初華じゃない方の初華   作:まつきた

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第4話後編:二膳の食卓

ライブ当日、私は黒い帽子を深くかぶって、伊達眼鏡の上からさらにマスクまでして、RiNGの後ろの壁に張りついていた。

 

 変装というより不審者だった。自覚はある。でも今日はこれでいい。燈ちゃんの初ライブを見に来た一人であって、私である必要はない。

 

 客席の灯りが少し落ちて、五人が出てきた。燈ちゃんは遠目にもわかるくらい肩が硬かった。立希ちゃんのスティックがカウントを刻み、そよちゃんのベースが床を作り、睦ちゃんのギターがその縁を揃え、祥ちゃんの鍵盤が細い道をひく。その真ん中で、燈ちゃんの声が最初は震えながら、それでもちゃんと前へ出た。

 

 私は壁に背中を預けたまま、呼吸を浅くして見ていた。うまくいけ、としか思えなかった。あの子の喉が閉まらないように。足がすくまないように。最初の夜が、ちゃんと最初の夜として終われるように。

 

 途中で、客席の端にもう一枚、自分の顔があるのを見つけた。

 

 初音だった。

 

 帽子を目深にかぶっていても、横顔の線でわかった。私と同じ顔。でも、立ち方が違う。客席に溶け込むふりがうまくて、私なんかよりずっと舞台の光を知っている身体だった。

 

 心臓が喉まで上がった。今すぐ追えば、会えるかもしれない。ここまで来て、やっと。

 

 でも動けなかった。今日は燈ちゃんの一日だ。ここで私が初音を追えば、客席から一人消えるだけじゃ済まない気がした。説明はできない。ただ、燈ちゃんの最初の一歩の横で、別の物語を始めるのは違うと思った。

 

 だから壁から背中を離さなかった。初音も、こちらには気づかなかった。気づかれなくてよかったのか、少し残念だったのか、自分でもわからない。

 

 ライブが終わる。拍手が一拍遅れて膨らんだ。私は客電が戻る前に先に外へ出た。人の流れに紛れて帽子のつばをさらに下げる。背中のほうで拍手の名残がまだ鳴っていた。

 

 扉の外には、ライブ帰りの子たちが二、三人たむろしていた。「ボーカルの子よかったね」とか「キーボードの子、綺麗だった」とか、断片だけが耳に入る。そのどれもが燈ちゃんの最初の夜に対する返事みたいで、私は立ち止まりそうになった。

 

 でも立ち止まったら初音を探してしまう。そう思って、歩幅を無理に一定にする。コンビニのガラスに映る自分は、帽子と眼鏡とマスクで輪郭だけになっていた。そこまでして隠しているくせに、内側では追いかけたくてたまらない。

 

 冷たい外気を吸って、ようやく息を吐いた。燈ちゃんは歌えた。五人の音はちゃんと近かった。初音も会場にいた。手の中に持てるには多すぎる夜だった。

 

 

    *

 

 

 その夜、燈ちゃんから来たのは「楽しかった。」の六文字だけだった。

 

 私は布団の上でそれを三回読んだ。

 

 楽しかった。

 

 それだけ。どんな曲をやったのかも、客席がどうだったのかもない。でも、その短さで充分だった。

 

 私はずっと息を止めていたらしい。読み終えたあとで、ようやく肺が動いた。

 

 もしかしたら、と思った。もしかしたら続くのかもしれない。六文字でその先を決めにいくなんて浅いにもほどがある。でも、その夜の私は本気でそこへ縋った。

 

 画面を伏せても、またすぐ裏返す。六文字は増えない。増えないのに、見るたび少しだけ意味が変わる気がした。楽しかった、で終われる夜なら。終わったあとも続いていく夜なら。そういう雑な希望に、私は驚くほど簡単に乗れてしまう。

 

 翌日、燈ちゃんに会った。RiNGの近くの公園だった。ベンチに座った燈ちゃんは、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。緊張が抜けたあとにだけ出る、軽い疲れが目の下に残っている。

 

「昨日、よかった」

 

 私が先に言う。

 

