照明が落ちたあとも、首筋だけがまだ熱かった。
収録終わりの楽屋で、初音は鏡の前に座ったまま動けずにいた。髪は整っている。リップも崩れていない。笑顔だけが、もう机の上に置いてきたみたいに薄かった。
外では台車の音がして、廊下を急ぐ靴音がいくつか過ぎた。撤収の空気は軽いのに、自分の肩だけがまだ本番の硬さを残している。
スタッフが差し入れの紙袋を置いていく。お疲れさまです、と声がする。初音はちゃんと頷く。そういう動きだけは身体が覚えている。
ありがとうございます、と返した声は、自分でも驚くほどきれいだった。さっきまで喉の奥で引っかかっていたものが、その一言だけには混ざらない。
人がいなくなってから、やっとスマホを開いた。
RiNGのスタッフアカウント。
バンドの噂。
初ライブ。
燈の名前。
画面を滑る指が途中で止まる。クラスメイトの椎名さんから聞いた話。RiNGへ来ている妹。自分と同じ輪郭をしているはずの、ほんとうの初華。もう遠回りでは隠せないところまで来ていた。
検索欄に「三角」と打ちかけて、すぐ消した。見つけたいわけでも、見つかりたいわけでもなかった。
鏡を見る。
そこに映っているのは初華だった。少なくとも、祥子がそう信じている顔だった。
初音はメイク落としを手に取って、目元から順に押し当てた。湿ったコットンが皮膚を滑るたび、さっきまで照明に耐えていた顔が少しずつ崩れる。ファンデーションが白い綿へ移っても、輪郭は何も変わらない。同じ目、同じ口元のまま、名前だけが剥がれていくようで気持ちが悪かった。
妹に会えば、何かを言わなければならない。
名前使っていました、と言うのか。
ごめんなさい、と言うのか。
違うんです、と言うのか。
鏡の前で並べると、どの言葉も整いすぎていた。あの夏の一日までまとめて返せるみたいな顔をしていて、余計に汚かった。
どれを選んでも、傷だけは確実に残る。
それでも一番怖いのは、妹ではなかった。
祥子に知られることだった。
祥子が見ている「初華」は、初音がどうにか作り続けてきた名前だ。その名前の根が、自分じゃないと知られた瞬間に、今ある距離も、やっと立っていられる理由も、全部崩れる気がした。
あの日だけは本当に光の中にいた、と信じている自分まで、嘘になる気がした。
「……最低」
鏡の中の自分へ向けて、初音は小さく言った。
盗んだんじゃない、と言い訳が喉まで来る。借りていただけだ、と続けたくなる。でもその言い方がいちばん卑怯だと、自分でわかっている。
光のそばにいたかった。
それだけだ、と言い切れたらまだましだった。祥子に「初華」と呼ばれるたび、嬉しさと吐き気が同じ場所に溜まる理由を、それでは説明しきれない。
素顔に近づくほど、鏡の中の自分は妹によく似る。そのくせ、ここまで来ても返せるものが何ひとつない。コットンを持つ指先がわずかに震えて、初音は太ももへ手を押しつけた。止まれ、と言い聞かせるみたいに。
ドアがノックされた。
「三角さん、次の現場、押してます」
一拍遅れて、「はい」と返す。返事だけは間に合った。
初音はコットンを捨てた。鏡の前に並んだ道具を元の位置へ戻す。リップを引き直し、前髪を整え、口角を少しだけ上げる。
仮面を作るのは、もう習慣だった。
でも今日は、習慣だけで持っている感じがした。少しでも手順を飛ばせば、全部の線がずれそうだった。
初音は立ち上がって、もう一度だけ鏡を見た。
妹に会う前に、祥子にばれる前に、何かを返さなければいけない。
そう思いながら、まだ何ひとつ返せないまま、初華の顔でドアを開けた。