初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第4話:まだ壊れていない春

三月の終わり、燈ちゃんから「祥子ちゃんに会った」と届いて、私は麦茶をこぼしかけた。

 

 詩船さんの家の台所だった。窓の外では洗濯物が風に揺れている。詩船さんは買い出しに出ていて、楽奈は学校だかRiNGだかわからない場所に消えていた。家の中には私しかいないのに、たった一行で空気だけが急に変わった。

 

 祥ちゃん。

 

 スマホを持つ手が止まった。胸の奥で、昔の呼び方にだけ反応するみたいに、何かが先に立ち上がっている。

 

 返信はすぐには打てなかった。打てなかったくせに、画面は何度も見直した。見直しても文字は増えない。代わりに燈ちゃんから、また短い文が落ちてくる。

 

「月ノ森の子」

「ピアノ すごかった」

 

 そのあとで、少し間が空いた。

 

「バンド 組むことになった」

 

 私は椅子に座り直した。足の裏が急に床を遠く感じる。

 

 さらに夜になって、もう一通来た。

 

「CRYCHIC」

 

 きれいで、壊れる気がしない名前だった。春の始まりみたいな綴りで、燈ちゃんのノートの端に似合いそうな響きだった。

 

 なのに、返事はまた遅れた。

 

 祥ちゃんの名前が出るたび、どうしても少しだけ遅れる。あの子の言葉は、燈ちゃんの春を始めてしまうくらい強い。私にとっても、まだ色紙の裏から抜けてこないくらい強い。

 

 強い言葉は、支えになる。

 支えになるぶん、なくなった時の落ち方が怖い。

 

 私はやっと、親指を動かした。

 

「よかったね」

「燈ちゃん、うれしそう」

 

 送ってから、麦茶を一口飲む。氷がもう半分溶けていた。

 

 

    *

 

 

 四月に入ると、燈ちゃんからの連絡は少しずつ増えた。

 

 毎日ではない。でも三日に一回くらい、歩きながら拾った石みたいに短い報告が届く。

 

「睦ちゃん ギター」

「そよちゃん やさしい」

「立希ちゃん こわい でもドラムすごい」

 

 文はどれも短いのに、どの名前も大事に持っているのがわかった。一文字ずつ、落とさないように打っている感じがする。

 

 私はそのたびに返した。

 

「よかったね」

「楽しそう」

「みんな、燈ちゃんのこと大事にしてくれそう」

 

 全部本心だった。燈ちゃんが、自分の言葉や声を置ける場所を見つけたなら、それは救いだ。

 

 でも、その救いの光り方が少し強すぎる気もした。

 

 ある日、燈ちゃんに川沿いへ呼ばれた。遊歩道の桜はほとんど散っていて、水面に花びらが薄く溜まっていた。ベンチの端に座る燈ちゃんの膝の上には、いつものノートがある。

 

 私を見ると、少しだけ口元が緩んだ。派手じゃない笑顔だった。でも、ない時との差が大きい。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

「こちらこそ。どうしたの」

 

「えっと……言いたいこと、あって」

 

 言いながら、燈ちゃんはノートの角を指で撫でた。その仕草だけで、今から話す内容がこの子にとって大事なんだとわかる。

 

「私、最初、歌えなかった」

 

「うん」

 

「歌ってって言われても……喉が、閉まるみたいで」

 

 私は黙って続きを待った。

 

「でも、祥子ちゃんが、音にしてくれた」

 

「音に?」

 

「私の言葉……ちゃんと、歌になるって」

 

 その言い方がやけに静かで、やけにうれしそうで、私は返事に詰まった。

 

 祥ちゃんはそういうことをする。人がまだ信じていないものを、先に信じる。幼い頃の私にもそれをやった。だから余計に厄介だった。

 

「この前、みんなでカラオケも行った」

 

 燈ちゃんの声が、ほんの少しだけ軽くなる。

 

「最初は、ぜんぜんだめで」

「でも……後半は、ちょっとだけ、楽しかった」

 

 ちょっとだけ。燈ちゃんは何でも控えめに言う。だから、今の「ちょっとだけ」はたぶん大きい。

 

 私はちゃんと笑った。笑ったふりではなく、きちんと。

 

「それ、かなりいいじゃん」

 

 燈ちゃんはこくりと頷いた。

 

「うん。ちょっと、うれしかった」

 

 川面に差した光が揺れる。私はその揺れを見ながら、どうしても思ってしまった。燈ちゃんにとって、この春は明るすぎる。明るいから悪いわけじゃない。ただ、眩しい場所は、影ができた時にも目立つ。

 

 でも、その不安をそのまま投げるのは違う。

 

「祥子ちゃんって……いつも、そんな感じなの」

 

 我ながら、ぼんやりした聞き方だった。

 

 燈ちゃんは少し首を傾げた。

 

「そんな感じ?」

 

「えっと……人の言葉を、先に信じてくれる感じ」

 

 燈ちゃんは考えるみたいに川を見た。

 

