練習は、その日から始まった。
詩船さんの家の縁側。河原のベンチ。RiNGの裏口の階段。どこでもよかった。必要なのは燈ちゃんのノートと、私の古いアコギと、返事を途中でやめないことだけだった。
河原のベンチで合わせた日は、風が少し強かった。
燈ちゃんの前髪が頬にかかるたび、ノートを持つ手首だけが小さく動く。私はケースからアコギを出して膝に乗せたまま、まだ弾かなかった。先に鳴るのは、だいたい燈ちゃんのほうだからだ。
しばらくして、燈ちゃんがノートに一行だけ書いた。
呼んだのに
そこで止まる。
ペン先が紙の上に触れたまま、次の言葉を待っていた。川のほうで自転車のブレーキが短く鳴る。草の先が風で一斉に倒れて、また戻る。そのあいだも、燈ちゃんは次を書かなかった。
「ここにいる、は?」
私が言うと、燈ちゃんは少し考えてから、首を横に振った。
「……近すぎる」
「近すぎる?」
「すぐ、助けに来る感じ」
私は小さく頷いた。
たしかにそうだった。
呼ばれて、間髪入れずに隣へ行ける言葉だ。
でも燈ちゃんが今ほしがっているのは、そういう正解の早さじゃない。
「じゃあ、まだ切れてない」
「……きれい」
「きれいはだめか」
「だめじゃ、ない。でも」
「でも?」
「それだと……整いすぎる」
燈ちゃんはノートの端を親指で押さえた。
否定したいんじゃない。
そこじゃない、と言っている顔だった。
私はすぐには書き直さなかった。アコギの胴を爪先で軽く支えて、六弦だけを鳴らす。半端な低い音が、風の中で少し揺れた。呼んだのに、のあとに来るなら、もっと遅れて届くほうがいい。すぐ救うんじゃなくて、遅れても受け取っているとわかるほうがいい。
「……聞こえてる、かな」
燈ちゃんが顔を上げた。
それまでずっと伏せられていた目が、そこでようやくまっすぐこっちを見た。
「……それ」
短かったけど、今まででいちばん迷いのない返事だった。
燈ちゃんは私のほうへノートを少し寄せて、自分の字で下に並べた。
呼んだのに
聞こえてる
たった二行なのに、紙の上で往復になった。
私はその下にコードを一つだけ書き足した。燈ちゃんが小さくハミングする。まだ歌というには短すぎる断片だったけれど、片道じゃない形だけはもうできていた。
「これなら、返ってくるね」
私が言うと、燈ちゃんはノートを見たまま頷いた。
「……待ってたぶんだけ」
その二行が、骨になった。
別の日には、そこへ「なくならないもの」や「夜にだけ返ってくる声」が繋がった。うまくいく日もあれば、ハミングだけで終わる日もあった。ノートを開いたまま雨を見て帰る日もあった。
それでも、前とは違った。
だめでも、次に何を返すかが残る。沈黙で終わらない。燈ちゃんの言葉は内側から始まる。私はそこへ、外へ届くための取っ手を探す。二人でやると、そういう手戻りが増える。増えるぶんだけ、ひとりで抱え込まなくて済んだ。
ある午後、RiNGのカウンターで燈ちゃんと練習音源を確認していた時だった。
ポケットから星のついたピックを覗かせた店員が、カウンター越しにこっちを覗き込んだ。見たことのない顔だった。やけに目がきらきらしている。
「それ、いいね! おもしろそう!」
声が大きい。店内の空気がその一言で少し跳ねた。
「オープンマイク、来週ひと枠空いてるけど——やる?」
私は燈ちゃんを見た。
燈ちゃんは少し考えて、それから頷いた。
「やりたい」
返事が早かった。怖がっている時の子じゃなかった。
店員は「よし!」と両手を叩いて、そのまま奥へ走っていった。嵐みたいな人だった。名前も聞いていない。でも、あの「おもしろそう」だけで、ライブが決まった。
見知らぬ誰かの衝動が、私たちの背中を押した。身内の計らいじゃなく、ただの勢い。それが、なんだか嬉しかった。
ライブが決まってからの数日は、練習の空気も変わった。燈ちゃんは歌い出しの前に一度深呼吸するようになったし、私は曲間のつなぎを気にするようになった。本番を想定すると、生活の手つきまで少し変わる。
ライブ当日、RiNGの入口はいつもより狭く見えた。
ケースの持ち手が手汗で少し滑る。
開店前のガラスに、私と燈ちゃんが並んで映っていた。二人しかいないのに、逃げ場まで半分になった感じがした。
燈ちゃんはノートを胸の前で抱えたまま、親指だけで表紙の角を何度も撫でていた。開きたいのか、閉じたままでいたいのか、自分でも決めきれていない手つきだった。
「今ならまだ、腹痛ってことにして逃げられるけど」
言ってから、自分で笑わなかった。
燈ちゃんも笑わない。ただ一回だけ、私のケースの持ち手を見る。
「……逃げたら」
「うん」
「初華ちゃんが、あとでずっと悔しい」
否定じゃなく、予言みたいな言い方だった。
図星すぎて、私は肩をすくめた。
「じゃあ行くしかないか」
「……うん」
短い返事だった。
でも、その一音だけで足が前に出た。