泣いた翌朝も、出汁の匂いはいつも通りだった。
台所の椅子に座る。味噌汁の湯気が上がる。楽奈ちゃんはまだ寝ていて、詩船さんは冷蔵庫の前で賞味期限と戦っている。昨夜あれだけ泣いたのに、焼き鮭の皮はいつも通りぱちっと鳴って、味噌汁の椀もいつもの場所へ置かれる。世界は何も変わっていない。
変わったのは、私のほうだった。
鏡の中の顔はひどかった。目が腫れている。隠す気が起きない顔だった。
「話したいことがある」
燈ちゃんへ送ると、すぐに返ってきた。
「……うん」
その短さがありがたかった。
詩船さんは結局、腫れた目のことを聞かなかった。代わりに、たくあんをいつもより一枚多く置いた。そういうのが、あの人の返事だと今はわかる。
味噌汁を飲み終えても、身体のだるさは抜けなかった。泣いたあと特有の、顔だけ熱くて中身が空っぽになったみたいな朝だった。隠すための元気も、言い訳の形も、まだ戻ってこなかった。
*
公園のベンチで、私は初音との会話を最初から話した。
名前を借りた理由。色紙のこと。祥ちゃんの光のそばにいたかったこと。私が「奪われたからできない」を、自分の停止の言い訳に使っていたこと。
泣いたことは言わなかった。言わなくても、燈ちゃんは知っている。
全部話し終えると、燈ちゃんはしばらく黙っていた。ノートの端を指で押さえたまま、少しだけ俯く。
「……よかった」
「よかった?」
「泣けて」
それから、ゆっくり続ける。
「言い訳じゃなくなったから」
妙な言い方なのに、妙に正しかった。
私は小さく息を吐いた。
「もう、取り戻しに行くのやめる」
口にすると、思ったより静かな響きだった。
「初音がどう呼ばれるかじゃなくて、私が何を返すかのほうを考えたい」
燈ちゃんが顔を上げる。
「返す?」
「うん。燈ちゃんの言葉に」
それは、東京に来てから少しずつ始まっていた。ノートの端の空白に、最初の一行だけ置くこと。石を見て、何かに見えると返すこと。沈黙のまま終わらせないこと。
四歳の色紙の「アイドルになる!」を思い出す。ずっと、見られる側へ立つ夢だと思っていた。ライトの下で笑って、拍手をもらう夢だと。でも、今ほしいのは少し違う。呼んだ声に、ちゃんと返ってくるものを作ることだった。
「二人で、やらない?」
「二人?」
「ユニット。バンドじゃなくてもいい。燈ちゃんが歌って、私がアコギ弾いて、短い言葉を返すやつ」
燈ちゃんの手が、膝の上のノートを押さえた。
さっきまで開いていたのに、指が表紙を閉じかけている。反射みたいな動きだった。
わかる。
二回だ。CRYCHICの初ライブの直後にバンドが壊れた。MyGOの春日影でも壊れた。燈ちゃんにとって、人前で音を出すことは二回連続で崩壊とセットだった。
だから、急かさなかった。
風が一度、公園の木を揺らした。ブランコの鎖が錆びた音を立てる。燈ちゃんはその音が消えるまでずっとノートの表紙を押さえていた。
「……バンドは」
声が小さい。
「また壊れる」
私は頷いた。否定できない。二回壊れたものが、三回目は壊れないなんて、誰にも言えない。
「バンドじゃないよ」
「……」
「五人も四人もいない。燈ちゃんと、私だけ。燈ちゃんが歌って、私が返す。今まで縁側でやってたことを、もう少しだけ遠くまで届ける。それだけ」
燈ちゃんの指が、ノートの表紙の上で止まった。閉じかけていた手が、少しだけ力を緩めている。
「……壊れない?」
「わかんない」
正直に言った。嘘で安心させたくなかった。
「でも、壊れそうになったら止まれる。二人なら。片方が止まったら、もう片方が待てばいい。今までずっと、そうしてきたでしょ」
燈ちゃんは少しだけ俯いた。それから、ゆっくりノートの表紙から指を離した。
「……やりたい」
声はまだ小さい。でも、怖がっている時の震え方じゃなかった。怖さを通り越した先で、それでも手を伸ばす時の声だった。
その一言で、空気が少し変わった。
「名前、どうする」
聞いたあと、自分で少し黙った。
そのまま燈ちゃんに任せてもよかった。でも、今は違う気がした。取り戻される側じゃなく、自分で与え直す側に回ってみたいと思った。
膝の上の自分のノートを開く。ペンを持ったまま、すぐには紙に触れられなかった。名前を考えるだけで手が止まるなんて、一年前ならもっと別の意味だったはずだ。奪われたとか、本物はどっちとか、そういうほうへすぐ引っ張られていた。
今は、少しだけ違う。
誰かに返してもらう名前じゃなく、ここに置き直すために止まっている。
「エコリアって、どうかな」
燈ちゃんが瞬きをする。
「エコリア」
「echo みたいに、呼んだ声が返ってくる感じ。返ってきた声が、また次の声に触る感じ。止まらないで、少しずつ広がっていくやつ」
そこで少しだけ照れた。語源を説明したいわけじゃない。私が今言いたいのは意味じゃなくて、手触りだ。
「語尾は……柔らかいほうがいい気がして。尖ってない名前」
燈ちゃんはノートを開いた。
「綴り」
私は自分のノートを一度見た。それから、空いている端にゆっくり書く。
Echolia。
書いたあと、すぐにペンを離せなかった。
八文字の真ん中に自分の視線が引っかかる。変な感じだった。名前を奪還対象じゃなく、自分たちのほうへ置き直した気がしたからだ。誰かから返してもらう名札じゃない。いまここで、二人で鳴らす音のために置く名前だった。
燈ちゃんがノートを少しこちらへ寄せる。
私はその端を指で示した。
「どう?」
燈ちゃんは、綴りと私の顔を交互に見た。
「……返ってくる」
「うん」
「止まらない」
「うん」
「いい」
その言い方が、思ったより強かった。
燈ちゃんはその下に、今度は自分の字で `Echolia` と書き直した。ノートの上の八文字だけがやけにまっすぐ見えた。
帰る時、燈ちゃんは何度もその綴りを見直していた。決意というより、まだ少し照れている顔だった。その照れ方が、かえって本気に見えた。私も自分のノートの端に同じ綴りを書いてみて、ひとりで少しだけ照れた。