「うん。……やさしい」

 

「そっか」

 

 それ以上は続かなかった。

 

 聞きたいことはたくさんあるのに、いざ聞こうとすると全部が雑音になる。祥ちゃんは今どんな顔でいるのか。燈ちゃんはどこまで近づいているのか。もし距離が急に切れたら、この子はどこまで落ちるのか。

 

 言葉にした瞬間、何かを壊しそうで嫌だった。

 

 

    *

 

 

 帰ってから、ノートを開いた。「奪還計画」の次の頁。余白に、小さく書く。

 

 聞くこと

 

 書いてから、自分でも雑すぎると思った。誰に、何を、どう聞くのか。何もない。

 

 燈ちゃんに聞く。

 祥ちゃんに聞く。

 誰かに、先に確かめる。

 

 全部、すぐ線を引いて消した。

 

 問いの形になっていない。自分の焦りを相手の胸に投げつけるだけだ。

 

 それでも、じっとしているのも無理だった。

 

 

    *

 

 

 四月の半ば、私は月ノ森の校門近くに立っていた。

 

 我ながら、やっていることがだいぶ怪しい。花咲川の北門に続いて月ノ森の前。東京の女子校巡りが趣味の中学生みたいになっている。最悪だと思いながらも、足はここまで来ていた。

 

 正門の脇には来訪者用の受付があった。白い机。透明なカバーの下に案内文。記名用の紙と、鎖で繋がれたボールペン。

 

「ご用件は」

 

 座っていた人に聞かれて、私は一瞬だけ黙った。

 

「えっと……生徒さんに」

 

「お名前をお願いします」

 

 紙が目の前に差し出される。

 

 氏名。

 来訪先。

 用件。

 

 その一行目だけ、やけに白かった。

 

 私はペンを持った。

 

 三角。

 

 そこまでは頭の中で書けた。

 

 初華。

 

 その二文字が、喉の奥で止まった。

 

 ここに書けば、祥ちゃんに伝わる。伝わった先で、あの子が少しでも首を傾げたらどうする。初華? でも初華は。そこまで考えた瞬間、手の中のペンが急に重くなった。

 

「どうされました?」

 

「……すみません、やっぱり」

 

 私は紙に何も書かないまま頭を下げた。受付の人は少し不思議そうな顔をしたけれど、止めなかった。

 

 外へ出る。制服の流れが坂の上から降りてくる。白と紺。花咲川より少し静かな歩幅。

 

 しばらくして、見覚えのある横顔が現れた。祥ちゃんだった。隣には睦ちゃん。少し後ろに、そよちゃん。三人とも急いでいない。春の終わりみたいな速度で歩いている。

 

 その姿を見た瞬間、一歩も動けなかった。

 

 崩れる気配なんて見えない。見えないものに向かって何かを言うより先に、私はさっき記名欄から逃げたばかりだった。

 

 結局、その日も見送った。坂を下っていく三人の足音が少しずつ遠くなって、最後には横断歩道の向こうに消えた。何もしないまま、掌の中で汗だけが冷えていた。

 

 

    *

 

 

 そんな私に、数日後、燈ちゃんから初ライブの招待が届いた。

 

「もし、よかったら」

「来てほしい」

 

 短い文だった。うれしさが先に来て、そのあとで胸の底が冷えた。

 

 客席に初音が来るかもしれない。燈ちゃんの大事な一日でもある。警告も祝福も、どっちも中途半端なまま、私は画面を見つめていた。

 

 ここまでやり取りしてきて、誘われない方がおかしい。夜中に返事をくれる相手で、石を見せる相手で、歌うのが少し怖いと打ち明ける相手に、初めてのライブを見てほしいと思うのは自然だ。

 

 だからこそ厄介だった。

 

 行けば、初音を見つけるかもしれない。姉を追うための好機でもある。

 

 それでも、あの日だけは燈ちゃんのものだと思った。やっと歌える場所に立つ子の一日を、私の事情で濁したくなかった。初音を見つけても追わない。祥ちゃんに何か言いに行かない。終わるまでは、ただ客席にいる。

 

 そう決めてから、私は返信を打った。

 

「行く」

 

 送信してすぐ、別の不安が浮いた。この顔のまま行けば、客席で余計な混乱が起きる。押し入れを開ける。黒い帽子。伊達眼鏡。ついでにマスクまで出てきた。

 

 鏡の前に立つ。だいぶ怪しい。でも、このくらいでちょうどいい。帽子のつばを深くして、もう一度鏡を見る。初音と同じ輪郭が、帽子とマスクの向こうからこちらを見ていた。

 

 この顔を見つけた人間がいたら、混乱する。混乱させたくない。でも行かない選択肢は、もうなかった。

 

 客席から見る。初音を見つけても動かない。燈ちゃんのライブを台無しにしない。

 

 そう決めたのに、ライブの日付が画面に残っているあいだ、胸の底だけが冷えたままだった。

 

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