「最初はちょっと硬かったけど、途中から声、ちゃんと前に出てた」

「祥ちゃんの鍵盤にも埋もれてなかったし、最後、五人の音がちゃんと近かった」

「拍手もあった」

 

 言ってから、見すぎだと思った。完全に、会場にいた人間の感想だ。

 

 燈ちゃんは少し目を丸くして、それから俯いた。

 

「……見てくれてたんだ」

 

「うん」

 

 嘘はつかなかった。どこにいたかまでは言わないまま、私は続きを待つ。

 

 燈ちゃんは膝の上で指を組み直した。

 

「最初、手が震えてた」

 

「うん」

 

「喉も……ちょっと、だめで」

 

「うん」

 

「でも、途中から……ちゃんと前が見えた」

 

 前。客席のことだろう。それとも、五人のことか。たぶん両方だ。

 

「みんなの音、近かった」

 

 その言い方に、私は胸を打たれた。上手くいったとか、褒められたとか、成功したとかじゃない。近かった。燈ちゃんにとっての一番うれしい表現は、たぶんそれだった。

 

「いっぱい、ではないけど……拍手、あった」

 

「うん。ちゃんとあった」

 

 そこで、ほんの少しだけ笑った。春のあいだ何度か見た笑顔だった。でもこの日は、いちばんやわらかかった。やっと居場所に足をかけた子の顔だった。

 

 それから、燈ちゃんは少しだけ首を傾げた。

 

「あとね」

 

「うん」

 

「客席に、初華ちゃんにすごく似た人がいた」

 

 心臓が跳ねた。やっぱり、と思った。初音を見たんだ。あの横顔なら、そうなる。私だと勘違いしてもおかしくない。

 

 でも、燈ちゃんは続けた。

 

「でも、初華ちゃんではなかった……気がする」

 

「え」

 

 自分でも間抜けな声が出たと思った。

 

「似てたけど……違った。初華ちゃんに、似てる人」

 

 燈ちゃんは言葉を選ぶみたいに、少しずつ置いた。

 

「なんで、そう思ったの」

 

「わからない。でも……初華ちゃんが来てくれたら、たぶん、わかるから」

 

 胸の奥がきつく熱くなった。私は帽子をかぶって、眼鏡をかけて、マスクまでして、初音と同じ顔まで客席にいて、それでも燈ちゃんは混ぜなかった。私と初音を、似ている別の誰かとして見分けた。

 

 そのことが、うれしかった。顔じゃなくて、私を見てもらえた気がした。東京に来てからずっと、自分の名前も顔も、誰かに上書きされる怖さばかり抱えていたから、なおさら堪えた。

 

「そっか」

 

 それしか言えなかった。それだけで精一杯だった。

 

 だからこそ、その直後に別の言葉を差し込むのが嫌だった。やっと届いたうれしさの上に、私の不安を重ねたくなかった。今ここで「気をつけて」と言ったら、この喜びに泥が混じる。理由も知らないくせに、壊れるかもしれないからと水を差すのは、私の怖さを相手に押しつけるだけだ。

 

 燈ちゃんの大事な春だ。私が、今この瞬間だけでも守るなら、まず壊さないことだと思った。

 

 だから、その日は笑って別れた。

 

「よかったね」と言って。

「今度もっと詳しく聞かせて」と言って。

 まともな友だちみたいな顔をして。

 

 別れたあとで、電柱の陰に立って、私は自分の判断を疑った。でも遅い。もう笑ってしまった。笑って祝ったあとで、やっぱり危ないかも、とは言いにくい。

 

 

    *

 

 

 そのあと二日、私は何も送れなかった。

 

 燈ちゃんの「楽しかった。」を何度も見返して、祝っていいのか、それとも今から何か聞くべきなのか、決められなかった。

 

 聞くなら、何を。

 誰に。

 どこまで。

 

 言葉を作っているあいだに、時間だけが先に進んだ。

 

 

    *

 

 

 燈ちゃんからの連絡が途切れたのは、その翌日からだった。

 

 一日来ない。二日来ない。三日目の午後になって、やっと通知が光った。

 

「石 拾った」

 

