# 第1話:名前が先に走る
夜行バスは、眠るための乗り物ではなく、戻れなくなるための箱だった。
消灯しても眠気は来ない。隣の席は空いていて、前の方から小さないびきが聞こえる。車内は静かなのに、頭の中だけがうるさかった。座席を少し倒して目を閉じても、姉の顔が出る。教室で聞かれた声が出る。母の「気をつけてね」が出る。眠れるわけがなかった。
スマホの画面を最低の明るさにして、予約確認メールを開く。フェリー。本土。東京着。文字にすると、やっていることだけは妙にきっちりして見えた。中身は全然きっちりしていない。姉にどう会うかも決めていないし、会ったところで何を言うかも決めていない。
名前を返せと言うのか。なんで私の名前を使ってるのと聞くのか。先に泣くのか怒るのか、それとも何も出ないのか。計画と呼ぶには穴が多すぎた。でも、穴だらけでも行かないよりましだった。行かなければ質問だけが積もる。行っても答えがある保証はない。ないのに、まだ行く方を選んでいる。それがもう、まともじゃない気がした。
*
最初のサービスエリアで、私はバスを降りた。午前一時過ぎ。自販機の光だけがやけに明るい。息が白かった。トイレへ向かう人、缶コーヒーを買う人、黙って背中を伸ばす人。みんな途中の人間で、私だけが途中であることに必死だった。
温かいお茶を買って、紙コップを持つ。指先に熱が戻る。甘くも苦くもない湯気の匂いを吸い込んで、ようやく自分がずっと息を浅くしていたことに気づいた。座りっぱなしだった脚がじんじんして、肩にはシートの縁みたいな固さがまだ残っている。ここで乗り遅れたらどうなるだろう、と考えた。バスは出る。私は置いていかれる。次の便なんてたぶん取れない。港へ戻って、島へ帰るしかなくなる。
その想像をした瞬間、胃がぎゅっと縮んだ。帰りたくない、とは違う。帰ったあとの顔が想像できすぎた。母はたぶん何も言わない。学校では絶対に聞かれる。私はまた見られる。三角初華なのに、sumimi の初華じゃない方として。
それなら、知らない街で迷子になる方がまだましだった。
発車の案内が流れた。私は紙コップをゴミ箱に捨てて、ほとんど小走りで車内へ戻った。ステップを上がるとき、ふくらはぎが少しつった。座席に沈み直してから、ようやく気づく。私は戻る選択肢を、一回ちゃんと考えた上で捨てたのだ。衝動だけじゃなくなった。それは少し怖かった。怖いのに、今さらこの狭い通路を逆向きに歩く自分はもう想像できなかった。
*
窓の外の黒が、少しずつ薄くなっていく。高速道路の看板が増え、遠くのビルが増え、車線が増える。島では見えない種類の朝だった。眠れないままなのに、頭のどこかだけが妙に澄んでいた。
母から連絡はない。教室の誰からも来ない。来ないことに、少しだけ助かっている自分がいた。問い詰められないうちは、まだ戻らなくていい気がした。
ポケットの中でスマホが薄く角ばっている。通知が来ていなくても、そこにあるだけで落ち着かない。取り出して、やっぱりやめて、また押し込む。それを二回繰り返した。
リュックを抱き直す。底に色紙が入っている。家の壁から剥がした四歳の字。昔の私のほうが、いまの私よりよっぽど迷いなく前を向いていた気がする。
見なかったことにしたかった。けれど、置いてもこられなかった。
*
新宿に近づくころ、車内の空気がざわつき始めた。シートベルトの音。荷物棚のきしみ。カーテンを少しだけ開ける手。その全部が、着く、を言っていた。
バスが止まる。ドアが開き、外気が流れ込んだ。排気とコーヒーと、どこかから流れてくるパンの匂いが混ざっている。おなかが鳴った。こんな朝に腹が鳴るのか、と少し腹が立った。でも食欲があることに、同じくらい安心もした。壊れ切ってはいないらしい。
バスを降りる。表示板が大きすぎた。人の足が速い。みんな同じ方向へ急いでいるように見えるのに、誰も私を見ていない。キャリーケースの車輪が足元で鳴り、肩が一度ぶつかった。立ち止まる場所を探すより、流れに混ざる方が先だった。
それが、一瞬だけありがたかった。島では止まれば顔を見られる。ここでは止まる前に押し流される。その違いに、助かっているのか怯えているのか、自分でもよくわからなかった。
ここなら、誰も私を知らない。誰も三角初華って名前に勝手な顔を貼らない。そう思った。
リュックの肩紐を握り直す。底に入っている色紙の角が、布越しに少しだけ背中へ当たった。知らない街まで持ってきた昔の自分が、まだここにいる。
駅前を抜ける。ビルガラスに朝日が反射して、目が痛い。島では、朝の光はもっとまっすぐ海から来た。東京の光はあちこちに跳ね返ってから来る。落ち着かない街だと思った。誰のものでもないみたいな顔をしているくせに、立っているだけでこちらの小ささを教えてくる。
*
最初の横断歩道で信号を待った。白線の上に立つ。隣のビルのガラスに、自分の輪郭が薄く映っている。一度、深く息を吸った。そのとき、隣に立った女性の視線がこちらで止まった。
「あの」
声をかけられた瞬間、背中が強ばった。女性は二十代半ばくらいで、マスクの上の目を丸くしている。通りすがりの視線ではなく、見つけた人の目だった。
「初華ちゃん? sumimiの」
心臓が跳ねた。東京に着いて、まだ二十分も経っていない。誰も知らない街に来たはずなのに、名前の方が先に追いついてきた。
私は口を開いた。