初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第2話:迷子の地図

# 第2話:迷子の地図

 

「違います」

 

 口にしたのは反射だった。

 

 女性は「ごめんなさい、人違いでした」と笑って信号を渡っていった。背中が人混みに溶ける。私は横断歩道の端に立ったまま動けなかった。東京に着いて二十分で、自分の名前を自分で否定した。事実としては正しいはずなのに、胃の底に残った感覚だけは、どう考えても正しくなかった。

 

 画面の「初華」は初音で、私はここにいる。それでも声に出した瞬間、自分の足元まで一緒に切り離したみたいだった。これから何度聞かれても、同じ答えしか出せない気がした。

 

 

    *

 

 

 sumimiの所属事務所は、渋谷のビルの七階にあった。

 

 ガラスの自動ドアを押すと、受付の女性が微笑んだ。綺麗な微笑みだった。綺麗すぎて、最初から入る隙がない。

 

「sumimiの初華さんに会いたいんです。妹です」

 

 一拍だけ間があって、微笑みが事務用に整えられた。

 

「確認いたしますので、少々お待ちください」

 

 長い椅子に座る。七分経った。十二分経った。蛍光灯の色がやけに白い。島の教室の光より、ずっと薄情に見えた。白い光の下で待っていると、自分の存在まで薄くなっていく気がする。

 

 受付が戻ってきた。

 

「申し訳ございません。本日はご対応が難しい状況です。公式サイトのお問い合わせフォームをご案内いたします」

 

 問い合わせフォーム。

 

 エレベーターで降りるとき、鏡に自分が映っていた。制服のスカートが皺になっている。目の下に影がある。朝から歩き回っている中学生の顔だった。妹だと名乗った。妹で、本人で、でも誰にも通じない。

 

 下りのエレベーターなのに、胃だけが落ちてこなかった。

 

 ビルの正面に出て、三歩で止まった。外壁のタイルに背中をつけて、そのまましばらく動けなかった。人が横を通る。誰も見ない。七階から降りただけなのに、全身から力が抜けたみたいにタイルの冷たさだけが背中に貼りついていた。

 

 ふと顔を上げる。

 

 向かいのビルの壁面に、巨大な広告が出ていた。

 

 初華。

 

 正確には、初音だった。

 

 でも街はそんな区別をしない。七階では会えないのに、一階へ出た途端に、顔だけが先に待っている。さっき断られたばかりの名前が、東京の真ん中で笑っていた。

 

 リュックの肩紐を握り直す。手のひらに汗が溜まっていた。ここに立っていても何も変わらない。変わらないとわかっているのに、離れるのにもう一回だけ力が要った。

 

 

    *

 

 

 どこへ行くとも決めずに歩いた。

 

 駅前の人波、ビルの影、知らない店の看板。どれも私には関係ないはずなのに、歩けば歩くほど、この街のどこかに姉がいることだけは嫌でも伝わってきた。

 

 道玄坂の途中で足が止まった。人が多すぎて、上っているのか流されているのかもよくわからない。ベンチの端に腰を下ろす。膝の上にリュックを置いたまま、しばらく顔を上げられなかった。

 

 そのとき、隣に座った誰かのスマホから声が漏れた。

 

 短い動画だった。笑い混じりのトーク。聞き慣れていないはずなのに、すぐわかった。さっきビルの壁にいた声だ。

 

 顔だけじゃなかった。

 

 声まで追ってくる。

 

 逃げても、勝手に目に入る。勝手に耳に入る。東京じゅうのどこへ行っても、「初華」の二文字だけが先に置かれていて、そのたび私は後から説明を求められる側に戻される。

 

 立ち上がろうとして、足にうまく力が入らなかった。空腹と寝不足と緊張が、いっぺんに膝へ来たらしい。ベンチから離れて数歩で、坂の途中で膝が折れた。

 

 比喩じゃなく折れた。力が抜けて、縁石に手をつき、膝小僧を擦った。ストッキングが裂け、薄い血が出る。リュックが背中から滑り落ちた。しゃがんだまま、すぐには立てなかった。

 

 人が通り過ぎていく。中学生がしゃがんでいるだけでは誰も止まらない。東京はそういう街だった。

 

 リュックのポケットを探った。ティッシュもハンカチもない。奥まで手を突っ込んで、指先に触れたのは財布とスマホとペットボトルのキャップだけだった。準備が足りない。準備が最初から何もかも足りていなかった。

 

