午後のRiNGの入り口脇の壁にもたれて、私は店内を見ていた。ガラス越しに見える燈ちゃんは、カウンター席でオレンジジュースのグラスを両手で抱えている。
立希ちゃんはグラスを磨いていた。
燈ちゃんの顔を見ない。
意図的なくらい見ない。
五分。
十分。
十五分。
二十分。
二十五分。
見ているこっちの喉まで乾いてくる。何度か、ドアの取っ手に指が伸びかけた。中に入って降ろせば早いのに、そのたびに引っ込めた。そうすれば燈ちゃんが自分で言う前に、私が済ませてしまう。ガラスの向こうに結露が薄くついて、店内の冷房の音だけがかすかに聞こえた。
燈ちゃんのオレンジジュースは、最初の十分で水滴をなくした。二十分を過ぎるころには、氷だけが残って、グラスの底に薄い色が沈んでいる。飲み切らないまま話し続けるのは、この子にしては珍しい。珍しいから、余計に異常さがわかった。
燈ちゃんは何度も口を開きかけては、グラスの縁で止まった。指先が白くなるくらい強く握っている。
逃げたいのに逃げない顔だった。
立希ちゃんだって気づいている。気づいているからこそ見ない。グラスを拭く布だけが無駄に何度も折り直されて、同じ場所を往復していた。
二十分を過ぎたあたりで、ようやくその口が長く動いた。
ガラス越しで言葉までは聞こえない。
でも、謝っている顔でも言い訳している顔でもなかった。
呼びに行っている顔だった。
立希ちゃんの手が止まる。
布でグラスを拭く動きが止まり、そのままゆっくり置かれる。エプロンで手を拭いて、カウンターの外へ出る。燈ちゃんの前に立って、短く何かを言う。
その瞬間、燈ちゃんの顔が崩れかけた。
次の瞬間には、立希ちゃんは裏口へ向かっていた。
逃げた。
燈ちゃんが慌てて立ち上がる。正面から店を出て、建物の角を回る。その背中を見た時点で、嫌な予感しかしなかった。
「立希ちゃん!」
角の向こうから、声。
次に聞こえたのは、擦れるような音だった。転んだのだとすぐわかる。
私は壁から身体を離した。
*
裏へ回ると、燈ちゃんが地面に両手をついていた。
膝から血が滲んでいる。制服の布に赤がにじみ、手のひらにも細かい砂がついていた。
立希ちゃんは数歩先で振り返っていた。
唇を噛んで、それでも戻らない。
「来ないで」
声だけが鋭く残る。
「燈に……合わせる顔、ない」
そこで考えるのをやめた。
足が先に動いていた。
路地へ入った立希ちゃんを追いかける。狭い道の片側に室外機が並んでいて、湿った風が足元を抜けていく。壁は鉄脚で補強されたモルタルで、片方の壁に肩が擦れそうなほど狭い。夕方の光が壁に薄く貼りついて、洗濯物の影だけが揺れていた。追いついているのに、距離は縮まない。身体が近いほど、心のほうが遠くなる種類の追走だった。
角を曲がるたびに、立希ちゃんの背中が一瞬だけ見えなくなる。その一瞬ごとに、いま引き返したら終わると思った。終わるし、その終わり方はたぶん燈ちゃんの中に長く残る。だから足を止める理由だけが、逆にどこにもなかった。
曲がり角には細い雑草が伸びていて、誰かが置きっぱなしにした自転車の前かごにチラシが詰まっている。逃げるにも、立ち止まるにも半端な路地だった。
すぐ追いつく。
「立希ちゃん」
「……関係ないでしょ」
「燈ちゃんが」
「関係ないって言ってる」
振り返らないまま、その声だけが硬い。
「海鈴連れてきたのも私。そよのこと、あそこでぶちまけたのも私」
そこで一度、息が詰まる。
「燈を守るつもりでやって、全部壊した。今さらどの顔で会えっていうの」
淡々としているみたいで、押さえているぶんだけ熱い声だった。
「私、メンバーじゃないから」
「そう」
「じゃあ、口出ししないで」
正論だった。
私は外の人間だ。メンバーの痛みに最後まで責任を持てる立場じゃない。
それでも、さっき地面に手をついた燈ちゃんの姿が、頭から離れなかった。
戻ったらたぶん間に合う。
でも、何も言わないまま戻っても、立希ちゃんはそのまま引き返してくれない気がした。
口が、考えるより先に動く。
「燈ちゃんは、ずっと待ってた」
立希ちゃんの足が止まった。
完全に止まったあとで、ゆっくり振り向く。
顔色が悪い。怒っているというより、心臓の近くをいきなり掴まれたみたいな顔だった。
