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漠然と淀んだ街を、喧騒とネオンが飾っている。星が降らす光も、夜の微妙な静寂も、街は不健康にそれらを覆う。西風は肌を切り、ビルはただ高く聳え、人波は荒々しく流れている。――そんな恐ろしい場所だからこそ、たった1つの浮標に縋って歩くことしかできない。
「やっぱり都会は慣れませんねぇ……」
「今日は一段と人が多いね」
そう言って微笑んだ先生の、夜に似合った黒い瞳がギラギラと光を映す。
「もう行きたいところは無い?」
「えぇ。今日見たかった路線は一通り」
「ありがとうございました」
慣れない目から見る都市は、まるで未知のもののように感じる。変わらないはずの空、路傍に咲く花、郵便ポストをキャンバスに描かれた絵。それら全てが巨大な舞台装置のパーツであると思えてしまう。それぞれが複雑に噛み合った歯車である。その花を摘んでしまえば、突然ビルが倒れ、橋は落ち、空のひび割れた破片が降ってくるのでは――そんな想像が頭を離れない。
それが憂鬱なのか、恐怖なのか、混乱なのか、ただ慣れない場所への興味なのか。どんな時だって、自身の脳内と感情を形容するのは何よりも難しい。まず言葉で思考してしまう時点で不可能なものなのではとも考えられる。
「――ヤクモ?」
「あぁ。えぇ。聞いていますよぉ。カップ麺の一番美味しい時間の話ですよね?」
咄嗟に出た返答の出来の悪さに驚く。五歳児でももう少し考えた返しを思い付くだろう。
「20分が一番おいしいって話」
「はい。そう――えぇ?」
先生が底意地の悪そうな、けれど結局は優しそうな、そんな目でこちらを見る。
「冗談だよ」
「やっぱり話聞いてないじゃん」
「……すみません。考え事を」
「どんな?」
「都市が崩壊する想像です」
素直に答えてしまった自分を恥じた。改めて言葉に起こすとどうかしている。
「なんかお腹空いたね」
「スルーですかぁ?」
「なんか食べに行く?」
「もちろん奢るよ」
「……えぇ、そうしましょう。ありがとうございます」
そう言うと先生は、足早に歩き始めた。最近の先生の周りは空間が歪んでいた。正しい会話の方法や、脳と舌との繋げ方を、忘れさせられている。会って会話をすれば、会議のために準備した資料を目の前で燃やされる。盗られるでも、破られるでもない。火を使って燃やされる。摂氏233℃のライターで、松明で、時には一から火を起こして。
もし何も言わずノートを渡せば、まったく知らない絶滅した言語か何かで、逆向きに字を書き始める。書き終われば、それを一度全部消して、鉛筆でノートを丁寧に擦り出す。時間をかけて、ようやく浮き出てきた文字を見ると、満足したような顔をする。
けれど私はその儀式的な何かに、辟易すると同時に、魅入ってしまうのである。
――――――
随分と歩いたような気がする。歪められた空間と、引き延ばされた時間のせいで、確かではないが。都市中で、一層病的に明滅する青白い光が、これもまた夜に似合っていた。そして、同じような道をずっと歩いていたせいか、段々と都市を知り尽くしたように思えてきた。足取りも軽くなる。けれど、上辺を知っただけで全てを知った気になるのは、人間の悪い癖だ。そう考えていたら、都市はまた未知へと姿を変えてしまった。夜に似合ったネオンは、もう一度身体に纏わりつくよう、光っていく。
「ヤクモ!」
「はい。今度こそ聞いていますよぉ」
「名前呼んだだけだけどね」
「……何ですか」
「ここで良い?」
気づけばもう店の前に着いていた。外装は少し雰囲気のあるカフェだった。店内は外からでも分かる程度には空いている。
「良いですけど」
「けど?」
「カフェですか?」
「しかも雰囲気のある」
単純に疑問だった。ここまで濁りの無い疑問は久しぶりだった。……ような気がする。
「確かに空いてそうですが」
「この辺りは人も少ないですし、他に空いてる店もあるのでは?」
「……うーん」
首を傾げながら返答に悩んでいる。反論を考えているのではなく、当てはまる言葉を探しているようだった。
「なんか」
「はい」
「ヤクモとゆっくり語り合えそうだから?」
なんとなく無視をして、店に入った。
愛想の良い歓迎の声に似合った、時間の進みを遅く感じられそうな、そんな内装だった。ジャズ風の曲が流れている。こんな店に多い、非日常を孕んだ匂いが心地良い。空調もよく効いていて、一気に気が抜ける。空いている近くのテーブル席に座った。
「隣いい?」
「冗談ですよね?」
「いいの?」
「本気ですか」
「……別に構いませんけど」
「冗談だよ」
本気で受け取ってしまう自分の方にも問題があるのかもしれない。否、きっとその通りだ。悪戯っぽい笑みを浮かべながら、先生は向かいの席に座った。店員がメニューと、仄かにレモンが香る水を持ってきた。
「そろそろ怒りますよぉ?」
「だいたい何をそんなに楽しそうに」
