ライブ当日、私は黒い帽子を深くかぶって、伊達眼鏡の上からさらにマスクまでして、RiNGの後ろの壁に張りついていた。
変装というより不審者だった。自覚はある。でも今日はこれでいい。燈ちゃんの初ライブを見に来た一人であって、私である必要はない。
客席の灯りが少し落ちて、五人が出てきた。燈ちゃんは遠目にもわかるくらい肩が硬かった。立希ちゃんのスティックがカウントを刻み、そよちゃんのベースが床を作り、睦ちゃんのギターがその縁を揃え、祥ちゃんの鍵盤が細い道をひく。その真ん中で、燈ちゃんの声が最初は震えながら、それでもちゃんと前へ出た。
私は壁に背中を預けたまま、呼吸を浅くして見ていた。うまくいけ、としか思えなかった。あの子の喉が閉まらないように。足がすくまないように。最初の夜が、ちゃんと最初の夜として終われるように。
途中で、客席の端にもう一枚、自分の顔があるのを見つけた。
初音だった。
帽子を目深にかぶっていても、横顔の線でわかった。私と同じ顔。でも、立ち方が違う。客席に溶け込むふりがうまくて、私なんかよりずっと舞台の光を知っている身体だった。
心臓が喉まで上がった。今すぐ追えば、会えるかもしれない。ここまで来て、やっと。
でも動けなかった。今日は燈ちゃんの一日だ。ここで私が初音を追えば、客席から一人消えるだけじゃ済まない気がした。説明はできない。ただ、燈ちゃんの最初の一歩の横で、別の物語を始めるのは違うと思った。
だから壁から背中を離さなかった。初音も、こちらには気づかなかった。気づかれなくてよかったのか、少し残念だったのか、自分でもわからない。
ライブが終わる。拍手が一拍遅れて膨らんだ。私は客電が戻る前に先に外へ出た。人の流れに紛れて帽子のつばをさらに下げる。背中のほうで拍手の名残がまだ鳴っていた。
扉の外には、ライブ帰りの子たちが二、三人たむろしていた。「ボーカルの子よかったね」とか「キーボードの子、綺麗だった」とか、断片だけが耳に入る。そのどれもが燈ちゃんの最初の夜に対する返事みたいで、私は立ち止まりそうになった。
でも立ち止まったら初音を探してしまう。そう思って、歩幅を無理に一定にする。コンビニのガラスに映る自分は、帽子と眼鏡とマスクで輪郭だけになっていた。そこまでして隠しているくせに、内側では追いかけたくてたまらない。
冷たい外気を吸って、ようやく息を吐いた。燈ちゃんは歌えた。五人の音はちゃんと近かった。初音も会場にいた。手の中に持てるには多すぎる夜だった。
*
その夜、燈ちゃんから来たのは「楽しかった。」の六文字だけだった。
私は布団の上でそれを三回読んだ。
楽しかった。
それだけ。どんな曲をやったのかも、客席がどうだったのかもない。でも、その短さで充分だった。
私はずっと息を止めていたらしい。読み終えたあとで、ようやく肺が動いた。
もしかしたら、と思った。もしかしたら続くのかもしれない。六文字でその先を決めにいくなんて浅いにもほどがある。でも、その夜の私は本気でそこへ縋った。
画面を伏せても、またすぐ裏返す。六文字は増えない。増えないのに、見るたび少しだけ意味が変わる気がした。楽しかった、で終われる夜なら。終わったあとも続いていく夜なら。そういう雑な希望に、私は驚くほど簡単に乗れてしまう。
翌日、燈ちゃんに会った。RiNGの近くの公園だった。ベンチに座った燈ちゃんは、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。緊張が抜けたあとにだけ出る、軽い疲れが目の下に残っている。
「昨日、よかった」
私が先に言う。
「最初はちょっと硬かったけど、途中から声、ちゃんと前に出てた」
「祥ちゃんの鍵盤にも埋もれてなかったし、最後、五人の音がちゃんと近かった」
「拍手もあった」
言ってから、見すぎだと思った。完全に、会場にいた人間の感想だ。
燈ちゃんは少し目を丸くして、それから俯いた。
「……見てくれてたんだ」
「うん」
嘘はつかなかった。どこにいたかまでは言わないまま、私は続きを待つ。
燈ちゃんは膝の上で指を組み直した。
「最初、手が震えてた」
「うん」
「喉も……ちょっと、だめで」
「うん」
「でも、途中から……ちゃんと前が見えた」
前。客席のことだろう。それとも、五人のことか。たぶん両方だ。
「みんなの音、近かった」
その言い方に、私は胸を打たれた。上手くいったとか、褒められたとか、成功したとかじゃない。近かった。燈ちゃんにとっての一番うれしい表現は、たぶんそれだった。
「いっぱい、ではないけど……拍手、あった」
「うん。ちゃんとあった」
そこで、ほんの少しだけ笑った。春のあいだ何度か見た笑顔だった。でもこの日は、いちばんやわらかかった。やっと居場所に足をかけた子の顔だった。
