Echoliaのライブが終わっても、熱はすぐには引かなかった。
RiNGの小さなステージで返ってきた拍手。燈ちゃんが送ってきた短い返信。終演後に二人で分けたぬるい炭酸。そういう細かなものが、数日遅れで身体の中に残っていた。
だから最初は、少し鈍かった。
縁側でアコギを抱えたまま、弾かずに腹のあたりを撫でている夜があった。手のひらにまだ拍手の余韻みたいなものが残っていて、それが心地よくて、それ以外の静けさを見ないふりしやすかった。
燈ちゃんの薄さに気づくのが。
*
練習は続けていた。
詩船さんの家の縁側。公園のベンチ。RiNGの隅。場所は変わるのに、燈ちゃんのノートが開く回数だけが少しずつ減っていく。
Echoliaの断片は書けている。二人で返し合うには十分なくらいの、短い一行や、呼吸みたいなメロディはまだ出てくる。
でも、四人の名前が同じ行に並びそうになると、そこで止まる。
楽奈ちゃん、立希ちゃん、愛音ちゃん。
名前は出る。個別の話もできる。
四人と話せない分をぶつけるように、四人を語る言葉が止まらない日もある。
燈ちゃんの紡ぐ物語を通じて、私は四人をよく知ることになった。
なのに、その先へ行かない。
MyGOの話になると、燈ちゃんの声だけ少し遠くなる。ノートの角を押す指に力が入り、ページをめくる前に閉じてしまう。
私はそれを見て見ぬふりしていた。
二人で返せているのだから、今はそれでいいと思いたかった。Echoliaがあるなら、燈ちゃんは前よりずっとましな場所にいる。そう思い込んでいた。
でも違った。
返ってくる声があるからこそ、燈ちゃんは沈みきらずに済んでいる。
同時に、自分から呼びに行くところまでは届かないまま、止まっている。
そのことに気づいてから、練習中の細かな沈黙が全部気になり始めた。
歌い終わったあと、燈ちゃんが一拍長く目を伏せる。
私が次のコードを探す前に、ノートが閉じる。
言葉が足りないんじゃない。向ける先が決まりきらないまま、喉のあたりで固まっている。
公園で合わせた日なんて、もっとわかりやすかった。
私は新しい断片にサビの頭だけ置いてみせた。燈ちゃんは「いい」と返した。でも、そのあとノートは開かなかった。膝の上で閉じたまま、ブランコの鎖の音だけを聞いていた。
見上げた先の空はまだ明るいのに、燈ちゃんの横顔だけ少し早く夕方に入っているみたいだった。
帰り道の電車でも、燈ちゃんはスマホを一度も開かなかった。窓に映る自分の顔と、トンネルごとの暗さだけを見ていた。私は声をかけず、吊り革にぶら下がる指だけを何度も握り直した。
夜、縁側に座っても、ノートは膝の上に置かれたままだった。表紙の角が少し擦り切れている。何度も開こうとして、開かないまま押さえた跡だった。その磨り減り方だけが、燈ちゃんがどれだけそこに止まっているかを物語っていた。
*
夏の虫は、返事の前によく鳴く。
その夜も、私が口を開いたあとで、やけに大きな声がひとつ混じった。
「最近、MyGOのノートだけ止まってるよね」
燈ちゃんの指が、表紙の角を撫でる。
開きもしないし、しまいもしない。
中途半端なまま押さえている手つきだった。
「……エコリアは、返ってくる」
「うん」
「初華が……返してくれるから」
そこで止まる。
生ぬるい風が、縁側の下の草を少し揺らした。
「でも」
次の一言が出るまで、ずいぶんかかった。
「みんなに返す言葉、まだ……うまく出ない」
やっぱりそうか、と思った。
Echoliaは二人の往復で成り立つ。燈ちゃんが投げたものに、私が返す。私が置いた一行に、燈ちゃんが歌で返す。
でもMyGOは違う。
燈ちゃんが、自分から呼びに行かなければ始まらない。
隣にいるだけでは、私はその代わりにはなれない。
「春日影のこと……私のせいだって、まだ思う」
燈ちゃんは俯いたまま言った。
「楽奈ちゃんも、立希ちゃんも、あのちゃんも……怒ってると思う。会いたい。連絡したい。また話したい。でも、怒ってる顔を見たら……たぶん、止まる」
私は石を握りかけて、やめた。
代わりに、自分の手のひらを膝の上で握る。
母のことを思い出していた。
怒りより先に沈黙が来て、何も返ってこなくなった時間を。
あれと比べれば、燈ちゃんの仲間はまだはっきりしている。
