初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第8話 前編:下に広げた手

 湯を止めた瞬間、台所が急に広くなった。

 

 プラネタリウムの翌日だった。

 昨日、燈ちゃんに「歌って」と返したばかりなのに、台所にはまだ別の返事の遅れが沈んでいる気がした。

 

「詩船さん」

 

「なに」

 

「うちの母のこと、知ってますか」

 

 皿を持つ手を止めたまま聞くと、後ろで湯呑みの置かれる小さな音がした。

 

 ずっと違和感はあった。河原で拾っただけの中学生を、その日のうちに家へ入れて、条件までつけて居候を始めさせた手際。母からの入金が、一度も止まらなかったこと。誰も場所を聞いてこないのに、落ちた時に拾ってくれるかもしれない手だけは、先に広がっていたみたいな感じ。

 

「知ってるってほどじゃないけどね」

 

 詩船さんはお茶をひと口飲んでから言った。

 

「昔、お母さんがバンドやってた頃に少し」

 

 蛇口を握る指に力が入った。

 

「バンド?」

 

「ベース。私がまだ店を回してた頃、顔みたいなもんだったよ。客を連れてくるし、音もよかった」

 

 母とベースが、私の中でなかなか繋がらない。島での母は、台所と通帳と無言の人だった。音を鳴らす姿なんて、一度も見たことがない。

 

「それっきりだったけど、去年の春に電話が来た」

 

 去年の春。私が東京へ出たあとだ。

 

「『娘がそっちにいるかもしれない。見かけたら放っておかないでください』って」

 

 洗いかけの皿が、泡の中で少し滑った。

 

 偶然じゃなかった。

 

 母は知っていた。私が東京へ落ちることを。少なくとも、落ちた時に手を伸ばしてくれる人だけは、先に作っていた。

 

「月に一度、連絡も来るよ」

 

 詩船さんが続ける。

 

「元気ですかって。私は毎回、元気ですよって返してる」

 

 胸の奥が変なふうに軋んだ。

 

 止めなかった。問わなかった。慰めなかった。

 

 でもそのかわり、下に手だけは広げていた。

 

 それが優しさなのか、あの人なりの距離感なのか、まだ判断できなかった。ただ、放置だと思っていたものの下に、別の形があったのは確かだった。

 返されていなかったものは、一つじゃなかった。

 

 喉の奥が、急に熱くなった。泣くつもりはなかった。泣く理由もまだわからなかった。でも蛇口を握る手が白くなっていて、顎の奥の筋肉が勝手に強張っている。しばらくそのまま立っていたら、詩船さんが後ろで茶碗をもうひとつ出す音がして、それだけで収まった。収まっただけで、消えたわけじゃなかった。

 

 

    *

 

 

 翌日、RiNGへ行った。

 

 立希ちゃんなら、花咲川で「三角さん」と呼ばれている側のことを少しは知っているかもしれないと思ったからだ。自分と同じ名字なのに、今はその名字だけが手がかりみたいだった。

 

 カウンターでは立希ちゃんがグラスを拭いていた。私を見ると、一瞬だけ手が止まる。

 

「姉の、初音のこと聞きたい」

 

 立希ちゃんは布巾を置いた。

 

「何を」

 

「最近どうしてるか。学校、来てるか」

 

「来てない」

 

 早かった。迷いがないぶん、余計に冷える。

 

「一週間くらい。たぶんもっと」

 

「連絡先は」

 

「知らない。同じクラスってだけ」

 

 それだけ言うと、立希ちゃんはまたグラスへ視線を戻した。これ以上は踏み込まない線引きが、はっきりしている。

 

 私は店を出た。

 

 初音がいない。

 

 学校に来ていないなら、校門の前に立っていても仕方がない。

 残るのは、私でも知っていて、向こうも私を見つけやすい場所だった。最初に突っ込んで、最初に空振りした場所。あの事務所。

 

 

    *

 

 

 三日かけて、事務所の周りを歩いた。

 

 正面の自動ドア。搬入口。社員用らしい横の扉。裏手の細い坂。斜め向かいのベンチ。コンビニの前。人が立ち止まれそうな場所を、順番に潰していくみたいに歩いた。

 

 どこにもいなかった。

 

 一日目は、ただ見つからないだけだった。人の出入りが増える時間を狙ったのに、ガラスを抜けてくるのはスーツと紙袋ばかりで、夕方には足の裏ばかりが痛かった。

 

 二日目は雨だった。朝から降ると分かっていたのに、傘を持ってこなかった。持っていく余裕が頭になかった、と言い訳しながらビルの前へ行く。水を吸った制服の裾が膝の裏に貼りつく。重たい。歩くたびに靴の中でくちゃくちゃと音がする。

 軒下へ寄るたび、受付のほうから視線が来る気がした。自動ドアの向こうで、昨日もいた女の人がこちらを見て、それから内線みたいな受話器を取る。たまたまかもしれない。でも、たまたまで片づけるには二回目の視線は長かった。

 ビル脇の水たまりに目が落ちた。濡れた髪と、少しやつれた顔が映っている。姉と同じ顔だ。この顔でうろついていたら、そりゃ気づかれる。気づかれて、それでも出てこないなら。

 ふと、見つかったらどうするんだろう、と思った。何を言えるのか。問い詰めるのか。それとも——会いたくないから隠れているのかもしれないと、思考が角を曲がる。初音が隠れているのではなく、初音のほうが私を避けているのだとしたら、この足はただの押しかけだ。

 それでも立ち上がった。立ち上がったのは、確かめたかったからだ。理由はまだわからなくても。

 

 三日目は晴れた。晴れたぶん、昨日の雨が嘘みたいで、同じビルが別の場所に見える。歩く速度が一日目より遅い。身体が鈍いわけじゃなく、立つ場所を変えるたびに、向こうからはどう見えているのかを考えてしまう。

 搬入口の前に長くいたら、警備員にやんわり離された。斜め向かいのベンチに移っても、ガラスの奥の誰かと目が合った気がして、結局また裏手へ回る。そもそも今日も来ていないのかもしれないし、来ていても出てこられないのかもしれないと考え始める。

 

 見つかるわけがないのかもしれない。

 

 そう思い始めた四日目の夕方、詩船さんの家へ戻ると、玄関の土間で靴を脱ぐ手がやけに遅かった。三日ぶんの疲れが、足首から上がってくる。楽奈ちゃんがしゃがんでいた。

 

「手紙」

 

「え」

 

「ポスト」

 

 差し出された白い封筒に、私の名前が書いてあった。

 

 三角初華様。

 

 見覚えのある字だった。家で何度も見た字。帳簿でもメモでもなく、もっと昔のノートの端で見た字。

 

 封を切る。

 

 中は一枚だけ。

 

 明日の午後三時。花咲川の北門坂下。ひとりで来てください。――初音

 

 紙は軽いのに、手だけが妙に重かった。

 

 遅すぎる返事が、やっと届いた。

 

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