春が終わったあと、私は三日くらい何もできなかった。
燈ちゃんの「なくなっちゃった」が耳に残っていた。二膳の食卓の味噌汁の湯気も、母の「使い切ったら、言いなさい」も残っていた。止めたかったのに止められなかった。しかも、何をどう止めるべきだったのか、最後までわからないままだった。
だから、同じ場所で考え続けるのをやめた。初音に会えないなら、別の道から行くしかない。
六月の頭、私はノートの「奪還計画」の頁を閉じて、新しい頁を開いた。「行動計画」と書いた。名前を取り戻す方法は、初音に直接会うだけじゃない。私が先に「初華」として立てばいい。
壁の色紙が言っている。アイドルになる。なるなら、やることは決まっている。
ボイストレーニングの無料体験に三件行った。渋谷、新宿、池袋。どこも最初は親切だった。「声は悪くないね」「リズム感あるね」。褒められるたびに、もしかしたらと思った。
体験の最後に必ず聞かれた。
「未成年だよね、保護者の同意書は?」
ない。島の母に連絡して同意書を頼めば、東京で何をしているかバレる。バレたら止められるかもしれない。止められないまでも、「何をしているの」と聞かれる。答えられない。
三件とも、入会できなかった。紙だけがリュックに溜まっていく。渋谷の紙、新宿の紙、池袋の紙。帰ってから机に並べると、ちゃんと失敗した証拠みたいで腹が立った。
*
六月。中学二年の制服は、もう新しくなかった。肘のところだけ少し白く擦れて、夏服へ替わる前から、時間の方が先にくたびれて見えた。
学校には行っていない。籍は島の中学にあるまま。詩船さんは何も聞かなかった。ただ、ある朝「勉強はしてるの」と一度だけ聞いた。
「してます」
嘘だった。嘘だったけれど、翌日から図書館で参考書を開くようになった。詩船さんの言葉は、時差で効く。
図書館の自習室で、数学の問題集を開く。隣では受験生らしい高校生がシャーペンを走らせている。私は二十分おきにスマホでオーディション情報を見てしまう。勉強しているのか、待機しているのか、自分でもわからない。
ボイストレーニングがダメなら、別の方法がある。オーディション。ネットで見つけた新人オーディションに五つ応募した。図書館の帰りに証明写真を撮り、駅前のベンチで応募フォームを埋め、家に戻ってから志望動機を書き直す。そのくり返しで六月が削れていった。
一つ目。書類選考で落ちた。写真の印象が弱いらしかった。
二つ目。書類は通った。一次面接。歌を歌った。緊張で声が裏返った。帰り道、コンビニのトイレで泣きそうになった。泣かなかった。
三つ目。書類落ち。
四つ目。書類落ち。
五つ目。一次は通った。二次で落ちた。
会場ごとに椅子の硬さも、蛍光灯の色も、待合室の匂いも違う。名前を呼ばれる前の静けさ、番号札の裏のざらつき、安い紙コップの水の味まで違うのに、不合格だけはいつも同じ形で届いた。帰り道の重さも毎回同じだった。
二次面接の講評が脳裏に残っている。四十代くらいの男性審査員が、書類を裏返しながら言った。
「うーん、声はいい線いってるんだけどね。なんか……作ってる感じがする」
作っている。
刺さったのは、正確だったからだ。
私は歌う前から笑う角度を決めていた。返事の速さを決めていた。受かりそうな顔を先に作って、それからようやく声を出していた。初音に先を越されたままじゃ嫌だ。早く立たなきゃ。そう思うほど、身体が勝手に無難なほうへ寄っていく。
本当の声がどれなのか、自分でもわからなくなるくらいに。
帰り道、コンビニのトイレの鏡に映った顔は、いつも同じだった。泣いていない。崩れていない。ちゃんとやれそうな顔をしたまま、ちゃんと落ちている。
*
七月。六つ目のオーディション。今度は事務所主催ではなく、地下アイドルの合同オーディションだった。ハードルが低い。ここなら通るかもしれない。
書類通過。一次通過。二次通過。
通った。最終面接に進んだ。
手が震えた。初めて最終に残った。会場は雑居ビルの三階。壁紙が剥がれかけた控室。隣の子は小学六年生で、もう一人は中学一年生で、私が最年長だった。十四歳が最長。場違いなくらい早く大人の顔をしている気分だけが、やけに浮いた。
最終面接は個別だった。カメラの前で自己紹介。特技披露。質疑応答。
