初華じゃない方の初華   作:まつきた

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プロローグ(後編):名前が燃える夜

# プロローグ(後編):名前が燃える夜

 

 船が岸を離れると、島の灯りは思っていたより早く小さくなった。

 

 客室に戻ればいいのに、落ち着かなくて甲板に出た。風が冷たい。手すりを握る指がすぐ痛くなる。戻るなら港にいるうちだった、と船が動いてから気づくのは間抜けだが、たぶん人はそういう順番でしか後悔できない。

 

 リュックの底で、クリアファイルの角が手の甲に当たっていた。壁から剥がした色紙。あれを持ち出した時点で、私はもう半分、家に戻る気がなかったのだと思う。甲板には私のほかにも二、三人いたが、みんな自分の荷物と海しか見ていなかった。誰も私を止めないし、気づきもしない。そのことに少しだけほっとして、同じくらい寒くなった。

 

 なのに浮かぶのは、父の船を待って防波堤まで走った夜のことだった。エンジンの音が近づいてくるたび、姉と二人でどっちが先に見つけるか競った。父は魚と潮の匂いをまとって帰ってきて、たいてい何か一つ、港の売店で買った甘いものを袋から出した。初音は先に選ぼうとして、私は年下だからと文句を言って、父は笑いながら袋ごと押しつけてきた。

 

 あの人は、初音にも同じように笑った。

 

 血がどうとか、そういう面倒な話より先に、父はずっと家の真ん中にいた。だから、いなくなるなんて考えたこともなかった。

 

 

    *

 

 

 中学一年の夏、父が死んだ。

 

 朝は生きていた。夜には病院のベッドで動かなくなっていた。そのあいだのことを、私はうまく覚えていない。救急車のサイレンだけがやけに鮮明で、病院の壁の色も、医者の顔も、母が何を着ていたかも曖昧だった。

 

 覚えているのは、自分がずっと泣いていたことだ。

 

 病院でも、帰りの車でも、家に着いてからも、止めようと思うたび余計に出た。母も泣いていた。顔を覆って、声を殺して、それでも肩だけは隠せていなかった。

 

 泣いていなかったのは、初音だけだった。

 

 初音は私の背中をさすって、母にお茶を入れて、電話を取って、来客用の座布団まで出した。いつもと同じ顔ではなかった。少し青くて、硬くて、何かを食いしばっている顔だった。でも泣かなかった。

 

「初華、大丈夫」

 

 その声だけは、妙に静かだった。

 

 私は泣きながら頷いた。頷いたところで何も大丈夫じゃないのに、初音にそう言われると、一瞬だけ本当にそうなのかもしれない気がした。

 

 だから余計に、少し遠かった。

 

 同じ家にいるのに、初音だけ別の場所に立っているみたいで。

 

 

    *

 

 

 通夜が終わった夜、台所には洗い物が積まれていた。線香の匂いが家じゅうに残っていて、水道の音だけがやけに大きい。初音が流しの前に立っていた。背筋が伸びていた。普段と同じ立ち方なのに、肩だけが妙に固かった。

 

 私はその背中を見ていた。

 

 見ているうちに、胸の奥がまたぐずぐずになった。父はもう帰ってこない。母は黙ったまま部屋にいる。初音は泣かない。家の中の全部が昨日までと違うのに、私だけがいつまでも泣いている。

 

「初音」

 

 呼ぶと、初音の手が少し止まった。湯呑みを持ったまま、蛇口の水だけが流れ続ける。

 

「……なに」

 

 振り向かない声だった。

 

 私はそこでもう少しちゃんと考えるべきだったのだと思う。なのに、泣き疲れた頭はうまく回らなかった。慰めてほしかったのか、怒ってほしかったのか、自分でもわからないまま、口だけが先に動いた。

 

「初音は」

 

 喉がひきつる。

 

「パパが違うから、悲しくないんだ」

 

 水音がやんだ。

 

 その一瞬だけで、自分が言ってはいけないことを言ったのだとわかった。わかったのに、もう戻らない。

 

 初音が振り向いた。

 

 泣いていない顔だった。

 

 でも、泣いていないことのほうが痛かった。

 

「私だって」

 

 初音はそこで一回、息を詰めた。

 

「私だって、パパのこと好きだった」

 

 それだけだった。

 

 怒鳴り声じゃなかった。責める声でもなかった。だから余計に、どこにも逃げられなかった。

 

「ちが、」

 

 何をどう違うと言うつもりだったのか、今でもわからない。言葉は喉の奥でほどけた。初音はもう何も言わなかった。蛇口を閉めて、濡れた手を拭いて、そのまま私の横を通り過ぎた。