 名前を否定した。事務所に弾かれた。街を歩けば姉の顔と声に追いつかれた。そしていま、膝から血が出ている。

 

 ここまで空振りすると、逆に少し笑えてきた。島から夜行バスに乗って、東京で膝を擦りむいている。どこの冒険譚だ。冒険譚なら仲間がいるはずだけど、周りには無関心な通行人しかいない。

 

「怪我してる?」

 

 声が上から降ってきた。

 

 

    *

 

 

 見上げると、小柄な女の子が立っていた。短いボブ。少し首を傾けて、こちらを見ている。手に薄い冊子を持っていた。

 

 その子はしゃがんだ。通り過ぎなかった。通り過ぎずに、同じ高さまで目線を下ろした。

 

「血、出てる……」

 

 ポケットから絆創膏を出した。ふたつ。ひとつを私に差し出す。

 

「ありがとう」

 

 受け取って膝に貼った。手が震えていた。絆創膏の角がずれて、貼り直す。

 

「もうひとつ、要る?」

 

「一枚で平気。……あなたも怪我してるの?」

 

「ううん」

 

 少し間があった。

 

「でも……転ぶかもって、思ったから」

 

 変な子だ、と思った。自分が転ぶのではなく、誰かが転ぶことを想定して絆創膏を持ち歩くのは、たぶん普通じゃない。でも、そういう普通じゃなさが、いまはありがたかった。

 

「痛い?」

 

「もう平気」

 

「……うん」

 

 その「うん」の前の空白が心地よかった。急がない子だった。答えを急かさないし、勝手に元気づけもしない。今日一日、勝手に決められたり、勝手に断られたりしてきたぶんだけ、その遅さが妙に残った。

 

「私、三角初華」

 

 今日いちど否定した名前を、今度は自分から言った。取り戻した、と言うにはまだ痛かったけれど、この子の前で言うのは嘘じゃなかった。

 

「……高松、燈」

 

 小さい声だったのに、なぜか長く残った。

 

 高松燈。

 

 さっきまでただ通り過ぎていった東京の景色の中で、その名前だけが妙に形を持った。運命とか、そういう大げさな言い方はしたくない。ただ、きっと覚えてしまうと思った。

 

「燈ちゃんは、なんでこんなところに?」

 

「えっと……散歩、かな」

 

「散歩で絆創膏」

 

「……うん」

 

 会話のテンポが独特だった。返事が来るまでに一拍ある。でも、その一拍に嘘がない。

 

「お礼、したいから。連絡先……聞いてもいい?」

 

 言ってから、早すぎると思った。昨日まで島にいた中学生が、東京で初めて会った子に連絡先を聞いている。距離感が壊れている。でも燈ちゃんは嫌な顔をしなかった。

 

「うん」

 

 交換した。画面に「高松燈」の文字が並ぶ。たったそれだけのことなのに、手のひらの重みが少し変わった。

 

 燈ちゃんは小さく手を振って、角を曲がっていった。去り際に「気をつけてね」と言った。声は小さかったけれど、ちゃんと届いた。

 

 今日初めて、東京の中に人の形をしたものが残った気がした。

 

 

    *

 

 

 その日の帰りのバスは、深夜発のはずだった。

 

 でも駅前のベンチで予約確認の画面を見たまま、私はずっと座っていた。あと四時間。四時間待って、バスに乗って、島に帰って、月曜から教室で説明できない妹を続ける。何も変わらない。画面を閉じれば楽になるのに、閉じた瞬間に本当に帰る側へ傾いてしまいそうで、指だけがそこで止まった。

 

 事務所に弾かれた。街を歩けば姉の顔と声が追ってきた。初音には会えなかった。それでも今日いちばん尾を引いているのは、絆創膏を差し出した子のことだった。東京はまだ怖いのに、もう朝みたいには遠くなかった。

 

 帰る? と一度だけ考えた。片道ぶんの貯金箱はもう空だ。次に来られる保証はない。

 

 予約をキャンセルした。キャンセル料が表示されて、残高が少し痩せた。その数字を見て、喉の奥が乾いた。その代わり、ネットカフェを探した。帰る道を消して、残る道を細くするみたいな操作だった。

 

 個室は狭かった。マット、壁の充電口、小さな机。財布アプリを開く。宿泊費を引いた残高。あと二泊が限界。計算はすぐ終わるのに、画面を閉じる指だけが遅れた。制服の袖口は手洗いしても少し冷たく、背中を壁につけると、薄いビニール越しの硬さが肩甲骨に残った。