「ヤクモの反応がかわいくてつい」
「先生」
「はい」
「はいじゃないですよ」
「本当に……いつ後ろから刺されても知りませんからね?」
「前から撃たれたことなら」
「笑えませんから」
本当に笑えることじゃない。そして実際、雨が数日降り続いた後の公園の水溜りのような、恋愛小説の主人公が先生である。刺されるとまではいかなくとも、何か問題になることくらいあるのではないか。自分の立場を、また周囲からの感情を、理解しているのだろうか。
「ごめん、ちょっと調子に乗りすぎたね」
「なんか頼もうか。何が良い?」
「お任せして良いですかぁ?」
「嫌いなものは特にないので」
「飲み物もお任せ?」
「えぇ」
「じゃあ」
そう言って先生は、サンドイッチとホットドッグ、ホットのアールグレイをストレートでそれぞれ2つずつ頼んだ。夕食としてはやけに珍しい。カフェのサンドイッチは意外とボリュームが多くはあるが。
「なんというか……面白いチョイスですねぇ」
「あぁいえ。別に嫌というわけではなく」
「さぁヤクモ!」
私の問いかけには答えず、突然声の調子を変えて名前を呼ばれる。
「はい?」
「語り合おう!」
「はぁ……一体何を?」
「そこはヤクモが考えてね」
「人生相談でもなんでも話してくれ給え」
「知らない間にお酒でも飲みました?」
今日はいつも以上にペースを崩される。先生は酔っているのだろうか。お酒?それとも空気に?いや、酔っているのは私の方かもしれない。この際、本当に酔ってしまおうか。饒舌に、図々しく、戯曲の道化のようになってやろうか。先生を黙らせてやりたい、一瞬でも顔を歪めさせてやりたい、そんな悪戯心を肴に。
「では」
「先生は何のために先生であろうとしているんですか?」
先生は少し驚いた顔をした……ような気がする。
「先生が考える善とは?」
「メロスも、カムパネルラも、星になったサソリも、結局は偽善者では?」
「えぇ。本人がどうであれ、そう烙印を押せませんか?」
一瞬だけ間が空いた。けれどそれは、会話を行う上で、ごく自然な間だったのかもしれない。相手の発言を咀嚼して、理解するには必要不可欠な。
「ふーん」
「ヤクモはそう思うの?」
「彼らはただの偽善者だって」
相も変わらず、飄々と、夜に似合った声で言う。
「……はい」
「本当に?」
「えぇそうですとも」
「早く質問に答えてください」
「ヤクモは優しいなぁ」
「はい?」
目も、声色も、夜のままだ。純粋な疑問は、今日で2つ目になった。
「嘘が苦手なんだね」
「私は経営者ですよぉ?」
「うん。だから嘘はつかないね」
「小さな可能性を拾い上げて、派手な装飾で飾るだけ」
先生が私の目を見る。穴を覗くように。注意深く水晶を覗く占い師のように。
「では根拠ぐらい言ってもらわないと」
「納得できませんよ」
言葉を紡いで発する度に、全てが利敵行為だと思えてくる。カフェの心地良い静けさは、大きな喧騒と化して、辺りに散らばる。
「ヤクモは人を信じて、夢を託せる子だからね」
「この一言で十分」
「そんな子が偽善者なんて言葉を使うとは思えないな」
勝てないな、と思った。先生は、正論を言うわけじゃない。正しさを武器として使わない。けれど、敢えて的を外すこともない。捻くれた答えでも戦わない。だから、絶対に勝てないと思った。
「……笑えますね」
「じゃあ、問いにだけ答えてください」
「そうだなぁ」
今度は、少し長い間が空いた。
「うん。そう思うよ」
「結局は偽善者かもしれない」
「えぇ」
「だから、偽善なんて言葉を作った人を恨むかなぁ」
「答えになってます?」
また少し微笑んで、先生はコップの水を飲んだ。
暫くして頼んだメニューが来て、想像の何倍も大きいサンドイッチに驚きながら、二人で黙々と食べた。
――――――
「ご馳走さまでした」
「量が……この年になるとさぁ」
「まぁでも美味しかったね」
「紅茶が特に美味しかったです」
レッドウィンターじゃとても飲めないような紅茶だった。カフェと本屋が併設された店舗を作れば、レッドウィンターで流行るかもしれない。
先生が会計を済まし、外に出ると、空が白かった。見慣れた雪。けれど、都市に降る雪は映えていた。夜が、都市が、雪を流している。もし本当に星が降るなら、こんな景色なのかもしれない。雪と星を重ねるほどに、非日常の美しさがそこにあった。
「雪ってこんなに綺麗でしたっけ」
「多分?」
今度こそ、私は都市を知れたのかもしれない。気分が上がった。
「1つ、質問良いですか?」
「なんでも」
「先生は、本当に生徒を平等に愛せるんですかぁ?」
上がった気分に任せて、そんなことを聞いてみた。
「ふぅん」
「ヤクモは私のことが好きなの?」
「なぁ!?」
「冗談だよ」
先生はそれ以上、何も言わなかった。
夜の底は、まだ白くはない。黒いままだ。
「先生」
「今日で信用できない人種がもう1つ増えました」
「先生です」
先生は、笑った。