それから、燈ちゃんは少しだけ首を傾げた。
「あとね」
「うん」
「客席に、初華ちゃんにすごく似た人がいた」
心臓が跳ねた。やっぱり、と思った。初音を見たんだ。あの横顔なら、そうなる。私だと勘違いしてもおかしくない。
でも、燈ちゃんは続けた。
「でも、初華ちゃんではなかった……気がする」
「え」
自分でも間抜けな声が出たと思った。
「似てたけど……違った。初華ちゃんに、似てる人」
燈ちゃんは言葉を選ぶみたいに、少しずつ置いた。
「なんで、そう思ったの」
「わからない。でも……初華ちゃんが来てくれたら、たぶん、わかるから」
胸の奥がきつく熱くなった。私は帽子をかぶって、眼鏡をかけて、マスクまでして、初音と同じ顔まで客席にいて、それでも燈ちゃんは混ぜなかった。私と初音を、似ている別の誰かとして見分けた。
そのことが、うれしかった。顔じゃなくて、私を見てもらえた気がした。東京に来てからずっと、自分の名前も顔も、誰かに上書きされる怖さばかり抱えていたから、なおさら堪えた。
「そっか」
それしか言えなかった。それだけで精一杯だった。
だからこそ、その直後に別の言葉を差し込むのが嫌だった。やっと届いたうれしさの上に、私の不安を重ねたくなかった。今ここで「気をつけて」と言ったら、この喜びに泥が混じる。理由も知らないくせに、壊れるかもしれないからと水を差すのは、私の怖さを相手に押しつけるだけだ。
燈ちゃんの大事な春だ。私が、今この瞬間だけでも守るなら、まず壊さないことだと思った。
だから、その日は笑って別れた。
「よかったね」と言って。
「今度もっと詳しく聞かせて」と言って。
まともな友だちみたいな顔をして。
別れたあとで、電柱の陰に立って、私は自分の判断を疑った。でも遅い。もう笑ってしまった。笑って祝ったあとで、やっぱり危ないかも、とは言いにくい。
*
そのあと二日、私は何も送れなかった。
燈ちゃんの「楽しかった。」を何度も見返して、祝っていいのか、それとも今から何か聞くべきなのか、決められなかった。
聞くなら、何を。
誰に。
どこまで。
言葉を作っているあいだに、時間だけが先に進んだ。
*
燈ちゃんからの連絡が途切れたのは、その翌日からだった。
一日来ない。二日来ない。三日目の午後になって、やっと通知が光った。
「石 拾った」
本文なし。写真が一枚ついていた。灰色の石だった。
私はすぐに返した。
「見る」
返事は遅かった。
「明日」
「RiNGの近く」
短い文なのに、妙に息が詰まった。何かあった。そう思った。でも、その「何か」を私は知らない。
翌日、燈ちゃんは本当に石を七個持ってきた。公園のベンチに一列に並べる。灰色、黒、白、茶色、薄緑、薄緑、赤茶。どれもただの石に見える。燈ちゃんに言わせると、顔や猫や魚だった。
「これが猫」
「うん」
「これは……魚」
「魚には見えない」
「横から見ると」
「横から見ても魚には見えない」
「……見える」
見えない。断言できる。でも、燈ちゃんの言い方は本気だった。私は石を持ち上げて、右に傾けたり左に傾けたりした。やっぱり魚ではなかった。
「ごめん。石」
「うん」
「完全に石」
燈ちゃんは少しだけ目を伏せて、それから言った。
「石で、いい」
その返事が、妙に胸に残った。
私は石を戻して尋ねた。
「いつ拾ったの」
燈ちゃんは黒い石を指先で撫でた。
「最初のライブの帰り」
「……あの日?」
「うん。うれしくて」
うれしくて。その言葉がまだ現在形で残っていることに、少しだけ安堵した。でも、燈ちゃんは続けた。
「そのあとも、拾った」
「そのあと?」
燈ちゃんは少し黙った。公園の向こうで、自転車のブレーキが鳴った。風が吹いて、ベンチの下の砂が動いた。
「……バンド、なくなっちゃった」
私は聞き返せなかった。聞き返したら、本当になる気がした。
燈ちゃんは石を見たまま言葉を続けた。
「ライブのあと、少しだけ……続くって思った」
喉が詰まった。
「うん」
「終わらないって、勝手に思った」
「うん」
「だから……なくなった時、どこに立てばいいか、わからなかった」
私は膝の上で手を握った。掌に爪が食い込んだ。
燈ちゃんは静かだった。泣いていない。責めてもいない。でも、その静けさの下で、喜びの高さぶんだけ落ちたのがわかった。
やっと届いた場所だと思った。やっと歌えるかもしれないと思った。その床が数日でなくなった。
それは痛いに決まっている。
「理由、聞いた?」
やっとそれだけ言えた。
燈ちゃんは首を横に振った。
「ちゃんとは、聞けてない」
「そっか」
「私の歌……だめだったのかな、って、ちょっと思った」