 

 夜になっても眠れず、結局また外へ出た。川沿いの遊歩道まで歩き、ベンチに腰を下ろす。リュックからギターケースを出した。家から連れてきた。色紙と一緒に。ネカフェの乾いた空気の中に置いておくより、外の湿った風の中に出したほうが、まだ息ができる気がした。

 

 弾かなければ指が死ぬ。そう思って、アンプもないまま弦に触れた。チューニングは甘く、音は細かった。それでも止まるよりましだった。短いフレーズを繰り返していると、背後で砂利を踏む音がした。

 

「迷子?」

 

 帽子を深く被った子が、欄干にもたれていた。缶ジュースを持っている。姿勢に力がなくて、塀の上の猫みたいだった。

 

「迷子じゃない」

 

「迷子の顔してる」

 

 反論をやめた。たぶん正しい。

 

「ギター」

 

 欄干から体を起こして、ケースを見た。

 

「……うん」

 

「鳴る?」

 

「鳴るけど、今は小さい音しか出せない」

 

「ふーん」

 

 興味があるのかないのか、よくわからない返事だった。

 

 それからまた少し私を見て、缶を持ち直す。

 

「そこで寝る?」

 

「寝ない」

 

「でも、眠れてない」

 

 言い返せなかった。

 

 その子はもう一度だけ私を見てから、くるりと背を向けた。呼び止める間もなく、欄干沿いの暗がりへ消えていく。自由な猫みたいな歩き方だった。

 

 なんだったんだろう、と思った。東京は通り過ぎる人ばかりだと思っていたのに、今日は二人も立ち止まる変な日だった。立ち止まられるたび、帰る理由がひとつずつ減っていくのが、少し怖かった。

 

 弦を一本だけ弾く。小さい音が、水の匂いの上でほどける。

 

 少しして、また足音がした。

 

「怒られる前に終わるならいいけどね」

 

 買い物袋を提げた年配の女性が立っていた。楽奈が「おばあちゃん」と呼ぶ。視線が私のギターケースと濡れた袖口を往復した。

 

「……居た」

 

「弾く場所と寝る場所が要る顔してる。違うなら訂正していいよ」

 

 否定できなかった。祖母は返事を急がなかった。

 

「条件がある。夜は静かに」

 

 楽奈が横から付け足す。

 

「あと、勝手に消えない」

 

 その条件だけ、妙に重かった。救済の言い方ではなかった。見張るでもなく、試すでもなく、ただ線を引く声だった。

 

「……お願いします」

 

 祖母はうなずいた。

 

「よし。湯はもう沸いてる」

 

 

    *

 

 

 古い木の引き戸を開けると、乾いた木と出汁の匂いが混ざっていた。知らない家の匂いだった。温かいのに、最初の一呼吸はどこか他人の空気を吸い込んでいる感じがした。助かったと思うより先に、ここへ入っていいのかを確かめるみたいに呼吸が浅くなった。

 

 案内された部屋で、しばらく座ったまま動けなかった。畳の目を指でなぞる。壁に背中をつけようとして、壁が思ったより近くて肩が当たった。狭い部屋のはずなのに、自分の居場所だけがまだ決まっていない感覚があった。

 

 布団を敷いてもらって、ようやく横になる。天井を見上げる。畳の匂いがする。どこかで時計が鳴っている。柱の木目が見慣れないまま天井まで続いている。ここで眠れる。起きて、また外へ出られる。一晩だけで終わらないかもしれない場所だと、体が先に理解した。

 

 その理解に、少し遅れて気持ちが追いついた。泊まれるだけじゃない。いまの私は、ここから明日へ出ていける。そう思った瞬間、今日一日ずっと浮いていた肩の置き場だけが、ようやく布団の上で決まった。

 

 スマホを開く。連絡先に「高松燈」がある。今日わかったことは少ない。

 

 ひとつ。自分の名前を否定したこと。

 

 ふたつ。東京では、姉の顔と声のほうが先に流れていること。

 

 みっつ。私の名前を、変な顔もせず受け取った子がいたこと。

 

 よっつ。迷っている顔を見て、家に連れてきてくれた人がいたこと。

 

 初音には会えなかった。何も解決していない。それでも、朝よりは少しだけ、この街に切れずに残っている理由が増えていた。増えた理由はどれも小さくて、明日になれば消えそうなくらい頼りない。でも、いまはその頼りなさごと抱えて寝るしかなかった。

 

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