初華じゃない方の初華   作:まつきた

5 / 23
第3話:奪還計画

# 第3話:奪還計画

 

 詩船さんの家の朝は、出汁の匂いで始まる。

 

 布団の中で目を開けると、天井の木目がまだ知らない顔をしていた。二日目なのに、一か月くらいここにいるような気がする。島では潮の匂いが先に来ていたのに、東京では味噌汁の湯気が先に部屋へ入ってくる。

 

 障子を開けると、縁側の板が朝の光で白くなっていた。台所から、包丁がまな板を叩く一定の音がする。あの音を聞いていると、心臓が少しだけ普通の速さまで落ちる。

 

 台所へ行くと、楽奈がもう食卓にいた。箸を持ったまま、鮭の切り身をじっと見ている。食べる前の猫みたいな顔だった。

 

「おはよう」

 

「……ん」

 

 返事かどうか微妙な音だ。けれど、無視ではない。ここでは、その違いが大きい。

 

 詩船さんは流し台の前で大根を切っていた。振り返りもせず言う。

 

「座りなさい。冷めるよ」

 

 白米、味噌汁、焼き鮭、たくあん。配置だけなら島の朝とほとんど同じなのに、出汁の深さと台所の狭さだけが違う。違うのに、胃にはちゃんと落ちる。

 

 食べながら、私はスマホのメモを開いた。事務所。広告。声。高松燈。詩船さんの家。増えたようで、肝心なことは何も進んでいない。

 

 どこへ行けばいいのかが、まだわからなかった。

 

 姉の顔は街に貼られているのに、本人へ届く道だけがない。

 

 詩船さんが味噌汁を置きながら、私の指先を見た。

 

「ギター弾くなら、爪は短くしときなさい」

 

「あ、はい」

 

「それと、夜中は壁が薄いからほどほどにね」

 

 昨日の夜、ケースを開けて弦を一本だけ鳴らしたのはばれていた。あれは練習というほどでもない。眠れなくて、ただ指先に金属の感触を戻したかっただけだ。

 

 私は肩をすくめる。楽奈は笑わなかったが、目だけ少し細めた。

 

 

    *

 

 

 楽奈が学校へ出たあと、私はノートとスマホをリュックへ入れて、ひとりで家を出た。

 

 じっとしていると、ここが居場所になってしまいそうで落ち着かなかった。まだ二泊目なのに、味噌汁の匂いで安心している自分がいる。その安心に甘えた瞬間、初音を探しに来た理由まで薄まる気がした。

 

 渋谷の事務所ビルの近くまで行って、向かいのベンチに座る。缶コーヒーを一本買って、まだ熱いまま持っていた。ガラスの向こうには昨日と同じ受付。人が出入りするたびに顔を上げる。スーツの人。紙袋を持った人。配送業者。誰も初音じゃない。当たり前だった。

 

 十分。二十分。三十分。

 

 搬入口の位置、社員用らしい扉、駐車場の坂。見たものをノートに書きつける。書きつけながら、自分が何をしているのかよくわからなくなった。中学生が芸能事務所の前で缶コーヒーを握って張り込みの真似事をしている。刑事ドラマにでもなったつもりか、と自分で自分に腹が立つ。

 

 それでも立ち去れなかった。昨日、一度断られただけで終わりにしたくなかった。終わりにしたくないだけで、次の手はない。その情けなさが、缶のぬるさと一緒に手のひらへ残った。

 

 昼前には諦めた。自動ドアの開閉音ばかり覚えて、本人には一歩も近づけていない。ビルの壁面には今日も広告がかかっていて、そこでは初音が私の名前で笑っていた。会えないのに、顔だけは街の方から追いついてくる。

 

 歩き出してからも、背中に視線みたいなものが貼りついていた。

 

 

    *

 

 

 午後、楽奈は制服のまま戻ってきた。

 

 鞄を縁側へ放って、靴下のまま廊下を歩く。詩船さんに「ちゃんと揃えなさい」と言われても、はいともいいえとも返さない。

 

 私は部屋でノートを開いたまま、今日の空振りを見返していた。無意味な矢印と丸だけが増えている。

 

 楽奈が襖を開ける。

 

「RiNG行く」

 

 それだけ言って、少し間を置いた。

 

「初華も」

 

「……私も?」

 

「ん」

 

 理由はなかった。説明もなかった。ただ、それだけだった。

 

 断る理由も、別になかった。ここに残っていても、ノートの白い頁が増えるだけだ。今日ひとりで動いて、増えたのは空振りの手応えだけだった。

 

「わかった」

 

 立ち上がると、楽奈はもう廊下へ出ていた。私が返事をすることまで、最初から知っていたみたいな歩き方だった。

 

 

    *

 

 

