低音がないだけで、部屋はこんなに落ち着かなくなる。
木曜の放課後、RiNGのスタジオで四人の音を聴いた瞬間、まずそれを思った。
燈ちゃん、楽奈ちゃん、立希ちゃん、愛音ちゃん。
音は鳴っている。ちゃんと前にも進んでいる。なのに、足元の板が一枚抜けているみたいな感じがずっとある。
そよちゃんのベースがいない穴だった。
「スカスカ」
立希ちゃんが短く言う。
「しょうがないじゃん、いないんだから」
愛音ちゃんが返す。言い返しながらも、本人がいちばんその穴をわかっている顔だった。
私はスタジオの隅でそれを聞いていた。口を出しすぎると壊れると、もう何度かで学んでいる。
でも今回は、入口だけは置ける気がした。
「そよちゃんって、連絡して来るタイプじゃないと思う」
四人の目がこっちを向く。
「怒られるのが怖いんじゃなくて、嫌われたと思ってるから」
全部を説明する必要はない。行動の形だけ合っていればいい。
「じゃあどうすんの」
愛音ちゃんが聞く。
「聴きに来る場所を作る」
私はRiNGのスケジュールを見せた。
「明日のオープンマイク、まだ二十分空いてる。四人でやるって告知して」
「私のアカウントで?」
「そよちゃんが一番見てそうだから」
愛音ちゃんは少しだけ嫌そうな顔をしたあと、すぐに腹を括った。
「……やる」
その場で文面を打って、送信する。
告知が出た瞬間、もう後戻りはできなくなった。
私はそのあと、立希ちゃんにだけ小さく頼みごとをした。備品のベース、一本だけ空けておいてほしいと。
立希ちゃんは何も聞かなかった。
ただ、短く「わかった」とだけ返した。
扉を少し開ける。
今夜の私にできるのは、たぶんそれくらいでよかった。
*
翌日の夜、RiNGの小さなステージに四人が立った。
客は多くない。常連と、他の出演者の知り合いが少し。私は扉に近い最後列にいた。いつでも外へ出られる場所。たぶん、今夜の私はそこが一番合っている。
演奏前、司会代わりのスタッフが名前もない四人組を軽く紹介した。拍手は礼儀のぶんだけ小さく起こって、すぐ静まる。私はその静けさがありがたかった。大きすぎる期待より、今夜はそのくらいの余白のほうがいい。
演奏が始まる。
不完全だった。
楽奈ちゃんのギターは自由で、立希ちゃんのドラムは必死にそれを支え、愛音ちゃんは転ばないようについていく。燈ちゃんの声だけが、その不格好な隙間をどうにか一本の線にしていた。
悪くない。
悪くないけれど、そよちゃんなら絶対に無視できない種類の欠け方だ。
床が軽い。腹に来るはずの重さが足りない。足裏が床に着いているのに、何か一枚抜けているみたいに、振動が足の裏まで返ってこない。
客席の反応も少し戸惑っている。ちゃんと聴いているのに、どこへ拍手を置けばいいか測りかねている空気だった。前列の二人が一瞬だけ顔を見合わせた。あの交換の中に、たぶん「何か足りなくない?」がある。客席にもわかる欠け方だった。
曲の途中で、扉が開いた。
月ノ森の制服が見えた瞬間、空気が少しだけ揺れる。
そよちゃんだった。
手ぶらで、壁際に立っている。ベースは持っていない。ただ、来てしまったという顔をしている。
指先が、スカートの端を強くつまんでいた。
演奏が終わっても、そよちゃんは動かなかった。壁に背中をつけたまま、拍手もしない。だから余計に、客席そのものみたいにそこだけが静かだった。
拍手はまばらだ。四人の息がまだ揃いきらないまま、余韻だけが先に消える。
そよちゃんが踵を返した。
愛音ちゃんが、ステージから飛び降りる。前列の客が偏った足元に顔を上げ、植木鉢を避け、椅子の足を踏みそうになりながら最後列まで走る。勢いだけに見えて、目は本気だった。
「そよさん!」