「怒ってるなら、まだ繋がってるよ」
燈ちゃんが顔を上げた。
「ほんとに切れたら、怒りもしない」
自分で言いながら、胸の奥が少し軋む。
「何も言わないし、聞きもしないし、傷ついた顔も見せない。燈ちゃんの仲間は、そうじゃないでしょ」
しばらく沈黙が続いた。
虫の声。
遠くの車の音。
縁側の板が、私たちの体重でかすかに鳴る音。
燈ちゃんはその全部を聞いてから、ようやく小さく息を吸った。
「……集めたい」
声は小さい。でも、今までの迷いとは違う硬さがあった。
「もう一回。みんなを」
「うん」
「でも、どうやって」
そこはすぐに答えられた。
「楽奈ちゃん」
「楽奈ちゃん?」
「理屈で戻る子じゃないから。最初に会って、音で返事をもらうなら、たぶん一番最初」
燈ちゃんは少し考えてから、ノートを開いた。
白いページの上に、ゆっくり名前を書く。
楽奈。
書き終わったあとも、すぐには次の行へ進まなかった。
でも、閉じなかった。
次の行に、細い線が一本だけ引かれる。予定でも歌詞でもない、ただ先へ進むための線。
その白さが、今の燈ちゃんにはたぶん必要だった。
次の行き先が、はっきり見えた。
待つだけで、指先が熱くなる日がある。
その日はまさにそうだった。
午後のRiNGの裏口の階段で、私と燈ちゃんは楽奈ちゃんを待っていた。昼の熱を吸ったコンクリートが、座っているだけでじわじわ脚の裏へ上がってくる。
店の前まで来るたび、燈ちゃんは入口で少し止まる。
会いたい相手ほど、最初の一歩が重いらしい。
「私、見てくる?」
「……うん」
RiNGの中は昼の匂いがした。まだ混みきる前のライブハウス特有の、洗い終わったグラスと機材の金属と、冷房の風が混ざった匂い。
カウンターには立希ちゃんがいた。グラスを磨きながら、私を見ると一度だけ眉を上げる。
「楽奈ちゃん、いる?」
「さあ。あの猫、予定なんか言わない」
予想通りだった。
でも、完全に知らない顔でもなかった。ほんの少しだけ視線が奥へ動いたのを見て、たぶん近くにはいるのだろうと思う。
外へ戻ると、燈ちゃんは階段の端に座っていた。ノートは膝の上で閉じたまま。待つ時は、なぜか開かない。
「いなかった。待つしかない」
「……うん」
私も隣に座って、アコギを出した。
待ちながら、音を置く。
返事の断片。まだ名前のない二小節。歌に育つ前の、息みたいなコード。
音を出していると、ただの待ち時間が少しだけ形を持つ。
一時間。
コンクリートが昼の熱を吸って、座っているだけで腿の裏へ上がってくる。燈ちゃんは何度かドアのほうを見たが、立ち上がらなかった。見に行って、会えなかった時の落胆まで先に引き受けたくないのだろう。私は一度だけ裏口の覗き窓へ近づいて、中の光を見た。ドラムの試し打ちみたいな短い音がして、すぐ止む。楽奈ちゃんの気配は、あるようなないようなままだった。
二時間目に入って、私は自販機で缶コーヒーを二本買った。燈ちゃんは半分しか飲まない。缶の冷たさだけを手に残して、また膝の上へ戻す。さっきまで熱かったコンクリートが、少しずつ冷え始めていた。指先の弦の跡も、一時間前より深くなっている。
燈ちゃんは途中で一度だけ、自分でドアを開けかけた。取っ手に触れて、二秒くらいそのまま止まって、それから手を離した。
「やっぱり、初華ちゃんが見て」
「いいけど」
「……いたら、呼んで」
その頼み方が、少しだけ情けなくて、少しだけ切実だった。私はもう一度中を覗きに行った。カウンターの向こうで立希ちゃんがこっちを見て、今度は露骨に「まだ待つの?」という顔をした。でも止めはしない。その曖昧さが、余計に待ち時間を長くした。
三時間目になると、さすがに今日は空振りかもしれないと思い始める。
指先に弦の跡が赤く残る。
階段の角に当たっていた腿の裏が痛い。
それでも、燈ちゃんは帰ろうと言わなかった。
もう少しだけ。
その言葉を口に出さないまま、ずっと待っている顔だった。
途中で一度だけ、燈ちゃんが「やっぱり今日は無理かも」と言いかけた。喉まで出かかって、一度飲み込んで、最後まで言わない。言ったら本当に終わる気がしたのだろう。その前に、一度だけ立ち上がりかけて、また座り直した。