 RiNGまでの道で、楽奈はほとんど喋らなかった。

 

 駅前を抜け、川沿いを渡り、細い通りへ曲がる。東京の道はまだ全部他人の顔なのに、楽奈だけは迷わない。迷わないくせに、こっちを振り返って急かしもしない。

 

「なんで私も」

 

 歩きながら聞く。

 

「行くから」

 

「それ理由になってる?」

 

「なってる」

 

 短い。短いくせに、それ以上はもう揺らがない音だった。

 

 しばらくして、楽奈が前を見たまま言う。

 

「初華、なんか探してる」

 

 私は返事に詰まった。

 

「……そう見える?」

 

「見える」

 

「何を探してるように見えるの」

 

 楽奈は少しだけ考えた。

 

「居場所」

 

 その一語だけで十分だった。

 

 図星かどうかなんて、言い返さなくてもわかる顔をしていたと思う。

 

 少しして、楽奈が急に角を曲がった。RiNGへ向かう道から外れる。

 

「こっちじゃないの」

 

「寄り道」

 

「寄り道?」

 

「RiNGの子、たまにここ通る」

 

 それだけ言って、また前を向く。何の説明にもなっていないのに、なぜかついていけてしまう。楽奈はこういうときだけ、道順そのものが返事になる。

 

 

    *

 

 

 女子校の北門は、住宅街の坂の途中にあった。

 

 正門よりずっと小さい。守衛室もなく、校章のついた門柱と白いフェンスだけがある。門柱の脇に、花咲川女子学園と書かれていた。坂の下には小さな公園とコンビニ。下校の流れがそこへほどけていくのだろうとわかる配置だった。

 

 楽奈はコンビニ脇の低いブロック塀にひらりと腰を下ろした。

 

「ここで待つの」

 

「ちょっとだけ」

 

「何を」

 

「RiNGの子」

 

「あと」

 

 楽奈は門の方を見たまま言った。

 

「初華みたいな顔、見たことある」

 

「……ここで?」

 

「高校のほう」

 

「見ればわかる」

 

 否定できなかった。私は少し離れた電柱の影に立つ。ノートを開くふりをして、門の方だけを見る。楽奈は何でも知っているわけじゃない。ただ、見た顔と匂いを勝手に繋いで、私をその鼻先まで連れてきてしまう。

 

 三時を過ぎると、生徒がばらばら出てきた。白いブラウス、紺のスカート、冬の名残みたいなカーディガン。みんな同じ制服なのに、足の速さも鞄の持ち方も、誰と歩くかも違う。

 

 私は一人ずつ顔を追った。似た輪郭を見るたび心臓が先に跳ねて、次の瞬間には違うとわかる。その繰り返しだった。似ている背格好はいる。髪の長さも、目元の雰囲気も、遠目なら紛れる子は何人もいる。でも、初音はいない。

 

 いるかどうかも知らないのに、いないことだけは妙にはっきりわかった。根拠のない期待ほど、外れたとき静かに残る。

 

 コンビニの袋を持った生徒が二人、坂の途中で笑いながら立ち止まる。部活の話をしている子、スマホを見せ合っている子、イヤホンを片方ずつ分けている子。誰も私を知らない。なのに私だけが、この群れのどこかに姉の顔を探している。

 

 そのうち一人、黒髪で姿勢のいい子が門から出てきた。周りより半歩だけ距離を取って歩く。公園の前で立ち止まり、落ちていたピックみたいな小さな何かを拾い上げて、制服のポケットへ入れた。

 

 楽奈が小さく顎をしゃくる。

 

「あれ」

 

「知ってる子?」

 

「RiNGでバイトしてる。ドラム」

 

 RiNG、という単語に喉が先に反応した。慌てて息を飲み込む。喉の内側が急に乾く。

 

「……そうなんだ」

 

「初華」

 

「なに」

 

「今、ちょっと早かった」

 

 猫の目だった。見ていないみたいな顔で、ちゃんと見ている。

 

「何が」

 

「反応」

 

 私は缶のない手を握った。メモを取るふりをする。字にもなっていない線が一つ増えた。

 

「ライブハウスの人なら、何か知ってるかもって思っただけ」

 

「ふーん」

 

 信じていない音だった。でも、追及はしない。追及しないまま横にいさせるのが、楽奈のやり方らしかった。

 

 黒髪の子は坂を下り、コンビニの角を曲がって駅の方へ消えた。

 

「行く」

 

「RiNG?」

 

「うん」

 

 北門を見上げる。白いフェンスの向こうは、もう静かだった。手がかりが一つ増えた気もするし、門の向こうへ入れないことだけがはっきりした気もする。前に進んでいるのに、校舎の中身はまだ遠いままだった。

 

 

    *

 

 