 本文なし。写真が一枚ついていた。灰色の石だった。

 

 私はすぐに返した。

 

「見る」

 

 返事は遅かった。

 

「明日」

「RiNGの近く」

 

 短い文なのに、妙に息が詰まった。何かあった。そう思った。でも、その「何か」を私は知らない。

 

 翌日、燈ちゃんは本当に石を七個持ってきた。公園のベンチに一列に並べる。灰色、黒、白、茶色、薄緑、薄緑、赤茶。どれもただの石に見える。燈ちゃんに言わせると、顔や猫や魚だった。

 

「これが猫」

 

「うん」

 

「これは……魚」

 

「魚には見えない」

 

「横から見ると」

 

「横から見ても魚には見えない」

 

「……見える」

 

 見えない。断言できる。でも、燈ちゃんの言い方は本気だった。私は石を持ち上げて、右に傾けたり左に傾けたりした。やっぱり魚ではなかった。

 

「ごめん。石」

 

「うん」

 

「完全に石」

 

 燈ちゃんは少しだけ目を伏せて、それから言った。

 

「石で、いい」

 

 その返事が、妙に胸に残った。

 

 私は石を戻して尋ねた。

 

「いつ拾ったの」

 

 燈ちゃんは黒い石を指先で撫でた。

 

「最初のライブの帰り」

 

「……あの日?」

 

「うん。うれしくて」

 

 うれしくて。その言葉がまだ現在形で残っていることに、少しだけ安堵した。でも、燈ちゃんは続けた。

 

「そのあとも、拾った」

 

「そのあと?」

 

 燈ちゃんは少し黙った。公園の向こうで、自転車のブレーキが鳴った。風が吹いて、ベンチの下の砂が動いた。

 

「……バンド、なくなっちゃった」

 

 私は聞き返せなかった。聞き返したら、本当になる気がした。

 

 燈ちゃんは石を見たまま言葉を続けた。

 

「ライブのあと、少しだけ……続くって思った」

 

 喉が詰まった。

 

「うん」

 

「終わらないって、勝手に思った」

 

「うん」

 

「だから……なくなった時、どこに立てばいいか、わからなかった」

 

 私は膝の上で手を握った。掌に爪が食い込んだ。

 

 燈ちゃんは静かだった。泣いていない。責めてもいない。でも、その静けさの下で、喜びの高さぶんだけ落ちたのがわかった。

 

 やっと届いた場所だと思った。やっと歌えるかもしれないと思った。その床が数日でなくなった。

 

 それは痛いに決まっている。

 

「理由、聞いた?」

 

 やっとそれだけ言えた。

 

 燈ちゃんは首を横に振った。

 

「ちゃんとは、聞けてない」

 

「そっか」

 

「私の歌……だめだったのかな、って、ちょっと思った」

 

 その言葉に、胃の底が冷えた。

 

 ああ、これだ。この子は自分を疑う。理由が見えないまま切られたら、いちばん先に自分の喉を責める。そこに先に返事を置かなきゃいけなかったのに、私は何も聞けないままここまで来た。

 

「違うよ」

 

 即座に言った。言ったあとで、根拠がないと気づいた。でも、ここで黙る方がひどい。

 

 燈ちゃんは私を見た。通り過ぎない目だった。

 

「……どうして?」

 

 私は一瞬、何も言えなかった。

 

 どうして。知らないからだ。知らないけど、違ってほしいからだ。知らないくせに、今さら否定だけしている。

 

 私は息を吸った。

 

「燈ちゃんが、あの日うれしかったのは本物だったから」

 

 燈ちゃんのまばたきがゆっくり落ちた。

 

「本物だったものが、数日でなくなった時の理由って……たぶん、歌だけじゃない」

 

 我ながら曖昧すぎる。でも、それ以上は言えなかった。言えるだけの確信がなかった。

 

 燈ちゃんはしばらく黙ってから、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 その頷きが納得だったのか、保留だったのか、私にはわからない。

 

 ただ、燈ちゃんは七個の石を一つずつポケットに戻した。一個も置いていかなかった。

 

