つ。私が今まで見てきた違和感が、ただの思い過ごしで終わればいい。終わってほしい。

 

 でも、終わらない気もした。

 

 考える前に、楽奈ちゃんへ連絡していた。

 

「ひとつだけお願い」

 

 返事はすぐ来た。

 

「なに」

 

「燈ちゃんを置いて走らないで」

 

 既読のまま少し空く。

 

「どういうこと」

 

 そこが一番苦しい。理由を言い切れない。私の不安は私の観察でしかなくて、断言に変えるほどの証拠がない。

 

「勢いだけで決めると、たぶん誰かが追いつけなくなる」

 

 我ながらひどく曖昧な返しだと思った。

 

 楽奈ちゃんからは、数秒後に一言だけ来た。

 

「聞こえた」

 

 了承ではない。ただ、受信したという返事だ。わかっている。わかっているのに、そこで祈ってしまった。

 

 その夜、布団に入っても眠れなかった。ポケットの石を握って天井を見る。楽奈ちゃんは「聞こえた」と言った。止まるとは言わなかった。でも聞こえたなら、少しだけ考えてくれるかもしれない。考えた結果やっぱり走るかもしれない。あの子はそういう子だ。衝動のほうが理屈より先に指へ来る。

 

 それがわかっているのに、石を握る手だけが祈っていた。指の間に汗が溜まって、石の表面がぬるくなる。

 

 当日の午後まで、私はその短い返事を何度も見返した。

 

 

    *

 

 

 ライブ当日、私は帽子とマスクで顔の線を潰してRiNGへ行った。

 

 開場前に少しだけ楽屋へ通してもらう。立希ちゃんがドアを開けた瞬間、眉を寄せた。

 

「……今日は前よりひどい格好」

 

「自覚はある」

 

「ならいい」

 

 通された楽屋は狭かった。パイプ椅子、機材ケース、まだ誰の汗も乗っていない空気。愛音ちゃんのチューニングの音が高く弾けて、そよちゃんは丁寧に会釈し、楽奈ちゃんはケースの上からじっとこっちを見ていた。

 

「変な迷子」

 

「今日は迷ってない」

 

「ふーん」

 

 燈ちゃんは膝の上で指を組んだ。

 

「終わったら……感想、聞きたい」

 

「ちゃんと聞く」

 

 それだけ言って客席へ出た。今日は、始まる前に壊したくない。

 

 演奏はよかった。

 

 荒いところはある。愛音ちゃんのギターはまだ走るし、燈ちゃんの声も最初は少し硬い。でも五人で鳴らしたいという気持ちだけは、客席までまっすぐ届いていた。

 

 二曲目が終わった。拍手。三曲目。また拍手。曲が進むたびに、胸の奥の氷が少しずつ溶けていくのがわかった。楽奈ちゃんは暴走していない。燈ちゃんも、今のところ置いていかれていない。

 

 これなら、と一瞬思った。

 

 大丈夫かもしれない、と。

 

 その時、楽奈ちゃんのギターが鳴った。

 

 最初の数音で客席の空気が変わる。

 

 春日影。

 

 身体の内側が冷えた。客席のざわめきが一歩遅れて届く。止めて、と喉は動いたのに、声にならない。

 

 立希ちゃんが反応する。そよちゃんも、燈ちゃんも。

 

 あっという間だった。音のほうが先につながる。止めようとか、やめようとか、そういう判断が届くより先に、昔の形が立ち上がってしまう。

 

 客席の前のほうで、ひとつの影が揺れた。長い髪。肩の線。顔は見えない。でも、逃げる速度だけで十分だった。

 

 祥ちゃんだ、と思った。思った瞬間には、もう出口へ消えていた。

 

 終演後、私はしばらく席を立てなかった。

 

 客席の照明が点いた。隣の席の背もたれに手を置く。指先が冷たい。さっきまで拍手していたはずの手が、いつの間にか膝の上で拳になっていた。観客が一人、二人と立ち上がっていく。椅子が跳ね上がる音が遠くで何度も鳴る。足音。ドアの軋み。声。全部が聞こえるのに、自分だけ時間がずれている。

 

 薄い壁の向こうで誰かの声が上がった。そよちゃんだとすぐわかった。責める声ではあるのに、泣きそうな声でもあった。

 

 私はようやく立ち上がった。でも楽屋へ戻る気にはなれなかった。壁越しの声だけが断片で届く。「なんで」「あのとき」「違う」。切れた語尾ばかりで、文脈がない。文脈がないぶん、そのほうが生々しかった。

 

 全部、聞けなかったものだと思った。

 

 燈ちゃんにも。

 そよちゃんにも。

 祥ちゃんにも。

 

 私は、見えていた違和感を問いにできないままここまで来た。見逃さないで、としか言えなかった。聞いて、としか言えなかった。そのあいだに、音のほうが先に傷へ触った。

 

 外へ出ると、雨は止んでいた。路面だけがまだ濡れていて、水たまりにネオンの反射が薄く伸びている。排水溝から水が流れる音がする。ライブの余韻なんかとは無関係に、街はもう次の夜に入ろうとしていた。

 

 私はRiNGの看板の下で少し立ち止まった。帰るでもなく、戻るでもなく、ただ次の一歩が決まらないまま立っていた。靴底が濡れた路面に貼りつく。

 

 楽屋へ戻って何か言える立場じゃない。

 でも、そのまま何も聞かなかった顔で帰るのも違う気がした。

 

 結局、私は裏口のあたりまで回って、それ以上は近づかなかった。薄い扉の向こうで、誰かが泣くのをこらえるみたいな息をした。立希ちゃんの低い声。愛音ちゃんの早口。楽奈ちゃんの、何も言わない沈黙。燈ちゃんの、ほとんど聞こえない返事。

 

 その全部が、扉一枚ぶん遠い。

 

 楽奈ちゃんは「聞こえた」と返した。でもそれは、止まるという意味ではなかった。

 

 問いを遅らせたままでは、隣に立っていても届かない。

 

 その当たり前を、春日影の数小節で叩き返された。

 

 帰りの電車では、窓に映る自分の顔も見られなかった。ガラスの向こうの暗さだけを見ていた。トンネルに入るたびに自分の輪郭が浮いて、抜けるたびに消える。どちらの顔も直視できなかった。

 

 ポケットの石がやけに重くて、家に着くまで一度も手を離せなかった。握っている間だけ、まだ何かに繋がっている気がした。

 次に何かが遅れるなら、今度は見ているだけで終わりたくなかった。

 

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