「……なんで、あんたがその言葉」
まずい、と思った時にはもう遅い。
それはたぶん、私が使っていい言葉じゃなかった。立希ちゃんの体に古傷みたいに残っている響きの上を、外から踏んだ手応えがあった。
「知らない。でも」
「でも、あそこで転んでも追いかけたのは本当だよ。待ってたのも、本当だ」
立希ちゃんはしばらく黙っていた。
遠くでカラスが鳴く。
路地の奥で、配達のバイクが通り過ぎる音がする。
「……最悪」
立希ちゃんが小さく言った。
「そうだね」
「その言葉、あんたに使われたくなかった」
「うん」
「でも」
続きを言う前に、長く息を吐く。
その長さだけ、まだ戻りきっていないものが残っていた。
「……膝、ひどい?」
「血は出てた」
「バカ」
小さく吐き捨てて、来た道を戻り始める。
さっきまでの逃げる歩幅じゃない。間に合わせるための速さだった。
*
燈ちゃんはまだそこにいた。
座り込んだまま、膝を押さえている。血を見て泣いているわけではないのに、目だけが赤い。
立希ちゃんがしゃがみ込む。
ポケットから白いハンカチを出して、傷の上へそっと当てた。備品なのか私物なのかはわからない。でも、持っていたこと自体がもう答えみたいだった。
「……燈は走らなくていいんだよ」
言い方はぶっきらぼうなのに、手つきは完全に戻ってきている。
「逃げないから」
燈ちゃんの目から、そこでやっと涙が落ちた。
声は出ない。出ないかわりに、立希ちゃんの手だけをずっと見ている。
立希ちゃんは傷を押さえたまま、短く続ける。
「木曜、スタジオ取ってる」
「……うん」
「合わせるから」
それだけ言って立ち上がる。けれど、すぐには離れない。燈ちゃんが立てるのを一拍待ってから、ようやく手を離した。
戻っていく背中は、まだ硬い。
でも、もう完全に閉じてはいなかった。
私も少し遅れて立ち上がる。燈ちゃんの肩に砂がついていて、手を伸ばしかけてやめた。今は私の手より、立希ちゃんのハンカチのほうが意味を持つ。
裏口のところで、立希ちゃんが一度だけ振り返った。こっちじゃなく、燈ちゃんの膝を見ている。確認して、それから店へ戻っていった。
燈ちゃんはしばらく動けなかった。立希ちゃんのハンカチを膝に当てたまま、呼吸だけを整えている。ハンカチの白さに血が少しずつ滲んで、完全な白ではなくなっていく。その変化だけを、燈ちゃんはじっと見ていた。私は少し離れた位置で待った。ここで支えすぎると、また私が先に受け取ってしまう気がした。
「……来てくれた」
やっと出た声は、小さかった。
「うん」
「立希ちゃん、来てくれた」
私はその背中を見送りながら、さっきの一言の後味を噛んでいた。
間に合った。
たぶん、必要な追走でもあった。
でも、あの言葉は立希ちゃんのものだ。
借りた言葉で返したぶんだけ、胸の奥に小さな棘が残る。
燈ちゃんの膝には、立希ちゃんの白いハンカチが巻かれていた。
戻ってきたことだけは、疑いようがなかった。
だから余計に、あの一言のまずさだけが胸の奥で冷えた。
*
同じ校舎にいる相手ほど、会いに行くのが難しいことがある。
燈ちゃんと愛音ちゃんは毎日同じ学校へ通っている。それなのに、MyGOが壊れてからの二人は、話せていなかった。
目が合えば逸らす。
呼び止めようとすると、チャイムか人の波が間へ入る。
踊り場で靴音が聞こえて、背を引いて振り返ったこともあったらしい。でもそれは愛音ちゃんじゃなかった。別の授業の子が、同じリズムで階段を下りていっただけだった。
近いからこそ、逃げる余地も増える。
放課後に話そうとして、階段の踊り場で止まる。
昼休みに探して、結局購買の列に紛れる。
その繰り返しを、燈ちゃんは何日も続けていたらしい。
校舎も教室も同じだと、明日でいい理由もいくらでもできる。次の休み時間、次の昼休み、次の放課後。近い相手ほど先延ばしにできる。燈ちゃんの言葉が少しずつ遅くなっていたのは、そのせいもあったのだと思う。
「私、一人で行く」
RiNGの前のベンチで、燈ちゃんは珍しく言い切った。ノートの角を親指で押したまま、でも目だけは逸らさない。
「初華ちゃんがいると……頼っちゃうから」
その言葉は少しだけ痛かったし、少しだけうれしかった。