 ベンチの上から色が消える。そこにさっきまであったはずのものが何も残っていないのを見て、私はまた喉がつまった。楽しかった、の六文字だけが急に遠くなる。

 

 

    *

 

 

 帰ってから、私は母に電話をかけた。

 

 理由は自分でもよくわからない。燈ちゃんのバンドが終わったからかもしれない。理由を言わない母の顔を、急に思い出したからかもしれない。

 

 発信音が三回鳴って、繋がった。

 

「もしもし」

 

 母の声は短かった。怒っていない。泣いてもいない。疲れてもいない。ただ、短い。

 

「……うん」

 

 自分の返事も短かった。

 

「元気にしてる?」

 

「してる」

 

「ごはんは」

 

「食べてる」

 

「洗濯は」

 

「してる」

 

 母は少し黙った。遠くで食器の鳴る音がした。島の台所の、夕方の音だ。

 

「そう」

 

 それだけだった。

 

 追及がない。帰ってこいも、何をしているのも、いつまでいるのもない。止めない。問わない。慰めない。島にいた頃からずっと、母の沈黙は同じ形をしていた。

 

「……お母さん」

 

「うん」

 

「初音のこと、何か知ってる?」

 

 沈黙が深くなった。さっきまでと同じ無音なのに、温度だけが変わった。

 

「……元気にしてると思うよ」

 

 思う。知ってる、じゃない。

 

 私はそこで踏み込めなかった。燈ちゃんも理由を知らない。母も、たぶん全部は言わない。みんな肝心なところだけ黙る。

 

「お金、ありがとう」

 

 逃げるみたいに話題を変えた。

 

 母は少し間を置いてから言った。

 

「使い切ったら、言いなさい」

 

 それから、ふいに付け足した。

 

「あの島の別荘の子……豊川さんのところの。覚えてる?」

 

 心臓が跳ねた。

 

「覚えてる」

 

「……そう。元気でね」

 

 通話が切れた。

 

 スマホを持つ手がじんわり汗ばんでいた。何も解決していない。でも、母の声を聞いた。祥ちゃんの名字を、母の口から聞いた。それだけで、見えない糸が増えた気がした。

 

 増えたところで、結び方はわからない。ただ、理由のない沈黙だけがまた一つ増えた。

 

 

    *

 

 

 夜、食卓には二膳だけ並んでいた。

 

 詩船さんは味噌汁をよそって、私は小皿を運んだ。楽奈はRiNGにいるらしい。今日も自由だ。自由すぎる。

 

 味噌汁の湯気が上がっている。島の家なら、今ごろ一膳だ。父がいなくなって、初音がいなくなって、私もいない。母は一人で食べている。

 

 二膳の食卓が、一膳よりましだと、身体の方が先に知っていた。

 

 詩船さんが味噌汁を啜った。

 

「顔色悪いね」

 

「そうですか」

 

「そうだよ」

 

 正論だった。こういう人に曖昧なごまかしは効かない。

 

 私は箸を置いた。

 

「詩船さん」

 

「ん?」

 

「私、もう少しここにいていいですか」

 

 詩船さんはすぐには答えなかった。鍋敷きを少しだけずらして、それから私を見た。

 

「条件は同じ」

 

「はい」

 

「夜は静かに。勝手に消えない」

 

「はい」

 

「あと、食べられる時はちゃんと食べる」

 

 私は少し驚いた。条件が一つ増えていた。

 

「……はい」

 

「じゃあ、明日は買い物つきあって」

 

 それで話は終わりだった。

 

 私は味噌汁を飲んだ。わかめと豆腐。いつもの味だった。いつもの味なのに、今日だけ少し塩気が強く感じた。

 

 使い切ったら、言いなさい。

 

 母の言葉を思い出した。使い切ったのはお金じゃない。私の方だった。わかった顔をしていたのに、肝心な理由を一つも持っていない。止めたいつもりで、結局誰にも届いていない。

 

 窓の外は、もう春の終わりの色だった。

 

 燈ちゃんの喜びは本物だった。本物だったのに、数日で絶望に変わった。その理由を、私はまだ持っていない。

 

 持っていないまま、春だけが終わっていた。

 

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