 RiNGの扉は半分だけ開いていた。中からグラスを置く音がする。イベントのない平日の夕方の匂いがした。冷房と洗剤と、昼の残りのコーヒーの匂い。

 

 楽奈は当然みたいに中へ入っていく。私は一歩遅れて続いた。

 

 カウンターの奥で、立希がグラスを拭いていた。制服ではなく黒いスタッフTシャツ。私に気づいた瞬間、手が一瞬だけ止まる。

 

「野良猫、また来たの」

 

「うん」

 

「その子は」

 

 楽奈が親指で私を指した。

 

「初華。連れ」

 

 連れ。友だちより雑で、でも今はそのくらいの呼び方がちょうどよかった。

 

 立希の視線が、私の顔をまっすぐ見た。目元、顎の線、首の傾き。照合みたいに、一つずつ見ていく。

 

「……三角、さん?」

 

 心臓が跳ねた。背中が冷たくなる。名字で呼ばれた。私の顔を見ただけで、そこまで言う。

 

「はい。三角初華です」

 

 自分の名乗りが少しだけ硬い。立希はまだ目を離さない。

 

「うちのクラスの三角さんに、そっくり」

 

 その一言で、床の感触が少し遠くなった。

 

 うちのクラス。

 

 学校。

 

 名字が同じ。

 

 頭の中で、ばらばらだったものが一気に並ぶ。

 

「同じ名字?」

 

 平静を装って聞く。喉がうまく開かない。

 

「そう。花咲川」

 

 花咲川。

 

 さっき門の前で見上げていた校舎が、急に内側から重くなる。あの白いフェンスの向こうにいる。いるのに、私は門の外で制服の群れを数えていただけだった。

 

「最近あんまり来てないけど」

 

 たったそれだけなのに、会えていない現実まで一気に具体化した。

 

 花咲川にいる。立希と同じクラスにいる。なのに私は顔を見ていない。

 

 近づいた実感と、遠い実感が同時に来る。

 

「なんで三角の名前に反応するの」

 

 立希の声は低かった。責めているというより、観察している。

 

 私は一瞬ためらって、それでも嘘を重ねるのをやめた。

 

「……姉なので」

 

 言ったあとで、指先が冷えた。立希の表情は変わらなかった。そっくりな顔を見た時点で、もう答えは出ていたのかもしれない。

 

「妹がいるとは聞いてなかった」

 

 その一言が別の角度から刺さる。初音は同級生にすら、私の存在を話していない。

 

 いや、話す必要がなかったのかもしれない。島の妹なんて、東京の教室では余白にすらならないのかもしれない。

 

 花咲川に在籍している。

 

 立希と同じクラスにいる。

 

 でも、そこにいるのは「三角初華」としての誰かで、私じゃない。

 

 つながった、と思った次の瞬間、別の冷たさが来た。やっと掴んだ手がかりが、そのまま「私は初音の今の人生に入っていない」という証拠にもなっている。門の外にいたときより、ずっと具体的に排除されている感じがした。

 

 立希はそれ以上踏み込まなかった。接客向きではない距離感のまま、必要な情報だけを置いてくる。

 

「用があるなら、学校の中じゃなくて外で待った方がまだまし」

 

「外って、どこ」

 

「決まってない。だから困るんでしょ」

 

 正論だった。横で楽奈がミルクティーの缶を鳴らす。

 

「迷子」

 

 今日もそれを否定できなかった。

 

 

    *

 

 

 RiNGを出るころには、夕方の光が少し赤くなっていた。私は先を歩く楽奈の半歩後ろをついていく。手帳にはやっと一つ、意味のある線が増えている。

 

 花咲川にいる。

 

 その事実だけなら前進のはずだった。でも実際に増えたのは、会えない輪郭のほうだった。近いのに会えない。その残酷さが、安堵より先に背中を冷やした。

 

 さっき見た北門の白いフェンスが頭に残っている。通れない柵、見えているのに届かない校舎、立希の「聞いてなかった」という声。手がかりは増えた。増えたぶんだけ、初音のいる側と私のいる側の境目まで、前よりはっきり見えてしまった。

 

 コンビニの前で、楽奈が立ち止まる。空き缶を捨ててから、振り向かずに言う。

 

「初華」

 

「うん」

 

「まだ探す?」

 

 問いというより、確認だった。

 

「探す」

 

 答えるまでに、一拍だけかかった。

 

 楽奈はそれ以上聞かなかった。聞かないくせに、距離だけは離れない。

 

 私はリュックの中のノートを指先で押さえた。手がかりは増えた。増えたのに、会える道はまだ一本も見えない。

 

 夕方の風が少し冷たかった。

 

 前へ進んだはずなのに、ようやく「いない」の形がはっきり見えた一日だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。