ちゃんと線を引こうとしているのがわかったからだ。
その日の夜、燈ちゃんから短いメッセージが来た。
「明日、話す」
それだけだった。
いつもならもう少し余白のある文を送る子が、そこだけは妙にまっすぐだった。
「わかった。待ってる」
私にできるのは、それだけだった。
*
翌日、私はRiNGで待っていた。
アコギの弦を一本ずつ拭く。クロスを折り直す。また拭く。やることがないと、手順だけが増える。
立希ちゃんがカウンターの向こうから見ていた。
「……落ち着かないの」
「うん」
「燈なら大丈夫」
短い。
でも、立希ちゃんがそう言うなら、それは私の励ましよりずっと当てになる。
私は頷いて、また弦を拭いた。もう十分きれいなのに、まだやることにしておかないと落ち着かない。壁の時計を見る。見ない決心をする。やっぱり見る。十五分しか経っていない。
クロスを畳み直す。ノートの角を揃える。スマホの画面を伏せる。三十秒後にまた表にする。そういう意味のない手順ばかりが増えていく。待つだけでいい、と自分に言い聞かせるたび、その「だけ」が難しくなる。
燈ちゃんが今ごろどの廊下を歩いているのか、何階で立ち止まっているのか、そんなことばかり考えてしまう。
夕方、スマホが震えた。
「話せた」
最初の一行で、肩から力が抜けた。
続けてもう一通。
「泣いてた。二人で」
そこで、画面を持つ手が少し止まる。
さらに届く。
「なんで春日影やったのって聞かれた」
「聞いてほしかったって言った」
燈ちゃんは誰にとは言わなかった。言葉にできない思いがそこにあるんだと思う。
「止められたのに止めなかったのは、私のせいだって言った」
私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。指先のクロスが弦の上で止まる。細い金属の線の上に白い布だけが置かれて、そのまま何秒か動かなかった。
燈ちゃんが、自分でそこまで言ったのだ。
誰かが整理した言葉じゃない。自分の口で、自分の責任として返した。
最後に届いた文は短かった。
「愛音ちゃん、逃げないって」
その代わり、すぐ戻るとは書かれていなかった。少し時間がほしい、とそのあとに続く。
妥当だと思った。
正しい会話を一回しただけで、傷が都合よく治るわけじゃない。
でも、救われる。
そういう会話もたしかにあるのだと、遅れて効いてきた。
*
三日後、RiNGのドアが開いた。
愛音ちゃんだった。
歩き方はいつも通り少し勢いがあるのに、目元だけ赤い。泣いた跡を隠さず来た顔だった。教室で泣いて、そのあと家でも少し泣いて、それでも来ると決めてからここへ来た顔だった。
「りっきー」
「……愛音」
「来た」
立希ちゃんはグラスを置いて、頼まれてもいないのにオレンジジュースを作った。愛音ちゃんは何も言わずに受け取る。ストローを刺す手だけが少し遅い。
そこでようやく、こっちを見た。
驚いたように目を見開く。
「そっちの初華じゃないよ」
自分でも驚くほどすんなり言葉が出た
「ふーん……私、千早愛音! よろしくね」
疑問を呑み込み聞かないでくれる優しさを感じる。燈ちゃんがひとりで沈みきっていなかったと知って、たぶん愛音ちゃんも少しだけ楽になっている。
「ともりんは?」
「スタジオ。楽奈ちゃんと合わせてる」
その一言で、愛音ちゃんの顔にほんの少しだけ複雑な色が混じる。置いていかれた痛みと、まだ間に合うかもしれない安堵が、同時に浮いた。ジュースを一口飲んで、ようやく喉が動くみたいに息をつく。
「スタジオ、木曜」
立希ちゃんがグラスを拭きながら言う。
「来るなら来れば」
「来るよ」
返事が早い。
前みたいな勢い任せじゃない。泣いたあとで、ちゃんと自分で決めた速さだった。
オレンジジュースを一口飲んで、ふっと笑う。
「逃げないって言っちゃったし」
その笑い方で、やっと戻ってきたのだとわかった。
でも、四人目までだ。
愛音ちゃんが帰ったあと、店の空気が少しだけ軽くなる。その軽さのぶんだけ、最後の一人の重さもはっきりした。
「そよちゃんが一番、難しいね」
私が言うと、立希ちゃんは無言でグラスを磨き続けた。
否定しない時は、たいてい当たっている。