初華じゃない方の初華   作:まつきた

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最終話 後編:扉の向こう、五人

 

 低音がないだけで、部屋はこんなに落ち着かなくなる。

 

 木曜の放課後、RiNGのスタジオで四人の音を聴いた瞬間、まずそれを思った。

 

 燈ちゃん、楽奈ちゃん、立希ちゃん、愛音ちゃん。

 

 音は鳴っている。ちゃんと前にも進んでいる。なのに、足元の板が一枚抜けているみたいな感じがずっとある。

 

 そよちゃんのベースがいない穴だった。

 

「スカスカ」

 

 立希ちゃんが短く言う。

 

「しょうがないじゃん、いないんだから」

 

 愛音ちゃんが返す。言い返しながらも、本人がいちばんその穴をわかっている顔だった。

 

 私はスタジオの隅でそれを聞いていた。口を出しすぎると壊れると、もう何度かで学んでいる。

 

 でも今回は、入口だけは置ける気がした。

 

「そよちゃんって、連絡して来るタイプじゃないと思う」

 

 四人の目がこっちを向く。

 

「怒られるのが怖いんじゃなくて、嫌われたと思ってるから」

 

 全部を説明する必要はない。行動の形だけ合っていればいい。

 

「じゃあどうすんの」

 

 愛音ちゃんが聞く。

 

「聴きに来る場所を作る」

 

 私はRiNGのスケジュールを見せた。

 

「明日のオープンマイク、まだ二十分空いてる。四人でやるって告知して」

 

「私のアカウントで?」

 

「そよちゃんが一番見てそうだから」

 

 愛音ちゃんは少しだけ嫌そうな顔をしたあと、すぐに腹を括った。

 

「……やる」

 

 その場で文面を打って、送信する。

 

 告知が出た瞬間、もう後戻りはできなくなった。

 

 私はそのあと、立希ちゃんにだけ小さく頼みごとをした。備品のベース、一本だけ空けておいてほしいと。

 

 立希ちゃんは何も聞かなかった。

 ただ、短く「わかった」とだけ返した。

 

 扉を少し開ける。

 

 今夜の私にできるのは、たぶんそれくらいでよかった。

 

 

    *

 

 

 翌日の夜、RiNGの小さなステージに四人が立った。

 

 客は多くない。常連と、他の出演者の知り合いが少し。私は扉に近い最後列にいた。いつでも外へ出られる場所。たぶん、今夜の私はそこが一番合っている。

 

 演奏前、司会代わりのスタッフが名前もない四人組を軽く紹介した。拍手は礼儀のぶんだけ小さく起こって、すぐ静まる。私はその静けさがありがたかった。大きすぎる期待より、今夜はそのくらいの余白のほうがいい。

 

 演奏が始まる。

 

 不完全だった。

 

 楽奈ちゃんのギターは自由で、立希ちゃんのドラムは必死にそれを支え、愛音ちゃんは転ばないようについていく。燈ちゃんの声だけが、その不格好な隙間をどうにか一本の線にしていた。

 

 悪くない。

 悪くないけれど、そよちゃんなら絶対に無視できない種類の欠け方だ。

 

 床が軽い。腹に来るはずの重さが足りない。足裏が床に着いているのに、何か一枚抜けているみたいに、振動が足の裏まで返ってこない。

 

 客席の反応も少し戸惑っている。ちゃんと聴いているのに、どこへ拍手を置けばいいか測りかねている空気だった。前列の二人が一瞬だけ顔を見合わせた。あの交換の中に、たぶん「何か足りなくない?」がある。客席にもわかる欠け方だった。

 

 曲の途中で、扉が開いた。

 

 月ノ森の制服が見えた瞬間、空気が少しだけ揺れる。

 

 そよちゃんだった。

 

 手ぶらで、壁際に立っている。ベースは持っていない。ただ、来てしまったという顔をしている。

 

 指先が、スカートの端を強くつまんでいた。

 

 演奏が終わっても、そよちゃんは動かなかった。壁に背中をつけたまま、拍手もしない。だから余計に、客席そのものみたいにそこだけが静かだった。

 

 拍手はまばらだ。四人の息がまだ揃いきらないまま、余韻だけが先に消える。

 

 そよちゃんが踵を返した。

 

 愛音ちゃんが、ステージから飛び降りる。前列の客が偏った足元に顔を上げ、植木鉢を避け、椅子の足を踏みそうになりながら最後列まで走る。勢いだけに見えて、目は本気だった。