「三角初華さんね。――あ、三角?」
面接官の目が書類に戻った。
「三角初華って、sumimiの?」
「……いえ、あれは姉です」
「お姉さん! えっ、姉妹?」
空気が変わった。面接官の表情が、興味から慎重さに移り変わるのが見えた。となりの部屋に引っ込んで、誰かに確認しに行った。声は聞こえなかったけれど、長かった。
戻ってきた面接官は、さっきと別人みたいに事務的だった。
「ごめんね、今回はご縁がなかったということで」
「え――」
「総合的な判断です。ありがとうございました」
最終面接に残って、自己紹介の途中で落ちた。歌も歌わせてもらえなかった。
帰り道、膝から力が抜けた。ベンチに座って、空を見た。灰色の空。何がいけなかったのかわからなかった。
――わからない、というのは嘘だ。
名前だ。三角初華。sumimiの初華と同じ名前。同じ顔。同じ名字。
私が「初華」として表に出ることを、誰かが嫌がっている――ように思えた。気のせいかもしれない。業界の事情かもしれない。でも、名前を出した途端に空気が変わるのは、六回目にもなれば偶然では片づけられなかった。
ただ、だからといって初音が私を潰している、とは思えなかった。そんなことをする人間だとも思いたくなかったし、何より、そこへ飛びつくのは自分が楽になるだけだった。
私が受からない理由は一つじゃない。
名前が重い。
受かる顔を作りすぎる。
歌う前から負けないための形を整えて、肝心の声だけ薄くなる。
全部だ。
*
夏が来た。七つ目、八つ目。全部落ちた。
書類で落ちるならまだいい。面接まで行って、名前を出した途端に空気が変わるのが一番堪えた。
別の会場では、若い女性の審査員が言った。
「悪くないんだけど、何を出したいのか見えないんだよね」
それも正しかった。
私は何を出したいのか。
歌いたいのか。
奪い返したいのか。
名前を証明したいのか。
全部混ざっていて、どれも真正面から口にできない。
詩船さんの家に帰ると、楽奈が縁側で寝ていたり、RiNGから戻ってきて急にギターを鳴らしたりした。何も解決しない日常が続いて、その何も解決しない感じだけが、かえって助かった。
九つ目の結果が来る前の午後、私は縁側で不合格通知の文面だけを見返していた。楽奈がコンビニ袋をぶら下げて戻ってきて、何も聞かずに缶を一本よこした。抹茶ソーダだった。ありえない色をしている。
「なにこれ」
「抹茶」
「見ればわかる」
「甘い」
飲んだ。甘かった。抹茶の顔をした別の何かだった。
楽奈は私の隣で膝を抱えて座り、何も言わなかった。不合格通知も、縁側の汗ばんだ空気も、抹茶ソーダの変な甘さも、そのままそこに置かれた。励まされないのが、少しだけ助かった。
秋、燈ちゃんからのメッセージの頻度が落ちた。
一日一通が三日に一通になり、一週間に一通になった。石の写真は来なくなった。代わりに、何でもないメッセージが深夜に届くことがあった。
「……眠れない」
「私も」
それだけのやり取りが、二人の間に薄い線を保っていた。
燈ちゃんもどこかで沈んでいた。CRYCHICの解散から、あの子がどう過ごしたのか、私は詳しくは知らない。聞けなかった。自分の問題すら片づけられない人間が、他人の傷をどう扱えるというのか。
九つ目のオーディションの不合格通知がメールで来た日、私はノートの「行動計画」の頁を閉じた。
計画は死んだ。九回振って、九回空振り。打率ゼロ。
名前を変えれば通るのかもしれない。「三角初華」でなければ。でも、名前を捨てたら、私がここにいる理由が消える。色紙の「アイドルになる!」は「初華」の字で書いてある。初華でなくなったら、あの字は誰のものになる。
*
夏の終わりに一度だけ、祥ちゃんを頼ろうとした。
オーディションに六連敗して溺れかけていたころ、祥ちゃんなら何か言ってくれるかもしれないと思った。正解じゃなくてもいい。せめて、私の名前をまっすぐ呼んでくれるだけでもよかった。
だから月ノ森まで行った。
受付の机。透明なカバー。記名欄。鎖で繋がれたボールペン。
あの時の私は、祥ちゃんの顔を見る前に逃げた。
三角初華、と書けば、向こうへ伝わる。
伝わった先で、何かが照合される。
