初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第9話 中編:返事の形

 

 練習は、その日から始まった。

 

 詩船さんの家の縁側。河原のベンチ。RiNGの裏口の階段。どこでもよかった。必要なのは燈ちゃんのノートと、私の古いアコギと、返事を途中でやめないことだけだった。

 

 河原のベンチで合わせた日は、風が少し強かった。

 

 燈ちゃんの前髪が頬にかかるたび、ノートを持つ手首だけが小さく動く。私はケースからアコギを出して膝に乗せたまま、まだ弾かなかった。先に鳴るのは、だいたい燈ちゃんのほうだからだ。

 

 しばらくして、燈ちゃんがノートに一行だけ書いた。

 

 呼んだのに

 

 そこで止まる。

 

 ペン先が紙の上に触れたまま、次の言葉を待っていた。川のほうで自転車のブレーキが短く鳴る。草の先が風で一斉に倒れて、また戻る。そのあいだも、燈ちゃんは次を書かなかった。

 

「ここにいる、は?」

 

 私が言うと、燈ちゃんは少し考えてから、首を横に振った。

 

「……近すぎる」

「近すぎる?」

「すぐ、助けに来る感じ」

 

 私は小さく頷いた。

 

 たしかにそうだった。

 呼ばれて、間髪入れずに隣へ行ける言葉だ。

 でも燈ちゃんが今ほしがっているのは、そういう正解の早さじゃない。

 

「じゃあ、まだ切れてない」

「……きれい」

「きれいはだめか」

「だめじゃ、ない。でも」

「でも?」

「それだと……整いすぎる」

 

 燈ちゃんはノートの端を親指で押さえた。

 

 否定したいんじゃない。

 そこじゃない、と言っている顔だった。

 

 私はすぐには書き直さなかった。アコギの胴を爪先で軽く支えて、六弦だけを鳴らす。半端な低い音が、風の中で少し揺れた。呼んだのに、のあとに来るなら、もっと遅れて届くほうがいい。すぐ救うんじゃなくて、遅れても受け取っているとわかるほうがいい。

 

「……聞こえてる、かな」

 

 燈ちゃんが顔を上げた。

 

 それまでずっと伏せられていた目が、そこでようやくまっすぐこっちを見た。

 

「……それ」

 

 短かったけど、今まででいちばん迷いのない返事だった。

 

 燈ちゃんは私のほうへノートを少し寄せて、自分の字で下に並べた。

 

 呼んだのに

 聞こえてる

 

 たった二行なのに、紙の上で往復になった。

 

 私はその下にコードを一つだけ書き足した。燈ちゃんが小さくハミングする。まだ歌というには短すぎる断片だったけれど、片道じゃない形だけはもうできていた。

 

「これなら、返ってくるね」

 

 私が言うと、燈ちゃんはノートを見たまま頷いた。

 

「……待ってたぶんだけ」

 

 その二行が、骨になった。

 

 別の日には、そこへ「なくならないもの」や「夜にだけ返ってくる声」が繋がった。うまくいく日もあれば、ハミングだけで終わる日もあった。ノートを開いたまま雨を見て帰る日もあった。

 

 それでも、前とは違った。

 

 だめでも、次に何を返すかが残る。沈黙で終わらない。燈ちゃんの言葉は内側から始まる。私はそこへ、外へ届くための取っ手を探す。二人でやると、そういう手戻りが増える。増えるぶんだけ、ひとりで抱え込まなくて済んだ。

 

 ある午後、RiNGのカウンターで燈ちゃんと練習音源を確認していた時だった。

 

 ポケットから星のついたピックを覗かせた店員が、カウンター越しにこっちを覗き込んだ。見たことのない顔だった。やけに目がきらきらしている。

 

「それ、いいね! おもしろそう!」

 

 声が大きい。店内の空気がその一言で少し跳ねた。

 

「オープンマイク、来週ひと枠空いてるけど——やる?」

 

 私は燈ちゃんを見た。

 

 燈ちゃんは少し考えて、それから頷いた。

 

「やりたい」

 

 返事が早かった。怖がっている時の子じゃなかった。

 

 店員は「よし!」と両手を叩いて、そのまま奥へ走っていった。嵐みたいな人だった。名前も聞いていない。でも、あの「おもしろそう」だけで、ライブが決まった。

 

 見知らぬ誰かの衝動が、私たちの背中を押した。身内の計らいじゃなく、ただの勢い。それが、なんだか嬉しかった。

 

 ライブが決まってからの数日は、練習の空気も変わった。燈ちゃんは歌い出しの前に一度深呼吸するようになったし、私は曲間のつなぎを気にするようになった。本番を想定すると、生活の手つきまで少し変わる。

 

 ライブ当日、RiNGの入口はいつもより狭く見えた。

 

 ケースの持ち手が手汗で少し滑る。

 開店前のガラスに、私と燈ちゃんが並んで映っていた。二人しかいないのに、逃げ場まで半分になった感じがした。

 

 燈ちゃんはノートを胸の前で抱えたまま、親指だけで表紙の角を何度も撫でていた。開きたいのか、閉じたままでいたいのか、自分でも決めきれていない手つきだった。

 

「今ならまだ、腹痛ってことにして逃げられるけど」

 

 言ってから、自分で笑わなかった。

 燈ちゃんも笑わない。ただ一回だけ、私のケースの持ち手を見る。

 

「……逃げたら」

「うん」

「初華ちゃんが、あとでずっと悔しい」

 

 否定じゃなく、予言みたいな言い方だった。

 図星すぎて、私は肩をすくめた。

 

「じゃあ行くしかないか」

「……うん」

 

 短い返事だった。

 でも、その一音だけで足が前に出た。

 

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