 

「そよさん!」

 

 客席の床に着地して、そのまま最後列まで走る。勢いだけに見えて、目は本気だった。

 

「逃げんなよ」

 

 そよちゃんが振り返る。

 

 化粧も髪もきれいなのに、その中身だけがぼろぼろだとわかる顔だった。

 

「……無理よ」

 

「なにが」

 

「私、みんなを利用してた。愛音ちゃんも、楽奈ちゃんも」

 

「知ってる」

 

 愛音ちゃんが即答する。

 

「知ってるけど、だから何!? あたしは、そよさんと音出した時間まで嘘だったとは思ってない」

 

 そよちゃんの目が揺れる。

 

 ステージから、楽奈ちゃんが短く言った。

 

「そよ」

 

 それだけで、客席の空気が少し締まる。

 

「つまんねー理由で帰らないで」

 

 猫みたいに短い一言なのに、そよちゃんの肩がはっきり震えた。

 

 最後に、燈ちゃんがマイクを握り直す。

 

「そよちゃん」

 

 声は大きくない。でも、さっきよりずっとまっすぐだった。

 

「怖かった」

 

 少し間を置く。

 

「そよちゃんが、いなくなるのが……一番こわかった」

 

 許すとか責めないとか、そういう綺麗な言い回しじゃなかった。

 

 燈ちゃんが今の自分から出せる、一番本当の言葉だった。

 

 そよちゃんの顔が、そこで崩れた。

 

「……私、ベース持ってきてない」

 

 その台詞が出るのを待っていた。

 

 私はカウンター脇に隠してあった黒いケースを前へ出した。立希ちゃんに頼んでおいた、RiNGの備品だ。

 

 愛音ちゃんがそれを奪うように受け取って、そよちゃんの胸へ押しつける。

 

「あるじゃん」

 

 そよちゃんは数秒、ケースを抱えたまま立ち尽くした。

 

 やがて小さく頷いて、ステージへ上がる。ケースを開ける手が少し震えていた。ストラップを肩にかけ、長さを調整する。その動作だけが、どこにも従わない自分の時間だった。

 

 アンプの電源が入る。

 低い確認音が、一度だけ鳴る。

 

 その一音で、部屋の床がやっと床に戻った気がした。

 

 

    *

 

 

 五人で始めた二曲目は、さっきまでと別の重さを持っていた。

 

 止まったままの時間のつづき。

 欠けていたもののつづき。

 逃げたことも、利用したことも、戻ってきたことも、全部抱えたまま、それでも五人の音になっていく。

 

 そよちゃんのベースが入った瞬間、さっきまで浮いていた音がようやく着地した。立希ちゃんのキックが腹まで届く。愛音ちゃんのギターも、今度は怖がらずに前へ出る。燈ちゃんの声が、その真ん中でやっと居場所を見つけたみたいに伸びた。

 

 私は扉の近くで聴いていた。

 

 ここは私の場所じゃない。

 

 でも、ここまで来るために置ける返事は、たしかにあったのだと思う。

 

 呼びに行くのは燈ちゃんたちで、私は途中のドアを少しだけ開けた。

 

 それで十分だ。

 

 曲が終わった。

 

 最後の音が消えてから、箱の中に短い無音が落ちた。誰も動かない。ステージの上も、客席も。その一拍だけが、さっきまでと全然違った。

 

 それから、前より深い拍手が返ってくる。

 小さな箱の中で、それでもちゃんと返ってくる音だった。

 

 楽奈ちゃんのギターの弦がまだ微かに震えていた。立希ちゃんがスティックを静かに膝に置く。愛音ちゃんが顔を伏せたまま、一度だけ深く息を吐いた。

 

 そよちゃんは一度だけ客席を見て、それからすぐ視線を下げた。まだ完全に戻りきってはいない。それでも、逃げずにその場に立っていた。

 

 ステージの上で、燈ちゃんがほんの一瞬だけこちらを見た。ありがとう、と口が動いた気がした。

 

 私は首を振る。

 

 返事を返しただけだ。

 

 拍手がやんだあともしばらく、低い余韻だけが箱の中に残っていた。そよちゃんがアンプの電源を落とす。そのカチっという小さな音までが、今夜は意味を持っていた。

 

 私はそれを聞きながら、すぐには動かなかった。五人の音がちゃんと五人のものとして部屋に残るまで、そこにいたかった。

 

 五人の場所が戻ったあとで、今度は自分がどこへ立つのかを考えなければならなかった。

 




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