その言葉に、胃の底が冷えた。
ああ、これだ。この子は自分を疑う。理由が見えないまま切られたら、いちばん先に自分の喉を責める。そこに先に返事を置かなきゃいけなかったのに、私は何も聞けないままここまで来た。
「違うよ」
即座に言った。言ったあとで、根拠がないと気づいた。でも、ここで黙る方がひどい。
燈ちゃんは私を見た。通り過ぎない目だった。
「……どうして?」
私は一瞬、何も言えなかった。
どうして。知らないからだ。知らないけど、違ってほしいからだ。知らないくせに、今さら否定だけしている。
私は息を吸った。
「燈ちゃんが、あの日うれしかったのは本物だったから」
燈ちゃんのまばたきがゆっくり落ちた。
「本物だったものが、数日でなくなった時の理由って……たぶん、歌だけじゃない」
我ながら曖昧すぎる。でも、それ以上は言えなかった。言えるだけの確信がなかった。
燈ちゃんはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……うん」
その頷きが納得だったのか、保留だったのか、私にはわからない。
ただ、燈ちゃんは七個の石を一つずつポケットに戻した。一個も置いていかなかった。
ベンチの上から色が消える。そこにさっきまであったはずのものが何も残っていないのを見て、私はまた喉がつまった。楽しかった、の六文字だけが急に遠くなる。
*
帰ってから、私は母に電話をかけた。
理由は自分でもよくわからない。燈ちゃんのバンドが終わったからかもしれない。理由を言わない母の顔を、急に思い出したからかもしれない。
発信音が三回鳴って、繋がった。
「もしもし」
母の声は短かった。怒っていない。泣いてもいない。疲れてもいない。ただ、短い。
「……うん」
自分の返事も短かった。
「元気にしてる?」
「してる」
「ごはんは」
「食べてる」
「洗濯は」
「してる」
母は少し黙った。遠くで食器の鳴る音がした。島の台所の、夕方の音だ。
「そう」
それだけだった。
追及がない。帰ってこいも、何をしているのも、いつまでいるのもない。止めない。問わない。慰めない。島にいた頃からずっと、母の沈黙は同じ形をしていた。
「……お母さん」
「うん」
「初音のこと、何か知ってる?」
沈黙が深くなった。さっきまでと同じ無音なのに、温度だけが変わった。
「……元気にしてると思うよ」
思う。知ってる、じゃない。
私はそこで踏み込めなかった。燈ちゃんも理由を知らない。母も、たぶん全部は言わない。みんな肝心なところだけ黙る。
「お金、ありがとう」
逃げるみたいに話題を変えた。
母は少し間を置いてから言った。
「使い切ったら、言いなさい」
それから、ふいに付け足した。
「あの島の別荘の子……豊川さんのところの。覚えてる?」
心臓が跳ねた。
「覚えてる」
「……そう。元気でね」
通話が切れた。
スマホを持つ手がじんわり汗ばんでいた。何も解決していない。でも、母の声を聞いた。祥ちゃんの名字を、母の口から聞いた。それだけで、見えない糸が増えた気がした。
増えたところで、結び方はわからない。ただ、理由のない沈黙だけがまた一つ増えた。
*
夜、食卓には二膳だけ並んでいた。
詩船さんは味噌汁をよそって、私は小皿を運んだ。楽奈はRiNGにいるらしい。今日も自由だ。自由すぎる。
味噌汁の湯気が上がっている。島の家なら、今ごろ一膳だ。父がいなくなって、初音がいなくなって、私もいない。母は一人で食べている。
二膳の食卓が、一膳よりましだと、身体の方が先に知っていた。
詩船さんが味噌汁を啜った。
「顔色悪いね」
「そうですか」
「そうだよ」
正論だった。こういう人に曖昧なごまかしは効かない。
私は箸を置いた。
「詩船さん」
「ん?」
「私、もう少しここにいていいですか」
詩船さんはすぐには答えなかった。鍋敷きを少しだけずらして、それから私を見た。
「条件は同じ」
「はい」
「夜は静かに。勝手に消えない」
「はい」
「あと、食べられる時はちゃんと食べる」
私は少し驚いた。条件が一つ増えていた。
「……はい」
「じゃあ、明日は買い物つきあって」
それで話は終わりだった。
私は味噌汁を飲んだ。わかめと豆腐。いつもの味だった。いつもの味なのに、今日だけ少し塩気が強く感じた。
使い切ったら、言いなさい。
母の言葉を思い出した。使い切ったのはお金じゃない。私の方だった。わかった顔をしていたのに、肝心な理由を一つも持っていない。止めたいつもりで、結局誰にも届いていない。
窓の外は、もう春の終わりの色だった。
燈ちゃんの喜びは本物だった。本物だったのに、数日で絶望に変わった。その理由を、私はまだ持っていない。
持っていないまま、春だけが終わっていた。