私は答えの代わりに、さっきより少しだけ明るいコードを鳴らした。燈ちゃんは笑わなかったけれど、膝の上の指が少しだけほどけた。
階段の前を、楽器ケースを背負った高校生が二組通った。店の中からは、誰かがチューニングする高い音が一度だけ漏れてくる。待っているあいだも、RiNGの時間だけは普通に流れていく。その普通さが、少しだけきつかった。
その時、後ろで裏口のドアが開いた。
「初華、さっきからなにしてんの」
振り向くと、楽奈ちゃんがいた。
パーカーのポケットに手を突っ込んで、片手には抹茶ソーダ。いかにも今ここへ来たみたいな顔をしているのに、髪に店内の冷たい匂いが少し移っていた。
「待ってた」
「知ってる」
あっさり返ってくる。
その瞬間、三時間ぶんの待ちが一拍遅れて身体へ返ってきた。安心したのか腹が立ったのか、自分でもよくわからない。ただ、立ち上がろうとした膝だけが少し痺れていた。
楽奈ちゃんは一段降りて、私のギターを見る。
「ずっと聞こえてた」
「中にいたの?」
「いた。倉庫」
三時間、壁一枚向こうにいたらしい。私は思わず燈ちゃんのほうを見た。怒っていい場面のはずなのに、燈ちゃんは怒る前に安堵していた。会えたことのほうが先に来る顔だった。
最悪だと思いながら、少しだけ笑いそうにもなった。猫に試されていたみたいだ。
楽奈ちゃんの目が、そのまま燈ちゃんへ移る。
「で、なに」
燈ちゃんは一度だけ息を吸った。
「会いたかった」
楽奈ちゃんは、それだけだと足りないという顔をする。
「その先は」
「……続きを、やりたい」
「なにの」
「止まったままのやつ」
春日影という名前をここで先に置かないのは、燈ちゃんなりの誠実さだと思った。固有名詞にしてしまう前の、もっと痛い場所から話している。
「言葉は?」
「まだ、全部じゃない」
「全部ないのに?」
「うん。でも、楽奈ちゃんがいないと……書けない気がする」
楽奈ちゃんの目が、そこで少しだけ細くなる。
「じゃあ今、やってみて」
「今?」
「今」
燈ちゃんがこちらを見る。
私は頷いてアコギを構えた。
最初は何でもないアルペジオだった。三時間待つあいだに何度も触っていた、手癖に近い音。
その上に、燈ちゃんがまだ言葉になりきらないハミングを乗せる。
声は小さい。
でも、止まったままの場所を指している時の声だった。
楽奈ちゃんは黙って聞いていた。缶のプルタブをいじるのもやめて、耳だけでこちらを見ている顔。面白いかつまらないかを測る時の、あの少しだけ目つきの変わる顔だった。
途中でふっと店の中へ消える。三十秒ほどで、ギターを持って戻ってきた。たぶん勝手に借りてきた。
「ちょっとだけ」
誰の許可も取らずに座って、私の音の隙間へ当然みたいに入ってくる。
楽奈ちゃんのギターが入ると、同じ断片なのに急に輪郭が立つ。曖昧なままだった骨が、一度だけちゃんと立ち上がる。
ほんの三十秒。
曲にはなっていない。まだ骨だけだ。
それでも、止まったままのものが少しだけ先へ滑った感触はあった。
燈ちゃんが思わず一歩だけ前に出る。楽奈ちゃんはそれに気づいているのに、何も言わない。ただもう一度だけ短くフレーズを返した。
それが返事だった。
楽奈ちゃんはネックを撫でながら、小さく言う。
「……おもしろい」
燈ちゃんの目が、一気に明るくなった。
「ほんと?」
「燈がやるなら、考える」
それだけ残して、楽奈ちゃんは立ち上がる。裏口へ戻る直前、一度だけ振り返った。
「次、りっきーでしょ」
「……うん」
「避けられるよ」
言い方はそっけないのに、そこまで見えているのが楽奈ちゃんらしかった。
「どう避けるかも、だいたいわかる」
「え」
「でも、それは燈が行くやつ」
そこまで言って、今度こそドアの向こうへ消える。
ドアが閉まる。
夕方の風が一度だけ階段を抜けていった。
燈ちゃんはその場で、楽奈ちゃんが座っていた跡をしばらく見ていた。三時間待った階段の熱はもう抜けかけているのに、そこだけ少しだけ輪郭が残って見えた。
「おもしれー、って言った」
「言ったね」
「来るかも」
「うん」
そこで終わればよかったのに、次の現実はすぐ来る。
「でも、次は立希ちゃん」
明るくなった顔に、すぐ不安が差す。
それでも今回は消えきらなかった。
楽奈ちゃんから返ってきた一言が、次の一歩を押していた。