 

 肩が触れそうな距離だったのに、そこだけ海みたいに遠かった。

 

 

    *

 

 

 翌朝、初音の部屋は空だった。

 

 制服も私服も抜けたクローゼットに、ハンガーだけが等間隔で下がっている。机の上もきれいだった。昨夜までそこに人がいたことの方が嘘みたいで、だから余計に気持ちが悪かった。

 

 最初に浮かんだのは、置いていかれた、ではなかった。

 

 昨夜の言葉が、そのまま部屋ごと抜け落ちた、だった。

 

 私は入口に立ったまま動けなかった。泣こうとしても、今度はうまく出なかった。喉だけが熱い。

 

 母は何も言わなかった。探すとも、待つとも、怒るとも言わない。食卓の皿が二枚になり、洗面台のコップが二つになり、玄関の靴が二足になった。家の数字が三から二に変わって、一週間もすると、その形に生活が慣れた。慣れたことの方が痛かった。

 

 夜になると、父の使っていたマグカップだけが食器棚のいちばん端に残っていた。誰も捨てないし、誰も触らない。そういうものばかりが家の中に増えた。

 

 一度だけ、私は聞いた。

 

「……お母さん、初音は」

 

 母は包丁を止めなかった。まな板の上で何かを刻む音だけが返ってきた。何を切っていたかは覚えていない。ただ、返事の代わりに音だけが来たことを覚えている。

 

 私はその日から、家の中であまり喋らなくなった。

 

 前は、父が遅いと勝手に先に魚をつまんで怒られたり、どうでもいい話を食卓で何本もしたりしていたのに、いつの間にか、自分から口を開くのが怖くなった。明るく言ったことが誰かを傷つけるなら、黙っている方がましだと思った。

 

 そこからこの家は、止めない、問わない、慰めない、で回るようになった。いちばん辛いルールほど、妙に長持ちする。

 

 

    *

 

 

 フェリーが岸に近づく振動で、私は目を開けた。甲板の風が少しだけ弱くなっている。本土の港は、島より灯りが多かった。多いのに、よそよそしい。あの灯りのどこにも、私の家はない。

 

 タラップを下りる。コンクリートの地面は船より固くて、少し腹が立った。スマホを開く。母から連絡はない。学校からもない。グループチャットの通知は見ないことにした。見なくても、あそこに続きを待つ人間がいるのはわかる。

 

 地図アプリの矢印に従って、港からバスターミナルまで歩いた。夜の店の匂いがした。揚げ物、排気ガス、洗剤、海から少し離れた町の空気。島にはない匂いだった。知らない場所にいる感じが、歩くたびに増えていく。コンビニの前で立ち止まり、温かい缶コーヒーを買った。口をつけても味はよくわからなかった。ただ、熱だけが喉を通った。

 

 バスターミナルのベンチに座る。膝の上にリュックを抱えたまま、発車案内の数字を見続けた。東京行き。まだ少し時間がある。戻るなら今だと思った。ここから港へ引き返して、始発を待てば、昼には島に戻れる。

 

 頭の中で、それを一度やってみる。昼に帰って、玄関を開けて、母の背中を見る。月曜の朝、教室でまた聞かれる。姉のこと、名前のこと、いつから知っていたのか。どれにも答えはない。そのくせ、黙っていれば済む話でもない。

 

 そしてたぶん、私はまた見られる。

 

 三角初華なのに、sumimi の初華じゃない方として。

 

 それだけで胸の奥がひりついた。

 

 でも、それだけじゃなかった。

 

 私は画面の中の姉を見た。

 

 私の名前で笑っていた。

 

 どうしてそうなったのかを知らないまま、このまま島へ戻ったら、あの夜は一生そのままになる気がした。流しの前で振り向いた初音の顔も、私が言った最悪の一言も、何もかも。

 

 終わらせたくなかった。

 

 終わっているのかどうかだけでも、自分で確かめたかった。

 

 発車案内が切り替わった。東京行きの列に人が動き出す。私も立った。缶をゴミ箱に捨てて、チケットを見せて、荷物を抱えて、バスの階段を上がる。通路は狭く、シートの布は乾いた匂いがした。指定された窓側に座って、リュックを抱き直す。

 

 外では、バスターミナルの灯りが白く滲んでいた。エンジンが低く唸る。その音を聞いた瞬間、島の時間が体の中からもう一段遠ざかった。

 

 夜行バスが、ゆっくり走り出した。

 

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