ライブの日、RiNGの小さなステージは、思ったより明るかった。
客は多くない。十五人もいないくらい。半分は他の出演者の知り合いだと思う。
それで十分だった。
私は椅子に座ってアコギを抱えた。ケースの蓋の内側には、四歳の字で「アイドルになる!」が貼ってある。客席からは見えない位置だった。見えなくてよかった。これは見せ札じゃない。私がここへ座る理由を、演奏の直前に確かめるための紙だった。
燈ちゃんがマイクの前に立つ。客席の息づかいが、薄い暗がりの向こうにまとまっている。
マイクスタンドが少し高くて、燈ちゃんは本番直前に一段下げた。そんな細かい動作まで、今日はやけに目に入る。
手のひらが少し汗ばんでいた。指先の皮膚が、弦に触れる前から薄くひりついている。
最初の一音を鳴らす。
古いアコギの木が、少しだけ遅れて返ってくる。完璧な音じゃない。でも隙間がある。その隙間に、燈ちゃんの声が入ってくる。
「呼んだのに」
低く始まる。
私は二小節ぶんだけ待って、サビ頭の一行を返す。
「聞こえてる」
燈ちゃんの目が、ほんの少しこちらを向く。そこでまた、自分の言葉が続く。
呼びかけと返事。
ひとりで書いた傷と、誰かに届く形。
一曲目の終わりで、前列の子が膝の上に置いていた手を少し持ち上げて、でも打つ前に止めた。知らない音に、どこで返していいか測っているみたいだった。
二曲目に入ると、その子の靴先が先に拍を取った。隣の席の肩が、それにつられるみたいに小さく揺れる。
燈ちゃんが「呼んだのに」を少しだけ長く伸ばす。私はいつもより半拍だけ遅らせて、「聞こえてる」を返した。
そのあとだった。
ぱち、と一つだけ手が鳴る。少し遅れて、もう一つ。揃ってはいない。きれいでもない。でも、その迷いごとこっちに返ってきた感じがした。
三曲目の終わりには、そのばらつきが前のほうでひとつの手拍子になった。
その瞬間、返ってきたのは音だけじゃなかった。
客席の目が、ちゃんとこっちを見ていた。燈ちゃんの声の横でギターを抱えている私ごと、舞台の上の一人として数えている目だった。
見られている、と思った。怖いより先に、身体の奥が熱くなった。
返ってくる場所まで鳴らしたい。それと同じくらい、私はたぶん、もっと明るい場所でも鳴らしてみたい。ライトの下で、ちゃんと見つかる側に立ってみたい。
その考えは一瞬だったのに、弦を押さえる指先だけが少し強くなった。
Echoliaの音が、初めて私たちの外で跳ね返った。見られている、とは少し違った。こっちが出したものが、向こうの身体を通ってまた返ってくる。ようやくそこで、四歳の色紙が言っていたことの半分くらいがわかった気がした。ライトの下へ立つことだけじゃない。返ってくる場所まで鳴らすことも、たぶんあの続きだった。
最後の音を止める。数秒の静けさ。それから拍手。
大きくはない。でも、ちゃんと返ってきた。義理の拍手じゃないのがわかった。前列の子が顔を上げたまま手を打って、奥の席の人が少し遅れて追いつく。そのずれごと、ちゃんと返事だった。
燈ちゃんがマイク越しに小さく息を吸って、私のほうを見る。
「……鳴った」
「うん」
それ以上の言葉はいらなかった。
舞台袖へ戻ってからも、指先のじんじんした痛みが残っていた。さっきまで押さえていた弦の跡が、まだ皮膚の内側で細く脈打っている。
ケースを開くと、蓋の内側の色紙が目に入った。四歳の丸い字は相変わらず子どもっぽいのに、今は前みたいに刺さらなかった。見せ札じゃなく、置いてきた夢でもなく、同じ夜の中にようやく並んだ感じがした。
観客へ返す音が初めて形になった夜だった。名前を証明したわけじゃない。初音に勝ったわけでもない。それでも、私の人生がちゃんと私の手の中へ返ってきた感じがした。
終わったあと、燈ちゃんはすぐノートを開かなかった。代わりに、客席から返ってきた拍手の残りを聞いているみたいに、しばらく目を閉じていた。
ふと、客席の隅に目が止まった。
出口に近い端の席。もう半分立ち上がりかけている影が、一つだけあった。照明が落ちかけた薄暗がりの中で、輪郭だけがぼんやり見える。
見覚えが、ある気がした。
追えば届く距離だった。声をかければ、振り向くかもしれない。
でも、足は動かなかった。
動かないのが、正しい気がした。あの影が初音かどうかなんて、確かめなくていい。確かめに行く人間は、もうやめたのだ。
影は、そのまま出口の向こうへ消えた。
約束は、まだ終わっていない。
でも少なくとも今夜だけは、義務じゃなかった。
返したいから返した。
それで十分だと思えた。
帰り道、燈ちゃんはようやくノートを開いた。
ページの上には `Echolia` の綴りだけが、まっすぐ残っていた。
その下は、まだ白かった。
白いままなのに、終わりではなかった。燈ちゃんには、まだ返したい相手が残っている。今夜の熱が大きかったぶんだけ、その白さは次の呼びかけみたいに見えた。
次回最終回です。初めての長編小説でしたがたくさんの方に読んでいただいて嬉しかったです。もう少しだけ初華の物語にお付き合いください。