客席の床に着地して、そのまま最後列まで走る。勢いだけに見えて、目は本気だった。
「逃げんなよ」
そよちゃんが振り返る。
化粧も髪もきれいなのに、その中身だけがぼろぼろだとわかる顔だった。
「……無理よ」
「なにが」
「私、みんなを利用してた。愛音ちゃんも、楽奈ちゃんも」
「知ってる」
愛音ちゃんが即答する。
「知ってるけど、だから何!? あたしは、そよさんと音出した時間まで嘘だったとは思ってない」
そよちゃんの目が揺れる。
ステージから、楽奈ちゃんが短く言った。
「そよ」
それだけで、客席の空気が少し締まる。
「つまんねー理由で帰らないで」
猫みたいに短い一言なのに、そよちゃんの肩がはっきり震えた。
最後に、燈ちゃんがマイクを握り直す。
「そよちゃん」
声は大きくない。でも、さっきよりずっとまっすぐだった。
「怖かった」
少し間を置く。
「そよちゃんが、いなくなるのが……一番こわかった」
許すとか責めないとか、そういう綺麗な言い回しじゃなかった。
燈ちゃんが今の自分から出せる、一番本当の言葉だった。
そよちゃんの顔が、そこで崩れた。
「……私、ベース持ってきてない」
その台詞が出るのを待っていた。
私はカウンター脇に隠してあった黒いケースを前へ出した。立希ちゃんに頼んでおいた、RiNGの備品だ。
愛音ちゃんがそれを奪うように受け取って、そよちゃんの胸へ押しつける。
「あるじゃん」
そよちゃんは数秒、ケースを抱えたまま立ち尽くした。
やがて小さく頷いて、ステージへ上がる。ケースを開ける手が少し震えていた。ストラップを肩にかけ、長さを調整する。その動作だけが、どこにも従わない自分の時間だった。
アンプの電源が入る。
低い確認音が、一度だけ鳴る。
その一音で、部屋の床がやっと床に戻った気がした。
*
五人で始めた二曲目は、さっきまでと別の重さを持っていた。
止まったままの時間のつづき。
欠けていたもののつづき。
逃げたことも、利用したことも、戻ってきたことも、全部抱えたまま、それでも五人の音になっていく。
そよちゃんのベースが入った瞬間、さっきまで浮いていた音がようやく着地した。立希ちゃんのキックが腹まで届く。愛音ちゃんのギターも、今度は怖がらずに前へ出る。燈ちゃんの声が、その真ん中でやっと居場所を見つけたみたいに伸びた。
私は扉の近くで聴いていた。
ここは私の場所じゃない。
でも、ここまで来るために置ける返事は、たしかにあったのだと思う。
呼びに行くのは燈ちゃんたちで、私は途中のドアを少しだけ開けた。
それで十分だ。
曲が終わった。
最後の音が消えてから、箱の中に短い無音が落ちた。誰も動かない。ステージの上も、客席も。その一拍だけが、さっきまでと全然違った。
それから、前より深い拍手が返ってくる。
小さな箱の中で、それでもちゃんと返ってくる音だった。
楽奈ちゃんのギターの弦がまだ微かに震えていた。立希ちゃんがスティックを静かに膝に置く。愛音ちゃんが顔を伏せたまま、一度だけ深く息を吐いた。
そよちゃんは一度だけ客席を見て、それからすぐ視線を下げた。まだ完全に戻りきってはいない。それでも、逃げずにその場に立っていた。
ステージの上で、燈ちゃんがほんの一瞬だけこちらを見た。ありがとう、と口が動いた気がした。
私は首を振る。
返事を返しただけだ。
拍手がやんだあともしばらく、低い余韻だけが箱の中に残っていた。そよちゃんがアンプの電源を落とす。そのカチっという小さな音までが、今夜は意味を持っていた。
私はそれを聞きながら、すぐには動かなかった。五人の音がちゃんと五人のものとして部屋に残るまで、そこにいたかった。
五人の場所が戻ったあとで、今度は自分がどこへ立つのかを考えなければならなかった。
次回 エピローグ ちょっとあります