その怖さだけで、ペン先が止まった。
あの場では、まだ理由がわからなかった。ただ、喉が閉まった。名乗れなかった。自分で自分を不審者みたいに扱って、何も書かずに外へ出た。
それから少しして、校門の近くで見た。
制服姿の祥ちゃんが歩いてくる。その隣に、私の顔をした初音がいた。
『初華』
祥ちゃんが、初音をそう呼んだ。何の疑問もなく、親しげに、当たり前のように。
その瞬間、記名欄の前で止まった理由が、遅れてわかった。
私は初音に会うのが怖かったんじゃない。
祥ちゃんに確かめられるのが怖かった。
初華はこの人ですわ、と、あの涼しい声で当たり前みたいに置かれるのが怖かった。
あの時、受付で紙に名前を書けなかったのは、それだった。
私はその場でしゃがみ込みそうになった。校門の前のコンクリートが、急に遠くなる。耳だけが熱い。
祥ちゃんでさえ、初音を「初華」と呼ぶ。私の支柱だった呼び声が、もう別の場所で成立している。
私の名前。
私の夢。
私の色紙。
全部、私の知らないところで先に走っている。
それ以来、祥ちゃんには連絡していない。会いに行くこともやめた。会う資格がない、とは少し違う。会って、確かめられて、決まってしまうのが怖かった。
*
冬が来た。ギターのケースに埃が積もった。
弾く気力がなかった。審査員が言った通りだ。全部が「作っている」感じになる。作り物の笑顔で、作り物の受け答えをして、作り物のまま落ちる。それなら最初から出さないほうがまだ楽だった。
走ることをやめた。
やめたら、止まった。
止まったら、動けなくなった。
*
春が来ても、動けなかった。
四月の終わり。日曜日。
詩船さんが買い物に出て、楽奈はRiNGに行くと言って消えた。ひとりになった。
部屋の隅にギターケースがある。ケースの表面に薄く埃が積もっている。拭く気にもなれない日が続いていた。
スマホが震えた。燈ちゃんからだった。
「……会える? いつもの公園」
何があるのか書いていない。ただ「会える?」だけ。
行っても行かなくても、何も変わらない。一年間、全力で走って全敗して、走ることをやめて四ヶ月経った。今さら何が変わる。
「行く」
送信してから、立ち上がって顔を洗った。鏡に自分の顔が映る。一年前より頬の線が細くなっていた。目は初音と同じだった。同じ目で、違う場所を見ている。
公園のベンチに着いたとき、燈ちゃんはもういた。ベンチの上に座って、膝の上にノートを開いている。鉛筆の先が紙に触れたまま止まっていた。書けない状態に見えた。
「……あ」
燈ちゃんが顔を上げた。
「来てくれた」
「うん」
間があった。一年ぶんの空白が、たった二語の挨拶に収まらない。
燈ちゃんは少し痩せていた。目の下に影がある。前に会ったときより声が小さい。でも、逃げていない目だった。通り過ぎない目。止まる目。
「書けない」
燈ちゃんがノートを見せた。ページの半分に言葉が散らばっている。消した跡。書き直した跡。線を引いて潰した跡。一年間の痕跡が、ノートの上に地層のように重なっていた。
「一年かけて、これだけ」
「……」
「バンドが終わってから……歌えない」
声が震えていなかった。震える段階をとっくに過ぎていた。乾いた声だった。乾いているから余計に痛かった。
私はノートのページを見た。散らばった言葉の断片が、目に飛び込んでくる。迷子。声。届かない。一年分の書けなさが、文字の傷跡として残っている。
私はすぐに何も言えなかった。慰めは薄いし、励ましは軽い。自分に向かってさえ、まともな言葉を返せなかった一年だったのだから。
「……私も」
気づいたら言っていた。
「私も、一年なにもできなかった」
嘘だった。何もしなかったんじゃない。全力でやって、全部ダメだった。でも「全力でやってダメだった」と言うのは、「何もできなかった」と言うより少し痛い。だから少しだけ、丸めた。
燈ちゃんは頷いた。
「同じ……かも」
「同じ」
「沈んでた」
「うん。沈んでた」
二人で黙った。沈黙が痛くなかった。同じ深さにいる沈黙だった。
帰り際、燈ちゃんが短く言った。
「また……送っていい?」
「うん。返す」
それだけの約束だった。
でも、一年ぶりに、待つことが全部絶望じゃなくなった。