「ひとりで来てください」と書いてあったのに、私はひとりで行けなかった。
前日の夜に燈ちゃんへ連絡した。
「近くまで、一緒に来てくれない?」
理由は書かなかった。書けない種類のことだと、自分でもわかっていた。
「……うん」
返事はそれだけだった。
*
翌日、花咲川の北門へ向かう坂の途中で、燈ちゃんは石垣のところに立ち止まった。
「ここにいる」
「うん」
声は届かない。でも背中は見える。ひとりで向かわなければならないところまで、ひとりにしない距離だった。
私は坂を下りた。
ベンチに、初音が座っていた。
似ていた。
似ているのに、鏡じゃなかった。輪郭は同じでも、目の奥に溜まっているものが違う。疲れと、恐怖と、逃げきれなかった人の焦り。その三つが、私の顔にだけ借りてきたみたいに乗っていた。
「座って」
声が少し掠れていた。
私は隣に腰を下ろした。ベンチが小さく軋む。
そこで会話が始まると思っていたのに、始まらなかった。
風が坂の下から上がってきて、初音の髪を少しだけ揺らす。初音は一度口を開き、「久しぶり」とか「元気だった」とか、そういう入口になりそうな言葉を作りかけた。でも、どれも入口のまま落ちた。
膝の上の拳が一度緩んで、すぐまた硬くなる。爪の先が白い。
待っているあいだ、私の喉まで乾いていった。
*
「名前のこと」
ようやく、その一語が出る。
「……謝らなきゃいけないと思ってた」
「謝る?」
「勝手に使ったから」
初音の指が、帽子のつばへ伸びた。隠したいのに、隠し切れない子みたいな動きだった。
「借りたの。あなたの名前を」
奪われた、という私の脚本が、その言い方でまず一枚はがれた。
「なんで」
初音はすぐに答えなかった。
ベンチの端を見て、膝を見て、遠くの校門を見る。それからようやく、声になる。
「祥ちゃんのそばにいたかった」
短い。それだけなのに、他の弁解よりずっと重かった。
私は息を吸ったまま止まる。
祥ちゃん。島の別荘。窓辺。白いワンピース。紙ナプキンに書いた詩。
初音は自分で自分の言い訳を潰すみたいに、少し首を振った。
「借りただけだって言いたかった。盗んでないって」
そこで声が止まる。
帽子のつばを、今度は掘るみたいに掴んだ。布に爪が引っかかる小さな音がした。私は何も言えなかった。言えないまま置いた隙間を、初音が自分で壊す。
「でも違う。光のそばにいたかっただけ」
それは、言い訳の終わりだった。
「色紙のことも、知ってた」
息が止まる。
「リビングの壁にあったでしょ。『アイドルになる!』って。毎日見てた」
初音の声が、そこで初めて少し崩れた。
「知ってて使った。あなたの名前も、夢も」
泣いてはいなかった。でも、泣く一歩手前のところで、ずっと踏ん張っている顔だった。
「祥ちゃんに知られたら?」
考えるより先に、私の口がそう聞いていた。
初音の目が揺れる。
「終わる」
その一語だけで十分だった。
ああ、この人は私を傷つけるために来たんじゃない。ただ、全部が崩れる前に、いちばん傷つける相手へ先に返さなきゃいけないと思って来たのだ。
「だから会いに来た」
初音が言う。
「あなたには、本当のことを言わなきゃいけないと思ったから」
返事を待つ沈黙が落ちた。
私は何かを言うつもりだった。怒ってないとか、もういいとか、そういう形になればいいと思っていた。
でも、身体のほうが追いつかなかった。
頭の中で剥がれた脚本の下には、まだ次の台詞がなかった。
初音は少しだけ待った。
待って、それでも返事が来ないとわかると、帽子をかぶり直し、マスクをつけた。立ち上がる。振り返らない。
私はベンチに残った。
背中が坂の角で見えなくなってからも、すぐには立てなかった。ベンチの軋みだけが、さっきまでそこに二人いたことを何度も繰り返していた。
*
坂の上では、燈ちゃんが最初に私の顔を見た。
何も聞かなかった。ただ、少しだけ体の向きをこちらへ寄せる。
「……帰ろう」
「うん」
歩き出してから、足元が少しおぼつかなかった。燈ちゃんが手を出す。私はその手を掴んだ。冷たいのに、確かにここにある温度だった。
信号を渡る。車の音。コンビニの白い灯り。夕方の空の色が、オレンジから灰へ薄くなっていく。
歩きながら、頭の中の何かが次々にはがれていく。
奪われたから動けなかった。
そう思っていた。でも違う。初音を悪者にしておけば、自分が止まっていた理由をきれいに説明できた。それにしがみついていただけだ。
初音は弱いのかもしれない。卑怯なのかもしれない。最低なのかもしれない。
でも、それと私が止まっていたことは別だ。
足が重くなる。歩幅が落ちる。喉の奥が詰まって、息を吸うたび胸の奥で何かが引っかかる。まだ泣いてはいないのに、身体のほうが先に遅れ始める。
信号で止まった。赤の点滅が少し滲む。触れてもいないのに、目の前が一瞬だけ濡れた。あれ、と思った。思ったけれど、そのまま歩いた。
三歩、四歩。
また足が止まった。
「初華?」
燈ちゃんの声が横から来る。
そこで初めて、自分の顔が崩れていることに気づいた。
前触れはなかった。目の奥が熱くなる感じも、声が震える感じもない。ただ、顔が先に崩れた。記憶を思い出してから一度も泣いてこなかったぶんが、遅れて一気に来たみたいだった。
被害者でもなかった。
加害者でもなかった。
ただ、迷子だった。
あの夏からずっと。
父が死んだ夜からずっと。
名前を理由に止まっていたこの一年も、ずっと。
初音を悪役に固定しておけば、自分が止まっていても許される気がした。
その情けなさと、初音を一人で震えさせていた事実と、理由を外へ置き続けた一年分が、まとめて遅れて痛くなる。
燈ちゃんは何も言わなかった。
問い詰めない。慰めを急がない。ただ隣で歩幅を合わせる。時々、袖が触れる。そのたびに「ここにいる」とだけ言われている気がした。
*
詩船さんの家へ着く前に、燈ちゃんがポケットを探った。
小さな石を、私の手のひらに載せる。
「持ってて」
それだけ言って、燈ちゃんは帰っていった。
部屋へ戻ってからも、しばらく石を握ったまま座っていた。泣き止んだあとの静けさは、前より少しだけ薄い。何も解決していないのに、空気だけが違う。
それでも、もう前と同じ空白じゃなかった。
理由がなくても、返したいと思った。
償いのためじゃなく、怒りのためでもなく、誰かに認められるためでもなく。
ただ、今度は自分のほうから。
その感覚だけが、まだ熱の残る喉の奥に触れていた。