楽屋の鏡の前で、三角初音は唇に色を載せていた。
ブラシの先が少しだけ震える。昨日より少し、一昨日より少し多い。震えに気づいた日から、初音は利き手ではない方の指を太ももへ押しつける癖がついた。手首の揺れを、脚の筋肉で止めるための癖だった。誰にも見せないための癖でもある。
鏡の中の「初華」は、もう震えていない。照明が綺麗に当たる角度で顎を引き、笑顔の深さを揃え、カメラに映る目線だけを置く。この一年で覚えたのは歌や踊りだけではなかった。返事の速さ、笑う場所、「ありがとうございます」の語尾をほんの少し持ち上げる高さ。全部、初華という装置の部品だった。
装置にしてしまえば、揺れは外から見えにくい。人は綺麗に組まれたものを疑わない。よくできた笑顔、磨かれた名前、通る声。そこに少しの震えが混じっていても、努力だと思ってくれる。まさか、その奥に返せないものが詰まっているとは思わない。
さきちゃんがいた。その事実だけで、初音はしばらく息を止めていられた。さきちゃんが始めた場所に、自分も手を伸ばせる。そう知った夜、布団の中で一度も寝返りが打てなかった。胸の奥だけ熱くて、身体は冷えて、朝まで目を閉じられなかった。
さきちゃんが自分に向かって「初華」と呼ぶ。そのたび、幸福と吐き気が一緒に込み上げる。ずっと、その呼び方が欲しかった。
夏の夜ごと、初華はさきちゃんの話をした。帰り道に坂を駆け上がりながら、昼の出来事をこぼすみたいに。虫取りに行ったこと、大きな蜘蛛が出て二人で叫んだこと、東京の話をたくさん聞いたこと、アイドルになりたいと言ったら応援すると言ってもらえたこと。
初華は楽しそうに、何度でも同じ話をした。まるで、さきちゃんとの時間を家の中へ持ち帰って、姉にも分けてくれるみたいに。でも初音には、分けてもらっている感じはしなかった。初華の隣で起きたことを、初華の声で聞かされるたび、自分だけがその輪の外にいるのだとわかった。
ずるい、と思った。最初は胸の中で一度だけだったのに、そのうち話のたびに増えた。初華だけが会えて、初華だけが呼ばれて、初華だけが覚えられている。初音は頷くふりをしながら、夜の中でこっそり息を殺した。
夏休みの終わりが見え始めたころ、初華が熱を出した。布団の上で頬を赤くして、それでも「明日帰っちゃうのに」と口にした。会いたかったのに、約束してたのに。そう言うたび、初音の胸の奥で、もう乾いていたはずの何かが音を立てた。
私だって会いたかった。気づけば、別荘の前に立っていた。行ってはいけないと母に言われた場所だった。静かな声で、決して行くなと。なのに、その日は窓の向こうの笑い声の方が強かった。
目が合った瞬間、さきちゃんは迷わなかった。
「初華?」
違う、と言うべきだった。そうしなければいけなかった。でも、口の中に入ってきたのは別の言葉だった。
「虫、捕りに行こう。
大きいのがいる場所、知ってるんだ」
笑い方まで真似た。初華みたいに、まっすぐ。初華みたいに、大きく。信じられないほど自然にできてしまったことが、余計に苦しかった。
その日一日、初音は初華だった。昼の山道を走って、草の匂いの中で笑って、さきちゃんの隣を独り占めした。楽しかった。あっけないほど。ずっと息が詰まっていたはずなのに、その日だけは胸の奥まで空気が入った。
夕方になっても終わらせたくなくて、初音は夜も呼び出した。小石を投げて、窓を叩いて、二人で別荘を抜け出した。夜道を走る足音が重なる。誰にも見つからないまま、二人だけで星の下まで行ける気がした。
暗い海と山のあいだで、空だけがやけに広かった。知っている星を指で追うたび、さきちゃんは隣で息を呑んだ。その横顔を見ていると、自分が別のものに生まれ変わったみたいだった。
さきちゃんは笑って、空と初音を見比べた。
「今日は、いつものお日さまじゃなくて、お月さまみたいにやさしいのね」
その言葉が、初音の中へ落ちた。静かに、でも一度落ちたあとではもう元に戻らない深さで。ずっと照らされたかったのだと、その時初めて知った。かわいそうなだけの自分ではなく、誰かの目の中でちゃんと形を持つ自分になりたかった。その夜の初音は、たしかにそこにいた。
だから次の言葉も、捨てられなかった。
「初華ならアイドルになれますわ!」
喉が詰まった。それは本当は妹の夢だった。壁の目立つところに飾られた色紙も、太いクレヨンの丸い字も、ちゃんと覚えている。あの言葉が向かう先を、初音は知っていた。知っていたのに、その夜だけは自分に向いた光として受け取ってしまった。
そこから先は、ずっと遅れている。守っているだけだと、あとから何度も言い聞かせた。妹の名前を、舞台の上で消えないように持っているだけだと。でも、その理屈が苦し紛れだということは最初からわかっていた。守るだけなら、さきちゃんに呼ばれるたび喉が詰まるはずがない。守るだけなら、鏡の前でこんなふうに震えを押し込めなくていい。
もし、さきちゃんにばれたら。もし「あなたは初華じゃない」と言われたら。もし、あの夜の言葉がぜんぶ妹のものへ戻ってしまったら。
答えられない。妹の名前を使いましたとも、あなたのそばにいたかったとも、あの一日を返したくなかったとも。そんな濁ったものを光の前へ差し出した瞬間、たぶん全部終わる。
楽屋の外で笑い声がした。スタッフが誰かを呼ぶ。空気は軽い。次の出番を待つ人間たちの温度。初音だけが、そこから半歩ずれていた。
嬉しいも、汚いも、怖いも、全部飲み込むしかない。さきちゃんの近くにいられる歓びも、妹の名前を使ってしまった罪も、初音だと知られたら全部失うという恐怖も。
喉の奥で丸めて、見えない場所へ押し込む。そうして残った顔だけが、初華だった。
ドアをノックする音がした。
「五分前です」
初音は立ち上がって、鏡に背を向けた。鏡の中の初華は、震えていなかった。
舞台袖へ向かう一歩目で、初音は息を吸う。照明の熱。歓声の気配。名前を呼ばれる前の空白。その空白に、本当の自分は置いていく。
あの日の光を飲み込んだまま、初華がステージに出る。