初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第9話 前編:言い訳が消えた朝

 

 泣いた翌朝も、出汁の匂いはいつも通りだった。

 

 台所の椅子に座る。味噌汁の湯気が上がる。楽奈ちゃんはまだ寝ていて、詩船さんは冷蔵庫の前で賞味期限と戦っている。昨夜あれだけ泣いたのに、焼き鮭の皮はいつも通りぱちっと鳴って、味噌汁の椀もいつもの場所へ置かれる。世界は何も変わっていない。

 

 変わったのは、私のほうだった。

 

 鏡の中の顔はひどかった。目が腫れている。隠す気が起きない顔だった。

 

「話したいことがある」

 

 燈ちゃんへ送ると、すぐに返ってきた。

 

「……うん」

 

 その短さがありがたかった。

 

 詩船さんは結局、腫れた目のことを聞かなかった。代わりに、たくあんをいつもより一枚多く置いた。そういうのが、あの人の返事だと今はわかる。

 

 味噌汁を飲み終えても、身体のだるさは抜けなかった。泣いたあと特有の、顔だけ熱くて中身が空っぽになったみたいな朝だった。隠すための元気も、言い訳の形も、まだ戻ってこなかった。

 

 

    *

 

 

 公園のベンチで、私は初音との会話を最初から話した。

 

 名前を借りた理由。色紙のこと。祥ちゃんの光のそばにいたかったこと。私が「奪われたからできない」を、自分の停止の言い訳に使っていたこと。

 

 泣いたことは言わなかった。言わなくても、燈ちゃんは知っている。

 

 全部話し終えると、燈ちゃんはしばらく黙っていた。ノートの端を指で押さえたまま、少しだけ俯く。

 

「……よかった」

 

「よかった?」

 

「泣けて」

 

 それから、ゆっくり続ける。

 

「言い訳じゃなくなったから」

 

 妙な言い方なのに、妙に正しかった。

 

 私は小さく息を吐いた。

 

「もう、取り戻しに行くのやめる」

 

 口にすると、思ったより静かな響きだった。

 

「初音がどう呼ばれるかじゃなくて、私が何を返すかのほうを考えたい」

 

 燈ちゃんが顔を上げる。

 

「返す?」

 

「うん。燈ちゃんの言葉に」

 

 それは、東京に来てから少しずつ始まっていた。ノートの端の空白に、最初の一行だけ置くこと。石を見て、何かに見えると返すこと。沈黙のまま終わらせないこと。

 

 四歳の色紙の「アイドルになる!」を思い出す。ずっと、見られる側へ立つ夢だと思っていた。ライトの下で笑って、拍手をもらう夢だと。でも、今ほしいのは少し違う。呼んだ声に、ちゃんと返ってくるものを作ることだった。

 

「二人で、やらない?」

 

「二人?」

 

「ユニット。バンドじゃなくてもいい。燈ちゃんが歌って、私がアコギ弾いて、短い言葉を返すやつ」

 

 燈ちゃんの手が、膝の上のノートを押さえた。

 

 さっきまで開いていたのに、指が表紙を閉じかけている。反射みたいな動きだった。

 

 わかる。

 

 二回だ。CRYCHICの初ライブの直後にバンドが壊れた。MyGOの春日影でも壊れた。燈ちゃんにとって、人前で音を出すことは二回連続で崩壊とセットだった。

 

 だから、急かさなかった。

 

 風が一度、公園の木を揺らした。ブランコの鎖が錆びた音を立てる。燈ちゃんはその音が消えるまでずっとノートの表紙を押さえていた。

 

「……バンドは」

 

 声が小さい。

 

「また壊れる」

 

 私は頷いた。否定できない。二回壊れたものが、三回目は壊れないなんて、誰にも言えない。

 

「バンドじゃないよ」

 

「……」

 

「五人も四人もいない。燈ちゃんと、私だけ。燈ちゃんが歌って、私が返す。今まで縁側でやってたことを、もう少しだけ遠くまで届ける。それだけ」

 

 燈ちゃんの指が、ノートの表紙の上で止まった。閉じかけていた手が、少しだけ力を緩めている。

 

「……壊れない?」

 

「わかんない」

 

 正直に言った。嘘で安心させたくなかった。

 

「でも、壊れそうになったら止まれる。二人なら。片方が止まったら、もう片方が待てばいい。今までずっと、そうしてきたでしょ」

 

 燈ちゃんは少しだけ俯いた。それから、ゆっくりノートの表紙から指を離した。

 

「……やりたい」

 

 声はまだ小さい。でも、怖がっている時の震え方じゃなかった。怖さを通り越した先で、それでも手を伸ばす時の声だった。

 

 その一言で、空気が少し変わった。

 

「名前、どうする」

 

 聞いたあと、自分で少し黙った。

 

 そのまま燈ちゃんに任せてもよかった。でも、今は違う気がした。取り戻される側じゃなく、自分で与え直す側に回ってみたいと思った。

 膝の上の自分のノートを開く。ペンを持ったまま、すぐには紙に触れられなかった。名前を考えるだけで手が止まるなんて、一年前ならもっと別の意味だったはずだ。奪われたとか、本物はどっちとか、そういうほうへすぐ引っ張られていた。

 

 今は、少しだけ違う。

 

 誰かに返してもらう名前じゃなく、ここに置き直すために止まっている。

 

「エコリアって、どうかな」

 

 燈ちゃんが瞬きをする。

 

「エコリア」

 

「echo みたいに、呼んだ声が返ってくる感じ。返ってきた声が、また次の声に触る感じ。止まらないで、少しずつ広がっていくやつ」

 

 そこで少しだけ照れた。語源を説明したいわけじゃない。私が今言いたいのは意味じゃなくて、手触りだ。

 

「語尾は……柔らかいほうがいい気がして。尖ってない名前」

 

 燈ちゃんはノートを開いた。

 

「綴り」

 

 私は自分のノートを一度見た。それから、空いている端にゆっくり書く。

 

 Echolia。

 

 書いたあと、すぐにペンを離せなかった。

 八文字の真ん中に自分の視線が引っかかる。変な感じだった。名前を奪還対象じゃなく、自分たちのほうへ置き直した気がしたからだ。誰かから返してもらう名札じゃない。いまここで、二人で鳴らす音のために置く名前だった。

 

 燈ちゃんがノートを少しこちらへ寄せる。

 私はその端を指で示した。

 

「どう?」

 

 燈ちゃんは、綴りと私の顔を交互に見た。

 

「……返ってくる」

 

「うん」

 

「止まらない」

 

「うん」

 

「いい」

 

 その言い方が、思ったより強かった。

 

 燈ちゃんはその下に、今度は自分の字で `Echolia` と書き直した。ノートの上の八文字だけがやけにまっすぐ見えた。

 

 帰る時、燈ちゃんは何度もその綴りを見直していた。決意というより、まだ少し照れている顔だった。その照れ方が、かえって本気に見えた。私も自分のノートの端に同じ綴りを書いてみて、ひとりで少しだけ照れた。

 

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